54.灰色の闇
それは、予想以上だった。
島を覆い尽くすように広がる灰色の何か……それはまさしく『灰色の闇』と呼ぶに相応しい色をしていたが、外から来た彼らの目には分厚い雲のようにも見えた。
「……酷い……俺にも見えるってことは、出たときより悪化してますね」
「えぇ……皆は無事かしら」
どうやら彼らがウィスタリアまで逃れた時には、まだ薄いぼんやりとした色合いであったようだ。
ここに戻ってくるまでの時間を考えると、この『闇』は驚くべきスピードで広がっていると考えていい。
「……あれ?魔術師さん達、なんか具合悪そう……船酔いですか?」
「いえ、その……」
「マクラーレン嬢は何も感じないのですか?」
「えーと?」
どういうこと?とユリアが首をひねりながら、一様に顔色の悪い魔術師達をざっと眺め、そしてふと思いついたのか今度は騎士達へと視線を向ける。
魔術師達の側に立っている騎士達は、さほど変わった様子もなく周囲を警戒しているようだ。
益々わからないという顔になったユリアに、ジェイドが額を押さえながら「なるほど」と何度か得心したように頷いた。
「ユリアさんがわからなくて、魔術師だけが体調が悪くなる……この灰色の何かはどうやら何かの魔術のようですね」
「……あぁ、【落ち人】は魔力の影響を受けないからですか。だから俺も、気味悪いとは思っても具合まで悪くならなかった……と。あれ、でもそれなら女王陛下は?陛下の魔力量はほぼ平均ですけど、それでも影響は受けそうなのに」
「あ、はいはい!それならわかるよ。【落ち人】の近くにいる人も、魔力の影響をあまり受けなくなるの。リューさんが側付きだったから、女王様もそれほど影響受けなかったんじゃないかな?」
「…………確かに、そう言われてみれば納得です」
それならできるだけ固まって移動した方が良さそうです。
リューはそう言うと、ウィスタリアへ逃れた際に乗ってきた馬車を使い、乗車可能な人数ギリギリまで詰め込んで、何度かに分かれて城へ向かったらどうかと提案してきた。
全員固まって移動するにしても、それでは必然的に徒歩移動となり移動速度が格段に落ちる。
それなら一度に必ずどちらかの【落ち人】が乗るようにして、何度か城とこの港を往復すれば効率が良くなるのではないか、と。
結局他にいい案があるわけでもなかったため、勝手知ったるリューが馬車に乗って往復することになり、ユリアは最後まで残る事になった。
「城の中には、魔力の影響を抑制できる研究室があるの。狭い部屋だけど、そこならしばらくは体調も持つでしょう」
「それなら、その間にこの闇を晴らさないといけませんね」
「…………マスター……これ、この灰色の雲みたいなやつ、なんかべったりしてて怖いです。誰かの唸り声みたいな、恨みの声みたいな、そんなのが聞こえるですよ……」
「唸り声?」
耳を澄ませてみるが、聞こえてくるのは海の波の音と時折吹きすさぶ風の音だけ。
だが使い魔であるウィリアムがここまで怖がるのだ、きっと彼にしか感じ取れない魔力の波長があるのだろう。
「唸り声に恨みの声か……これは呪詛で当たりかもしれないな」
「だとするなら、かなり強い呪いですね……早く、どうにかしないと」
どうにかしなくては。
その思いはどんどん強くなる一方だが、さすがにエリカ一人でこの国全体を覆う闇を晴らすことはできそうにない。
他の魔術師達に支援してもらったとしても、果たしてその呪詛自体を消し去ることができるのかどうか。
(冷静に。考えなければ……どうやったら、この闇を晴らせるか。どうやったら被害を最低限に食い止められるのか)
エリカとリシャール、彼らは言わば国の代表だ。
このミーシャという国を救う、その使命を王太子殿下より賜って派遣された支援要員。
そんな彼らが「どうしたらいいかわからない」と泣き言を言うことなど許されない。
