56.予期できた別れ
じり、と騎士が身構えたのがわかったのだろう。
ライスリールは邪魔だと言うように手を前にかざし、水を刃のようにして騎士に襲いかからせた。
が、
「……なに?」
騎士の体を裂く前に、水の刃はバシャンと大きな音を立てて形を崩してしまう。
「すまない、助かったシュヴァルツ殿!」
「いいえ。間に合って良かったです」
「…………貴様……っ」
ニコリと微笑むジェイドに向かってまたしても手を振り上げようとしたライスリールはしかし、いつまで経っても思う通りに動かない水を見下ろして愕然と目を見開いた。
「すみません、僕は水の精霊とちょっとだけ仲良くさせてもらっているんです。ですから……ここの水は、貴方の思う通りにはなりませんよ?」
むしろこういうことも出来るんです。
そう言うジェイドの視線の先、水に浸かったままのライスリールの四肢が水によって絡め取られてしまう。
どんなにもがいても、水は彼の言うことを聞こうとはしない。
水の精霊は現時点、ジェイドを優先させることにしたのだろう。
「さて、と。では殿下…………いえ、ライスリール様。呪いを解く方法を教えてください」
「そんなものはない」
「貴方と呪いを引き離す方法は?」
「あるわけがない。私は呪いの種を己の心臓に植え付けた。私の命がなくなれば、それを糧に種は花を咲かせる。その時こそ、呪いの完成だ」
「なるほど、それは実にエグい」
リューの言葉は簡潔で、全く容赦がない。
最初から交渉する気がないのか、それともあえて挑発して失言を狙っているのか。
目的がわからず、ライスリールは再び口をつぐんだ。
このまま時を待つだけで、呪いは成就する。
灰色の闇に覆われたこの国は皆床に伏し、働き手がいなくなったことで特産物も育たなくなり、外交ができなくなったことで経済も回らなくなる。
この病は死に至るものではない、だからこそジワリジワリと国が衰退して行く姿を味わうこととなり、それが国民の、貴族の、女王の心をすり減らしていく。
彼の呪い、それは彼の絶望だ。
妾の子だからと愛情を注がれず、体調を崩した母は見捨てられ、常に王妃の子と比べられ、勉強で追い抜かれ、魔術でも抜きん出たものはなく、体力だけは唯一勝てたがそんなものは関係なく、目指す王の座からいとも容易く引きずり降ろされた。
その絶望が、呪いの種を引き寄せた。
自らの身体を糧として災いを為す、そんな禁忌の術に手を出してしまった以上彼を待つのはただ地獄だけ。
救われたいなどとは思わない、彼が味わった絶望の分だけあの生意気な妹にも絶望を味わわせてやりたい。
どうせ、もう終わりなのだ。
リューに言ったように、この呪いはどうあっても消せない。
種が心臓に食い込んでしまっている以上、同化するのも時間の問題なのだから。
ニヤリと不敵に笑いながら見上げた先、しかし闖入者達は彼を放って呑気に会話を続けていた。
「……心臓、だそうですよリシャール殿。難しそうですが、いけそうですか?」
「…………やるしかあるまい」
「わっかりました!……ジェイド殿、その水の枷は何があっても外れないようにしてくださいよ。多分相当抵抗されるはずなんで、しっかり頼みます」
「は、はいっ!」
「それからそっちの護衛の皆さんも。めちゃめちゃ抵抗して何か術を放ってくる危険性があるので、この場の味方全員をしっかり守ってください。すいませんが、俺は戦力外なんで」
「了解しました」
何を言っている?何をするつもりだ?
