8.サクラの木の下で
「エリカ、そろそろ邸の外にも出てみないか?」
とある日の夕食の席で、フェルディナンドは不意にそう切り出してきた。
「毎日頑張って、魔術に関する本を読んでいるのはセバスから聞いているよ。だけどね、知っていると思うが魔術を使うにはそれなりに体力がないと厳しい。だから、少しずつでも外歩きに慣れていくのも大事じゃないかな?」
「そう、ですね……」
エリカが『かつての生』から蘇って、はやひとつの季節が過ぎ去ろうとしている。
しばらく前までは寒くて庭にすら出られなかったのに、今は天気のいい日であれば邸の敷地内にある庭を一周して、咲き始めた花を愛でる余裕も出てきた。
(まだ一人で歩けるとは言い切れないし……もう少し無理をするくらいじゃないと、体力もつかないかしら?)
今は、邸内であれば介助なしに歩き回ることはできる。
書斎に通うのも基本一人だし、食堂に行くのも戻るのも付き添いはあるが手は貸してもらっていない。
ただ、庭を歩く時はさすがに転んだりすると危ないという理由から、マリエールかレイラ、時には気まぐれを起こしたキールが手を取り、一緒にゆっくりと回ってくれているが。
だが外となると、まるで勝手が違う。
いくらこの領地を治める領主の娘とはいえ、誰もが恐れおののいて道を開けてくれるわけでは勿論ない。
むしろ貴族だからと絡まれたり、スリなどの対象として狙われたり、そのあまりの美幼女ぶりに虜になってストーキングする輩が現れたりと、嫌な思いをする危険がぐっと高まるのだ。
だけど、それはこれからもこの領地で生きていくエリカのためには必要なこと。
邸の中だけで囲うように甘やかして、世間を知らない子になって欲しくないからと、フェルディナンドはあえて『外に出ないか』と娘を誘った。
そして、エリカも考えた。
外に出るのはいいとしても、まずは人の少ないところから始めたい、と。
「それでしたらお父様、特別庭園に通ってもよろしいですか?街中は、まだ少し怖くて」
領内いちの繁華街より少し離れた場所にある特別庭園の中には、大きな噴水や人や動物の形に刈り込まれた植え込み、甘い香りのする花々が咲き誇る温室や馬車も通れる並木道まであり、ぐるりと一周するだけでもそれなりの時間を要する。
勿論疲れた時のためのベンチや東屋もところどころに設置されているため、エリカは5歳になるまでずっと怠けていた身体を慣らすために、そこで散歩したいのだと父に相談をもちかけた。
特別庭園は、この邸からは少し離れた場所にある。
だが『特別』と名がつくだけあってここは公爵家直轄であり、従って邸ほどではないがそれなりに警備の人数も揃っているし、一般開放されているとはいえマナーのなっていない者は、平民・貴族に関わらず出入り禁止とされているため、体力のない公爵令嬢がリハビリのために通うにはうってつけだろう場所だった。
目覚めたばかりの頃に比べれば格段に呂律が回るようになり、話せる言葉も大分増えてきた愛娘の申し出に、父公爵は眦を下げてひとつ頷いた。
「いいだろう。ただし、暗くなる前には帰ってくること。護衛を何人かつけるから、言われたことはきちんと守ること。それから、買い食いや貰い物はしないこと。いいね?」
「はい。ありがとうございます、お父様」
膝をついて優しく娘を抱きしめるフェルディナンド、それに戸惑いながらもおずおずと抱き返すエリカの姿を見て、周囲の使用人達は微笑ましそうに瞳を細めた。
「というわけだ、ヴァイス。毎日暇だろう、うちの可愛い娘の付き添いを頼まれてくれるな?」
「…………それ、質問じゃなくて強制だよね」
まぁいいけど、とキールは頷いた。
暇、というわけでは決してなかったが、だからといって忙しいと言い切れるほど時間をフル活用しているわけでもない。
今でも時折散歩につきあったり、書斎で話し相手になったりしているのだから、庭園に出向くくらいは頼まれずともするつもりだった、が。
「ところでさ、フェル。あの子のトラウマ対象者、少しは絞り込めた?」
明るい金の髪の女性、そしてその対となるような見事な銀髪の男性。
おそらく貴族、しかも高位貴族で、エリカと同時期に学園に通うことになる者。
たったそれだけの条件下で、フェルディナンドはそれでも貴族名鑑をひっくり返したり分家に探りを入れてみたりしていた。
ただし、エリカは現時点でまだ5歳……つまりその対象者もまた、若年層であることが絞り込みを難しくしている。
「成長すると髪色が変わるという現象は珍しくないからな。今は金色でも大人になれば茶色になったり、その逆だったり……私も子供の頃はラスティネルと同じような色だった。それを思うと、今この段階でこれ以上絞り込むのは危険だと考えているんだ」
「そうだね、とりあえず排除までいかなくても警戒対象に入れておく分にはいいんじゃないかな。で、もう一つ聞くけど」
「なんだ」
「どうして【高位貴族】だって断定できるの?」
夢を見たエリカ当人ならともかく、話をざっと聞いただけのラスティネルやフェルディナンドが、金髪と銀髪の二人をどうして【高位貴族】だと断定できたのか。
その『本気でわかりません』という声音での問いかけに、フェルディナンドはどうして知らないんだと額を押さえて深い溜め息をついた。
「……まぁ神殿内部の噂話だ、社交場で話すのはタブーになっているから知らない者もいるにはいるだろうが……」