わからないならわからないなりに、何か最善の手を打たなければこの国が滅びてしまう。
対策を取るのが遅れれば、それだけ命の危険に晒される者が増えるということなのだ。
必死に考えを巡らせているエリカの耳に、ユリアの零した呟きが飛び込んできた。
「そういえば……んーっとなんだっけ……雲って、水が蒸発して空中に水蒸気として溜まったものだった、とかなんとか。あーもう、ちゃんと理科の勉強しとけばよかったー!」
「……ちょっと待ってユリア。水が、雲になるの?あの雲は、水でできてるということ?」
「え?えぇ?まっ、待って待って!雲みたいに見えるけど、それ雲じゃないんだよね?呪いの一種なんでしょ?」
「ええ。でも…………」
ウィリアムは、べったりとした感じだと言っていた。
それが怨嗟の言葉に対する印象だけでないとすると……もし物理的な意味合いもあるのだとしたら、あの灰色の闇は雲である可能性もある。
雲は、水で出来ているとユリアはそう言っていた。
水は、命の源。生きていく上でなくてはならないもの。
飲水に限らず、何かを洗うのも水、草花を育てるのも水、体を流すのも水。
この水がもし汚染されていたなら、人々は生きてはいけないだろう。
(待って。水から伝染病にかかる可能性なら、医師団が知っているはず。なのに、真っ先に倒れたのが治癒術師だった……)
先程も、具合が悪くなったのは魔術師達だった。
今回同行した騎士は魔力が少ない者ばかりらしく、さほど影響を受けた様子はなかった。
それが意味するものは。
「呪詛は、水に関係する場所にあるかもしれません。人の体内にある魔力に作用する呪いをかけ、その水で雲を発生させる……そして周囲が気づかないうちに呪詛は空を覆い、魔力を日常的に使う者から順番に影響を及ぼし始めた。そう考えると、治癒術師が真っ先に倒れた理由の説明がつく気がします」
魔力を使う者が真っ先に倒れ、そのうち魔力量の少ない者まで影響を受け始めた。
伝染性があるのかまではわからない、だが魔力が少なくてもその水を直接体内に取り込むことで少なからず影響を受けた者も中にはいるだろう。
水が呪詛で汚染されているなら、解決策は一つ。
その呪詛の素を壊して、水を浄化するしかない。
エリカが推測ですがと考えを話すと、女王は神妙な表情で黙り込んだ。
恐らく、これからどう動けばいいのか何通りもの作戦をシミュレートしているのだろう。
彼女は国の代表者だ、最も効率的で最も時間の掛からない方法を選ぶ必要がある。
彼女が考えている間に、馬車が戻ってきた。
最後まで残っていた面々がこれに乗り込み、城に向かって駆けていく。
「で、我らが女王陛下は何を難しい顔で考え込んでおられるんです?」
「えーっと、実はね」
ユリアは、すっかり思考の世界にはまり込んだ女王のかわりに、エリカの推測を話して聞かせた。
最後まで聞いたリューは、「あぁそういうことか」と何かを思い出したように視線を斜め上へと向け、すぐにユリアへと戻す。
「魔術師さん達だってあれこれやったんですよ。あの灰色がまだ俺の目に見えなかった頃に、風の魔術を使って吹き飛ばそうとするとか。いっそのこと、火の魔術をぶつけようとか」
「火っ!?それ、下手したら爆発っ!」
「そう。俺にも見えましたよ、規模は小さかったですけど。だからもしかしたら、その闇とかって水蒸気の塊なんじゃないかって思ったんですけど、それなら魔術師にしか見えないっておかしいでしょ?けどそっか、魔術を含んだ水蒸気なら見えなくてもおかしくないか……」
なるほどね、と頷いてからリューも伏し目がちになって考え込む。
「水が汚染されてたとすると、水源が呪われてる可能性が高いわけで。誰もが口にする飲料水の水源……ということは……」
「地下水源ね」
「そう、そうですよ!海に囲まれたこの国の水源って言ったら、地下水がメインです。その水源自体が汚染されてたら、国全体に汚染水が広まってもおかしくない」
