9.『落ち人』拾いました
「ご令嬢、俺は今休暇中なんだが」
むっとした表情を隠すことなく、呼ばれるままに駆けつけた自称休暇中のマティアス医師は、腕を組んだ姿勢でエリカを見下ろした。
視線の端に映るのは、この小さな『ご令嬢』が特別庭園で保護してきたという、薄紅色の髪をした少女の姿。今はまだ昏々と眠り続けており、目を覚ます気配すらない。
「そもそも、ご令嬢が倒れた時もそうだったが、これは治癒術師の領分じゃないのか?お坊ちゃんは何してる、得意分野だろうが」
「その、それなのですが先生……」
ラスティネルは、若干10歳という年齢にも関わらず有能な治癒術師だ。
この少女を邸に担ぎ込んだところですぐに診察を開始し、必要ならば治癒の術をかけようと準備していた、のだが。
「……見えなかったそうなのです」
「なんだって?」
「何度状態観察の術をかけても、失敗してしまったそうで……ですから父が、マティアス先生をと」
「…………あの野郎……息子ができねぇことを俺にさせようとすんなよ」
畜生、と吐き捨てるように呟いて、彼は仕方なく患者に歩み寄った。
ベッドにぐったりと横たわる少女の上に手をかざし、魔力の流れを感じ取ろうと己の魔力を注ぎ込んでみる、が。
「…………ん?」
反応がない。
どれだけ己の魔力を注ぎ込もうとも、跳ね返ってくるはずの魔力の気配が体中のどこにも感じられないのだ。生まれつき魔力を持っている子供であれば、どんなに少ない魔力量であっても反応はある。もし魔力を持たずに生まれたのであれば反応がないのも頷けるが、それでも注ぎ込んですぐなら注ぎ込まれた分だけの魔力が感じ取れるはずだ。
それが、全く感じられない。まるで穴の開いた容器に水を延々と注ぎ込んでいるかのように、注いだ先からするりと抜けていってしまっている感じがする。
(どういうことだ?魔力が体から抜けていくなんて症例……これまでに……ん、待てよ?)
「ご令嬢、ひとつ聞くが。このお嬢ちゃんはもしかして『落ち人』か?」
『落ち人』とは、この世界と隣り合っている異世界からの来訪者のことである。
道はいつ開くかわからず、しかもあちらからこちらへの一方通行。故に『落ち(てきた)人』と呼ばれる。
彼らは魔力を持たず、そのかわりに類稀な身体能力だったり豊富な専門知識だったりを持ち、その多くが国に手厚く保護されて生をまっとうしたのだと、表向きはそう言われている。
ただし圧倒数が少なく記録もまた少ないため、どういう条件の者が『落ち人』なのか判断する基準は今のところない。
マティアスがそうじゃないかと疑ったのも、この魔力を受け付けない体質を実際に診たからだ。
静かな問いかけに、エリカは迷いながらも「おそらく」と頷く。
「あー、なら坊っちゃんの魔術が効かないのも、俺の魔力が片っ端から流れ出ちまうのも納得だ。『落ち人』ってのは総じて魔術が効かないんだ。つまりそれは、治療やなんかも魔術じゃできねぇってことだな」
「あぁ、だから……彼らはこの世界で早逝することが多かったのですね……」
「そうだろうな。だからこそ、医学の知識がある『落ち人』が同胞のためにと立ち上がったんだろう」
『落ち人』が伝えた知識の中には、様々な病や怪我などに対する治療法や予防法などといった、魔術を使えない者……もっと言えば魔術の効かない者にとって救いとなるようなものもあった。
かつては邪道だと言われたそれも、今ではほとんどの【医師】がその知識の恩恵を受けている。
とにかく、この少女が『落ち人』であるということはほぼ断定できた。
そして、そうであるならマティアスといえど役に立てることはない。
「それじゃ俺は帰るが…………多分、このお嬢ちゃんは気絶してるだけだろう。多少衰弱している様子も見られるから、起きたらご令嬢に処方した栄養剤でも飲ませてやれ」
じゃあな、とさっさと出ていこうとするその背中に、エリカは「あの」と声をかける。
「『落ち人』がこの邸にいること……しばらく黙っていていただけますか?」
「俺は医者だ、患者のことを外に漏らす気はない」
「……ありがとうございます」
それはつまり、王宮に連絡するのはローゼンリヒト家からやれ、ということだ。
慌てて帰っていったマティアスを窓から見送って、エリカは改めて不思議な少女の傍に座り込んだ。
薄紅色の髪はショートボブにまとめられ、ふっくらとした頬やつやつやの唇、長い睫毛に形のいい眉、そのどれもが絶妙なバランスで配置された顔はエリカとは系統の違う美幼女と呼んでもいいだろう。
(まだ私と同じくらいなのに、家族と引き離されるなんて……目が覚めたら泣くかしら)
眉根を寄せて首を傾げたところで、不意に何の前触れもなく少女の目が開いた。
瞼の下に隠れていたのは、一対の鮮やかなチェリーレッド。
「……なに、ここ……?部屋、変わったの?それにしたって、こんな少女趣味な……」
(少女趣味で悪かったわね。仕方ないじゃない、以前の私の趣味なんだから……)
あのテオドールを自分だけの王子様だと思い込んだだけあって、かつてのエリカは非常にロマンチストで少女趣味だった。
色はさすがに抑えられてはいるがどこかしらにピンクが使われた家具、フリフリレースのカーテン、天蓋付きの大きなベッド、花柄の壁紙。
手ひどく裏切られ夢から覚めた今となっては、この少女趣味丸出しの部屋にいるのも恥ずかしくて仕方がないのだが、どうにも言い出せずに今に至る。