「僕は噂話にも他人にも興味がないからね」
「それは知っている、自慢げに話すな」
わかった、と諦めたように呟いてフェルディナンドは重い口を開いた。
【聖女】と【聖騎士】というのは、この国が、そしてこの世界が乱れた際に神によって選ばれる、最も神聖なるお役目。
どんな身分の、どんな年齢層の者が選ばれるかはわからない。神の託宣を受けた神官によってそれは即座に国王へと伝えられ、国中にお触れが出されることで誰が選ばれたか初めて明らかになる。
……というのが、建前の話。
実際のところ、ここ何百年も神からの託宣を受けた者はいなかった。
しかしこれだけ長期間に渡って【聖女】も【聖騎士】も不在となると神殿の威厳にも関わるとされ、十数年に一度ある日突然託宣を授かったと言い出す神官によって、【聖女】が選出されていた。
しかも何故か、選ばれるのは高位の貴族ばかり。
これに疑問を抱いた者もいたにはいたが、神殿はともかく任命は国王によって行われることもあり、誰も表立っては騒ぎ立てることもできなかった。
「あー、なるほど。神殿に高い寄付金を積んだ貴族が選ばれるってわけか。寄付金ランキングで争うなら、たしかに高位貴族の方が有利だしね」
「明け透けすぎるが、否定はしない。つまりまぁ、そういうことだ」
高位貴族の若年層の子供、これらは全て注意しろ……そういう意味だと理解したキールは、過保護だなぁと苦笑いしながらもわかったと頷いてみせた。
その日から毎日、エリカと専属メイドのマリエールかレイラ、そして近寄ったり離れたりふらふらしながらキールが後に続き、そこから更に距離を置いて護衛数名という構成で特別庭園へと通った。
一日で全部を回るのはさすがに無理があったため、いくつかのブロックにわけて休憩を挟みながら庭園内を散策する。
ただその最後に、エリカが必ず寄る場所があった。
「もうじき、サクラも終わりね……」
『ラーシェ』と呼ばれるこの世界の隣には、ぴったりとくっつくようにしてもうひとつの世界『地球』があるのだと、そう言い伝えられている。
そして時折、神の気まぐれかその『地球』からこの『ラーシェ』への一方通行という形で、異世界人がこちらへ落ちてくるのだ、ということも。
この木は『サクラ』といい、偶々落ちてくる前に苗木を手にしていた『落ち人』が伝えたとされる、異世界の植物である。
春になるとピンク色の花を咲かせるこのサクラは、今ではこの領内の庭園以外でも世界のあちこちで見ることができる。それは、その異世界人……『落ち人』が、戻れないならばせめて、と自分と一緒にやってきたサクラの栽培・繁殖に力を注いだ結果である。
エリカは、このサクラが好きだった。
そしてその傍にあるベンチに腰掛け、オレンジから赤、赤から紫に染まっていく空をぼんやり眺めるのが、ここ数日の日課となっている。
「お嬢様、今日はそろそろ」
「そうね。名残惜しいけれど、そろそろ戻らなくて……は、っ……!?」
「あ、お嬢様っ!?走られては危のうございます!!」
突如顔を険しくしてガタンと立ち上がったエリカは、何かに取りつかれたようにサクラの木に向かって駆け出した、がまだ歩くことすらやっとの状態の彼女はすぐにバランスを崩し、倒れる寸前で駆け寄ったキールに受け止められる。
「何を無茶してるんだい、お嬢様。……ほら、どこに行きたいの?」
「キー、ル……あそこに、子供が……」
「子供?…………あぁ」
ハラハラと儚げに散り急ぐサクラ、その根元に倒れ伏す小さな身体。
気絶するようにくったりと四肢を投げ出しているその子供は、ちょうどエリカと同じくらいの年頃に見える。
(金髪と銀髪は近づけるなとは言われたけど、アレは薄紅色だし……まぁいいのか?)
いくら大人になったら髪色が変わる例があるとはいえ、薄紅色が金や銀になるケースは恐らくない、はずだ。
それに、他ならぬエリカ自身がその子供を気にして駆け寄ろうとしていたのだから、それはつまり警戒対象ではないという可能性が高い。
「さっきまではいなかった気がするの。なんだか、突然現れた、ような……」
自信なさげにどんどん小さな声になっていくエリカを抱え直すと、キールはゆっくりと数歩サクラの木へと近づく。
「あ、あのっ!近づいて、大丈夫でしょうか!?」
「うん、多分ね。悪いものはこの庭園に入って来られないように、ラス君が結界を張ってくれてるし。それにこの子、恐らく『落ち人』だよ」
「『落ち人』…………この子が……」
『落ち人』がいつどこに現れるのか、その法則は未だにわかっていない。
ただこうして『落ちて』きた存在は須らく国の管理下に置かれるため、発見・保護した者は速やかに国へと報告を義務付けられている。
エリカは知っていた。
こうして保護された『落ち人』達の多くは、己の世界に戻りたいと日々嘆き悲しんでいたことを。
ついには心を病み、もしくはこの世界に期待しすぎて裏切られ、失望し、絶望し、自ら儚くなった者もいたことを。
「この子は…………大丈夫かしら」
「どうなさいますか、お嬢様?」
「そうね、邸に連れて帰りましょう。キールも、それでいい?」
「ご随意に。ここに放っておくわけにもいかないからね」
(さて、あの子供はエリカにとっての幸いになるか、災いになるか。わかるまでは様子見、かな?)