勇者の弟と、大工の兄の話
〇
照りつける太陽が毒々しいぐらいの、夏の日のことだった。
一匹のはぐれ竜が、一つの村を壊していった。
村の少年であった〈アール〉と〈ニール〉は、瓦礫の山と化した村にぽつんと並んで立っていた。けれど、それぞれが見ていたのは、まったく別々のものだった。
弟の〈ニール〉は、顔をあげて、竜の飛び立った方角の空をじっと睨み付けていた。
兄の〈アール〉は、顔を伏せて、見る陰もなくなった村の惨状を目に焼き付けていた。
暑い日照りが、少年たちを汗水漬くにしていた。
いつもは喧しいくらいの油鳴き虫が、その日だけは静まり返っていた。
少年たちは何も喋らなかった。
白々しい入道雲だけが、青く澄み渡る空を賑やかせていた。
十数時間後、竜の襲撃を聞きつけて近くの街から騎士団がやってきた。けれど、兄弟の知り合いや顔見知り、仲の良かった家族が、瓦礫の山から生きて見つかることはなかった。
後日、二人は近くの街の孤児院に預けられた。
〇
「僕は騎士団に入る」
ニールがそう言い出したとき、孤児院の大人は少年の決意に涙ぐんだ。故郷や友人、家族の仇を打たんとする心意気を褒めそやし、その勇敢さを讃えた。もちろん、無謀だという声もないではなかったが、その後のニールの頑張りを見て、大抵のものは考えを改めた。
一方のアールだが、彼は日がな一日、孤児院の片隅で積み木遊びに興じていた。周囲のものから「弟と一緒に騎士団を目指さないのか?」と訊かれても、軽く首を捻るだけだった。
兄弟の評価は、概ね両極端に分かれた。
勇敢で聡明で努力家な弟。
根暗で凡庸で腑抜けな兄。
ハッキリとわかれた明暗。その白と黒の違いがあまりに鮮明だったせいか、孤児院でも二人の存在は目立っていた。同じ孤児の少年少女からも慕われて、常に人の中心にいる弟。いつも独りぼっちで、木片と戯れている兄。
それぞれに送られる、称賛と嘲笑。
弟の輝きが強ければ強いほど、兄の凡庸さは色濃く際立ってしまった。
けれど、アールは陰口を叩かれても気にしなかった。木片ほども興味がないのか、いつもけろっとした顔で聞き流している。時によると「上手い比喩だ」なんて自分でも笑い返してしまうくらいだった。
それで怒るのは、むしろニールだ。「兄さんを馬鹿にするなんて許せない」とことあるごとに口にしていた。けれど、そんなニールでさえも、アールの考えはわからなかった。
孤児院に来て、季節が二つ巡ったころのことだ。
アールはいつものように孤児院の中庭の隅に腰掛けて、木片や曲がった釘を触っていた。空は曇っていて、中庭には薄らと霜がおりていた。とても寒い日だった。
小さな手を真っ赤にしながらそれでも積み木遊びをしている姿は、流石に異様だった。ただの遊びとは思えない〈凄み〉があることに、通りがかった一人の少女は気づいた。
その少女は、同じく孤児院で暮らす年長の少女だ。そろそろ孤児院を出て、どこかに奉公するのではないかと噂されていた。
明るくて働き者、名前を〈ミール〉という少女は、アールの後ろに立って彼に尋ねた。
「ここは寒くない?」
「寒いけど、中だと他の子に邪魔されるから」
「そんなに積み木遊びが好きなんだ」
「別に好きじゃないよ」
「えっ、でも、いつもやっているから……」
「そうだね。農夫が畑を耕すのも、雑草を抜くのも、毎日だ。パン屋が早起きなのも、医者が病人を診るのも、ニールが騎士団に入るために稽古するのも、毎日だ。でも、その行為自体が好きだからじゃない」
ミールは、こんなに長く喋るアールを初めて見た。アールはいつも首を捻るか、一言二言返すことしかなかったからだ。
「アール君の積み木もそれらと一緒なの?」
