夢
チチ…ヂヂヂぢじジジジリりリじりじりリリッ!
「…うッ…あ…」
チリチリリリり…――!
――音が、聞こえる。
どこからか、聞こえてくる。
これは…それはなんだ。
そこにいるのは、何だ。
じっと、自分を見ている。
まるで、凍りついたかのようにピクリとも動かせない身体。
視線が、それから逸らすことができない。
じっと自分を見ていた得体の知れない影が、不意にニタァと口角を吊り上げて、ぞっと、寒気がした。
…けれど、どうしてだろう。
どうして自分はこの影を知っている気がするのだろう。
恐怖を超えて畏怖を感じる影に、不思議なことに懐かしさを見出している。
自分の記憶が憶えているのではなく、『知っているそれ』を感覚が覚えている。
ケタケタと、今にも身体の芯を震わせる不気味な笑い声を上げそうな影が、自分に手を伸ばしてのろのろと近づいてくる。
――駄目だ。
駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ…!
コイツと触れ合ってはいけない。
自分の身が危ないと、動物的本能がそう告げてくるのに、身体が凍りの呪縛から逃れられない。
「ぁ…あ…」
影が、もうすぐ目の前に迫っている。
なけなしの力を総動員させて、悠二はその黒い影から何とか顔を逸らすことができた。
そして、ぎゅっと目前に迫ったモノを遮るため硬くまぶたを閉じ、唇をキっと横一文字に引き結ぶ。
『もう駄目だ。もう間に合わない。――今更謝れない…』
その台詞が、恐怖のあまり何も考えられなくなった頭の中に唐突に浮かんできて、次いで悠二の耳はある声を拾った。
その声は低く冷たく軽蔑するような――だが誰かを哀れむような微かな慈愛を含ませた声が、どんよりと雲の立ち込める上空から降ってきたかと思えば、悠二の意識はそこで途切れた。
『愚かよ…愚かな人の子よ。……もう、遅い。もう戻れない…お前は取り込まれる――否。既にもう取り込まれた、か…』
わが子のあまりにもの有様に嘆く親のような悲痛な声音が黒い影の姿を一瞬にして打ち消した。
――…りりりりりりりり。
じリリりリリぃぃぃぃぃいいいッ!!
「う…う…。ひぃ…ひぃ、うッ…やぁぁアアぁぁぁッ!!」
悠二は不意に訪れた覚醒直後から聞こえてきた騒音と、瞼を開けたら先程までとは映っていた情景が違うことに驚き、次いで先程まで見聞きしていたことが夢だったのだと気づけば、布団を跳ね飛ばし、慌てて上体を起こした。
「はぁ、はぁ…」
瞠目したまま、カタカタと震えの収まらない肩を両腕で抱きしめて瞳を一旦閉じた。
呼気が上がっている。
悠二は汗で湿ったパジャマの上から胸元をおさえ、大きく息を吐いた。
じリリりリリじりりりりぢリリりぃぃぃぃ…!!
「はっ………」
どくどくと騒ぐ心臓を宥めながら悠二は枕元にセットされていた目覚まし時計をのろのろと腕を伸ばして、ようやく止めた。
自分以外誰もいない部屋で朝早くからひとり鳴り響いていた目覚まし時計は主の目覚めと引き換えに鳴り止み、部屋で固まったまま身動きひとつしない悠二を静寂がそっと包み込んでいく。
やがて落ち着いてきたのか、はっと我に帰ったような悠二が掠れた声で、夢の中で声に出さずに言った不可解な言葉を思い出し、逡巡の素振りを見せた後、ポツリと呟いた。
「…俺、なんで…あの影に謝らないとって、謝れないって思ったんだろう…」
何も、してないはずなのに。
何も知らないはずなのに。
あれが、自分の中のモノで想像上で作り出されたに過ぎないものなのか、それとも実際に存在しているのか…されさえも見当がつかないというのに。
ただ、今の悠二が確かに言えることはあの黒影のおぞましさが、あの声が、夢にしてはやけにリアルだったということだけだ。
あれは一体なんだったのだろうか。
「………」
悠二は余裕を取り戻した頭で再び夢の内容を思い返して、もそもそと布団に潜り込むとゆっくりと瞼を下ろした。
ここ最近、やけに疲れる上に激しい睡魔によく襲われる。
それは、あの影を見たときからだ。
何も見えずにただ感じられるだけだった悠二の視界に突如として飛び込んできた得体の知れぬ存在。
それが自分の頭が勝手に作り出した架空のモノではなく、現実に在るのだとすればそれは俗に言う妖や霊的なものという未知の世界の住人ということになるのではなかろうか。
悠二はそこまで考えをめぐらせて、だが、そこでそれ以上は判らないと思考を停止させた。