42.かくも穏やかなる日常
今回は嵐の前の静けさ。
いちゃいちゃ未満ですが、今はこれが精一杯。
アマティ侯爵家に滞在して3日目。
翌々日に件のガーデンパーティを控えたこの日、不意にニコラスが街を案内したいと言い出した。
「ここへ来て、まだ満足に領地を回れていないだろう?この近くの繁華街だけになるが、興味があるようなら連れて行ってやる」
「ニコル兄様にしては気の利いた提案ですわ。わたくしは残念ながらご一緒できませんけれど……宜しかったら行っていらして。今の時期でしたら、ジェラートが特に人気ですわ」
「ジェラート!いいね!」
「お好きでしたら是非。兄様、わたくしお勧めのお店をサリナに伝えておきますから、必ずお立ち寄りになってくださいましね」
必ず、のところにアクセントを置いてニコリと微笑むと、レナリアはいつも護衛につけているサリナという名の女性騎士にメモを渡し、任せましたわと護衛を一任した。
今回出かけるのはニコラスとユリア、そしてエリカの三人。
それに荷物持ち兼護衛として男性騎士が一人、後は距離を置いて周囲を警戒するための警護要員が合計五人。
普段彼らが街歩きをする時はこれほどの物々しくはないのだが、いずれも高位貴族の子息令嬢が揃ってお出かけとあってはやはり警備の数も増やさなければならない。それに、ここへ来るまでにエリカ達が乗った馬車が狙われたばかりとあっては、警戒レベルが上がるのも仕方ないだろう。
「あの、ところでダニエル様、は?誘わなくていいの?」
ユリアが珍しく歯切れ悪くそう言うと、途端にニコラスはわかりやすく顔をしかめた。
「なんだ、俺の案内では不服か?」
「え、いやそうじゃなくて!その、あんまり外を歩かないみたいなことを言ってたし、気分転換にどうかなって思っただけで」
「……兄上とリシャール様なら、連日のようにパーティの打ち合わせでお忙しい。それに、ただでさえ今日の日差しは強いからな、いくらお前が隣りにいたところで兄上の負担にならないとは言えないだろう」
「あー、うん。日差しかぁ…………あ、エリカは平気?前に倒れたことあったよね?」
食い下がるニコラスと、引き気味のユリア、という滅多に見られない光景を他人事のように眺めていたエリカは、不意に話を振られてどうかしら?と首を傾げた。
確かに以前……これはエリカにとってもリシャールにとっても思い出したくないことだが、スタインウェイ侯爵家の庭で日射病になり倒れてしまったことがある。
だがそれはまだ今より小さい子供の頃の話、今はそれなりに体力もつけられたとは思っているのだが、それでも確かに真夏の暑い日に外に出たことがないため、倒れないという保証はできない。
(でもきっと、私が行かないと言ったらユリアも行かないわね)
何故だか妙に押せ押せで誘ってくるニコラスに、しかしユリアはあまり乗り気ではない。
ここでもしエリカが行けないと言ってしまったら、彼女もきっと「エリカが行かないんじゃあたしが行く意味ないし」と平気で断りを入れるだろう。
むしろそうして欲しいという空気がユリアから感じられるので、エリカとしてはどうしたものか迷ってしまう。
エリカが困ったようにレナリアに視線を向けると、彼女もちょうどエリカを見ていたようでどこか苦笑しているような視線とぶつかった。
「そうですわね……でしたらエリカ様、まずはリシャール様に伺ってみるのはいかがかしら?リシャール様がいいと仰るのなら、問題ございませんでしょう?」
「待て、レナリア。どうしてわざわざリシャール様の承諾が」
「あらあらお兄様、お忘れですの?まだ非公式にではありますが、お二人はご夫婦ですのよ?旦那様でもない男性と一緒に外出するなど、当の旦那様の許可がなければ不貞と取られてもおかしくありませんのよ」
ぐ、とニコラスが言葉に詰まったところを見ると、彼も妹の言う意味がわかったのだろう。
社交が完璧にできているように見えて実は社交嫌いであるレナリアに代わって、その実アマティ侯爵家の社交担当はこのニコラスである。
兄は病弱、妹は社交嫌い、それならと彼は仕方なく跡継ぎとなることを了承した年からずっと、両親に連れられて社交界へと足を運んでいる。
