21.試される想い
今回ちょっと話が重い、かな?
スタインウェイ公爵家の中庭は、それはそれは美しかった。
隅々まで手入れされた庭木、その庭木同士を組み合わせて作られた小型のドーム、色とりどりに咲き誇る花々に囲まれた東屋と、ところどころに配置されたベンチ。
気品から言えばローゼンリヒト公爵家の庭も負けてはいないが、豪華さで言えば断然こちらだ。
そんな庭を、慣れたようにすいすいと歩いていく元側妃、現公爵夫人。
いつものことなのか、側付きのメイドも護衛も慌てず騒がず、やっとの思いで後を追う小さな客人達が歩きやすいようにと、「お気をつけて」「こちらですわ」と時折誘導してくれている。
そうして、東屋についた公爵夫人ミレーヌはようやく足を止め、「こちらへ。お嬢様方」とニコリと微笑んだ。
お茶を、と当たり前のようにメイドに指示を出したミレーヌにも驚いたが、何食わぬ顔でどこに持っていたのかティーセットを並べ始めたメイドにも驚かされる。
そして準備が整うと、さっさと手を振って側付き達を遠ざけてしまったミレーヌに、エリカもユリアも唖然としてしまった。
「…………わたくしのこと、我儘で意地の悪い女だとお思いになる?」
「い、いえ。そのような」
「はい。なんだか物語の悪役令嬢のようで」
「ユリア!」
エリカのためにと嫌いなマナー講義も進んで受け、あの厳しい姉アリステアとも意気投合して見せたユリアが、今は敵意を隠そうともせずミレーヌを睨みつけている。
まるで全身で、この女は敵だと警戒しているようだ。
「申し訳ありません、わたくしの側付きが失礼を致しました」
「あら、構いませんわ。むしろそちらのお嬢さん……ユリアさんの方が好ましく感じますもの。ねぇエリカ様、あの子の婚約者をユリアさんと替わっていただけません?」
まるで、ちょっとそこのドレスをこちらのものと交換してくださらない?と言うような気安さで、彼女は息子の婚約者を取り替えようと言い出した。
人の感情を色で見られるリシャールが慕う母のことだ、きっとこの態度にも何か裏があるはずだと必死に考えを巡らせていたエリカも、さすがにこの言葉には我慢ならなかった。
「……お言葉ですが。これはローゼンリヒト家当主である父とリシャール様との間に結ばれた契約だということはご存知のはず。ですからわたくし達の一存で動かせるお話ではありませんわ」
「まぁ、勿論知っておりましてよ。ですが、契約にはこういった一文があったはずでしょう?【互いに、互い以外の想う相手ができた場合、そうでなくとも契約続行に支障が生じる場合は、穏便にこの関係を解消するものとする】と」
ですから、とミレーヌは顔を輝かせてパンと手を合わせた。
「わたくしが、エリカ様では嫌だと猛反対すれば【契約続行に支障が生じる】のではないかしら?」
グラリ、と目眩が襲ってくる。
幼いころは頻繁にやってきたその目眩は、膨大な魔力の制御ができずにやむなく自分自身を強制的に休息状態に陥らせる、その前兆だ。
「エリカ、しっかりしてエリカッ!!」
泣きそうな顔で名を呼ぶ親友、そしてテーブル越しにこちらを見つめるミレーヌの驚いたような眼差し。
……そうして彼女は、意識を失った。
『我が婚約者殿』
いつも彼は、彼女をそう呼ぶ。
最初は違和感のあったそれも、今は馴染んで久しい。
『これは契約だ。気に病む必要はない』
10歳も歳の離れた子供相手に、しかし彼は誠実であろうとしてくれた。
会えない時は手紙を、誕生日には贈り物を。
話せないことは話せないと線を引きながら、話せる範囲は噛み砕いて話してくれる。
必要以上に子供扱いしない、優しい婚約者。
最初は、とても不思議な人だと思った。
言わないことも察してくれる、王子だというのに決して偉ぶらない、だからといって卑屈にもならない、真っ直ぐで芯の通った人だと。
公爵家に生まれたのだから、いずれは婚約……そして結婚しなければならないし、有力貴族との政略もあるのだろうとは思っていた。
だから、いい人と婚約できて良かったと思った。
決して表情豊かではないし、感情の揺れも少ないけれど、極度の人見知りである自分にはむしろ居心地がいいもので。
