19.真心を、貴方に
後半、ちょい微糖?
その後、日を改めてシュヴァルツ男爵家からやってきたジェイドは、完全なる住み込みで側付きとしての教育を受けることとなった。
男女の違いや能力的な差はあるが、基本のマナー講座やダンス講習などはユリアもジェイドも共通であるため、二人セットで授業を受けているのをエリカが見学している、というのが最近よく見られる光景だ。
「はい、いち、にい、さん!ユリア様、背筋が曲がっておりますわよ!背筋は真っ直ぐ、足元を見ない!なんですか、その人形のような足取りは。もっと優雅に、女性らしく!目線は前!ジェイド様、足を踏まれたくらいなんですか!男性は常に余裕を持って!踏まれても蹴られても視線はそのまま、姿勢も崩さない!」
「す、すみませんすみませんっ」
「どうしろっていうのよ……はぁ……」
ダンスの講師役を任されたメイド長補佐のスージーは、パンパンと手をリズミカルに叩きながら、ペアを組んで部屋を行ったり来たりする二人にダメ出しを続けている。
淑女たるものどこまでも優雅に、歩き方さえも気品高く。
紳士たるものいつでもどこでも余裕の笑みと、女性をリードするだけの包容力を。
足を踏みそうなドレスであっても、転びそうなほど高いヒールであっても、常に笑顔でたおやかに。
足音を極力立てず、すべるように、自然に歩く。
いきなりそんな無理難題を突きつけられて、ジェイドはいちいち謝りっぱなしでもはや体力の限界、剣技や身のこなしなどの修行以外はほとほと才能のないユリアは、あれもだめこれもだめと指摘されっぱなしだ。
「もうやだ足パンパンー!!スージー先生、おにちくー」
「『おにちく』が何のことだかわからないけれど……うん、大変そうなのはよくわかるわ」
「うー…………でもできなかったらエリカに恥かかせちゃうし……辛いけど、頑張る」
次の授業までの空き時間を使って、ジェイドはぐったりと椅子にもたれながら果実水を飲んでおり、ユリアは筋肉痛を起こした足をとんとんと叩きながら涙目になっている。
この筋肉痛は、エリカにも記憶がある。かつての生において、スージーの熱血指導は引きこもりであったエリカに対しても向けられていた。
だがどんなに指導を受けても彼女は病の所為でぶっくりと膨らんだ己を磨くということを諦めており、淑女としての所作やマナーなどは殆ど身につかなかったし、夜会などにも出なかったため実践する機会もなかったのだが。
(マナーの実践授業はずっと見学続きだし、そろそろ参加した方がいいのかしら)
女性の社交界デビューは15歳から、しかし高位貴族であれば仮成人の12歳から茶会やガーデンパーティといった昼間の催し物には招かれ始める。
エリカは今7歳になったばかりで、仮成人まであと5年もあるが……さすがにダンスのひとつも踊れない、という状況はそろそろ克服しないと問題かもしれない。
「あの、スージー。次からは私も参加していいかしら?」
「そうですわねぇ……お嬢様の場合、体力勝負という側面もございますので、他の皆様と同じメニューはお勧め致しませんわ。幸い、デビュタント用のワルツは難易度も低いですし、それをマスターすることを目標とされてはいかがかと」
つまりスージーが言うのは、今から5年かかって最も難易度の低いデビュタント用のワルツを踊りきれるようになれば合格、ということだ。
と、ここで思い出してほしいのは、エリカが『二度目の生』を生きているということ。
彼女が命を落としたのは、学園の卒業直後……18歳のことである。
つまり、過去に一度15歳の社交界デビューを終わらせている、ということなのだ。
デビュタントは、パートナーと共に入場した後王族からの祝辞を聞き、その後流れるワルツに合わせて一組、また一組と順番にダンスを始める。
普通の舞踏会であればダンスの参加は勿論自由、会場内を所狭しと入り乱れてのダンスとなるところを、このデビュタントパーティのファーストワルツだけはデビュタントは全員参加、途中脱落はデビュー失格と後ろ指をさされるし、かろうじて踊りきれても無様なダンスを披露すれば当然笑い者、パートナーにも恥をかかせてしまう。
しかも、踊り出す順番というのはほぼ爵位順……一番最初は模範を示す意味で王族が務めてくれるが、公爵家ともなれば早い段階で順番が回ってくることは必定だ。
