横着者がひとり
『――おい、悠二。茶』
薄っすらと見える暗がりの中、自分を見下ろす影がある。
それをぼんやりとした視界と頭で認めた瞬間、悠二の眉間に皺がよった。
そして、それと同時に自分を見下ろしているとても見慣れた顔が不機嫌に歪められる。
『チッ』
苛立たしげな舌打ちが聞こえた。
次いでばっと布団をはがれる。
己の体温しか頼るものがないのに布団を奪われて、体がぶるりと部屋の寒さに震えた。
十一月の夜に、暖房器具のない部屋で毛布ごと掛け布団をやおらはぐのは正直やめて欲しい。
それでも意地で寒さに耐え、目をかたくなに閉じ続けた。
これで答えてしまったら、また自分の負けになる。
「……」
『おい、悠二。どうせ聞こえてるのだから返事位したらどうだ。横着者が』
…どっちがだよ。
横着者と言われるのはさすがに聞き捨てならず、むっとなって口を利いてしまう。
体も起こさないで目も閉じたまま、宙に手を伸ばして手探りで毛布と掛け布団を取り返そうとしていると姫神が勘弁して起きた悠二へ褒美のように布団を投げた。
布団を返してくれるのは嬉しいが――ああ…風が起こって寒いじゃないか。
しかも、布団に移っていた自分の熱はもう冷えてしまっている。
全くこれだから人の理が通じない人外の者は――嫌いだ。
「今何時だと思ってる…」
返してもらった布団をかぶりなおしながら、あからさまな不満声を出す。
『人間の事情など神であるこの私には関係ない。さぁ、早く茶を持ってこい』
またそれか…。
自分でしろよ…。
神が人の事情など関係ないというのなら、人だって感謝もしない神の世話などごめんだ。
それこそ関係ない。
神の道理など知っていて堪るものか。
そう思いつつも、何を言っても口達者な付き神様は理不尽なことも正当に聞こえるように言い返してくださるので、悠二は渋々と起き上がると布団から出て眠い目をこすりながら台所へ向かった。
あれから――千歳の付き神、玉響との一件以来、姫神はたびたび悠二の目の前に姿を現すようになった。
そして、傲慢な態度で現れてまず口にすることは決まりきった単語で。
有無なく悠二に茶を入れさせていた。
しかも、人にわざわざ入れさせておきながら茶にうるさい。
入れ方がどうだの、葉がどうだの…そんなにこだわりがあって人に文句言うなら自分が入れて来いよ。
口にしたことはないが、そう思わない日はない。
今回も例に漏れずでぬるいと言われた。
十分熱湯だったはずなのだが…姫神の舌の厚さはどれくらいかと問い詰めたくなる。
それでもまぁ、茶は全部飲んでくれていただけマシだろうか。
上達したんだなと、姫神のおかげなのが皮肉だがホッとする。
初めの頃は『まずい!』と一刀両断され、一口口をつけただけでそれ以上は飲んでくれなかった。
そんなに不味いのか…と、ためしに飲んでみたのだが、これが味オンチというわけでもないのだが、別に普通に飲める程度にはできていて不味いと顔を顰められるほどではないのだ。
そこで悠二は悟った。
自分の出す茶に問題があったのではなくて、姫神が特殊な上に茶好きの茶にうるさい奴なのだと言うことを――。
「で、今回もお茶飲みに来ただけか?姫神」
ふんぞり返って、だが、地味に部屋の隅のほうに座り込んでいる姫神を一瞥して、悠二は後ろ手に自室のドアを静かに閉めた。
なんたって夜中だからな。
ドアの開け閉めに起きる音にしてもうるさくして家族を起こしてしまうのは忍びない。
悠二の視線を受けた姫神はどこがばつが悪そうに目線を下に落とし、
『いや…』
曖昧な返事をした。
「なんだ、違うのか…。じゃあ、話があるんだな」
湯飲みを洗って、台所から自室へ一旦戻ってきたが話があるならと、コタツのある居間へ移動することにした。
だって、話が長いにしろ短いにしろ、座ってただ聞いてるのは寒いじゃないか。
『お前は本当に寒いのが嫌いなんだな…』
冷たい空気が漂う廊下を歩いているとき、姫神がふと呟いた。
悠二は姫神を肩越しに振り返って、いかにも寒いのが嫌いですと腕をさすりながら、姫神に責めるような目を向ける。
思わずその表情に目を瞬かせてしまったが、それが何故なのかは考えなくともすぐに判った。
寒い中、せっかくぬくぬくと幸せいっぱいに寝ていたところを、うるさい付き神の湯飲み一杯のために布団を出る羽目になったからだろう。
姫神は当たり前だと言う思いを感じこそしないが、それくらいでそんな目をしなくてもいいではないかと言い返したくなった。
だが、夜中にわざわざ寝ていたところを無理に起こして茶を入れてもっらったので、むっと、口をへの字に曲げるだけに留まっておく。
神にだってそれくらいの常識や人に対する有り難味、良識はある。
「本当に寒いんだよ。田舎だからなのかな…。姫神はそういうの感じないんだ?」
『確かに寒さや熱さには鈍いところがあるかも知れんな。……痛みには敏感だがな』
道理であんなに熱い茶をぬるいと言って飲めるわけだ…――しきりに頷きながら、確かに熱いのにそれをぬるいという姫神の茶の温度に対する謎に得心のいく理由を見つけられたとやや浮かれ状態でほくそ笑む悠二である。
だから、その後に続いた若干の悲哀の篭もった声に、悠二の耳は気付かなかった。
スタスタと前を行く、色々吹っ切った様に爽やかなそんな悠二の背を、姫神は悲しげに目許を下げて見つめていた。
この子はいつまで何も思い出さないままで笑っていられるのだろうか…と。
その背と重ねられて姫神の瞳に映しだされていたのはまだ幼き日の悠二の小さき背中だった。
『……随分大きくなったんだな、悠二』
子供が成長するのは早いと聞いていたが、噂に聞くどおり本当に早かったな――。
そんな感慨が改めて人の世の時がずいぶん経ったことを思い知らせた。
神の生きる永久に近しい時間は人の短いそれと違うせいもあるだろうから感覚がおかしくても仕方がないが、姫神はそう思わずにはいられなかった。
だって、ほら…あんなに小さかった子供が今はこんなに大きいんだから…――。
時が経つのが早くて、ため息が漏れそうだった。