5.行雲流水
その日の放課後。
橘花にも言ったように、今日の私が居座っているのは図書室ではなく、部室棟2階の端っこ。長机が一つといくつかの椅子。その他必要なものと不要なものとが雑多に入り乱れた6畳ほどのその場所は、文芸部の部室である。
そこでは現在、私と文芸部員の少女が、二人静かに読書に耽っていた。
読書といっても、私が読んでいるのは文庫本ではなく、少女が書いた小説なんだけど。それもちょうど今、読み終わったところだ。
やや埃っぽい部屋で、私は読み終えた原稿をきれいにまとめて机に置く。動いた拍子に、錆びの目立つパイプ椅子がぎしりと音をたてた。
活字に疲れた目をまばたきで潤して、眉間を揉む。それから凝り固まった体をほぐしていると、部室内にいたもう一人の人物が声をかけてきた。
「碧海、読み終わったかしら?」
「うん。今回も読み応えのある話だったよ、マユ。あと、恋敵の女の人がメンヘラすぎて背筋凍った」
私がマユと呼んだ少女ーーー本名は月崎真弓。彼女は文芸部で唯一真面目に活動している部員であり、私とは自身が書いた原稿の読みを依頼する・されるの間柄だった。以前に一度、なぜ私なのかと聞いたことがあるが、「客観的かつ多角的な視野で、公平な意見をくれる存在だから」らしい。褒めてくれてるんだろうけど、真弓の場合表情が全く変わらないから判断に迷う。『いかなる物語を読んでも揺らがない、血も涙もない女』という旨の、遠回しな皮肉の可能性もあるのだ。私の考え過ぎか。
そんな真弓は、今日も今日とて思考をまるで読み取らせない無表情で、「そう」と言いながら嘆息した。おおっと?
わかりづらいけど、これはたぶん、ほっとしたって反応だよね。真弓が顔以外からとはいえ、心情の一端を吐露するのは珍しい。
「ジャンルとして恋愛ものを書くのは初めてなのよ」
「なにも言ってないんだけど」
「私が安堵を表に出すのが珍しい、とか考えてそうな顔だったもの」
「エスパーだ!?」
だけど言われてみれば確かに、真弓が書いた恋愛小説は初めて読むなと頷いて、机上の原稿に目を落とす。
話はよくも悪くも王道。離れ離れになってしまった男女が、再び出会って絆を育み、いくつもの障害を越えた末に結ばれる。ありがちなストーリーだが、しっかりとした構成と真弓の技量が物語へと引き込む力を生み、登場人物のリアルな感情が、作品を没個性的なフィクションとして埋もれさせるのを防いでいる。
流石というか。普段優れたミステリー作品ばかりを創作する真弓だが、ジャンルが違ってもその腕前は本物だと証明するような出来だった。
「やっぱ、マユはプロ目指せると思うんだけどなあ」
「そんなに甘い世界ではないわよ。私程度なんて、吐いて捨てるほどいるもの。偶々プロになれたとしても、売れるには人並み外れた才能と、たぐいまれな幸運がなければいけないのよ。あの人のように、ね」
「あの人って、マユのお母さん?」
「ええ」
真弓の母親は、日本文学界の至宝と呼ばれるほどの有名人だ。ペンネーム:弦月といえば、本を嗜む人々でその名を知らぬものはいない。
日本語の持つ表現力を遺憾なく発揮した文章に、圧倒的な世界観で綴られる物語は、文学が芸術足り得る所以を否応なく理解させられる。かくいう私も、弦月先生の著書はすべて読破済みだった。
その上で、先程のプロを目指せるという発言は、紛れもない私の本心だ。まあそれを言い出したのは昨日今日のことではないので、真弓には軽くあしらわれてしまったけれど。
「私のことはいいのよ。どう転ぶにせよ、小説は書き続けるつもりなのだからね。それよりも碧海。私は今日の貴女の方が気になるわ。いつになく集中力が散漫だったようだけれど」
「うぇ!?そ、それは……」
ぎくりとする。全くの図星だった。
「よ、よく、分かったね?」
「むしろ分からない訳がないでしょう。原稿を読んでいる途中で何度もため息をついたり、どこか遠い目をしたりしていたわよ」
「ぐぅ……全然記憶に無い……」
「極めつけは読了後の『読みごたえがあった』という一言だけれどね。普段の貴女なら、指摘にせよ称賛にせよ、もっと具体性があるもの。あんな漠然とした感想は言わないわ」
「うぐぅ……」
呆れたと言わんばかりに半眼を送られる。私は心地悪さにぐうの音しかでなかった。
確かに今日はやたらと、読んだ内容が頭に入ってこなかった。
理由は明白で、原稿を読んでいる最中ずっと、脳裏に橘花の嬉しそうな顔がちらつくせいだ。
アドバイザーを仰せつかった手前半端なことはできないから、何度も読み返すことでどうにか全体像をつかむことはできたけど。当然ながら、すごく時間がかかった。しかも結局出てきたのはあんな、抽象的ですらない言えない感想だったしね!
