52.慌ただしい出発
海の上に浮かぶミーシャ王国。
何の前触れもなく突然病に倒れ伏していった国民達。
その調査に向かった医師団も、原因を探ってようやく『灰色の闇のようなもの』を突き止めた魔術師達も、その闇とやらをどうするか協議していた国の重鎮達も、次々と病の床に倒れていく。
海を超えてウィスタリア公国までどうにか逃れた女王とその側近が見たのは、全く影響を受けていなさそうなウィスタリアの国民達の姿。
原因が何かはわからない、だが現段階ミーシャにだけ影響を与えているあの灰色の闇を晴らさねば、近いうちに国は滅びる。
迷っている暇などない。
眉唾ものだろうと噂でしかなかろうと、ヴィラージュ王国にいるという【精霊王】の加護を受けた二人を……二人が無理であればせめて【聖女】を国に連れて戻り、なんとしても国を救わなくては。
その思いがあまりに強すぎた所為で、女王はその連れて帰らねばならない当人に対して暴走してしまった。
何が婚姻式だ、そんなことよりも我が国を救いに来る方が先だろう、と。
「国の代表として、女王陛下の気持ちもよくわかる。が、…………もし自身の婚姻式に邪魔が入ったと考えたら、やはりやりきれないだろうな。少なくとも、妻は哀しんだだろう。中止にすることに同意はしても、しこりはきっと一生残る」
女王は女性だが、為政者でもある。
国のため、国民のためなら己の大事な式典だろうと記念日だろうと、それこそ全てを投げ打つ覚悟はできている。
レナートもまだ王太子ではあるがその覚悟はできているし、王太子妃として教育を受けてきたエルシアにその覚悟がないと言うつもりはない。
ただ、生まれ落ちたその時から王族として責任を負ってきた者と比べると、いざという時に甘さがでてしまうだろうな、とは思っているが。
リシャールは男性だが為政者ではない。
だが彼も近い将来公爵位を継ぎ、広大な領地を治める主となる。
領主ともなればやはり己やその家族ばかりを優先させることはできず、場合によっては辛い決断を下さなければならないこともあるだろう。
「そういうわけだ、リシャール。無条件で許せとまでは言わない、だがこのまま見過ごしてミーシャという名の国が滅べば、助けを求められた我がヴィラージュは立場を無くす。それにその灰色の闇とやらが、いつこの大陸に来ないとも限らない。ここは私情を抑え、奥方と共に旅立ってはくれないか」
「………………」
「リシャール・ローゼンリヒト次期公爵、これは王太子レナート・フォン・ヴィラージュの命令である」
「…………かしこまりました」
国のために堪えろ、という兄の命令を弟はグッと唇を噛み締めて受け入れた。
ミーシャはこの大陸の南に位置するウィスタリア公国を更に越えた海の向こうにある。
海を超えて命からがらたどり着いた女王がここヴィラージュまでたどり着くのに十数日が既に経過しており、事情を聞く限りこれ以上余計な時間をかけてはたどり着くまでに国が滅びかねないと判断したレナートは、父である国王の許可を得た上で魔導列車を使うことにした。
といっても降りる場所がないと帰りに困るため、直接ミーシャまでは行かずウィスタリア公国の南の草原までとし、そこからは船を用意してもらうこととなった。
その魔導列車を飛ばすにあたり、ウィスタリア公国との連絡調整が必要になるとかで、その間にエリカ達には準備をしておくようにと父公爵を通じて連絡が入り、ローゼンリヒト公爵家では慌ただしく荷造りが行われていた。
実際に魔導列車に乗るのは分家の当主ラスティネル、当事者のエリカとリシャール、護衛のユリアとジェイドの五人。
これに王城から厳選された騎士数名と魔術師数名、そして女王陛下とお付きのリューで全員だ。
このうち、ラスティネルと彼につく護衛数名はウィスタリア公国に残り、非常時にヴィラージュ王国へ連絡を入れる役割を負う。
そして何かあった時に手はずを整えるのが、公爵家当主であるフェルディナンドやラスティネルの婚約者レナリア、その実家であるアマティ侯爵家のニコラスやダニエルである。
