22.貴方のいない世界
そうして月日は過ぎ、エリカは9歳になった。
誕生日祝いは例年通り身内だけで行われ、ただ嫁に出た姉アリステアとその夫であるディバイン侯爵だけが外部からの招待客としてその場にいたが、昨年春から学園に通い始めた兄ラスティネルの姿はなかった。
代わりに兄からは長々と綴られた手紙と、守護の術をかけた特別製のリボンが贈り物として届けられ、早速祝いの席にそれをつけて現れたエリカは文句なしに綺麗だった、とユリアは後日ラスティネルに送った手紙でそう主張している。
しかしそこに、リシャールの姿はない。
本来、形だけであっても婚約者という間柄であれば祝いに駆けつけるのだろうが、彼の場合2年前の夏に起こった事件の所為で一時的にローゼンリヒト公爵家への出入りが禁じられている状態だ。
あの時、処罰を願った公爵夫人ミレーヌに対してエリカが告げたのは、少し距離を置きたいというただそれだけだった。
リシャールの婚約者となってある程度経過しているが、スタインウェイ公爵家との付き合いはまだ始まったばかりだ。
ようやく身辺が落ち着いたとはいえ、気持ち的にはまだ追いついていない部分は多いだろうし、そんな中で後継であるリシャールの婚約者とも交流を、しかもその婚約者はまだ7歳の子供とあっては、精神的な負担が大きいに違いない。
それなら挨拶は済ませたのだから、後は少し距離を置いて心を落ち着けながらまずは手紙のやり取りでも致しませんか、と。
「その代わり、公爵様やリシャール様、それに父からのお説教は受けていただくことになりますが。……わたくしも家に戻れば恐らく側付きや兄からのお説教があるでしょうし……これで両成敗とはいきませんか?」
「……娘の意見に異論はないが……加えて、ひとつだけ。リシャール様が学園を卒業するまで、我が家への出入りを一時的に禁じさせていただきたい」
これにはエリカも、そして謝罪の姿勢のままだったミレーヌもハッと顔を上げたが、フェルディナンドの表情は穏やかなものだった。
「エリカもそうですが、彼もまたひどく生真面目な性格だとお見受けします。そんな彼のことだ、申し訳なかったとこの子の顔を見るたびに気に病まれてしまうでしょう。そしてこの子も、同じように気に病んでしまう。ですから、互いに冷却期間を置きたいのですよ。文通までは咎めはしませんが……このままでは、お互いに想いの通わないままの、義務的な婚約関係になってしまいかねないですから」
そういうわけで、学園を卒業するまでリシャールはエリカとは会わない、その後のことについては当人同士の想いを尊重して決める、ということになった。
これはきっと、フェルディナンドの意趣返しだろうなとエリカはそう思う。
息子を大事に思うあまりミレーヌがエリカを試したように、末娘を溺愛するフェルディナンドが今度はリシャールを試している、ということなのだろう。
離れている間に彼の想いが義務的なものになってしまっているか、もしくは離れてしまったならそれまで。
そうならずにエリカを想っていてくれていれば、その時は正式な婚約を。
そのくらいはせずにいられない、という本音の現れなのだろう。きっと。
だからエリカも、時期を待つことにした。
スタインウェイ公爵家から届く手紙は時に公爵夫人、時に公爵本人が主にリシャールの様子について知らせてくれるものが殆どで、それ以外だと「公爵家の中庭にあるベンチに日除けを取り付けた」だの「邸の客間に冷却・保温の魔術を組み込んだ魔術具を置いた」だの、せっせと環境を整えているからいつでも来てほしい、という遠回しなアピールが混ざっていたりする。
あまりに申し訳なさすぎて、エリカも返事をする際に「体力づくりのためダンスのレッスン時間を増やしました」とか「今日の散歩は郊外の丘まで行きました」とか頑張ってますアピールをするのだが、そのたびに「無理をしないで」と過度に心配されてしまうため、面映いやら申し訳ないやらだ。
リシャールからも、頻度は少ないがたまに手紙が届く。
