47.始まりの終わり
エリカは、闇の中にいた。
一面の暗闇……上も、下も、右も、左もわからない、自分がどこにいるのか、自分がここにいるのかさえわからなくなりそうな、暗い闇の中。
不思議と、不安はなかった。怖くもなかった。
彼女の中を占めるのは、まるで母親の体内にいるかのような安心、安堵、安らぎ。
そしてそれは、【彼】に出会った時に感じたものと全く同じ。
「キール……」
『呼んだかい?』
幼い彼女を、守ってくれた人。寄り添ってくれた人。
ずっと、気がつけば側にいて、導いてくれていた人。
黒髪に紫の瞳……顔立ちは整ってはいるがどこにでもいるような、人混みに紛れてしまったら途端にわからなくなりそうな、年齢不詳の青年。
彼はエリカにとってもう一人の父であり、兄でもあり、親友でもある、心の拠り所だった。
例え見た目が全く変わらなくても、例えリシャールの特殊能力で感情の色が見えなくても、例え光の精霊王と長年の付き合いらしき会話を交わしていても。
彼は、エリカにとってとても大切な……家族と同じくらいの位置づけにいる存在だった。
今ならわかる ──── ルクレツィアがどうして彼を『半端者』と呼んだのか。
彼は恐らく、元々は【人】だったのだ。
【人】として在った者が、これまで【人】としてエリカやその家族達の側にいてくれた。
その本質は決して人とは交わらない存在だというのに、その定義すら捻じ曲げて彼は当たり前のようにそこにいてくれた。
だが、それももう終わる。
リシャールが『闇の精霊王』として彼を呼び出した時に、彼女にもそれがわかってしまった。
彼の、【人】としての時間はもう残されていないのだ、と。
「キール、もうお別れなの?」
『……【僕】とは、ね。だけど僕は、リシャール君に加護を与えた。君にとっての精霊姫とはちょっと意味合いが違うけど、それでも彼が君と共にある限り僕も君の側に在る』
「でもそれは、キールじゃないでしょう?」
闇の精霊王は、黒髪に黒の瞳……まさしく闇の化身。
そこに、キール・ヴァイスという名の紫紺の双眸を持つ青年の意識はない。
同じ姿をしていても、同じ声をしていても、もはや彼女にとって彼はキール・ヴァイスではないのだ。
ぽろぽろと溢れる涙を咄嗟に拭おうと伸ばされた手は、しかし彼女をすり抜けてしまう。
もう、本当に時間がない。
そう悟った彼は、寂しげにその紫紺の双眸を細めた。
『でも君は、【僕】を覚えていてくれるだろう?【キール・ヴァイス】という人間が確かにそこにいたんだと、知っていてくれるだろう?』
「そ、んなの、あたり、まえ、っ」
『良かった。……ずるい言い方かもしれないけど、君が、フェルが、ラス君が、リシャール君が覚えていてくれる限り、【僕】がいた事実は消えない。長い間生きてきた僕にとってはほんの一瞬のことだったけど…………君達と過ごせた時間は、楽しかったよ。できれば、忘れたくないくらいに』
「キー、ル、っ」
『……エリカ、僕の愛し子……君が、今度こそ幸せになってくれることが、……僕の、最後の、願い』
『今度こそ』という言葉で、わかってしまった。
彼女がどうして、もう一度【エリカ・ローゼンリヒト】としての生をやり直すことができたのか。
神様の気まぐれだと思っていたそれは、目の前で姿を霞ませている彼の与えてくれたやり直しのチャンスだったことが。
「キール、ありがとう」
大好きよ、と付け加えた言葉に、彼は嬉しそうに笑った。
薄く開けた瞼の隙間から、眩い光が差し込んでくる。
「…………ん、」
霞む視界に映るのは、白を基調としたシンプルなデザインの天井。
かつて何度か世話になったことがあるマティアスの診療所も、もっと素朴な印象ではあったがやはり白を基調とした清潔感ある建物だったことを思い出し、ならばここは療養所か何かなのかと考えてみる。
脳裏に蘇るのは、純白のドレスを血に染めて倒れ伏す瞬間の、憎々しげなフィオーラの顔。
そして、躊躇いもなく義妹を斬り捨てたテオドールの、やけに清々しい笑顔。
そう、最後の瞬間彼は笑っていた。
彼が自決の瞬間考えていたのは、とんでもないことをしてしまったという自戒でも、義妹に対する憎しみでも、自決に対する覚悟でもない…………これまで散々面倒事に巻き込み、最後の最後に大騒動を起こしてしまった厄介な厄災を自らの手で始末した、それをやり遂げた自分への賛辞。
最後まで、彼は自分のことしか考えていなかったのだ。
きっとかつての彼もそうだったのだろう、エリカを欺き、聖女となったフィオーラに聖騎士として愛される、そんな自分に酔っていたのだろう、今ならそれがわかる。
エリカにダンスの誘いをかけたのも、そう。
父を貶め、愛を囁いたのもそう。
己こそが最も賢い、最も美しい、そう信じ切っていたからこそ、エリカが彼を拒絶したことが許せなかった。
だからきっと、わざとフィオーラに操られたのだ。
(哀しい人…………貴方の外見だけを見ずに愛してくれる人がいたら、貴方も変われたかしら?)