ライスリールはすっかり混乱していた。
彼の呪いの完成まで、もう時間がない。そうなればこの国は終わりだ。
なのに真っ先に絶望するはずの女王の側付きは、爛々と瞳を輝かせて『どうにかする方法』について打ち合わせている。
まるで本当に、その手段が手元にあるかのような言い方だ。
いや違う、これは彼が自分を動揺させようとしているだけだ。
こんなのは彼お得意のハッタリに決まっている。
そう自分に言い聞かせて心を落ち着かせていると、それまでジェイドという名の水の魔術師の背後に立っていた背の高い男……リシャールと呼ばれていたその男が、腕の中に抱えていた子供をそっと地面に下ろした。
子供の金色の瞳が、子供らしからぬ老成した光を宿してライスリールを睨めつける。
『これはこれは。また随分と面妖な男じゃの。古き呪いなぞと同化して己もろとも国を滅ぼすつもりとな?妾には理解できぬな』
少年特有のボーイソプラノではなく、それは艶のある女性の声。
この場において、リシャールとジェイドだけがその声の正体を知っている。
「精霊姫よ」
『わかっておる。下らぬ問答は必要ない、時間がないのじゃろう?妾ならば、可能じゃ。その代わり、そなたらはしっかりこの体を守り抜け。よいな?』
「承知した」
己の身を守ることもできない。
今回はそれだけ精霊姫にとっても全力で力を行使しなければならない事案、ということのようだ。
それだけではない。
精霊姫は加護を与えた愛し子を通じてこの世界に顕現する、つまり愛し子のいないこの場では使い魔であるウィリアムの体を借りるしか力を行使する方法がないのだ。
そして、ウィリアムの体はその半分が闇属性の魔術でできている。
光の精霊王である彼女が全力を出した時、この体が耐えうるかどうかは運次第……後は闇属性の魔術を使えるリシャールのサポート次第といったところだろう。
『エリカ、我が愛し子、聞こえておるか?』
精霊姫様?という戸惑った思念を感じ、ルクレツィアはそうじゃと応じる。
『妾はこれから、呪詛の種の浄化に入る。これが浄化できれば、あの灰色の淀みも祓える。そこで、妾の合図に合わせて最上級の光の魔術を放て。妾とそなたの力を合わせれば、この国全体の淀みもすぐに祓えよう』
わかりました、と了承の声が返ったことでルクレツィアは通信を切った。
ここからは正に全力勝負だ、他のことに力を回す余裕などあるはずもない。
(それに…………この先起こるだろうことは、あの娘をきっと哀しませる)
彼女には、結末が見えていた。
そのことで、エリカが哀しむだろうこともわかった上で、だけど引くつもりは毛頭ない。
『さあ、覚悟せよ愚か者。この光の精霊王の怒りを買ったこと、死ぬまで後悔し続けるが良いわ』
それはもう、死に物狂いという言葉が相応しい有様だった。
『光の精霊王』と聞いて初めて、ライスリールは己の呪いが崩れる可能性に思い至ったのだろう。
彼は水の枷を外そうと渾身の力を込めて暴れ、それが叶わないとわかると己の魔力を滅茶苦茶に放出し始めた。
『魔術』にまでは至らない、未熟な力だからこそ予想もつかない動きでビュンビュンと飛ばされるそれに、宮廷魔術師は慌てて風の盾を形成し、魔剣を手にした騎士はウィリアムの斜め前に立って攻撃を片っ端から斬り伏せ、もうひとりの騎士は落石などの被害を防ぐため後方でフォローに回っている。
「ぐ、っ……!」
「ジェイド、堪えろ」
「わかって、ますっ!……」
ジェイドは、ライスリールの抵抗に必死に堪えていた。
(僕はこれまで、護衛らしいことは何もできてなかった。いつもいつもユリアさんにばかり頼って……だから、こんな時くらいは)
エリカの周囲は本当に恵まれている。
フェルディナンドは公爵としても領主としても信頼を得ており、ラスティネルは有能な治癒術師。
攻撃魔術ではレナリアが、剣術ではニコラスが、対魔術と何より心の支えとしてユリアがいる。
対となる存在としてリシャール、加えて光の精霊王の加護を受けていることから、ほぼ死角なしと言ってもいい。
そんな中、自分には何ができるのかといつも彼は考えていた。
遠くの音が聞こえる、ずっと嫌だったその能力を初めて有益なものだと認めてもらえた、だからせめて役立ってみせようと積極的にその能力を使ってまで。
(そうだ、あの人が何を言ってるのか……それがわかれば何か手がかりになるかも)
彼は、水の枷を構成する魔力を絶えず維持しながらも、聴覚にも意識を持っていった。
