苦しくて
◇◇◇◇
「いやー、面白かったな!」
私はシラケた顔で課長を見つめた。
「……課長、寝てましたよね」
ギクリとした表情で、課長は私をチラッと見た。
「寝てないよ、観てたよ」
「眼を閉じて観るなんて、仙人みたいですね!」
「……すまん……」
いつもクールで強気な課長が、ショボンとしたから、私は声を出して笑った。
「疲れてるんですよ。家に帰ってゆっくりした方がいいですよ」
時間はまだ午後三時だったけど、疲れている課長を連れ回すのは申し訳なかった。
「バカか。もう、ひと眠りして元気になった」
「ほーら、寝てたんだ」
課長はしまったというような顔をしてから、私を甘く睨んだ。
「こいつ!」
コツンと私の額を小突いた課長の顔はあどけなくて、何だか7歳も年上だと思えないくらいだった。
課長って、新太と同じくらいの身長だな。
体つきは……新太のがガッシリしてる。
おっと!
私はパチパチと瞬きをした。
新太は、いいの!
全く!あんなヤツ!
加奈ちゃんも加奈ちゃんだよ!
どーなってんだ、あの二人はっ!
私は急にムカついてきたが、それを課長に知られる訳にはいかなかった。
◇◇◇◇
週明け、月曜日。
「アンナ先輩」
給湯室で、加奈ちゃんが私に声をかけてきた。
丁度いいわ。
「なに?」
加奈ちゃんは、少し眉を寄せて言いにくそうに口を開いた。
「社食で小耳に挟んだんですけど……アンナ先輩って、もしかして三崎課長と付き合ってます?」
ほーお。
このウルウル系女子は、自分の事をサラーッとスルーして、他人の噂に興味津々なんだ。
私は少しだけ笑った。
「それは、加奈ちゃんが昨日、中山君じゃない男の人と腕組んで、キスしてた訳を教えてくれたら答えてあげる」
「…………!」
みるみる加奈ちゃんの可愛い顔から笑みが消えた。
コーヒを淹れようとしていた手が止まる。
「加奈ちゃん、新太と付き合ってるんだよね?なんで、他の男とイチャついてたの?」
加奈ちゃんは私を見つめたまま、眼を反らすことなく唇を引き結んだ。
「なんなの?二股掛けてるの?」
「……だとしたら、何ですか?アンナ先輩は、新太……と、無関係ですよね?」
私は眉を寄せた。
「だとしたら、許さない!新太を傷つけたら、私が許さない!」
私がグッと加奈ちゃんを睨むと、彼女は息を飲んだ。
「こんなところでこれ以上は話せません。今日定時後、お時間ください」
「分かった」
私は身を翻して給湯室を後にした。
これ以上は、考えないでおこう。
仕事に差し支える。
定時までは、仕事、仕事!?
私は昼休憩も取らず、一心不乱に働いた。
デスクでお弁当を開いていた菜々子先輩が、
「アンナ、なに?ダイエット?それ以上痩せてどーすんの。ちょっと最近やつれてるよ」
菜々子先輩は、企画部のエースだ。
おまけに気配りが出来て、クライアントからの人気は絶大だ。
「菜々子先輩、ご心配ありがとうございます。今日は定時で上がりたいんで、少し頑張っときます」
「無理しちゃダメだからね」
私は頭を下げてオフィスを出た。
……オレンジジュースでも飲むか。
私は財布だけを手に、社員食堂のある5階へと向かった。
エレベーターの前に立つと、先日新太と鉢合わせたのを思い出したけど、今回は大丈夫だった。
残念なような、会わずに良かったと思う安堵感。
……変な感じだ。
五階は、フロア全体が社食で、壁沿いには自販機がズラリと並んでいる。
私はお目当ての、百パーセントジュースの自販機の前に立った。
小銭を入れて番号を押すと、静かにペットボトルが一本、透明な自販機の中を音もなく通過していく。
「はあ」
私はペットボトルを取り出しながらため息をついて、踵を返した。
さあ、戻ろ。
その時、真後ろにいた誰かとぶつかりそうになって、慌てて足を止めた。
「失礼しました」
私は素早く謝り、頭を下げた。
ん?