だから、解消するなんて日が来なければいい、なんて…………彼の家族になれるかもしれないなんて、そんな驕ったことを考えてしまっていた。
(私はまだ、子供なのに。成人したあの方には、ふさわしくないのに)
彼も成人して2年、普通の貴族であれば既に婚約者と結婚していてもおかしくはないし、そうでなくても恋人くらいはいる年齢だ。
想う人がいてもおかしくはない。
なのにこんな子供の相手を嫌がりもせずしてくれて、常に気遣ってくれて。
『わたくしが、エリカ様では嫌だと猛反対すれば【契約続行に支障が生じる】のではないかしら?』
もう手を放すべきだと、言われた気がした。
彼の優しさに甘えては駄目だと、諭された気がした。
だけど。
でも。
それを嫌だと思う、我儘な自分。
放したくない、側にいたい、どうして駄目なの、どうして無理なの、どうして、どうして、どうして、どうして。
そして、気づいた。
(私…………あの方のことが、好きなんだわ)
かつて、上辺だけの優しさをくれたテオドールに騙され、恋を捧げた愚かな自分。
そして今、精一杯の真心を向けてくれるリシャールに、エリカは恋をした。
「わ、たし…………?」
「エリカッ、気がついた!?」
「ユ、リア?ここ、は……」
「良かった、良かったよぉ、エリカ!!」
ぎゅっと力いっぱい抱きつかれ、柔らかな布団に逆戻りしながらも、そういえば前にもこんなことがあったわね、などと現実逃避してしまう。
周囲を見渡せば、明らかに自宅のものとは違う色合いの壁に、ふわりと香るのは恐らく薔薇だろうか。
家具も真新しいし、掛けられた絵にも見覚えはない。
見える範囲だけでも必要最低限のものしか置かれていないことを考えると、恐らく客間、そして未だスタインウェイ公爵家であることが予想できる。
泣きじゃくるユリアの背をとんとんと叩いてあやしていると、カツリと靴音がして奥からフェルディナンドが顔を出した。
「おとう、さま」
「エリカ、気分はどうだい?」
「ええ、今はもう平気です。ご心配を、おかけしてしまって」
「いや。私の方こそ、夫人の行動に配慮するのを忘れていた。まさかこんな暑い日にお前を外に連れ出し、倒れさせてしまうとは」
「…………え?」
端的に言えば、エリカが倒れた原因は日射病 ──── つまりは暑さと日差しに体力をごっそり奪われた故だった。
普段邸にいる時は必ず日傘をさしているし、基本的に過ごしやすい日しか外に出かけないため、まさかこんなにすぐ限界がきてしまうとは、当人であるエリカでさえわかっていなかったのだ。
そこへ来て、あの「婚約者を取り替えましょう」発言で、精神的にも耐えられなくなって気絶……危うく魔力暴走を起こすところを、魔術が通じないユリアとリシャールからもらったネックレスがそれを抑えてくれた、ということらしい。
「そうだったの。ありがとう、ユリア」
「あたしは何もっ!何も、できなかった!エリカを守るだなんて、偉そうなこと言って、何も!」
「いいえ。側にいてくれて心強かったわ。私も、自分がどんなに弱いかなんて忘れていたの。まさかこの程度の日差しで倒れてしまうなんて。…………婚約者、失格ね」
失望させてしまっただろうか、あの優しい人を。
そう思うと、涙がぽろりと頬に零れ落ちてしまう。
黙ってそれを見ていたフェルディナンドは、不意に立ち上がって窓際へと移動した。
開け放たれた窓から見えるのは、日当たりの良い中庭。
カーテン越しにそちらを睨みつけるようにしてしばし…………彼は愛しい娘に視線を戻し、「そういえば」と今思い出したかのように言葉を紡いだ。
「公爵夫人から、直接謝罪したいと申し出があったのだが。どうする?」
父の言う「どうする?」とは、「エリカが嫌なら謝罪を断ってこのまま帰ってしまおう」という意味だ。
公爵夫人からの謝罪とは恐らく内々のもの、それを断るということは即ち家同士の問題に発展させるということ。
思いつくのは賠償責任、慰謝料、そして ──── 婚約解消。
父も決して大事にはしたくないだろう、しかし愛娘を危険に晒したという意味では相当に怒っている。
「何を言われたのか、ユリアから大筋は聞いている。だから、受けるかどうかはお前が決めていい」
「受けます」