それ故、既婚者を誘うマナーに関してはしっかりと叩き込まれていた、のだが……エリカが既婚者だという事実を全く意識していなかったらしい。
レナリアの助け舟に、エリカも安堵したように微笑む。
「ニコラス様、ユリアも、ここで少しお待ちになっていて。リシャール様に伺ってきますわ」
エントランスに二人をおいて、エリカは足早に廊下を引き返す。
リシャールの部屋はエリカの隣だ、場所はわかる。
今朝の食事の時に顔は合わせたが、昨夜もダニエルと夜遅くまで議論していたらしく、珍しく顔に疲れが出ていた。
それからまた部屋にこもってしまったので、正直彼女としては出かけるよりも側にいたいというのが本音である。
コンコン、と扉をノックしてみるが返事はない。
「リシャール様、いらっしゃいますか?」
呼びかけながらもう一度ノックをするが、やはり応答がない。
『時折、集中しすぎて周囲の物音が聞こえなくなる時がある。だから私の返事がなくとも、用があれば部屋に入ってもらって構わない』
以前、何度呼びかけても応答がないことを心配したエリカに、彼は苦笑しつつそう話してくれたことがある。
今も何かを考え込むあまり何も聞こえなくなってしまっているのかもしれない、それならそっと部屋を覗いて様子を伺ってから声をかけるかどうか決めよう、と彼女はできるだけ静かに扉を開いた。
「失礼します」
小さく声をかけてみるが、応じる声は聞こえない。
邪魔をしないようにそっと中を覗き込み、戸口から見える範囲に姿が見えないことを確認してから、中へ入る。
「リシャール様?」
綺麗に整えられたベッドの上には当然いない。
窓際に置かれたライティングデスクの前にも、いない。
あれ、とエリカが首を傾げたその時、小さく衣擦れの音が聞こえた。
音の発生源はソファーセット……そちらへぐるりと回り込んでみると、三人がけのソファーからハニーブロンドがはみ出しているのが見えた。
「リ、…………」
もしや具合でも、と慌てて側にしゃがみこんでみるが、瞼を閉じたその顔はとても穏やかで、半開きの口元から規則的な寝息が聞こえる。
(あぁ……眠っておられるのね。びっくりした……)
ニコラスも言っていたが、このアマティ侯爵家に滞在するようになってからずっと、ダニエルとリシャールは時間があれば何かしら議論をし合っている。
病持ちのダニエルはもとより、リシャールといえどこうも連日連夜の議論を繰り返していては寝不足にもなるだろう。
普段見ることのないその穏やかな寝顔にしばし見惚れてから、エリカはそういえばとユリア達を待たせていたことを思い出し、部屋の入口まで戻ると近くにいた使用人を手招きした。
「エントランスで待ってくれている二人に、言伝をお願いしたいの。旦那様がお疲れのようだから、外出はやめて付き添います。できたら旦那様と二人分のお土産をお願いします、と」
「かしこまりました。……こちらには何かご用意するものはございますか?」
「そうね……それじゃ、口当たりの良い紅茶を二人分お願いできるかしら」
かしこまりました、ともう一度礼をとって踵を返した優秀な使用人に後は任せ、エリカは再び静かに部屋に入った。
(ああ言っておけば、ユリアはお土産を買いに行ってくれるはず。ニコラス様の顔を潰すこともないでしょう)
エリカが一緒に行かないことに対して散々渋るだろうが、それでも『お土産をお願い』と伝言されれば、それを目的にして出かけて行くだろう。
ついでに、『疲れた旦那様に付き添う』と言っておけば、ニコラスが気を回してすぐに戻らないように時間を稼いでくれるに違いない。
(どうしてニコラス様がああも執拗に誘いたがっておられたのか、それはよくわからないけれど……)
レナリアは何かに気づいたようだったが、当人であるユリアもきっとその理由はわかっていないはずだ。
だがホストである侯爵令息に誘われた以上、誰も行かないというのは流石に失礼にあたる。
本当なら誘われた場にいたエリカも行くべきだろうが……そこはレナリアがわざわざ助け舟を出してくれたのだから、ユリアに行ってもらうのがきっと正解なのだろう。