「似ていると思う」
アールはそう答えながらも、木片と釘に集中していた。ミールが彼の手元を見ると、そこには小さい模型の家が出来上がっていた。彼女がその出来映えに感心していると、アールはその模型を持ち上げて、いきなり地面に叩きつけた。
模型の家は、見る陰もなくバラバラになってしまった。
ミールは吃驚して「何をしているの!」と叫んでいた。けれど、アールはふんふんと頷いて崩れ去った木片たちを眺めていた。そして、不意に顔をあげてミールを見た。
ミールは再び驚いた。アールの黒々と大きな目が、こんなに力強いことを今まで知らなかったからだ。アールはいつも顔を俯けてばかりだったから。いつも俯いて、積み木遊びに逃げているんだと思っていた。
でも、それは違ったのかも知れないと、ミールは思った。
アールは、あの夏を焼き付けた瞳で答えた。
「ニールは、竜を倒したいんだ」
続けて、とても自然な声音でこう言った。
「ぼくは、竜に勝つ」
次の春になると、ミールは街のお屋敷に奉公に出た。時を同じくして、ニールは騎士団の訓練学校に合格し、アールはひょっこり街の大工に弟子入りしていた。
〇
孤児院を出ると、兄弟が顔を合わせる機会はぐっと減った。
弟のニールは、訓練学校でも特別に優等だった。
槍術、剣術、座学、飛獣への騎乗、竜を殺すために必要とされる技術の数々。
ニールは、驚異的なスピードで、それらを習得していった。
才能の芽は、入学以前から持っていた。そして、ニールにはそれを伸ばしたいという強い動機があり、訓練学校にはそれを育む仕組みがあった。
何より、よき師に恵まれたのが大きかった。訓練学校で嫌々ながら教鞭を執っていた老齢の騎士〈カーン〉に見初められて、ニールは特別なカリキュラムを組まれることになった。
カーンの指導は、何度となく血反吐を吐くような、苛烈なものだった。
人の身で竜を越える、竜を倒す。
そんな無謀を可能にする、極めて無茶な修行。
大人ですら泣いて逃げ出す、拷問のような代物だ。
けれど、ニールは一度も泣き言を漏らさなかった。血反吐に塗れようが、身体が歪もうが、それで強くなれるのなら躊躇わない。ニールの双眸は、今もあの夏空を睨みあげていた。
修行の成果は、とてもわかりやすい形で現れた。
「ニール、わしは手を出さん。お前一人でやれるな?」
老騎士のカーンが、丘の陰から顔を覗かせて言う。人の世界である〈人類開拓領域〉から遠く離れた、明るい草原でのことだった。
カーンの視線の先には、川縁で喉の渇きを潤す一匹の竜がいた。
熊の二倍以上もある大きな体躯と、暴風を撒き散らす忌々しい翼。
羊のような二本の巻き角を持ち、獲物を引き裂く鋭い牙を備えている。
ウィール・ヘグ・グリーンドラゴン。
奇しくも、兄弟の村を壊していった竜と同種のものだった。
軽い革鎧姿のニールは、長槍を構えて、翼のある獣に跨がって答えた。
「貴方の指導が間違っていないのなら」
カーンは満足げに笑って「では試してこい」と送り出した。
ニールが踵で合図を送ると、翼のある獣は竜に向かって駆け出した。獣と竜が威嚇の雄叫びを上げ合いながら、空中でいくたびか擦れ違った。ニールの長槍が、竜の逆鱗を突き砕き、深々とその命に刃を立てた。続けてニールは剣を抜き放ち、飛び掛かって止めを刺した。
花の匂いが香る、春の草原でのことだった。
ニールは横たわる竜を睥睨しながら、剣を一振りして血糊を飛ばした。
鞘に収められる剣には一切の刃こぼれなく、その白刃は濡れたように美しいままであった。
こうして、たった一年の内に、ニールは最初の竜殺しを達成してしまった。
〇
「訓練生にスゴいのがいる」