先程からぶつぶつと何事かを呟いているライスリール、その言葉を拾えないか……何を言っているのかわからないか、慎重に。
そして、気づいた。
「いけないっ!リシャール様、あの人を眠らせてください!呪文を、完成させちゃいけないっ!!」
ライスリールが呟いているのが、破壊の術の呪文であることに。
その呪文が向けられているのが、彼自身であることに。
「闇の精霊王に乞う。かの者の魂に、安息を。 ──── 【眠れ】」
ギラギラと獣のような光を放っていたライトブルーの双眸が、力尽きたようにゆっくりと閉じていく。
ガクリとその体が力を失ったことで、ようやく安堵したのかジェイドはその場に膝をついた。
「はぁっ…………ありがとうございます、間に合った……みたいです、ね」
「あぁ。助かった、礼を言う」
「いえ。リシャール様こそ、無理させてしまってすみません」
「大丈夫、だ」
まだ、と付け加えながらも、ウィリアムの肩を支える彼の顔色も悪い。
ただでさえウィリアムの方に力を使っているのに、その一方で闇の精霊王にも力を借りたから負担がかかって当然だ。
だがその場の全員が死力を尽くさなければ、この場は乗り切れない。
ライスリールが眠ったことで動く余裕ができた騎士達は、未だ力を使い続けているリシャールや今にも倒れそうなジェイドを気遣い、体力回復の薬を差し出してくる。
それをぐいっと一気に飲み干し、ジェイドは何かあればすぐ対応できるように、浄化の力を使い続けるウィリアム……その小さな体に宿る光の精霊王を静かに見守り続けた。
ウィリアムの体が、黄金色に輝く。
彼の小さな手のひらから途切れず注がれる浄化の光は、少しずつライスリールの体に刻まれた真紅の紋様を消していく。
どす黒かった肌が、この国の民特有の浅黒い色へと。
苦悶の表情が、安らかなものへと。
『……呪詛の種……これか。これを消せば、呪いは消え失せる。 ──── もうしばし、堪えよ』
一瞬くしゃりと泣き出しそうな表情になったものの、すぐに凛とした顔に戻った精霊姫は、恐らくハラハラとしながら連絡を待っているだろう愛し子に通信を繋いだ。
『エリカ、力を』
ゆくぞ、という声から一瞬だけ遅れて、その場に……【世界】に、光が溢れた。
「闇が、消えた!」
「成功したのか!?」
「やった、やったよ、エリカ!!」
凄まじい光が収まった後、空一面を覆い尽くしていた灰色のなにかはもう跡形もなかった。
子供のようにはしゃぐ騎士、魔術師、そしてユリア。
女王ですらも信じられないというよに目を見張った後、泣くのを堪えるように視線をそらして唇を噛み締めている。
「エリカ…………?どしたの、疲れた?」
この国は、救われた。恐らくそれは間違いないはずなのに。
先程から、胸騒ぎが止まらない。
何度呼びかけても、精霊姫からの返答がないのだ。
勿論、力を使いすぎて精霊界へ戻ってしまった可能性もあるが。
なのに、どうしてだか不安で堪らない。
「おかしいわ。……まるで……何かが欠けてしまったみたい。どうしてかしら、痛くて堪らないの」
「えっ、ちょっ、それって」
『……やはり、感じておったか。その痛みは、魔力の繋がりが絶たれたことで起こる擬似的な欠損痛じゃ』
光とともに、その場に顕現したのは眩いばかりの美貌の持ち主。
呼ばれない限り滅多に人前に姿を見せないはずの精霊姫が、自ら愛し子の前に現れた。
その理由に、エリカが気づかないはずもない。
(魔力の繋がりが絶たれた……あぁ、それじゃやっぱり……っ)
このどうしようもない喪失感は。
体のどこにも異常がないのに、胸が押しつぶされそうに痛くて堪らないのは。
『……すまぬ。妾にはわかっておった。あの幼い体で妾が力を揮えば、体が持たぬことも。じゃがそうしなければ、呪いが完成してしまうことも。そなたに、辛い思いをさせてしまうことも』
「…………ウィリアム……っ」
『慰めになるかわからぬが。あの子の魂は、妾がしばし預かろう。疲れを癒やし、いずれそなたと再び見えることができるように。それが、あの子の望みであるからの』
エリカの手元に、ウィリアムがずっと大事につけていた漆黒のリボンがそっと乗せられる。
『マスター、絶対にまた会いにくるです!!』
「ウィリアム、ッ……!」
リボンを握りしめてボロボロと涙を零すエリカを慰めようとするように、空が薄闇に染まる。
すべての心に安息を、そう願いを込められた優しい力に包まれて、エリカはゆっくりと意識を手放した。
夜にあと一話投稿します。




