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抱き寄せて、キスをして  作者: 友崎沙咲
vol.5
5/7

苦しくて

◇◇◇◇


「いやー、面白かったな!」


私はシラケた顔で課長を見つめた。


「……課長、寝てましたよね」


ギクリとした表情で、課長は私をチラッと見た。


「寝てないよ、観てたよ」


「眼を閉じて観るなんて、仙人みたいですね!」


「……すまん……」


いつもクールで強気な課長が、ショボンとしたから、私は声を出して笑った。


「疲れてるんですよ。家に帰ってゆっくりした方がいいですよ」


時間はまだ午後三時だったけど、疲れている課長を連れ回すのは申し訳なかった。


「バカか。もう、ひと眠りして元気になった」


「ほーら、寝てたんだ」


課長はしまったというような顔をしてから、私を甘く睨んだ。


「こいつ!」


コツンと私の額を小突いた課長の顔はあどけなくて、何だか7歳も年上だと思えないくらいだった。


課長って、新太と同じくらいの身長だな。


体つきは……新太のがガッシリしてる。


おっと!


私はパチパチと瞬きをした。


新太は、いいの!


全く!あんなヤツ!


加奈ちゃんも加奈ちゃんだよ!


どーなってんだ、あの二人はっ!


私は急にムカついてきたが、それを課長に知られる訳にはいかなかった。


◇◇◇◇


週明け、月曜日。


「アンナ先輩」


給湯室で、加奈ちゃんが私に声をかけてきた。


丁度いいわ。


「なに?」


加奈ちゃんは、少し眉を寄せて言いにくそうに口を開いた。


「社食で小耳に挟んだんですけど……アンナ先輩って、もしかして三崎課長と付き合ってます?」


ほーお。


このウルウル系女子は、自分の事をサラーッとスルーして、他人の噂に興味津々なんだ。


私は少しだけ笑った。


「それは、加奈ちゃんが昨日、中山君じゃない男の人と腕組んで、キスしてた訳を教えてくれたら答えてあげる」


「…………!」


みるみる加奈ちゃんの可愛い顔から笑みが消えた。


コーヒを淹れようとしていた手が止まる。


「加奈ちゃん、新太と付き合ってるんだよね?なんで、他の男とイチャついてたの?」


加奈ちゃんは私を見つめたまま、眼を反らすことなく唇を引き結んだ。


「なんなの?二股掛けてるの?」


「……だとしたら、何ですか?アンナ先輩は、新太……と、無関係ですよね?」


私は眉を寄せた。


「だとしたら、許さない!新太を傷つけたら、私が許さない!」


私がグッと加奈ちゃんを睨むと、彼女は息を飲んだ。


「こんなところでこれ以上は話せません。今日定時後、お時間ください」


「分かった」


私は身を翻して給湯室を後にした。


これ以上は、考えないでおこう。


仕事に差し支える。


定時までは、仕事、仕事!?


私は昼休憩も取らず、一心不乱に働いた。


デスクでお弁当を開いていた菜々子先輩が、


「アンナ、なに?ダイエット?それ以上痩せてどーすんの。ちょっと最近やつれてるよ」


菜々子先輩は、企画部のエースだ。


おまけに気配りが出来て、クライアントからの人気は絶大だ。


「菜々子先輩、ご心配ありがとうございます。今日は定時で上がりたいんで、少し頑張っときます」


「無理しちゃダメだからね」


私は頭を下げてオフィスを出た。


……オレンジジュースでも飲むか。


私は財布だけを手に、社員食堂のある5階へと向かった。


エレベーターの前に立つと、先日新太と鉢合わせたのを思い出したけど、今回は大丈夫だった。


残念なような、会わずに良かったと思う安堵感。


……変な感じだ。


五階は、フロア全体が社食で、壁沿いには自販機がズラリと並んでいる。


私はお目当ての、百パーセントジュースの自販機の前に立った。


小銭を入れて番号を押すと、静かにペットボトルが一本、透明な自販機の中を音もなく通過していく。


「はあ」


私はペットボトルを取り出しながらため息をついて、踵を返した。


さあ、戻ろ。


その時、真後ろにいた誰かとぶつかりそうになって、慌てて足を止めた。


「失礼しました」


私は素早く謝り、頭を下げた。


ん?


