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2.きんぱつこわい

 


 体が痛い、纏わりつく泥が気持ち悪い、悔しい、悔しい、悔しい、情けない。


(どうして!?どうして私がこんな目に……この病さえなければ……膨大な魔力さえ、持たずに生まれていたら)


 母は侯爵令嬢にしては多すぎるほどの魔力を持っていたと聞くが、父の魔力量はほぼ標準的なものだという。

 現に、姉も跡取りである兄もさほど魔力量は多くないらしい。

 なのに、そのあまった魔力を全て集めたかのように、末娘であるエリカは母以上の魔力を持って生まれてきた。

 魔力をコントロールできない、魔力飽和という不治の病とともに。


(お母様……っ、お母様が生きていらしたら、何か変わっていたかしら。魔力飽和を和らげる術を、もしかしたらご存知だったかも)


 肖像画の中だけでしか知らない、美しい母。

 透けるようなプラチナブロンドに、宝玉のようなラピスブルーの双眸、そして全てを包み込むような凛とした笑み。

 強い人だったと、厳しい人だったと聞いた。

 その心根は、エリカより12歳年上の姉アリステアが受け継いでいるのだと、そう父が話してくれたことがある。

 姉のような母……もし彼女がエリカの嘆きを聞いたなら、きっと諦めるなと叱咤してくれるはずだ。


『貴方は公爵令嬢。弱みに付け込まれるということは、翻って我が公爵家も侮られるということなの。だから、いい加減前をお向きなさい。諦めず、甘えず、掴み取りなさい』


 以前の姉の言葉が、まるで母の声のように聞こえる。

 あの凛とした肖像画が、語りかけてきてくれているような、そんな気がする。



「…………生き、なきゃ」


 嘆くのはもうやめだ、己の不幸に酔うのもやめる。

 生まれ変わったのなら、今度は失敗しなければいい。

 どうにかならないか、最後まであがいてみるのも悪くない。

 そのためにはまず、生き残らなくては。

 このまま何もせずとも、いずれ父が探しに来てはくれる……だが。


 以前は、この泥の中で身動きひとつ取れずにただ助けを待っていただけだった。

 娘がいないことに気付いた父公爵が捜索の手をこの森に向けてくるのは、早くても今晩。

 今はまだ日が高い。その頃まで待っていたら、彼女の身体は冷え切って凍傷を負ってしまうだろう。

 傷も、きっと膿んでしまう。


 今もまだ、まざまざと思い返せるその痛みや不快感に、彼女は眉を顰めた。

 幸い、強く打ったのは右側だ。まだ左手、そして左足はかろうじて動かせる、はずだ。

 まずは普通によいしょと立ち上がろうとして、全身に走る鋭い痛みに彼女はまた泥へと倒れこむ。

 今度はべたりとうつぶせになり、左側だけでぬかるんだ泥をかき分けるようにしながら、ぺたり、ずるり、ぺたり、ずるりと這っていく。

 左手を前に伸ばし左足で泥を蹴り、動かない右半身を引きずるようにずるずると前へ這う。

 目指すは、歩けばほんの数歩のところにある平べったい大きな岩。

 その上には僅かに日が差し込んでいる。ならば冷えた身体を少しでも温めることができるかもしれない、そう考えたからだ。


 もう一歩、あと少しで岩に手が届く。そう思って伸ばした手を霞む視界の中で見た彼女は、愕然とした。

 いつの間にか、ちょっとふっくら程度だったその手がぶっくりと醜く膨れ上がっていたのだ。


(そういえば、お父様に魔力を調整していただいたのは……朝、だったわ)


 さっきまでまだ高いと思っていたのに、いつのまにか日が傾き始めている。


 急がなければ、と彼女は必死で泥を掻いた。

 そんな彼女を嘲笑うかのように、左手がぶっくりと膨れ、次いで左足が膨れ、引きずる身体がどっしりと重くなり、膨れ上がった瞼の所為で前もよく見えなくなってしまう。



 それでも彼女は諦めない。

 伸ばした手が空回りしても、踏ん張った足がべちゃりと泥を跳ね上げても、全く先に進めなくなってしまっても、泥の中でただばちゃばちゃと手足をばたつかせているだけになっても。


「あ、きらめる、もの、です、か……っ」

『ふぅむ、でかい蛆虫が這っておるのかと思えば……なんとこれは。いやはや、これはこれは面白い』


 伸ばした手の先にあった岩の上。どうにか視線を上げれば、霞む視界に映るのはふわりと広がる純白のスカート。

 次いで、髪。キラキラと後光を背負って眩い金色に輝く、長い長い髪。


(純白のドレスに金の髪……まさか、いえそんなまさか、怖い、怖い、怖い、死にたくない、殺さないで!!)