かつて、ヒキガエルと呼ばれていた頃の彼女を見て、リシャールがその深い哀しみの色に惹かれたように。
魔性と呼ばれる彼の美貌のみならず、その寂しい心に気づいて寄り添える相手がいてくれたなら。
もしフィオーラがそれをできていたのなら。
(いいえ、やめましょう。虚しいだけだわ)
エリカは、記憶があったからこそ変わろうと思えた。
フィオーラは記憶があったからこそ、また同じように愛されたいと願った。
そこに同情の余地はあっても、共感することはできない。
否、同情することすら、与えられし者の傲慢となってしまう。
こんな結末を望んだわけではなかったけれど、結果的にエリカを散々苦しめてきた過去の遺物達は舞台から下りた。
テオドールにもフィオーラにも、もう怯える必要はない。
心を占めるのは、安堵の気持ちとは程遠い後味の悪さでしかないが。
「…………泣いているのか?」
戸惑ったような、心配を多分に含んだバリトン。
まだダルい首を動かしてそちらを見ると、水差しを手にしたリシャールがちょうど扉を閉めるところだった。
「リ、……」
「無理に喋るな。君は五日も眠っていたんだ」
足早にベッドへと歩み寄り、サイドテーブルに水差しを置くと彼はすぐにその場に跪き、顔を覗き込んでくれる。
至近距離から見下ろすワイン色の双眸には、明らかな疲れが見えた。
(五日も……それじゃその間、この人はずっと?……ええ、そうね。そういう人だもの)
ここは王城内の医局。
使用人や騎士達が通う一般開放された場所とは別に、王族の住まう領域に王族専用の医局があるのだという。そしてここは、その病室のうちのひとつなのだと。
本来王族専用というからには王族しか使用を許可されないのだが、今回は王太子の口利きとリシャール自身が王族の血を引いていたことから、特別に使わせてもらっているらしい。
「良かった、泣いてはいないな。……起きて早々、どんよりとした藍色を纏っていたから心配したが…………彼らのことを?」
「…………」
エリカがこくりと頷くと、彼は腕を伸ばしてその普段以上に痩せ細った体をそっと抱きしめた。
「いつまでも隠しておけるはずもないな…………テオドール・ユークレストはあの場で即死、ユークレスト伯爵家は当主に対し自死の命令が下された。フィオーラ・ユークレストは一命をとりとめたが……両親ともども処刑される。今は、貴族用の牢の中で神を呪う言葉を吐き続けているらしい」
「あぁ、っ……」
エリカは、神に等しい精霊王の慈悲によってやり直しの人生を与えられた。
フィオーラは、こんなはずではなかったと神を……やり直しの機会を与えた者を呪っている。
フィオーラは最後に言っていた、『今度こそ』……と。
それが意味するものは、つまり彼女はかつての生においても幸せを掴めなかったということ。
なんらかの理由によって、テオドールと歩む未来が絶たれてしまったということだ。
(私は、でも、幸せになる。それがキールの願いだから。それが、私の望みだから)
フィオーラを哀れに思う気持ちはある。
今後もしかすると、テオドールやフィオーラを強く想っていた者達に狙われ続けるかもしれない、そんな不安もある、だけど。
だからといって、目の前にある彼を手放すことなど考えられない。
温かく包み込んでくれる腕を、拒絶することなどできるはずもない。
トントン、と軽く腕を叩いて腕を緩めてもらうと、エリカは至近距離からリシャールを見上げた。
(この人が、私の運命。……もしこの人と会えていなかったら……もしあの時、光の精霊王の加護を受けられなかったら)
どんなに足掻いても、重度の魔力飽和は治ることはなく、体もぶくぶくと膨れ上がったまま。
部屋に引きこもることはなくても、まともに学園には通えなかったはずだ。
もしダニエルがつけているという魔術具を手に入れられたとしても、自分に自信が持てない以上は社交界に出たところでまた笑い者にされるだけ。
フィオーラに踏み台にされる未来は回避できても、きっと人並みの幸せなど期待できなかっただろう。
心配症の父や兄、厳しくも優しい姉に面倒をかけながら、いずれまた諦めてしまう未来があったかもしれない。
いくらキールが側にいてくれたとしても、彼に甘えっきりになってしまっていずれ堕落したかもしれない。
「リシャール様」
「なんだ?」
貴方のために、生きていきたい。
そんな重すぎる言葉は胸の内だけに留めておいて、彼女は笑みを浮かべる。
「私と、共に歩んでくださいますか?」