足元で男性だと理解したが、フワリと漂ったシトラスの香りに、私は思わず顔を上げた。
この香りは。
「あ……新太……?」
新太だった。
嘘……。
目の前の新太は、まるで変わっていた。
ボサボサとして、分け目の無かった髪は短くお洒落にカットされ、いつもの縁なしの眼鏡はなかった。
代わりに中高で整った顔が際立っていた。
男らしい眉の下の、クッキリとした二重の涼しげな眼。
いつもより、明度の高いグレーのスーツ。
なに、どうしたの。
なんで急にあか抜けたの。
前と違う新太は、私を見る眼もまるで違っていた。
『アンナ、今日暇?暇なら買い出し一緒に行こ』
『アンナ、俺さ、今日は飲みたい気分なんだ。付き合ってよ』
いつも私を見つめる柔らかな眼差しが、そこにはなかった。
目の前のあか抜けた新太は、私を侮蔑の表情で一瞥すると、自販機に小銭を入れ、目当てのジュースを買うと何も言わずに、私の身体を避けるようにして去っていった。
後に冷たい、シトラスの香りの風を残して。
新太……。
私は唇を噛み締めて、小さくなっていく新太の後ろ姿を見つめた。
もう、本当に終わったんだね、私と新太のあの日々は。
良く考えたら、何の意味があるのか。
定時後、私が加奈ちゃんと話す理由などないのではないか。
加奈ちゃんと新太の事は、ふたりの問題で、ふたりが解決すべきだ。
私がしゃしゃり出る必要はない。
私はホッと息をつくとオフィスに戻った。
加奈ちゃんは先に戻っていた。
私達以外、周りに人はいない。
今だ。
「加奈ちゃん」
「アンナ先輩」
僅かに固い表情の加奈ちゃんを見つめて、私はちょっと笑った。
「加奈ちゃん、良く考えたら中山君と加奈ちゃんの事はふたりの事で、私には関係ないよね。ごめんね。生意気な事言ってしまって。だからもう私に話さなくていいよ」
「アンナ先輩……」
加奈ちゃんは凄く驚いた顔で私を見上げた。
「それと、三崎課長の事なんだけど、付き合ってはないの。昨日は映画に誘ってもらったんだ」
「好きなんですか?三崎課長と付き合うつもりなんですか?」
加奈ちゃんがいつになく強く問うので、私は首をかしげた。
「あの、加奈ちゃん?」
加奈ちゃんはギクリとしたように喉を動かして、私から視線をそらした。
「なんでも……ないです。ちょっと私、失礼します」
加奈ちゃんはスマホを片手にオフィスを出ていった。
私はジュースをひと口飲んで息をついた。
もう新太との友情も同期という関係も、諦めようと思いながら。
◇◇◇
定時に上がり、私はトボトボと家路についた。
昼間、社食で会った新太の姿が頭から離れない。
……懐かしい。
入社した頃の新太はあんな感じだった。
それが、私とつるむようになった頃から、髪型や服装にあまり気を使わなくなった。
決して素材が悪いわけじゃない。
むしろ新太はイケメンだ。
ただ、飾らないだけ。
そんな新太が、雑誌のモデルに引けを取らない姿で私の前に立っていて。
私を冷たい瞳で一瞥して。
……なんなんだ、私!
何でこんなに苦しいんだ。
分かりそうで分からない。
新太が加奈ちゃんに、二股掛けられてるのが心配だから?
それとも、三崎課長とキスしたのを見た新太が怒ったから?
かっこ良くなった新太が、私に冷たかったから?
分からない。
分からないのに、苦しい。
……お酒、飲みたい。
……飲みに行こう。
多分私は今、少し酔った方がいい。
私は早足でマンションに帰った。
シャワーを浴びてメイクをし直し、服を着替えると、私は玄関ドアを開けた。
「アンナ先輩!」
「加奈ちゃん?!」
エントランスを出たところで、息を切らした加奈ちゃんを見つけ、私は驚いて彼女を見つめた。
加奈ちゃんは泣いていた。
「アンナ先輩っ!!」
私の胸に飛び込んできた加奈ちゃんの背中を、私は咄嗟に擦った。
「加奈ちゃん、どうしたの?!大丈夫!?」
加奈ちゃんは子供のようにしゃくり上げた。
「私、私っ!アンナ先輩に嘘をつきました」
嘘?
加奈ちゃんは泣きながら身を起こして私を見つめた。
「私、恋人じゃないんです、新兄ちゃんの」
新兄ちゃん?
それって、もしかして。
「加奈ちゃん、とにかく入って」
私は加奈ちゃんを部屋に入れて、リビングのソファへ座らせた。
加奈ちゃんは、泣き止まなかった。
「中山新太は、私のいとこなんです」
私は驚いて眼を見張った。
「加奈ちゃん、新太のイトコなの?!」
加奈ちゃんは肩を震わせて泣いていた。
「じゃあ、どうして恋人だって」
「新兄ちゃんに、頼まれたからです」
え?な……なんで……?
私は訳がわからず、眉を寄せて加奈ちゃんを凝視した。
「……どういうこと……?」
「新兄ちゃんは、今年の春に私が企画部に配属されるのを知って、私に言いました。
白石アンナに、イトコだって事を黙っててほしいって」
……え?
胸に何かが刺さった様な衝撃がして、私は咄嗟に左手を胸に当てた。
「ど……どう、して?なんで?」
加奈ちゃんは首を振った。
「すみません!!これ以上は、私の口からは言えないんです!でも私、アンナ先輩に嘘をつき通せなくて。どんどんやつれていくアンナ先輩を見ていられなくてっ」
加奈ちゃんは手に持っていた白い筒を私に手渡した。
「新兄ちゃんはこの画を、『失敗したから要らない』なんて言ってたけど、絶対嘘です。 私どうしても先輩に見てもらわなきゃと思って……。
先輩、本当にすみませんでした。新兄ちゃんの事……私、もう行きます」
加奈ちゃんは足早に部屋を出ていった。
私は力が抜けて、ペタンとリビングの床に座り込んだ。
……加奈ちゃんが、新太のイトコなのは分かった。
けど新太は、なんで恋人だと嘘をついたの?