足元で男性だと理解したが、フワリと漂ったシトラスの香りに、私は思わず顔を上げた。


この香りは。


「あ……新太……?」


新太だった。


嘘……。


目の前の新太は、まるで変わっていた。


ボサボサとして、分け目の無かった髪は短くお洒落にカットされ、いつもの縁なしの眼鏡はなかった。


代わりに中高で整った顔が際立っていた。


男らしい眉の下の、クッキリとした二重の涼しげな眼。


いつもより、明度の高いグレーのスーツ。


なに、どうしたの。


なんで急にあか抜けたの。


前と違う新太は、私を見る眼もまるで違っていた。


『アンナ、今日暇?暇なら買い出し一緒に行こ』


『アンナ、俺さ、今日は飲みたい気分なんだ。付き合ってよ』


いつも私を見つめる柔らかな眼差しが、そこにはなかった。


目の前のあか抜けた新太は、私を侮蔑の表情で一瞥すると、自販機に小銭を入れ、目当てのジュースを買うと何も言わずに、私の身体を避けるようにして去っていった。


後に冷たい、シトラスの香りの風を残して。


新太……。


私は唇を噛み締めて、小さくなっていく新太の後ろ姿を見つめた。


もう、本当に終わったんだね、私と新太のあの日々は。


良く考えたら、何の意味があるのか。


定時後、私が加奈ちゃんと話す理由などないのではないか。


加奈ちゃんと新太の事は、ふたりの問題で、ふたりが解決すべきだ。


私がしゃしゃり出る必要はない。


私はホッと息をつくとオフィスに戻った。


加奈ちゃんは先に戻っていた。


私達以外、周りに人はいない。


今だ。


「加奈ちゃん」


「アンナ先輩」


僅かに固い表情の加奈ちゃんを見つめて、私はちょっと笑った。


「加奈ちゃん、良く考えたら中山君と加奈ちゃんの事はふたりの事で、私には関係ないよね。ごめんね。生意気な事言ってしまって。だからもう私に話さなくていいよ」


「アンナ先輩……」


加奈ちゃんは凄く驚いた顔で私を見上げた。


「それと、三崎課長の事なんだけど、付き合ってはないの。昨日は映画に誘ってもらったんだ」


「好きなんですか?三崎課長と付き合うつもりなんですか?」


加奈ちゃんがいつになく強く問うので、私は首をかしげた。


「あの、加奈ちゃん?」


加奈ちゃんはギクリとしたように喉を動かして、私から視線をそらした。


「なんでも……ないです。ちょっと私、失礼します」


加奈ちゃんはスマホを片手にオフィスを出ていった。


私はジュースをひと口飲んで息をついた。


もう新太との友情も同期という関係も、諦めようと思いながら。


◇◇◇


定時に上がり、私はトボトボと家路についた。


昼間、社食で会った新太の姿が頭から離れない。


……懐かしい。


入社した頃の新太はあんな感じだった。


それが、私とつるむようになった頃から、髪型や服装にあまり気を使わなくなった。


決して素材が悪いわけじゃない。


むしろ新太はイケメンだ。


ただ、飾らないだけ。


そんな新太が、雑誌のモデルに引けを取らない姿で私の前に立っていて。


私を冷たい瞳で一瞥して。


……なんなんだ、私!


何でこんなに苦しいんだ。


分かりそうで分からない。


新太が加奈ちゃんに、二股掛けられてるのが心配だから?


それとも、三崎課長とキスしたのを見た新太が怒ったから?