告げてから、しまったこれも重すぎた、と後悔したがもう遅い。
略式ではあるが夫婦の誓いは既に済ませてある、だから『結婚して欲しい』『そばに居て欲しい』というのは今更すぎる。
そう思って考えた言葉だったが、10も年の離れた大人の男性に対してまだ成人していない未成年の少女が問うにはおかしい、不似合いな気がした。
リシャールは案の定呆気にとられたように黙り込み……次いで彼女の意図を察したらしく「今更だな」と苦笑する。
そして、あわあわと慌てる妻の頬に宥めるようなキスを落とした。
「それは、私が問いたい。私は君より10歳も年上で、いずれ君が年頃になる頃にはそれなりの年齢になってしまう。これから君の周囲には魅力的な異性がいくらでも現れるだろう、夜会に出ることになれば誘惑される機会も多いに違いない。……そう思うだけで、君を外に出したくないと醜く嫉妬してしまう私を、君は許してくれるだろうか?大人げないと、軽蔑してしまわないだろうか?」
「まさか。そんなこと、ありえません。私の方こそ、子供すぎて相応しくないのではと心配ですのに」
「そうか。それなら……」
お互い様、ということだ。
至近距離からの満面の微笑みに、エリカの頬が熱を持つ。
恥ずかしすぎて、神経が焼き切れてしまいそうだ。
愛しすぎて、どうにかなってしまいそうだ。
フィオーラも、こんな気持だったのだろうか。テオドールのことだけが愛しすぎて、周囲などどうでもいいほどに求めすぎて、心が焼き切れてしまったのだろうか。
もしかしたら自分も、ああなってしまう可能性があるのだろうか。
(それでも私は、この人が好き)
見上げると、リシャールの目元も少し紅い。
それが嬉しくなってそっと手を伸ばすと、彼の手も彼女の頬に伸びてきた。
ゆっくりと、重なる唇。
「んっ、……ふ、……んぅ、っ」
重なるだけでは飽き足らず、何度もついばんで、甘噛みして、そのたびにもっと深く重ねられてしまったが、それを『やり過ぎ』と咎める者はここにはいない。
結局、中々戻ってこないリシャールに、何かあったのではと心配した医局付きの医師が扉をノックするまで、この甘い触れ合いは続いたのだった。
王太子妃主催のガーデンパーティにおいて、城内での使用が禁じられている高位の魔術を使って場を乱し、あろうことか数人の被害者を出した罪人、フィオーラ・ユークレスト。
彼女は精神に異常をきたしており、数度の尋問においても意味の分からない言葉しか発せず、犯行時も心神喪失状態だったと認められた。
故に王国の法律に則り、公開処刑ではなく非公開に毒を飲ませるという処刑方法が取られ、同時に保護監督責任者として父親のグリューネ侯爵及びその妻にも、共に毒杯を与えて刑に処した。
そのフィオーラと共に数人の騎士や魔術師を斬り捨てたとして罪人となったテオドール・ユークレストは、その場で既に自決しており即死であったと報告があがっている。
その彼の体内からおびただしい量の禁止薬物が発見されたことで、当時は薬物による錯乱状態であったのではと推測できるが、その後正気に戻ったところでフィオーラを手にかけたことは明らかな犯罪行為であったとして、罪人と記されることになった。
その兄であるユークレスト伯爵には、王太子殿下より特別に自死の許可が与えられ、彼は弟の無実を最後まで叫びながらその数日後に自死を遂げたと報告が入っている。
そうして、一連の事件は終幕を迎えた。
夏季休暇後、何事もなかったかのように再開された学園において少々混乱は見られたものの、【魔性】に魅入られた者達はその対象がいなくなったことで徐々にではあるが正気を取り戻しつつある。
「ユリア、ダニエル様からまたお手紙が届いたのですって?」
「あらあら」
「あーもう、なんでこうも筆まめなのよー。返事書いてる時間もないじゃないのー」
「兄上にも困りものだな。嫌なら嫌ではっきり断れ」
「ユリアさんの様子を見る限りじゃ、嫌というより頻度の問題ではないでしょうか」
エリカの側には常にユリアが。
その傍らには美しくも頼もしいレナリア、優しげな笑みを崩さないジェイド、苦虫を噛み潰したようなニコラス。
こうして、彼らにまた日常が戻ってくる。
決して長くは続かない、愛しき日常が。
これにて、ひとまず一幕目は終幕となります。
しばらく充電期間を経た後、二幕目に入る予定にしています。
自己満足甚だしいこのお話をここまでお読み下さり、ありがとうございました。
続きは既に予定されていますので、完結にはしないでおきます。