自覚はしてたつもりなんだけど私、自分で思ってた以上に橘花との遊びの約束に気をとられてたんだなあ。
「別に詮索するつもりはないわ。貴女がそこまで心を乱す以上、大方の想像はつくもの」
「はは……ソウデスカ……」
なんかもう真弓には何もかもを見通されてそうで怖くなる。
無理に聞き出されなかったのが唯一の救いというか。
「けど意外。マユ、他人に無関心っていうか、誰が何考えてても我関せずってタイプなのに」
「……そうね。碧海の言うとおり、私は現実の人間に興味がないし、基本的には傍観しているわね」
「なら、なんで私に限って……」
私がそう言った瞬間、ほんの少しだけ真弓の鉄仮面が歪んだ。いかにもめんどくさそうに、けれど瞬きした後にはもういつもの無表情で。
「それは……」
「それは?」
「碧海は、私と同じだと思っていたから、かしらね」
いつもズバズバと物を言う真弓にしては珍しい、えらく濁した言い回しだった。しかもなぜか過去形。しかしふむ、私と真弓が同じねぇ?
「私、真弓と違って友達多いけど」
「喧嘩を売っているのかしら?大体、碧海に多いのは"友人"ではなく"知り合い"でしょう」
「……?それってどういう……」
意味なのか。
言わんとするところを掴みかねて困惑する私を置いてけぼりに、真弓は続けた。
「言葉通りよ。碧海は普段さばさばしてるくせに空気は読むし、なんだかんだで面倒見もいい。多くの人、特に共感を求める女子にとってそれは、居心地がいいものだわ。だから碧海に話しかけて人間は沢山いるのよ。けれどそれは貴女の、他人への興味の無さの現れ。例えばそうね、貴女、クラスが変わったらそれまで親しくしていた人と疎遠になるタイプでしょう?」
「そうだけど……、あー、私に多いのが"知り合い"って、そういう……」
真弓は心理学者みたいに、私自身にも自覚のある、私という人間の本質を言い当ててくる。勝手に納得している私に、肩を竦めながら真弓は締めくくった。
「私と碧海が同じだと思っていたというのはそういうことよ」
根本的な部分での、他人への関心の無さ。明言はしなくても、真弓が言いたいのはたぶんそういうことだろう。
もちろん、私が関心を抱く相手は全く居ないわけじゃないけど、真弓が言うようにその数は少ない。
そして真弓は、「思っていた」と言った。それはつまり、今は違うと思ってるってことだ。
否定するのは簡単で、けど私はそうしなかった。できなかった。
私は橘花に対して、無関心ではいられないから。今まで数少ない"友達"相手にさえ変わらなかった淡泊を、橘花にだけは貫けない。
なし崩し的に「キス友」になってしまった幼馴染みを思い浮かべる。その子と週末、遊びに行くっていう約束を。
それだけで、例えようのない、ムズムズとした感覚に包まれる。全然嫌とかじゃなくて、むしろほんの少しだけ高揚する、だけどずっとそのままでは居たくないような、変な感じ。
どうやら、興味や関心の形も一つではないみたいだ。
私の中で、有羽を初めとする友達と橘花とでは、明らかにその方向性や大きさが異なっている。何が違うのか、今の私にはわからない。
いつか、それが分かる日が来るのか。そうだとして、果たしてそれはいつになるんだろうか。
「碧海」
「なに、マユ?」
「貴女の変化は、悪いことではないと思うわよ」
「……そう、なのかな」
「ええ」
「そう、だよね」
短いやり取り。それだけで十分だった。
橘花に告白された。
橘花を振った。
橘花とキス友になった。
橘花と遊ぶ約束をした。
今後、私達の関係がどうなるのかは分からない。だけど、橘花のかわいらしさが天使級であるのは事実だし、私達が幼馴染みだってことも消えない。
なら、これはこれでいいんじゃあないか。私はいつもと同じように流水みたいに流されて、けどいつもと違って流れて行く先に惹かれている。ただそれだけ。
そう考えると、ずいぶん心が軽くなった気がするなあ。
まあ、あくまでその気がするだけだ。すべての悩みが消えたわけじゃないし、その悩みにだって、いずれは答えを出さなくちゃいけないわけで。
それでも今は、ウジウジと悩むのでなく、純粋に土曜日のことだけ考えていればいいか、と。そんなふうに、思えた。
「一段落、といったところかしら」
「ん。ありがとね、マユ」
私が少しだけ前向きになれたのは真弓のおかげでもある。だから私は、素直にその感謝を伝えた。
「特に礼を言われるようなことをつもりは無いけれど……まあ、碧海が感謝していると言うのなら、誰かしら代役を推薦してもらいたいところね」
「代役ってなんの?」
「私の書く小説に意見をくれる人材よ。貴女はしばらく、自分のことで手一杯みたいだから」
「え、や、そんなん気遣わなくていいよ別に。マユの書いた小説おもしろいし。それに、マユは"友達"だから」
その言葉を選んだのはちょっとした意趣返しで、だけど嘘じゃない。悪戯っぽく笑う私に、真弓は本日何度目かのため息をつきながら言った。
「碧海、貴女……そういうところだと思うわ」
「?なにが?」
柚子、お前……
もうほとんど堕ちてない?(白目)