彼は今卒業に向けての研究に励んでいるらしく、それを論文にして提出すれば後は卒業式を待つばかりとなるとあって、研究室に泊まり込むことすらあるようだ。
『そうやって頑張れるのは、貴方からもらったお守りのお陰だ』
お体に気をつけてと手紙に書いたその返事が、これだ。
お守りというのは、リシャールの誕生日にエリカが贈った一対のピアスのことで、彼女は彼がそうしてくれたように無色の魔石を手に入れてきてもらい、それに自分の魔力をこめた後にピアスとして加工してもらった。
失敗できないため魔術研究員の指導の元、安らぎと癒やしをもたらす水の魔力を込めてみたのだが、彼がそれをお守りだと言ってくれることが何より嬉しい。
8歳の誕生日にも、9歳の誕生日にも、彼からの贈り物はなかった。
ただ届いた手紙では「おめでとう」と祝ってくれていたし、エリカにはそれで充分だった。
『贈り物はまた後日、改めて。直接渡したい』
贈り物などいらない、ただ『直接』という言葉だけが何より嬉しい。
エリカの誕生日は年が明けてすぐ、10歳違いの彼が学園を卒業するのが春……もう少し待てば、父からのお許しが出る。
その後どういう結論を出すのだとしても、やはり直接会って話せるということがエリカの心を浮き立たせていた。
「さて復習になりますが、魔術というのは体内に流れる魔力を構築し直して放出する、簡単に言えばそういう術のことです。物語などでよくある方陣などを書く必要はありませんが、どの属性でどのような威力のどんな力を行使したいのか、はっきりと想像し同時に創造することが大切です。お二人は、ご自分の属性をご存知ですか?」
9歳の誕生日が過ぎ、そこから春までただ待つばかり……というわけでは勿論ない。
そろそろいいだろうと父の許可が出たことで、魔術の訓練は座学だけでなく実践も組み込まれることになった。
というのも、あと4年で学園へ入学しなければならず、その前に基本的な術くらいは使いこなせることが常識であるからだ。
勿論学園では平民出身者のために一から教えてくれるのだが、幼少期は個別に教師をつける貴族の子息令嬢の間では、基本的なことはできて当然という風潮があるらしい。
そんなわけで、さすがに実践となると使用人から選抜というわけにもいかず、フェルディナンドの部下から魔術に長けた元騎士を派遣してもらうことになった。
やってきたのは見た目30歳そこそこといった感じでがっちりとした体格の男。
ナムルというその男の名を最初に聞いたユリアは速攻「韓国か」と小声でツッコミを入れたが、誰もその意味がわからないため聞き流されてしまった。
しかも、魔術の効かないユリアだけは座学を続けるため、この場にはいない。
属性を、と問われたエリカは隠さずに『光』『水』『火』の三属性で、光の精霊の加護持ちだと答えた。
ナムルも事前にそれを知っていたのか、「はい、では次にジェイド様」と軽く流してくれる。
「えぇと、得意属性は『水』です」
と彼が答えると、ナムルはひとつ頷いて「それだけですか?」と探るような視線を向ける。
「魔術の授業、しかも実践となるとまだ幼いあなた方に負担を強いてしまう可能性があります。そうなれば暴走を起こしてしまったり、傷を負ってしまうこともあるかもしれません。そうならないためにも、ここでだけは正しい情報を把握しておかないとならないのです。……もう一度お聞きします。ジェイド様、それだけですか?」
「え、えと、その、音が…………遠くの音や話し声が、聞こえ、ます。だから、水の流れる音とか、強さだったりとか、身構える音だったりとかに、敏感、で」
「なるほど。わかりました、言いにくいことを言わせてしましましたね。ありがとうございます」
ジェイドは『水』を操る。
と同時に、なんでも聞こえてしまうその能力によって、己の使う水の音だったり対戦相手のたてる些細な音、息遣いなどを聞き取って次の動きに移ることができる。
戦闘向きと言えばそうなのだろうし、諜報向きと言われれば確かにそうだ。