ニールの噂は訓練学校に留まらず、市井の人の口にもあがるようになっていった。この周辺に住まうすべての人々にとって竜は忌むべき存在であり、それらに対抗しうる英雄が待望されていたからだ。当然ながら、その噂はアールの耳にも届いていた。
ちょうど今も、作業現場付近を歩く若い女性たちがニールの噂話をしていたので、彼女たちの話し声に耳を澄ませていたところだ。
「おいこら聞いてんのか、アール」
アールより二つ歳上の先輩大工〈ジープ〉が、アールの頭を小突いた。
アールは説教中にも関わらず、他所に意識を向けていたのである。けれど、彼に反省した様子はなく、小突かれたところをぼりぼり掻きながら、すっかり言い飽きた声で答えた。
「聞いてます。そして、何度も言っているはずです、ジープさんの案ではダメだと」
「俺も何度も言っているはずだぜ。新参の馬鹿が、偉そうに目上のもんの設計に馬鹿垂れるんじゃねぇって。その愛想も礼儀も忘れた口を閉じやがれ、この馬鹿もんが」
「ですから、それでは――」
「だからよぉ、テメェは――」
二人のいがみ合いは、十年でも続きそうな平行線を辿っていた。
仲裁に来ていた親方も、これには閉口している。
親方も、ジープも、大工の仲間たちも、よく知っているのだ。普段は素直で生真面目なアールが、こと建物の設計に関わってくると、驢馬のように頑固になることを。
アールは技術の吸収こそ人並み程度だが、現場に出せば細々とした気配りができるので重宝されていた。
彼がいる現場では、怪我人が出ることはまずなく、段取りの抜けや伝達事項の漏れなどが綺麗になくなるのだ。
だから、愛想は全然ないけれど、それで彼を追い出そうとは誰も思わない。
しかし、時折見せるこの頑固さだけは、仲間の手を焼かせていた。
足に根っこでも生えたみたいに突っ立って、頑なに抗議をやめないのだ。こうなったアールを動かせるのは、もう一人しかいなかった。
そのたった一人が、作業現場を仕切る塀から、ひょっこり顔を覗かせた。最初に気づいた親方が、ほっと胸を撫でおろした。くいっと顎をしゃくって言う。
「アール、いつものお嬢ちゃんだ」
言われて、アールは振り返る。
買い物鞄を提げたミールが、彼に向かって手を振っていた。
「アール君、またお説教中でした?」
ミールが、奉公先の厨房を借りて作った弁当を渡しながら言う。
アールは、「ああ」だか、「うう」だか、気のない返事をしつつ、弁当を受け取った。ポケットから小銭を出して、わずかばかりの代金を払う。ミールもいつものように受け取る。
二人は現場から出て、道縁の日陰に座っていた。
親方からは「とりあえず休憩だ」と言い渡されている。ちなみに、他の大工たちはアールがいない内に工事を進めておいて、戻ってきたときに文句を言えないようにしてしまう腹だ。
アールをあしらう、大工たちの作法だった。
ミールは打ったところで響かないとわかっていても、お小言を続けた。
「あんまり親方さんたちを困らせちゃダメだよ?」
「ああ~」
「あっ、ニガミドリソウをどかさない。ちゃんと何でも食べる」
「うう~」
「美味しかったら『美味しいです、ミールさん』って言ってもいいのよ?」
「へえ~」
「ニール君の噂、聞いてる?」
「うん」
アールは頷いた。その口許には誇らしげな微笑が浮かんでいた。
「また竜を倒した、自慢の弟だ」
「みんなが噂してるよ。竜から守る勇者様だって。なんだか、同じ屋根の下に住んでいたのが嘘みたい。ニール君、遠くの人になっちゃったな~」
「そう?」
「そうだよ。遠い人だよ。貴方みたいに、年がら年中〈上の空〉な人は、気にならないのかも知れないけどさ」