かつての生でも、エリカはテオドールをパートナーとしてこのデビュタントパーティに臨んだ。
そしてファーストワルツはどうにか踊りきった、はずだった。
ただし魔力飽和の病の所為で周囲から奇異な目を向けられ、事あるごとに他の美形家族と比べられ、おまけに美麗なパートナーとは不釣り合いだ、美人と魔獣だと笑い者にされ、ワルツが終わった途端泣いて逃げ帰ったという苦々しい記憶が残っている。
(今回は絶対に失敗できないわ。だって今のままならパートナーはリシャール様になるのだもの)
今はまだ、非公式での婚約者であるリシャール。
だがエリカが仮成人を迎える12歳になればこの婚約は公になり、そしてデビュタントを迎える15歳を超えたら婚姻、ということになっている。
とはいえこれはあくまでも『契約』上のもの……互いの立場に著しい変化があった場合、もしくは互いに互い以外の想い人ができた場合、それ以外の要因で『契約』続行が不可能となった場合などは、できるだけスムーズに穏便に婚約関係の解消が成される、というのがきっちり書類に盛り込まれてあるらしい。
だからあくまでも、何事もなければという前置きがつくのだが。
この契約は、王族の血を引くリシャールと王族に近い位置にいるローゼンリヒト公爵家が第一王子の立場を盤石にするため、そうして王族内のバランスをとるため、加えてローゼンリヒト家の末娘エリカを無駄な権力争いから遠ざけるため、そのためのものだ。
そのためだけに10も年下の子供に婚約を申し入れてくれたことを、エリカはありがたくも申し訳なく思っているし、だからこそもしパートナーを引き受けてもらえるなら恥をかかせたくないとも思う。
「そろそろ、休憩時間は終わりと致しましょう。ジェイド様とユリア様はこの後基礎学習でしたわね。エリカお嬢様は基礎は終わられておりますので、まずはダンスのポジショニングから学んで参りましょうか」
パン、とスージーがひとつ手を打って立ち上がる。
その音に急かされるようにまずジェイドが立ち上がり、次いで嫌そうにしながらもユリアも立ち上がる。
二人が部屋を出ていこうと扉に手をかけたその時、ゆったりと外側に開かれたそこから背の高い青年が入ってきた。
「…………リシャール様……?」
「あぁ。久しぶりだ、婚約者殿。先触れは出したが、どうやら私の方が先についてしまったようだな?」
ハニーブロンドに熟成された赤ワイン色の双眸。
今年17歳になる元第二王子、現在はスタインウェイ公爵令息となったリシャールがそこにいた。
「いち、にい、さん、いち、にい、さん。お嬢様、視線は下げず斜め上で。足を踏むことを恐れてはいけません。そう、この三拍子のリズムは崩されませんように。スタインウェイ様、恐れながらお嬢様を抱えようとなさるのはおやめくださいませ。そのようなステップはまだ難易度が高うございます」
先程のレッスンよりゆっくりと、スージーの打ち鳴らす手拍子が広間に響く。
最初はポジショニングからと言われたのだが、今のエリカとリシャールの身長差で基本のポジショニングは難しい。
そのためまるで大人が子供を遊ばせているようなスタイルで、まずはステップを覚えること、リズムに慣れることを目標にワルツのレッスンが開始された。
が、エリカはとにかく足元が気になって仕方ないため姿勢が崩れがちになり、リシャールはあまりに軽いパートナーを時にくるりと回転させたり持ち上げてみたりと楽しんでいて、スージーの目指す『優雅でたおやかな紳士淑女のダンス』には程遠いファーストレッスンとなってしまった。
「……申し訳ありません……あの程度で息が上がるなど、不甲斐ないところをお見せしてしまいました」
しゅん、と萎れた花のように項垂れるエリカの隣で、リシャールは「いや」と首を振る。
「ダンスというのは体力を使うものだ。貴方の場合、そこに気を使い、神経を使い、頭を使った。疲れるのは当たり前だ。それに……私も貴方を振り回してしまったからな、すまなかった」
つい楽しくて、と告げるその口調は少し嬉しげで。
楽しんでもらえたのならまだ良かったのかも、とエリカは少しだけ気持ちを浮上させた。
こうして顔を合わせるのは、第一王子の立太子の儀が本決まりになったと知らせにきてくれた、あの日以来だ。