かっこ良くなった新太が、私に冷たかったから?


分からない。


分からないのに、苦しい。


……お酒、飲みたい。


……飲みに行こう。


多分私は今、少し酔った方がいい。


私は早足でマンションに帰った。


シャワーを浴びてメイクをし直し、服を着替えると、私は玄関ドアを開けた。


「アンナ先輩!」


「加奈ちゃん?!」


エントランスを出たところで、息を切らした加奈ちゃんを見つけ、私は驚いて彼女を見つめた。


加奈ちゃんは泣いていた。


「アンナ先輩っ!!」


私の胸に飛び込んできた加奈ちゃんの背中を、私は咄嗟に擦った。


「加奈ちゃん、どうしたの?!大丈夫!?」


加奈ちゃんは子供のようにしゃくり上げた。


「私、私っ!アンナ先輩に嘘をつきました」


嘘?


加奈ちゃんは泣きながら身を起こして私を見つめた。


「私、恋人じゃないんです、新兄ちゃんの」


新兄ちゃん?


それって、もしかして。


「加奈ちゃん、とにかく入って」


私は加奈ちゃんを部屋に入れて、リビングのソファへ座らせた。


加奈ちゃんは、泣き止まなかった。


「中山新太は、私のいとこなんです」


私は驚いて眼を見張った。


「加奈ちゃん、新太のイトコなの?!」


加奈ちゃんは肩を震わせて泣いていた。


「じゃあ、どうして恋人だって」


「新兄ちゃんに、頼まれたからです」


え?な……なんで……?


私は訳がわからず、眉を寄せて加奈ちゃんを凝視した。


「……どういうこと……?」


「新兄ちゃんは、今年の春に私が企画部に配属されるのを知って、私に言いました。

白石アンナに、イトコだって事を黙っててほしいって」


……え?


胸に何かが刺さった様な衝撃がして、私は咄嗟に左手を胸に当てた。


「ど……どう、して?なんで?」


加奈ちゃんは首を振った。


「すみません!!これ以上は、私の口からは言えないんです!でも私、アンナ先輩に嘘をつき通せなくて。どんどんやつれていくアンナ先輩を見ていられなくてっ」


加奈ちゃんは手に持っていた白い筒を私に手渡した。


「新兄ちゃんはこの画を、『失敗したから要らない』なんて言ってたけど、絶対嘘です。 私どうしても先輩に見てもらわなきゃと思って……。

先輩、本当にすみませんでした。新兄ちゃんの事……私、もう行きます」


加奈ちゃんは足早に部屋を出ていった。


私は力が抜けて、ペタンとリビングの床に座り込んだ。


……加奈ちゃんが、新太のイトコなのは分かった。


けど新太は、なんで恋人だと嘘をついたの?


どうして、私にイトコだってことを内緒にしたの?


なんで加奈ちゃんはあんなに辛そうに泣いてたの?


分かんない。まるで分かんない。


私は床に座り込んだまま、加奈ちゃんに手渡された筒状の分厚い紙を見つめた。


新太の部屋にあったものなの?それを、どうして私に?