「ああ、空の上なら、確かにもとから遠い」
「それ、そんなに上手くないよ」
ミールがそう指摘すると、アールは目を瞬かせて首を捻った。その仕種は孤児院にいたときから変わらない。ミールはこっそり微笑みながら、早春の淡い青空を見上げた。アールがぱくぱく弁当を食べている隣で、ひっそりと尋ねた。
「アール君はまだ、竜に勝つつもり?」
「うん」
「そっか。でも、貴方まで遠くにいかないでね?」
「ああ、うう、うん?」
アールは意図を探るように顔を上げた。
けれど、ミールはもうお屋敷に向かって歩き出していた。
それから一月後、ミールの奉公先から、お屋敷の増築の話が舞い込んだ。ミールからアールの話を聞いていた屋敷主が、アールに興味を持ったからだ。
アールは大工になって三年目にして、初めて現場の仕切りと設計を任された。同じ頃、ニールは訓練学校を卒業して、正式に騎士となった。
〇
アールは、設計に携わる仕事が増えた。
お屋敷での仕事ぶりが、それなりに評価されたのだ。加えて、「こいつにうるさく言われるよりは、仕事を振ってしまう方が手っ取り早い」と親方たちに思われたからでもあった。
名前の残るような仕事は一つもなかった。
それでも、アールはせっせと図面を引いて現場を指揮した。不満はなかった。彼は黙々と家を建てて、多くの場合、そこそこに評価された。ごくたまに気に入られて、飲み仲間になるお客もいた。ジープとは相変わらず、言い争いが多かった。
アールはそんな日々も、そういう仕事も、それなりに気に入っていた。
雲が空を覆い、街中に雪化粧を施した日のことだ。
アールはその日、安全のために作業を中止した。転倒による事故を怖れたからだ。久しぶりに時間の空いたアールは、ジープと口喧嘩でもしようかと街の酒場を目指していた。そこに行けば、たぶん同じように作業を中止したジープに会えるはずだった。
けれど、その日は街の目抜き通りが大変な賑わいで、酒場には辿り着けそうにもなかった。
アールは人垣の外れに立って、肩車をしている親子に尋ねた。
「今日は何かの祭りでしたか?」
「違うよ、お兄ちゃん。帰ってきたんだよ」
アールが軽く首を捻ると、子どもを乗せている父親が答えた。
「遠征隊です、竜退治の。これは全部、勇者ニールを見たいって野次馬ですよ」
アールは「はぁ」と気のない返事をした。その後で、ちょっとジャンプをしてみるが、見えたのはどこまでも続く人混みだけだった。アールは「はぁ」と頭を掻いた。
「確かにこれは、遠いかもしれないな」
と、全然見えない弟について、そう零した。
人垣の先の方で何か響めきが起こったが、何もわからなかった。
その日の夜分遅くになってからだ。
アールが建築模型を前にして、孤児院のときのように、ぼうっと眺めていると、ニールが窓から忍び込んできた。泥棒のように着込んだ外套は、雪でぐっしょり濡れていた。本物の泥棒より、いっそ泥棒のようであった。
アールは毛布とタオルをニールに渡してやり、お湯を沸かしながら言った。
「そういう出入り口の設計は、考えてなかったな」
「ごめん。これでも気を使ってみたんだ」
「よく帰ってきた」
「うん。ただいま」
ニールとアールは、もうすっかり兄弟の空気になっていた。
温かいお茶を飲みながら、くだらない話や馬鹿な話を交わして、それから少しだけ故郷の村のことを思い出した。あれから随分時間が経っていた。
「兄さんは変わらないね」
ニールが、机の上の建築模型を指差して言った。
「お前は変わったのか?」
「とりあえず、竜は倒せるようになった」
「そうだな。お前は、俺の誇りだよ」
「ありがとう、兄さんだって……」