第一王子レナートが正式に王太子として立ち、その正妃候補としてグリューネ侯爵家の長女エルシアが選ばれ、側妃であった第二王子の母が元婚約者であるアマティ侯爵へ臣籍降嫁し、それに伴ってアマティ侯爵はスタインウェイ公爵家の名を継承し、そこへ第二王子リシャールが養子入りした。
不遇の第二王子として生まれた彼にとっては、人生観が一変するほど色々なことが一度に起こったのだ。
身辺が落ち着くまで、彼の中にも様々な葛藤や心境の変化などがあったに違いない。
それに、会えずにいた間にも彼は何度も手紙を送ってくれた。
いつも書き出しは時候の挨拶から、そして『我が婚約者殿』を気遣う言葉が続く。
エリカもそれに返事を書いていたが、毎度毎度何を書いていいやら悩みに悩み抜き、そのたびに兄には心配され、父には慰められ、ユリアには励まされながら文通を続けていた。
「体調は」
「ありがとうございます、もう平気です」
「悪夢を見たと聞いたが…………トラウマは?」
「そう、ですね……」
残っていない、とは言い切れない。
テオドールのことも、フィオーラのことも、もし実際に目にしたらまた再発してしまうかもしれない。
今回は名前を聞いただけで倒れてしまったのだ、ないとは言い切れない。
しかし数年後には学園に入学するのだし、同い年であるフィオーラとはそこで必ず顔を合わせる。
(克服しなければとは思うのだけど…………一体、どうしたら)
考え込んでしまった彼女の頭に、ポンと優しい手が置かれる。
そのままするりと耳のあたりまで滑らされた手が、髪飾りの上でぴたりと止まった。
「…………使ってくれているのだな」
それは、7歳の誕生祝いにと彼が贈ってくれたもの。
艶を消した銀色の土台に深い紅の石がはめ込まれたもので、石は魔石と呼ばれる魔力を帯びた貴重品なのだと、兄ラスティネルが教えてくれた。
『とても純度の高い石だ。それに……優しい魔力も感じる。大事にするといいよ』
世界に恐らく一つ、リシャールの魔力が込められた魔石を使った髪飾り。
それを普段使いするには勇気がいったが、専属侍女のレイラやマリエールが毎朝せっせと髪をセットし、仕上げにこれをつけてくれるので、そのうちないと不自然さを感じるほどに慣れてしまった。
「あの、本当にありがとうございました。こんな貴重なものをいただいてしまって」
「構わない。魔力が込められていなければただの綺麗な石だ、むしろもっと気の利いたものを贈れないのかと、後で母に叱られてしまった」
「まぁ……」
「だが、ドレスを贈るにしても貴方は成長期だし、花はこの庭園に咲き誇っている。高価な宝石も、貴方を喜ばせられないだろうと、あれこれ考えすぎてしまってな」
その結果、こうなった。
と、きまり悪そうに差し出されたのは、細長いジュエリーケース。
長い間足を運べなかった詫びとして受け取って欲しいと言われれば、受け取らないわけにはいかない。
開けてもよろしいですかと問いかけると、彼はいささか緊張したように頷いた。
「………………綺麗……」
艶を消したシルバーのチェーンの先に、真紅のティアドロップ型の宝石がついたネックレスだ。
デザイン自体はシンプルだがだからこそ品があり、その宝石からはやはり髪飾りと同じ魔力が感じられる。
「これは……」
「その、母には気が利かないと散々言われたが、やはり貴方にはただの石ではなく魔石を贈りたくて、だな。それには邪な気を寄せ付けない魔術が組み込んであるのだが。……気に入らないか?」
「いいえ、いいえ、嬉しいです!」
「なら良かった」
ようやくホッとしたように目を細めるリシャール。
エリカとしては内心、またしてもこんな金額に換算できないほど貴重なものをいただいていいのかしらとドキドキが止まらないのだが、ここでいらないと遠慮できるほど彼女の対人スキルは成長してはいない。
「それにしても……」
「ん?」
「兄も以前、わたくしが悪夢を見た折に『魔除けに』とローズマリーを贈ってくれたのです。その時のことを、思い出してしまって」
ちいさく、クスクスと声を漏らす幼き婚約者を見下ろすリシャール。
その表情は、どこか不満げだ。
「…………『兄』扱いは不本意だな……」
低く呟いた声は、風に溶けて消えていった。