それはともかく、さてどう説明したものか、戸惑いながら少女を見つめていたその視線にやっと気づいたらしく、チェリーレッドの瞳とラピスブルーの瞳が真正面からかち合った。
「………………あんた誰よ?なに勝手にヒトの部屋入ってきてんの?」
「え、えっと……その、ですね」
「子供だからってフホーシンニューとかアウトでしょ。ほら、早く出て行きなさいよ。お帰りはあっちよ」
あっち、と扉の方を指さされたエリカはなんとか誤解を正そうと、ふるふると首を横に振る。
「違うのです。えぇと、ですから……ここは私の部屋なのですが」
「はぁ!?なに言ってんの?あんたちょっと、頭おかしいんじゃ…………あぁなんだ、そういうこと。あんた、ちょっと頭のネジがゆるい、近所の子なのね。ホント、庶民の子ってアホばっかり。まぁいいわよ、それなら許してあげる。あたし、優しくって健気な主人公だもの」
「…………」
(どうしましょう、混乱してるだけだとしてもこれはちょっと……)
とうとう自分を『主人公』だと言い出した少女に、エリカは言葉を失ってどうしたらいいか途方に暮れてしまった。
エリカはもともと弁が立つ方ではないし、かつての生でもほとんど引きこもりの生活を送っていただけあって社交スキルは壊滅的、おまけに【ヒキガエル】などと呼ばれていたことでロクな交友関係も築けず、つまり身内以外にはどう声をかけていいかすらわからないという、とことん不器用極まりない性格である。
そんな彼女を見ていていい加減イライラが募ったのか、とうとう薄紅色の髪をした少女が「いい加減にしてよ!」と怒鳴り声を上げた。
「あんた、なんなのよ!!このあたしが寛大な心で許してあげるって言ってんのに、いつまでもうじうじうじうじと!本気で蛆が湧くってのよ、この陰気娘っ!!」
「……はぁ……」
【ヒキガエル】と蔑まれていたことに比べれば、たかだか【陰気娘】と呼ばれたくらいたいしたことはない。
エリカが人見知りである所為でこの少女は怒ってしまった、なら多少貶されるくらい当たり前だ……と考えた彼女は、しかしその数秒後に部屋に飛び込んできた人物を見て、反射的にまずいと眉をしかめた。
「エリカ!!」
妹が、散歩の途中で『落ち人』を連れて戻ってきた。
ぐったりと気絶したその小さな少女はなぜか魔術が効かず、困り果てて魔術医師であるマティアスを呼んでもらったが、そこに彼の最愛の妹も同席すると言い出したことが、彼はとても心配だった。
あんな小さな少女がまさか危害を加えてくるとは思えないが……しかし病から回復してまだ間もない妹が困ってはいないか、助けを求めていたりはしないか、そんなことを思いながら何度も部屋の近くを行ったり来たり。
「…!!……ってん…………に、………………陰気娘っ!!」
突然聞こえた大声に、ラスティネルは即座に踵を返して部屋に飛び込んでいた。
(陰気、だって!?言うに事欠いて、エリカのことを侮辱するなんて許さない!)
彼の周りを飛び交っていた精霊達も、その暴言に一斉に殺気立つ。
ただ相手が魔術の効かない『落ち人』だということもあって、直接何かやらかすつもりはないらしいが。
それでも、邸中の窓という窓はガタガタと震え、扉も軋み、地鳴りのように床も波立つ。
邸全体を厳重な結界で覆っていなければ、即刻崩れ始めるレベルだ。
ラスティネルも本気で怒っていた。
これだけ感情を顕にするのは、物心ついてから初めてかもしれない。
相手が例え初対面の少女だろうが、貴重な『落ち人』だろうが関係ない。恐らくこの暴言を父が聞いたなら、同じように怒りを抱くに違いないのだから。
「エリカ!!」
「おにいさま……」
ここは妹の部屋のはずなのに、当の妹はぺたんと床のカーペットの上に座り込んでいる。
代わりにベッドを占拠しているのは、つい先程まで気絶していたはずの薄紅色の髪をした『落ち人』の少女。
怒りのためか頬は紅潮し、床に座り込んだエリカを睨みつけているその目がラスティネルに向けられ…………何故か驚いたように真ん丸に見開かれたかと思うと、彼女は突然慌て始めた。
「あ、あのっ、違うんですっ!あたし、なにがなんだかわからなくて、びっくりしちゃって!」
言いながら彼女はしゅんと項垂れ、伏し目がちになりながら「いきなりだったし」と泣きそうな声で呟く。
「……ここがどこかもわからなくて、こわくて……だからちょっと、その、パニックになってしまってて。怒鳴っちゃって……ごめん、なさい……」
「…………」
「本当に、ごめんなさい!…………あの、どうしたら許して、もらえますか?」
「……そうだな……」
潤んだ瞳で縋るように見上げてくる、その顔は文句なく可愛らしい。
人によっては庇護欲をそそられ、独占欲を芽生えさせ、恋心すら抱くかもしれない。
だけど。
「…………それじゃ、今すぐこの領地を出ていってくれるかな?」
「……え?なに、いって……」
「大丈夫。うちの警備隊はとても有能だし、一言命令すればすぐに王都まで護送してくれるから。世界的にも貴重な『落ち人』だ、心配しなくても五体満足で送り届けるよ」
ただね、と彼は嘲笑う。
胸にしっかりと抱き込んだ妹には、絶対に見せない残酷な顔で。
「警備隊員達は皆父を尊敬してるから…………道中、罵倒くらいはされるかもしれないけど」