ニールは言葉を呑んだ。建築模型を見下ろしながら、ふと尋ねる。
「兄さんは騎士になるつもりはないの?」
「その気があれば、お前と一緒に訓練学校を目指していたさ」
「そっか、そりゃ、そうだよね」
アールは、弟の躊躇いを感じ取っていた。だから、あっさりと促した。
「何か用があって来たんじゃないのか?」
「ああうん」
「竜だって倒せる勇者様が、何を躊躇う」
「そっか、そりゃ、そうだ。兄さんは、ミールさんと付き合っているの?」
「ミールと何かあったのか?」
「今日、凱旋の途中で会った。すごい綺麗になってた。前から綺麗だったけど」
「そうか。いや、付き合ってはいない」
「そっか。それじゃあ、また」
ニールは来たときと同じように、まるで泥棒のように窓から立ち去った。
アールは夜の闇に溶ける弟を見送ってから、建築模型に向き直った。それは小さな教会の形をしていた。彼が今日、中止にした仕事だった。
〇
教会の建築は順調に進んでいた。
アールの現場指揮もすっかり板に付いており、彼のもとで働く大工たちは、淀みなく作業を続けていた。今回も「そこそこ」の出来になるんじゃないかと、仲間たちもある意味で信頼しているのだ。
特別上手くはないが、困るような失敗も決してない。アールの仕事には、そういう安心感があった。
そして、人々が建物に求めるのは、まさにその安心だった。
作業を進めている内に、冬から春になった。完成は目前に迫っていた。
ミールがアールの借家の前に立っていたのは、そんな折りのことだった。
その日は、弱い雨が朝から降り続いていた。
夕暮れどき、仕事帰りのアールは、戸口に立っているミールを見つけた。
そして、途惑った。
濡れ鼠だったせいもあるが、それ以上に彼女が思い詰めた表情をしていたからだ。それに何か用があれば、今までなら現場に顔を出していた。家で待っていたのは、はじめてだ。彼女が家の場所を知っていたことすら、アールにとっては驚くべきことだった。
「とりあえず、中に入ろうか」
アールはなんとかそう言ってみた。ミールはコクンと頷いた。
ミールは濡れた衣服を脱ぐと、タオルで身体を拭いて、アールの部屋着に着替えていた。その間、アールはじっと壁を向いて腕を組んでいた。
「仕事の調子はどう?」
アールは背中越しの声に振り返りかけて、まだ半裸のミールを見つけて、すぐさま壁に向き直った。右手を目頭に押し当てながら、むすっと答えた。
「教会の仕事は順調だ」
「私のおかげだよ」
「どういうことだ?」
「昔、最初の一回目、貴方が設計することになったお屋敷の増築。あれは私が口利きをしたから。だから、私のおかげ」
「そうだな、確かに最初のチャンスをくれたのは、キミだった」
「今の貴方は、私のおかげ」
「今日はどうした、何か様子がおかしいぞ」
アールは壁を向いたまま口を曲げる。
そのアールの背中に、濡れた頭がぽんと当たった。
「ニールくんにプロポーズされたの、次の遠征から帰ってきたら、結婚して欲しいって」
アールの大工仕事ですっかり逞しくなった腰に、細い腕が回された。アールは、金縛りにでもあっているかのように腕を組んで立ち尽くしていた。
「貴方、ニール君に〈付き合ってはいない〉って答えたの?」
「ああ」
「その後、何も言わなかったの?」
「ああ」
女性の柔らかい肢体が、ぎゅっとアールに押し付けられた。
でも、アールは頑として振り返らなかった。頑固な驢馬のように突っ立っていた。ただ、どうしていいのか、わからなかっただけかも知れない。ずっと家を建てることしか考えてこなかった。それだけを何年も続けてきた。だから、それ以外を知らなかった。
「貴方はいつ、竜に勝つのよ」