しかし、なんでもかんでも聞こえてしまうことによって、彼の心は深く傷つけられた。
もしこの力が他者に悪用されてしまったら、今度こそ彼は精神を崩壊させてしまいかねない。
おどおどと落ち着きのないジェイドを見下ろし、ナムルはふと視線を緩めた。
「そうですね……では本筋から外れますが、少々座学を。精霊からの贈り物、そう呼ばれる能力があることをエリカお嬢様はご存知ですか?」
「それはもしかして、お兄様の……『精霊視』のことかしら?」
「はい。ラスティネル様の治癒属性を例に挙げますと、体の中を流れる魔力に直接治癒の能力が宿っているため、精霊の力を必要とはしません。ただ、その場合少なからず精霊からの贈り物と呼ばれる特殊能力を得ている者がいるのです」
「それが、お兄様の場合『精霊視』だということ?」
「そうですね、恐らくは。そして、確証はありませんがジェイド様のその『聞こえる』能力もまた、精霊からの贈り物だと思われます。ラスティネル様の場合、目を使って『視て』はいますが視力に影響されることはないそうで、意識的に視ないようにすることも可能だと仰っていました。ですから、ジェイド様も意識的に聴かないように訓練すれば、なんでも聞こえて困るという被害には合わないのではないでしょうか」
精霊からの贈り物は、ラスティネルのような特殊な属性を持つ者に多く見られるという。
だがそれだけではなく、例えば多く魔力を持っているのに扱える属性が極端に少ないといったジェイドのような例であっても、そのかわりにと特殊な能力が目覚める場合もあるそうだ。
そしてそれは、『能力』である以上制御も勿論可能になる、ということ。
「そ、それじゃ僕は……僕は、」
「能力制御に関しては残念ながら私は門外漢なので、専門の方を探してみましょう。大丈夫、いざとなればラスティネル様もいらっしゃいますから」
「あ、ありがとうございます!頑張ります!」
これまでずっと、聞きたくもない『雑音』に苦しめられてきた。
知りたくもない大人の事情を耳にしてしまったり、使用人達の陰口を聞いてしまったり。
どれだけ人を避けても、どれだけ防音設備を整えても、声は止まない。
そうして苦しんできた彼が、ようやくその力を制御できるようになる……それはまさに、闇の中の一筋の光明であるのだろう。
(リシャール様は……どうなのかしら)
彼もまた、感情が色となって見えてしまうという特殊な能力を持っている。
ジェイドと同様、彼もその能力があった所為でドロドロとしたものを見せつけられ、辛い目にあったのだと聞いた。
しかし彼の場合、それを逆手にとってあの欲望渦巻く王城内で上手く立ち回ってきたというのだから、能力制御は望まないかもしれない。
例えそうだとしても……そう思えるようになるまでにはやはり、散々苦しんできたのだろうが。
(私はあの方が好き、だけど…………私は、お役に立てるの?支えに、なれる?)
好き、という気持ちだけで全てがうまくいくのなら、かつての生であれだけ辛い思いをすることもなかった。
テオドールとフィオーラは互いに想い合っていた、それならエリカを傷つけずに一緒になる方法だってあったはずなのだ。本当に、好きという気持ちでなんでも解決できるというのなら。
だけど、そうはならなかった。
彼らは己のためだけにエリカを利用し、そしてそれを踏み台にして幸せを手に入れた。
今、エリカが抱いている『好き』は、あの頃テオドールに対して持っていた『好き』とは違う。
甘えて、頼って、依存して、盲目になって、溺れた。そんな『好き』とは明らかに違う。
子供扱いされたくない、頼り切りになりたくない、支えたい、役に立ちたい、癒やしたい。
我儘だと言われても、無理だと言われても、彼の隣に立っていられたら、それで。
(リシャール様に、会いたい……)
エリカには決して見ることはできないけれど。
それでも今、無性に彼の纏う色が見たくなった。
恋愛らしくなってきたでしょうか?