「ドレスは必要最低限でいいわ。装飾品もいらないわね。とにかく、道中必要な最低限の着替えだけでいいわ」
「ですが行き先は南国です。せめて日焼け止めはお持ちください」
「日焼け止めなら塗っていくわ。でも途中で塗り直している時間はないの。レイラ、日傘もさせないから片付けてちょうだい。マリエール、香油もいらないわ。荷物がかさばったら、何をしに行くのかと笑われてしまうでしょう?」
着替えすらいらない、とまではさすがに言えない。
ウィスタリアの南の端までは魔導列車でひとっ飛びだが、そこからは船になる。
一番早い船で向かえば一日と経たずに着くとはいえ、海の上は何が在るかわからないため念のために着替えを持参する、というだけだ。
荷造りが終わったところで、そのトランクを慌ただしく駆け回っている執事の一人に積み込んでもらい、そこから専属メイド二人は主の準備に取り掛かった。
着ていくドレスは極力簡素に、だが主の美しさを損なわないものを厳選。
下手をすると数日着替えられないことを考えて、念入りに日焼け止めを塗り込んでから崩れにくいメイクを施す。
既婚の婦人であるため髪は結い上げるのが本当だが、今回は崩れることを予想してエリカ一人でも直せる程度に緩く結い、以前婚約者だった頃にリシャールから貰った魔石つきのバレッタで留めておく。
「戻って来られたら絶対に徹底的に磨かせていただきますからね」
「だから、絶対にご無事でお戻りください。あまり遅いと、旦那様がヤキモキしてお迎えに行ってしまいますよ?」
「ありがとう、二人共。お父様のこと、よろしくお願いね」
いってきます、と軽く二人に抱きついて別れを惜しむと、エリカは夫と合流すべく階下へと向かった。
「そういえば」
と、王城に向かう途中の馬車の中、リシャールがぽつりとそう零した。
「以前、魔導列車にいつか乗せてやると話していたことがあったな」
「そういえばそんなことがありましたね」
それは、エリカとリシャールがまだ婚約したての頃。
久しぶりに顔を出したリシャールが魔導列車を使って来たと話すと、エリカは顔を輝かせていつか乗ってみたいと語った……そんな昔のことを覚えていてくれたと知って、彼女は面映い心地で微笑んだ。
「まさか、その『いつか』がこんな形で実現しようとは……」
今回の目的は旅行ではないし、しかも出力最大限の超特急で向かうため風景を楽しむ余裕すらない。
妻の願いの一部は叶えられるが、それが非常に不本意な命令の上に成り立つものであることに、リシャールは不満が隠しきれないでいる。
が、エリカは微笑んだまま首を傾げる。
「そう思ってくださるだけで嬉しいです。……それに、帰りはゆっくりと戻れるのでしょう?」
「あぁ。その予定だが」
「なら、窓を開けてウィスタリア公国を眺めながら戻りましょう?お兄様と、ユリアと、ジェイドと……騎士や、魔術師の方々と皆一緒に」
役目が無事終わったら、帰りは観光気分で。
そのためには全員無事に、できれば無傷で列車に乗れるのがいい。
その裏の言葉まで伝わったのだろう、リシャールは出会った頃に比べて大分わかりやすくなった笑みを浮かべ、そうだなと頷いた。
「義父上は盛大に機嫌を損ねてしまうだろうが」
「そうですね……お父様が拗ねてしまわれたら、お兄様と二人で宥めないと」
既に、一人で置いて行かれることに不満を隠せないでいるフェルディナンドのことだ、愛娘達が楽しく観光して帰ってきたと話に聞いたらきっと仲間はずれにされたと拗ねかねない。
そんな父の姿を見ることができるのも、無事に役目を果たせた上でのことだ。
(とにかくその魔術師にしかわからないという灰色の何か……それが何なのか、見てみないと)
不安はある。
もし自分達が間に合わず既に多数の死者が出ていたら?
もし自分達も同じ病に倒れてしまったら?
もし光や闇の精霊王の力及ばず、原因となるものを晴らせなかったら?