ミールはそう言うと、濡れた服を荒っぽく纏って雨の中に飛び出した。
アールは腕を組んで、足に根っこでも生えたかのように突っ立っていた。けれど、そんな彼を唯一動かせる女性は、彼のもとには帰って来なかった。
〇
アールの教会が完成した日、ニールたちは遠征に向かった。
この遠征で竜たちを掃討し、〈人類開拓領域〉を拡大するのだと、どこかの野次馬が口にしていた。本当かどうかは、アールにはわからなかった。ただ、出発する勇者ニールを送り出した婚約者というのが、ミールなんだろうことは彼にもわかった。
その前日、ニールに会ったからだ。ニールは、アールとミールの交わした会話の内容を知っていた。ミールから聞いたのだろう。
遠征に向かう弟に、アールはこう言った。
「お前は、俺の誇りだ」
それに対して、ニールは冷たい目をして応じた。
「僕は貴方を軽蔑しているよ、根暗で凡庸で腑抜けな兄さん」
泣いている女性を追いかけもせず、慰めもせず、むざむざ他の男のもとに走らせた腑抜け野郎に対して、竜殺しの勇者様は冷たかった。アールは仕方ないと笑った。でも、「一生、くだらない積み木遊びをしていろ」という発言だけは許さなかった。
アールは、生まれてはじめて弟に殴りかかった。勝てるはずもなかった。
〇
照りつける太陽が毒々しいぐらいの、夏の日のことだった。
いつもは喧しいくらいの油鳴き虫が、その日だけは静まり返っていた。
黒くて大きな影が、街に落ちていた。
雲の影ではなかった。
鳥の影でもなかった。
見慣れない、でも、誰もが知っている影だった。
それは忌み嫌われる生き物だった。
それは天空の覇者で、破壊を呼ぶ暴風の主だった。
人はそれを竜と呼んだ。
それらは竜であった。影は一つではなかった。
それらは勇者不在の街に降り立った。
〇
竜が現れたそのとき、ミールは街の目抜き通りを歩いていた。
そして、恐怖のあまり道縁に蹲っていた。
それも仕方のないことだった。街中が大混乱になっていたからだ。
竜による被害で、一番の原因になるのは暴風だ。
その翼が巻き起こす暴風により、家屋が崩れたり、ガラスなどが飛んできたりする。それらの下敷きになったり、飛来物が刺さったりすることで、多くの死傷者が出るのだ。それが竜の恐ろしさだった。直接噛まれたり、踏みつぶされたりするより、余程危険だ。
市民たちに必要なのは暴風対策であり、竜の姿が確認された時点で、騎士団は開けた場所に避難誘導するべきだった。けれど、街に常駐している騎士団は、竜たちの対処に追われて街の方までは手が回っていなかった。
はぐれ竜が複数体現れたことなど、今までになかったのだ。
前例のない事態に浮き足立っていた。
そのため、市民たちの動きに統制は取れていない。真偽の定かでない噂によって右往左往したり、倒壊のおそれのある建物に立て籠もってしまったり、ミールのようにその場にしゃがみ込んでしまったり、それぞれがそれぞれに動いてしまっていた。
そんなことをしている間にも、竜たちは街の奥深くまで入り込んだ。こうなった後では、開けた場所まで逃げることは不可能だった。
この竜害は、過去最大の被害になると思われた。
ミールは恐怖で震えていた。突然、誰かに肩を叩かれるまでは。
「おい、ミール、ミール!」
懐かしい声に顔を上げた。アールだった。ミールは一瞬、言葉に詰まった。けれど、そんなミールの反応なんてお構いなしで、アールはまくし立てた。
「ミール、こんなところにいたら危険だ。ここから二本通りを隔てた先の教会に行け、この子たちを一緒に連れて」