どうして、私にイトコだってことを内緒にしたの?
なんで加奈ちゃんはあんなに辛そうに泣いてたの?
分かんない。まるで分かんない。
私は床に座り込んだまま、加奈ちゃんに手渡された筒状の分厚い紙を見つめた。
新太の部屋にあったものなの?それを、どうして私に?
私はクルクルとその分厚い紙を広げた。
「っ……な、んで」
画の事はまるで分からないけれど、これが普通の画用紙じゃなくてケント紙で、サイズは四つ切りなのは、分かった。
よく、新太の買い物に付き合ってたから。
そしてそれが、鉛筆で描かれたデッサンであることも。
それから、その描かれた人物が私だということも。
ケント紙の中の自分を、私はひたすら見つめた。
何だか、私であって私じゃないみたいだ。
首を傾げて微笑んでいるのは確かに私なのに、その表情は何だか他人に思えた。
私は新太の描いたデッサンを見ながら、いつかのやり取りを思い出していた。
『新太、何でこんなに鉛筆いるのー?めちゃくちゃいっぱいあるじゃん』
『デッサンに使うんだ。色んな濃さの鉛筆があるんだ。ほら見て。ここに6Bから4Hまであるよ』
『ふーん』
『アンナ、モデルになって』
『いいよ』
『じゃ、脱いで』
『バカ!新太の変態!』
『はははは』
……会いたい、新太に会いたい。
会って、仲直りしたい。
そう思うと居ても立ってもいられなくなって、私はマンションを飛び出した。
新太の住んでいるマンションは、私のマンションより北側にある。
徒歩で約5分。
私は早足で新太のマンションを目指した。
帰ってるだろうか。
水曜日は大抵、新太は残業しない。
私はそっとインターホンを鳴らした。
『はい』
「新太、私」
『……なに?』
抑揚のない新太の声が、ぐさりと胸に刺さる。
「話がしたいの」
『……丁度出掛けるところだったから……降りるから待ってて』
少し息をついてそう言った新太の声が途切れ、私は両手を握りしめた。
新太は、仲直りしてくれるだろうか。
胸が痛くて苦しくて体が震えそうだった。
新太はすぐに姿を現した。
服装は今までと変わりなかったけれど、今風の髪型や、眼鏡をしていない顔は、私の知らない新太みたいで、何だか凄く遠くに感じた。
新太は私をちらりと見ると、マンションの脇の花壇のブロックに腰を下ろした。
「なに」
冷たい声にくじけそうになる。
私はカラカラになって、痛く感じる喉を必死で押し開いた。
「新太と仲直りがしたい。さっき、加奈ちゃんが来たの。新太のデッサンをもらった」
「あれは、駄作だ。捨てといて」
その言葉が私を拒絶しているようで、思わず俯いた。
新太が大きく息をつく。
「話はそれだけ?」
全身に氷水をかけられたように体が冷たくなって、私は両手をきつく握った。
新太は私から眼をそらしたまま、静かな声で言った。
「仲直りって?」
「…………」
新太が笑った。
「また、前みたいな関係に戻ろうって?」
私は恐る恐る新太を見た。
彼は私を真っ直ぐ見つめていた。
「もう戻れない。もうだめなんだよ、アンナ。俺達は間違ってた」
私は何も言えなかった。
だって、新太が正しいから。
ただの同期入社の私と新太は、それ以上の関係だった。
友達や親友の間に、体の関係なんて発生しない。
なのに、私は新太と寝た。
けれど、私達はお互いに恋愛対象外で。
「あんな関係は、もう終わりにしよう」
新太は、もう私のいない世界で生きようとしてるんだ。
だとしたら、それを邪魔しちゃいけない。
ゆっくりと、新太は私の真正面に立った。
私は新太を見上げた。
新太の精悍な頬も綺麗な瞳も、全部覚えていようと思って。
大きな体も、何もかも。
「分かった。ごめんね、新太。
新太といると凄く居心地が良くて、私、甘えすぎてたよ。本当にごめん。
それから……今までありがとう」
涙声になるのを必死で抑えたけど、最後は声が震えた。
一瞬だけ新太の驚いた顔が見えたけど、私は素早く身を翻した。
「アンナ!」
新太が私の腕を掴んだ。
反動で体がぐらつき、頬に新太の胸が当たる。
「アンナ、アンナ!」
「…………っ!」
ギュウッときつく抱き締めて、新太は私を見つめた。
な、んで。
苦しげな新太の顔と抱擁。
「アンナ、アンナ」
堰を切ったように私を呼ぶ切ない声と、熱い彼の身体。
「し、んた」
驚いて見上げた私に、新太は斜めに顔を近づけた。
懐かしい、甘い唇。
さらうように、それでいていとおしむように、新太は私にキスをした。
「さよならの、キスだから」
「新太……」
「アンナ、ばいばい」
新太はフワリと私から離れると、ゆっくりと去っていった。
「新太!」
新太は振り向かなかった。
「新太!」
私の声は、空虚に響いた。