「エリカ、そんなにあっさり……」
「…………わかった。だが私も立ち会う。いいね?」
「……はい」
静かに頷いたエリカの髪を一度だけ撫で、フェルディナンドはことさらゆっくりと扉に向かっていった。
扉の向こうで待機していたメイドに「公爵夫人を」と告げると、どこか慌てたような足音が遠ざかっていく。
そして。
遠慮がちに入ってきたその人は、今にも倒れそうなほど青ざめていた。
それでも彼女は、深々と謝罪の礼をとる。
「この度は誠に申し訳ございませんでした、エリカ様。お体が弱いことは聞いておりましたのに、わたくしは自分のことばかりで……加えてあのようなことを申し上げて、お心に傷を作ってしまったのではと悔やんでも悔やみきれません」
その姿は、先程奔放に振る舞っていた無邪気な女性とは全く逆の、むしろ今の方があのリシャールの母だとすぐにわかるほど、誠実で生真面目な人柄に思えた。
見上げれば、フェルディナンドは何も言わずに視線をそらしてくれている。
今のところはまだエリカの好きにさせてくれる、ということだろう。
「顔を、お上げください。夫人」
「いいえ、なりません。わたくしの身勝手で未来あるご令嬢の心を傷つけてしまったのですもの、直接謝罪の機会をいただけたこと、それだけでも感謝してし足りません。ですからどうか、このままわたくしの話をお聞きください」
「ですが…………いえ、わかりました。では、お話しいただけますか?」
正直、頭を下げられたままでは居心地が悪いというのが本音だが、視線を上げた先でフェルディナンドが『いけないよ』と言うように緩く首を振っていたのを見て、仕方なくそのまま話をしてもらうことになった。
「皆様は、わたくしの息子……リシャールがかつて『不遇のマリオネッタ』と呼ばれていたことはご存知でしょうか?」
不運にも王のお手つきとなり、不運にも男子を産んでしまったため側妃とされたミレーヌ。
その子、リシャールは国王によく似た外見を持ち、5歳の魔力検査でも三属性持ちという結果を出したにも関わらず、側妃の子供というだけで常に貶められ続けてきた。
賢い彼はすぐに己の身の律し方に気づいたのだろう、高い能力のことは秘し、凡庸であれと己に課し始めた。……だが、ミレーヌだけはそんな息子を見ていられなかった。
高い能力があるのだから、それを活かせる職につかせたい。
せっかく誰より賢いのだから、公の場に出ることを認められずとも顔つなぎをさせてやりたい。
「わたくしの、我儘なのです。せめて息子だけは、と。……あの子はそれを望んでなどいなかったのに、実家のツテを頼って高位貴族や名のある商人と交流させたり、陛下に頼んでできるだけ夜会などに出られる機会を増やしたり。あの子にも思うところはあったでしょうが、わたくしを不憫に思うからか黙って従っていてくれました」
そうして呼ばれ始めたのが『不遇の人形王子』
どこまでも報われない身分でありながら、しかし名誉と権力を欲する側妃に操られるがままに動く人形…………それが、彼ら親子に対する大多数の貴族達の評価だった。
「わたくしのためにといらぬ不評まで被って、わたくしのために王太子殿下と取引までして、そうして『契約』まで持ちかけてまだ幼いご令嬢の婚約者に収まった。ですからせめて、婚姻はあの子の望むままに……幸せになってもらいたいと、ただそれだけだったのです。言い訳になりますが、決してエリカ様を害そうとしたわけでも、気に入らなかったわけでもないのです」
むしろ、婚約を決めた後のリシャールは酷く楽しげで、まだ幼い婚約者がいかに賢いか、得難い存在であるかを笑みを交えて話すほどだったため、彼女は心から安堵したのだという。
ただ、婚約者は未だ幼い……政略で縛り付けてしまうのはあまりに哀れで、だがもしできるならばリシャールと想い合ってもらいたいと、そう願ってしまった。
だから、試すようなことを言ってしまった。
あまりにエリカが聞き分けの良い、高位貴族のご令嬢という顔をしていたから。
「何よりもあの子の幸せをと願ったはずのわたくしが、あの子の選んだ婚約者にひどい仕打ちをしてしまった……全てはわたくしの浅慮が招いたこと、いかなる処断をもお受けする覚悟はできております」