アールに言われて気づく。確かにアールは、両脇に子どもを連れていた。親とはぐれたのかもしれない。ミールが言われたことの意味を読み取ろうとしていると、アールは強引にミールと子どもの手を繋いでしまった。
「キミたち、このお姉ちゃんについて行ってくれ。そうすれば、絶対に助かる」
「そんな無責任なこと言わないでよ!」
ミールは咄嗟に叫んでいた。身体の芯まで竜の恐怖で震えていたからだ。
でも、アールは微笑んだ。その目には、絶望的な状況を吹き飛ばす意志があった。
「責任は取るし、断言してやる、大丈夫だ」
彼の声は自信に満ち溢れていた。
竜を倒すことなんて不可能で、泣いている女の子を慰められない、腑抜けのはずなのに。
アールの目には、決して折れない意志があった。
孤児院の中庭で輝かせた、黒々と大きな目が、あのときと変わらない輝きを放っていた。
「どうして――」
「俺が建てたからだ」
それ以上の説明は必要ないとばかりに、アールは断言した。
「俺が建てたんだから、大丈夫だ」
そうハッキリ言い切ると、ミールの背中をばすんと叩いた。
「走れ、ミール、俺はもっと多くの人を俺の家に誘導する!」
そして、アールは竜たちの飛び交う危険な街の中へと走り去った。残されたミールは、言われた通りアールが建てたという教会に向かった。彼女は走った。
ミールが教会に着くと、そこにはすでに何十人という子どもやお年寄りがいた。
そのみんなが、アールや彼の大工仲間に誘導されたのだと言った。みんな一塊になって縮こまっていた。竜が近くを通り過ぎるたび、建物は大きく揺れてガタガタと鳴った。周りの建物に比べても、その揺れは大きかったくらいだ。
お年寄りたちは不安になって、他の家に移った方がいいのではと言い始めた。ミールも似たようなことを考えてしまった。そして、顔見知りを見つけて、ミールは尋ねた。
「あのジープさん?」
「アンタは、アールの……」
ジープは、不安がる子どもたちを宥めている最中だった。ミ―ルに声を掛けられて、彼は泣きぐずる子どもたちから顔を上げた。
「この教会、大丈夫なんでしょうか、周りに比べて酷く揺れているような……」
ジープは「ああ」と困った顔で応じて、「アイツの言う通りなら大丈夫だ」とも続けた。
「アイツの建物は、揺れることで力を分散して逃がすんだって話だ。加えて、わざと一箇所壊れる場所を決めておいて、そこで建物全体にかかる力を殺してしまうんだとか」
「そんなことが可能なんですか?」
「わかんねぇな。だけど、アイツはガキのころに見たんだってよ。竜の暴風で崩れた村を。瓦礫の山と化した建物を。どんな風に崩れて、どこがどう折れていたのか。アイツの設計はそこから始まってんだ。アイツはいつも言っていたよ、竜に壊されない家を建てるんだって。だったら今は、アイツを信じるより他にねぇだろ。まぁ安心しな、アイツはいい仕事をする」
ジープは苦笑いを浮かべてそう言った。
何年も言い争って、いがみ合い続けて、それでも友人だった男は、アールの建物に命をかけていた。アールの仕事になら、命をかけられると思っていた。
それでミールも覚悟を決めることが出来た。彼女は教会から飛び出そうとする人たちを引き留めて、怖がる子どもたちに寄り添って、こう言い続けた。
「大丈夫だよ、この建物は竜に勝つんだ」
彼女の言葉が、その思いが、裏切られることはなかった。
はぐれ竜を追っていた遠征部隊が帰還し、すべての竜たちを駆逐するまで、アールの教会は持ち堪えた。アールの建物は竜に勝った。
けれど、その終わりの瞬間まで、アールが教会に帰ってくることはなかった。
〇
勇者ニールがすべての竜を掃討し終えたとき、街は廃墟と化していた。