 彼女はパニックになった。

 彼女にとってのつい先程、自分の目の前でたおやかに微笑んでいた【聖女】もまた、純白のドレスを着て長い金の髪を風に靡かせていたのだから。

 こんなところにいるわけがない、冷静に考えればわかることなのに、それでも彼女は本能的に悲鳴を上げていた。

 おおよそ、令嬢の悲鳴とは思えないまるで野生の獣のような声を。


 逃げようと必死で手を動かすが、やはりそれはばちゃばちゃとまるで『でかい蛆虫』のように泥の中で蠢くだけだ。


 そんな彼女を、純白ドレスの佳人は興味深げに見下ろしたまま動かない。


「お、ねが、……ころさない、で……っ」

『む?妾がそなたを害すると?……ふむ……そうかそうか、益々面白いのぉ』


 ころころとおかしそうに笑うその声は、甘えたようなフィオーラのソプラノとは明らかに違う……ワントーン低く、耳に心地良い響き。

 喋り方も違う、一人称も違う、なのにエリカは『純白のドレス』と『金の髪』というだけで、その相手が恐怖の対象であると感じられた。



 嫌だ、怖い、助けて、殺さないで、怖い、怖い、怖い、怖い



 逃げようとしても、体が動かない。

 怖くて仕方ないのに、目の前のはそこを動こうとしない。

 どうして、なんで、と絶望と困惑に囚われてしまった彼女を見下ろしたその金の髪の佳人は、何を思ったかその輝かんばかりの人外の美貌を近づけ、金の瞳を細めた。


『ふむ、なるほど。ただの人にしては魂の形が変わっておると思ったが……そうか、一度死して時を越えて戻って来たというわけか。()()の気まぐれにも困ったものよの』


 気まぐれ


 そうか、やはりこれはただの気まぐれだったのか。

 気まぐれなんて軽い気持ちでそっくりそのまま人生やり直し、しかも痛みも熱さも辛い記憶までそのままで、なんて。


「神様なんて、だいっきらい」

『そうそう、そなた先ほどもそう言っておったの。この国はさほど信仰の厚い土地ではないが、それにしてもそなたを生き返らせたであろう神を否定するとは。ほんに、面白いのぉ』

「聖女も、聖騎士も、神様も、大嫌い。純白のドレスも、金の髪も、新緑色の瞳、も……?」

『なるほど。それがかつてのそなたを害した者の纏う色か』


(緑、じゃない?……フィオーラは緑の瞳だった、だけど今目の前にあるのは髪と同じ金色の……)


 ようやく、彼女は少し冷静さを取り戻した。

 フィオーラと同じ髪の色、フィオーラと同じドレスの色、なのに瞳の色がまるで違う。

 瞳の色だけじゃない、声のトーンも、話し方も、人外と称していいほどの美貌も、フィオーラのものとは違う。



 ぽかん、としたのがわかったのだろう。

 目の前の佳人はようやくわかったかと言わんばかりにくつくつと笑い、


『害され、そして気まぐれによって呼び戻された。ならば、まだ死にたくはあるまい?この同じ髪をした者に、一矢報いてやりたいとは思わぬか?見返してやりたいと、そうは思わぬか?』


 そう問いかけて、どうする?と首を傾げた。

 この時点で、エリカの残り僅かな理性は目の前の佳人が【人】の領域から外れた者だと気付いていた。

 人ではない、だが決して神でもない、なのに高貴なオーラを纏う存在。


(死神でも、なんでもいい。殺さないでくれるなら、生かしてくれるなら、なんでも)


 生きていたい、ここで死にたくない。

 かつての自分を最期まで愛し守ってくれた、ずっと心配かけ通しだった家族には精一杯の恩返しを。

 そして、かつての自分を裏切り、踏みにじり、命を奪った者達には、ささやかなる復讐を。

 何よりも、今度は後悔しない人生を。


「しにたく、ない。ころされたく、ない。ぜったいに、みかえして、やるんだから……っ」

『面白い。気に入ったぞ、娘。ならば、精々足掻くがよい。妾も傍にて見届けてやろう』

「なに、を……」


 佳人の細く白い指が、泥と魔力の瘤にすっかり埋もれたエリカの左手首にそっと触れる。


「あ、ああああああああああああああっ!?」

『これはこれは、また。随分と濃い魔力を溜め込んでおったのぉ。それになんと心地良い……このような魔力は久しぶり……数千年ぶりじゃ』


 かつて、胸を貫かれて体から飛び出した魔力。

 今は触れられた左手首から、体中をぐるぐるとめぐっていた魔力がどんどん吸い上げられていくようで。

 ぐらぐらと激しく頭がシェイクされるような、乗り物酔いの感覚。

 吸われても吸われても、まだまだ魔力は溢れてきて。


 意識が、段々と遠のいていく。

 どろりと襲い来る睡魔に身をゆだねようと、重いまぶたが閉じかけたその時


『妾は【黄金の精霊姫】……光の精霊王、ルクレツィア。そなたに、妾の加護を。妾の名を呼ぶ、栄誉を。これよりそなたは、妾の愛し子。妾を愉しませておくれ、稀なる魂を持つ子よ』


 歌うようなその声に、頷くのがやっと。



 だから、この後のことは知らない。



『おやおや、覗き見かえ?数百年の時を経て、随分と下世話に成り下がったものよの。半端者が、ここに何用か?』

「これはまた、手厳しい。僕はただ、この美しい魔力の波動を追ってきただけだよ」


 森の奥から音もなく姿を現した、黒髪の青年。

 金の瞳で睨まれても全くひるむことすらせず、倒れ伏したエリカの傍まで来るとそっと手を伸ばした。

 余分な魔力を吸われ尽くして折れそうなほど華奢な体となった少女を、いとも容易く抱き上げる。


『む?これこれ、その娘は妾の愛し子ぞ。勝手に触れるでないわ』

「貴方の加護を受けているのは知ってるよ。ただ…………いつまでも泥の中に置いておくのは可哀想だと思ってね。じきに公爵家から捜索隊が出されるだろうから、それまでは僕に預けておいてもらえないだろうか」

『…………むぅ。そうじゃの、妾は余人の前に姿は現さぬ。おぬしは仮にも同族じゃし……不本意じゃが、今ひとときだけはおぬしに預けてやってもよいぞ』

「ありがとう、精霊姫」


 ならばせめて、と傍をくるくると舞う数多の精霊達に『ローゼンリヒト公爵家へ知らせよ。末娘は光の森にいる、と』という指示を出し、少々悔しそうにしながらもややあって精霊姫ルクレツィアはその姿を消した。


 後に残された青年は、紫紺の双眸をうっとりと細めて腕の中の小さな少女を見下ろした。


「………………やっと、見つけた。では僕が守るよ、エリカ」



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