使用人が運んできてくれた紅茶を、まずは自分の分だけ淹れてテーブルに置く。
座るのは、リシャールの顔がよく見える一人がけの椅子。
珍しくぐっすり眠っているらしい旦那様の顔をまじまじと眺めながら、そういえばこんなにじっくりと顔を見たことがなかったと改めて気づいた。
いかにも王子様といった華やかな顔立ちの王太子と比べて、リシャールは無表情だとあまりに怜悧すぎて本当の人形なのではないかと思わせるほどだ。
王城にいた頃は『マリオネッタ』という異名までつけられていた彼は、しかし実はとても情が深い。
己の懐に入れた者にはとことん情を注ぎ、耳を傾け、目をかけ、出来得る限りの最大限を惜しみなく与えてくれる。
エリカに対しても、最初から彼は優しかった。
たしかに見た目は冷たいし表情もそれほど豊かとは言えない、しかしそれを補って余りあるほど彼はエリカを気にかけてくれた。
10も年が離れたまだ幼子と言っていい年齢の彼女相手に、同等の相手であるかのような態度を取ってくれた。
常に彼女の思いを尊重し、父や兄といった彼女を溺愛する家族のことも考え、決して自分の思いを押し付けることなく接してくれる。それは、今も変わらない。
『まさかお前がこんなに早く結婚するなんて思ってもいなかったが……それでも、相手が彼で良かったと思うよ。その、例のナントカと言う最低男が相手だったら、きっと刺し違えても止めただろうけど』
寂しそうに、だがどこか嬉しそうに、婚姻宣誓書の見届人欄に署名しながら父はそう話してくれた。
かつての生でもすれ違うことくらいはあったかもしれないが、それでも知り合うまでは至らなかった。
どこかの夜会で会ったかもしれないし、今世でそうだったようにまだ病が進行中の頃の自分を彼が垣間見たことくらいはあったかもしれない。
だけど、それだけだ。
彼女はテオドールに運命を感じていたし、彼以外は見えないように……盲目的に彼を信じるように、いつでもそう誘導され続けてきた。
だからもし、あの時リシャールに何か声をかけられていたとしても、王族と話すなど恐れ多いと縮こまって現実逃避し続けていただろう。
(そう考えると、今こうしていられるのは奇跡のようなものね)
先程から風に揺れるハニーブロンドに、指先で軽く触れる。
それでも起きないのがわかると、今度は髪全体を梳くように。
リシャールはよくエリカの頭を撫でるが、そういえば彼の頭を撫でるのは初めてだ。
サラサラと指通りのいい髪は、触ってみると意外と硬くてしっかりしている。
「……ん、……」
「リシャール様?」
「エ、リカ……」
「はい」
「………………」
起きたかな、と手を止めて返事をしてみるが、瞼も閉じられたままで規則正しい寝息もそのまま。
どうやら寝言らしい、と気づいたところで彼女は頬を朱に染めた。
彼は、寝言で彼女の名前を呼んだのだ。一体どんな夢を見ているのかわからないが、少なくとも彼女が登場していることはほぼ間違いない。
「エリカ……たし、の……めい、……」
『エリカ、私の運命』
これは、最近になって彼が言うようになった言葉。
『好き』でも『愛してる』でもない、だがこれほどに重い言葉もないだろう。
「私の…………運命」
リシャール様、と至近距離から囁きかけると、返事をするように薄っすらと瞼が開いた。そして。
「ん、…………おいで」
伸ばされた腕に上半身を抱き込まれ、横たわっている彼の上へ。
どうしようかと戸惑っているうちに、それで安堵したのかまた規則正しい寝息が聞こえてきた。
普段これほど密着することもないため、驚くやら恥ずかしいやら体重をかけるのが申し訳ないやら。
だがそうこうしているうちに、彼女も心地よい眠気に誘われ始めて静かに瞼を落とした。
魔術具によって常に適温に保たれた客間の一室。
静かだからと様子を見にきた使用人は、ソファーで寄り添って眠る夫婦二人のまるで絵画のような麗しさに、あれは眼福だった、至福だった、出来ることなら映像として記録したかった、と同僚たちに自慢したらしい……というのは、また別の話。