竜をすべて倒すことはできたが、竜の暴風は街のあらゆる建物を薙ぎ倒していったのだ。ニールはそんな街の様子を見て、あの夏を思い出し、立ち尽くしていた。
瓦礫の下から誰も帰ってこなかった、あの夏の日だ。あの日と同じだと思っていた。
仲間の騎士も、彼と同じように立ち尽くして、無念さを滲ませて呟いた。
「酷い、街の建物が、ほとんど倒されてしまった」
ニールはその言葉に違和感を覚えた。
ニールの村では、竜害の後に残っていた建物など一つもなかったのだ。けれど、仲間の騎士は「ほとんど」と言った。
それはつまり、「すべて」ではないのだ。
倒れずに残った建物があったのだ。
ニールは顔を上げた。
あの夏と同じような光景の中に、あの夏とは違う景色が広がっていた。残っていたのだ。教会が、建物が、瓦礫の山の中にポツポツと。
ニールは部下たちに指示を飛ばし、自分でも飛獣を駆って、それらの建物を訪れた。
そこには、あの夏にはいなかった自分たち以外の生存者がいた。誰かの作った建物に守られて生き延びた人々がいた。
そして、最愛の婚約者を見つけて、ニールは歓喜し、抱き締めた。
けれど、その婚約者から「アールを見なかった?」と聞かれて、ニールは愕然とした。アールが、残っていた建物のどこにもいなかったのだ。
〇
「流石は……勇者様だ……見事に全部……倒せたみたいだな……」
アールは笑って、ニールにそう言った。
ニールは地面に膝を着いて、瓦礫の下敷きになっているアールの手を握った。アールの身体は上半身の左側だけが瓦礫の下から覗いていた。それ以外の部分は、崩れた建物の下敷きになっていて、どんな有り様かは覗えなかった。しかし、酷い怪我をしているのは、石畳に広がる血痕から嫌でも読み取れた。
「兄さん、そんな、こんなことって」
竜殺しの勇者は、兄の手を取って言葉をなくした。
何も言えなかった。顔を歪めて、涙を堪えながら、手を握ることしかできなかった。
「なんて……顔してんだ……勇者様がさ……」
アールは笑った。青空を見上げながら、弟に笑って問い掛けた。
「なぁ、ここからじゃよく見えないんだが……俺の建物……ちゃんと残ってるか?」
「ああ、残ってる。残ってるよ。兄さんの建物は、ちゃんと残ってる」
「ミールには……会えたか……?」
「ああ、あの教会はすごいな。誰も怪我なんかしていなかったよ」
「そうか」
アールは満足げに目を閉じた。
目を閉じて、眠る直前のような静けさでニールに言った。
「お前は、俺の自慢だ」
ニールは堪え切れなかった涙を零して、兄の手を握り締めた。
「ありがとう。僕もだよ。兄さんは、僕の誇りだ」
アールは笑って、それから何も言わなくなった。
白々しい入道雲だけが、青く澄み渡る空を賑やかせていた。
それから数年後、街は賑わいを取り戻し、そのあちこちにアールの設計を真似た堅牢な建物が並んでいた。ニールは竜殺しの勇者として後世まで名を残す英雄に成り、アールの名前はどこにも残らなかったが、彼の思想を反映した建物だけは世界中に広まり、多くの人々を災害から救った。
〇
羊雲が流れる、秋晴れの日だった。
足の悪い男が、庭の椅子に座って家を見上げていた。彼の隣には、小さな女の子がいた。その女の子は、男が座る椅子の肘掛けにもたれて、一緒になって家を見上げていた。
新築でピカピカの家だった。
足の悪い男は、すぐ隣の女の子に語り掛けた。
「この家は、キミの子どもの、そのまた子どもまで、絶対にキミたちを守る」
女の子は、その老獪そうな大工を見て「どうして?」と尋ねた。
足の悪い男は、遠い夏の景色を刻みつけた目で、その昔、孤児院の中庭で彼の妻に見せた黒々と大きな目を輝かせて、その少女に答えた。
「俺が建てたからだ」