怖いし、逃げ出してしまいたい気持ちもある。だけど
『生きたい』
そう、5歳の時に彼女は願った。
『幸せになる』
そう、彼女はキールという恩人に誓った。
そのためには、怖がってなどいられない。
これは彼女一人の問題じゃない、ヴィラージュ王国がミーシャ王国に支援を行うと決め、その使者として選ばれたのだから。
ガタン、と馬車が一度揺れて止まる。
心配そうな色を宿したワイン色の双眸を見つめ返し、エリカは「行きましょう」と頷いた。
ふわりと、本来地上を走るはずの列車が宙に浮き上がる。
窓の外で見送ってくれているのは、見送りのためだけに公爵領から同行してくれてきたフェルディナンド、この作戦の主導者である王太子レナートとその妃エルシア、同行する騎士の監督責任者である騎士団長、同じく魔術師長、エリカが所属するヴィラージュ総合学園の学園長、国の存亡がかかった作戦ということで無関係ではない国王と王妃まで顔を揃えている。
実に錚々たる顔ぶれに混じって、レナリアとニコラスの姿もある。
ダニエルがいないのは、体調不良で倒れてしまうのを恐れたためだろう。
本来なら一時の別れを惜しみたいところだが、とにかく一刻を争う事態であるため列車はある程度浮上すると同時に凄まじい勢いで走り出す。
見送ってくれていた人達も、存在感半端ない王城ですらも、あっという間に小さく、見えなくなってしまう。
「そりゃ、銀河鉄道に乗りたいなんて思ってた時期もあったけど…………こんなに速いんじゃ、ロマンもドキドキもないよねー」
「そうですか?俺はこんな貴重な乗り物に乗れただけでワクテカしてますけど」
「男の子と女の子の感性は違うのっ。もっとロマンチックなシチュエーションだったら良かったのになぁ」
「んー、まぁせめて周囲が星空とかだったらロマンの欠片くらいはあったんじゃないですかね?」
同じ【落ち人】だとわかったからか、ユリアとリューの会話は途切れずに続く。
というより、他の乗客の沈黙の重さに堪えきれなくなった二人が、無理してでも空気を凍らせまいと頑張っているようだ。
ユリアはエリカの、リューはカサンドラ女王のそれぞれ側付きとして、主が嫌な気持ちにならないように気遣っているらしい。
「そういえば、今ってどの辺なんだろ?」
「そうですねぇ……風景がビュンビュン飛んでるんではっきりとはわからないですが、多分ウィスタリア国内には入ってるんじゃないですか?」
「ねぇ、ミーシャって海の向こうなんでしょ?どのくらい遠いの?」
「ウィスタリアから普通に船で旅して二日、今回は一番速い船でかっ飛ばして半日……くらいでしょうか。運が良ければ多分、下りる前にちらっと見えるかもですね」
魔導列車で海を超えることは可能だ、とはいえ今回はその灰色の闇とやらが国全体を覆っているらしいことから、ミーシャに直接列車を下ろすのは危険だと判断されたため、ウィスタリアに下りることになった。
そこから半日ちょっと、という時間が思わぬタイムロスにならなければいいのだが、そればかりは例えリューであっても女王であってもわからない。
あの病に倒れた者達が今どうなっているのか、一番知りたいのはこの二人なのだから。
そろそろ着きます、と列車の制御を担当していた魔術師が声をかけてくる。
リューは離れた車両で横になっていた女王に声をかけに行き、ユリアはおとなしく座っていたジェイドやラスティネルと共に、着地の衝撃に備えてしっかりと座り直した。
一瞬ガクンと揺れはしたが、思ったより衝撃が少なかったのはきっと制御を担当してくれた魔術師達が頑張ったからだろう。
「エリカ、大丈夫?ちょっと顔色青いみたいだけど……酔った?」
「ええ、少し。でもリシャール様が安静の魔術をかけてくださったから、少し良いわ」
「そっか、良かった。ここから船旅だから、酔うようならまたお願いするといいよ。というかリシャール様、後であたしにも安静の魔術をお願いします。多分船酔いしちゃうんで」
「わかった」
頷いて、移動しようとした先。
これまでずっと休めていなかったからか、ぐったりとしていたはずの女王カサンドラは、今はしっかり前を見据えて海の向こうに視線を向けていた。




