序章 生きているのに映らない者
ミーンミンミンミン…。
ミンミンミーンミンミンミーン…。
ちりちりチロロロロ…――。
タタタタタタッ…ばんっ!
「…ッ!?」
少年は後ろを顧みて、ひっと息を呑んだ。
――見つけた、見つけた――
――帰ってきた、還って来た――
『人の子よ…なんと愚かな奴ぞや』
少年の深い黒曜石の瞳には映らなかった影が嘆くように呟いた。
――その口元は喜悦に緩んでいた。
「はぁはぁ…!」
悠二は肩で息をしながら後方を振り返った。
「………」
風がごうごうと唸り頬を打って、悠二の背を急かすかのように前へ促す。
「……ッ!?」
悠二は愕然と目を見開くと、再び走り出した。
もう、体が無理だと訴えかけてくる。
だが、本能が止まるなと警鐘を鳴らしている。
だから、止まれない。
止まれば、自分は…――どうなるのだろう。
判らないままがむしゃらに走り出して早二時間。
既に時刻は日の位置からして午後四時半過ぎ。
一体自分はいつまで――どこまで逃げ切れれば良いのだろうか。
「…くそ…!」
そもそも自分は一体何からこんなにも必死になって逃げ回っているのだろう。
それさえも判らぬまま、悠二はただただ限界を今にも超えそうで、それでも何とか気力だけで持ちこたえている重く鈍い足を動かしながら、独り悪態をついた。
――そちらへ行ったぞ、行ったぞ――
――もうすぐじゃ、もうすぐで…この人の子は…――
見えない影がうごめいている。
見えない不可思議なものがうろついている。
それが自分を未知の世界へと甘く誘うかのように、付けこんでくる。
声がかすかに聴こえる。
嘲笑交じりになにやら囁いているようだ。
はっきりと、影の声を悠二の耳は聞き取れないが、そこにいて、自分を追い掛け回していることだけが判る。
…厄介なモノだ。
「…っは…ッ!」
喉仏がごくりと鳴る。
息が苦しい。
足の感覚がおかしい。
五感が何かに絡め取られる錯覚に襲われる。
視界がかすんできている。
「……それでもっ!!」
止まれないのだ。
絶対に振り払うまでは今日も止まれないのだ。
今、ここで立ち止まれたのなら、どんなに楽だろう。
甘い誘惑が、もうどうにでもなれば好いじゃないかと悠二を包み込む。
ぶんぶんと頭を振って、己の中のその声を掻き消すと悠二は後ろを再びに顧みて、そして、息を呑んだ。
何もその目には映らない。
自分は生きているのに、生きている者の目には滅多に映らない者をただ感じられるだけ。
そんなこと、解っている。
自分の目ではそれは捉えられないことも、こんな風に何度も振り返るのがただの気休めだということも十分に嫌なくらいにわかっている。
それでももういい加減諦めて散ってくれてはいないだろうかと、確認できもしないのにその目で捉えようとする自分は馬鹿なのだ。
「はぁはぁ…」
走りながらも振り返って見つめた先に、やはり何も映らない。
ただただ広大な田園の風景だけがそこには広がっている。
不意に後ろから生暖かい風が流れてきて、不覚にも悠二は足を止めてしまった。
さほど強風でなかったにもかかわらず、ぶわりと疲労しきった悠二の体の節々を痛めつけていく。
じっと、一点を凝視したまま、悠二は視線を逸らさない。
いくら目を凝らしてもそこにはやはり何もいない。
それは明白なのに、どうしてこんなにも心臓がバクバクとうるさいのか。
心臓がバクバクと通常より速く鼓動を刻むのは走り続けたからではなかった。
「――…いる…」
唐突に悠二の視界に黒い靄が映った。
ゆっくりとこちらに近づいてくる。
逃げなければと思うのに、体が動かない。
散々走って棒になった足はあまりにも慣れない長時間を走ったがために休める地面に吸い付いたまま、言うことを聞いてくれそうにない。
「…ふ…!うご、け……ッ!」
突然姿をさらけ出した理解できない黒い靄にカタカタと震えだした体を叱咤しながらも、何とか後ずさることに成功する。
だが、影がのろく自分に確実に接近してくるのは止まらない。
距離が開かない。
むしろうごめく影によってだんだんと縮められている。
ふと視線が合ったそれが、にやりと笑んだ気がして、
「ひっ!!?」
噛みあわない唇から小さな悲鳴が零れた。