私はクルクルとその分厚い紙を広げた。


「っ……な、んで」


画の事はまるで分からないけれど、これが普通の画用紙じゃなくてケント紙で、サイズは四つ切りなのは、分かった。


よく、新太の買い物に付き合ってたから。


そしてそれが、鉛筆で描かれたデッサンであることも。


それから、その描かれた人物が私だということも。


ケント紙の中の自分を、私はひたすら見つめた。


何だか、私であって私じゃないみたいだ。


首を傾げて微笑んでいるのは確かに私なのに、その表情は何だか他人に思えた。


私は新太の描いたデッサンを見ながら、いつかのやり取りを思い出していた。


『新太、何でこんなに鉛筆いるのー?めちゃくちゃいっぱいあるじゃん』


『デッサンに使うんだ。色んな濃さの鉛筆があるんだ。ほら見て。ここに6Bから4Hまであるよ』


『ふーん』


『アンナ、モデルになって』


『いいよ』


『じゃ、脱いで』


『バカ!新太の変態!』


『はははは』


……会いたい、新太に会いたい。


会って、仲直りしたい。


そう思うと居ても立ってもいられなくなって、私はマンションを飛び出した。


新太の住んでいるマンションは、私のマンションより北側にある。


徒歩で約5分。


私は早足で新太のマンションを目指した。


帰ってるだろうか。


水曜日は大抵、新太は残業しない。


私はそっとインターホンを鳴らした。


『はい』


「新太、私」


『……なに?』


抑揚のない新太の声が、ぐさりと胸に刺さる。


「話がしたいの」


『……丁度出掛けるところだったから……降りるから待ってて』


少し息をついてそう言った新太の声が途切れ、私は両手を握りしめた。


新太は、仲直りしてくれるだろうか。


胸が痛くて苦しくて体が震えそうだった。


新太はすぐに姿を現した。


服装は今までと変わりなかったけれど、今風の髪型や、眼鏡をしていない顔は、私の知らない新太みたいで、何だか凄く遠くに感じた。


新太は私をちらりと見ると、マンションの脇の花壇のブロックに腰を下ろした。


「なに」


冷たい声にくじけそうになる。


私はカラカラになって、痛く感じる喉を必死で押し開いた。


「新太と仲直りがしたい。さっき、加奈ちゃんが来たの。新太のデッサンをもらった」


「あれは、駄作だ。捨てといて」


その言葉が私を拒絶しているようで、思わず俯いた。


新太が大きく息をつく。


「話はそれだけ?」


全身に氷水をかけられたように体が冷たくなって、私は両手をきつく握った。


新太は私から眼をそらしたまま、静かな声で言った。


「仲直りって?」


「…………」


新太が笑った。


「また、前みたいな関係に戻ろうって?」


私は恐る恐る新太を見た。


彼は私を真っ直ぐ見つめていた。


「もう戻れない。もうだめなんだよ、アンナ。俺達は間違ってた」


私は何も言えなかった。


だって、新太が正しいから。


ただの同期入社の私と新太は、それ以上の関係だった。


友達や親友の間に、体の関係なんて発生しない。


なのに、私は新太と寝た。


けれど、私達はお互いに恋愛対象外で。


「あんな関係は、もう終わりにしよう」


新太は、もう私のいない世界で生きようとしてるんだ。


だとしたら、それを邪魔しちゃいけない。


ゆっくりと、新太は私の真正面に立った。


私は新太を見上げた。


新太の精悍な頬も綺麗な瞳も、全部覚えていようと思って。


大きな体も、何もかも。


「分かった。ごめんね、新太。

新太といると凄く居心地が良くて、私、甘えすぎてたよ。本当にごめん。

それから……今までありがとう」


涙声になるのを必死で抑えたけど、最後は声が震えた。


一瞬だけ新太の驚いた顔が見えたけど、私は素早く身を翻した。


「アンナ!」


新太が私の腕を掴んだ。


反動で体がぐらつき、頬に新太の胸が当たる。


「アンナ、アンナ!」


「…………っ!」


ギュウッときつく抱き締めて、新太は私を見つめた。


な、んで。


苦しげな新太の顔と抱擁。


「アンナ、アンナ」


堰を切ったように私を呼ぶ切ない声と、熱い彼の身体。


「し、んた」


驚いて見上げた私に、新太は斜めに顔を近づけた。


懐かしい、甘い唇。


さらうように、それでいていとおしむように、新太は私にキスをした。


「さよならの、キスだから」


「新太……」


「アンナ、ばいばい」


新太はフワリと私から離れると、ゆっくりと去っていった。


「新太!」


新太は振り向かなかった。


「新太!」


私の声は、空虚に響いた。

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