その水源、とっとと浄化しちゃいましょう。
ニカリと邪気のない少年のような笑顔を浮かべるリューに、馬車内の他の者達は一様にポカンと呆気に取られたような視線を向けた。
リューの言う作戦はこうだ。
もしエリカの予想通り水源に呪詛が仕掛けられているなら、当然仕掛けた犯人も見つからないように警戒しているはず。
それならその犯人の気をそらし、その間に水源に忍び込んで呪詛を浄化もしくは呪詛の素を持ち去ってしまえばいい。
そして、その作戦を実行するにあたって重要な『忍び込み要員』は水源の位置を知る者でなければならず、必然的に今自由に動けるリューが先導するしか選択肢がない。
「問題は二つ。どうやって犯人の気をそらすか。そして、呪詛の素を見つけた時にそれを無力化するために誰を連れていくか、です」
「それなら影響受けないあたしが」
「却下。ユリアさんはこっちに残って、魔術師さん達が辛くないようにサポートしなきゃでしょう?」
「それなら私が」
「それも却下します。いいですか、エリカさんはこの作戦の要なんです。貴方が倒れたら、この闇を晴らすこともできなくなる。……ってまぁ正直、光の魔術持ちは同行して欲しいんですけど……エリカさんはダメです」
サポート役としてついてきてくれた魔術師の中にも、光の属性を扱える者はいる。
なら彼らに同行してもらうか、と考えたところでそれまで黙って話の成り行きを見守っていたリシャールが「私が行こう」と声を上げた。
全員が、意表を突かれたという顔で彼の方を見る。
「光の精霊王の加護を持つエリカは最後の切り札だ。なら、私は闇の精霊王の加護を持つ者としてリュー殿に同行し、呪詛が広まらぬよう力を使おう。精霊王の加護持ちだ、呪詛の力も恐らく及ばない。それでも不安だと言うなら…………ウィリアム」
「は、はいです!」
「エリカと精霊王の仲介を務める使い魔なら、光の魔術も使えるはず。制御ができぬようなら私の闇の力を貸そう。同行を頼めるか?」
「リシャール様、それはっ」
「私はウィリアムに聞いている」
ウィリアムはエリカの使い魔だ。
普段はエリカの言うとおり、命じられたままに動くだけ。
それ以外で彼が動くことがあるとすれば、主であるエリカの身に危機が及んだ時……命令を下せない状態になった時くらいだ。
が、今彼は主が命令を下せる状態でありながら、彼自身の判断を求められている。
主ほどではないが、主の伴侶として尊敬の念を寄せている相手から。
「ボク……マスターと離れて、何ができるかなんて……わからないです」
離れるなんて怖いです、と彼は続ける。
そして顔を上げ、だけどと逆接をついだ。
「お荷物には、なりたくないです。マスターのお手伝いができるなら、やらせてくださいです」
「ウィル!」
「おねがいです、マスター。…………大好きな、マスターの役に立ちたいです」
「…………」
真っ直ぐな、金色の瞳がエリカを射抜く。
その大きな瞳が涙で溢れそうなのを見て、彼女は深い息を吐き出した。
(ウィルにここまで言わせておいて、ダメだなんて言えるわけない。怖いけど、だけど、リシャール様も一緒だもの)
リシャールを危険な場所に向かわせるだけでも怖いのに、己のパートナーとも言うべきウィリアムまで行ってしまうなんて、と内心では泣き叫びたい気持ちが溢れかえっている。
だけど、泣いている暇はない。
ウィリアムでさえ泣くのを堪えているのだ、主であるエリカが泣くわけにはいかない。
「リューさん」
「はい」
「リシャール様とウィリアムを、どうかお願いします」
「……任されました」
「それからどうか、リューさんもお気をつけて。こちらのことは、お任せを」
声が震えていたことに、きっと気づいていただろう彼はしかし「頼もしいですね」と笑ってくれた。




