喧嘩と裏切り
「白石、お前、ちゃんと食ってるのか?」
は?
チラリと私を見た後に、思いがけない言葉を投げ掛けて、三崎課長は手元の資料に視線を落とした。
「なんですか?」
「最近、痩せたようだから」
「…………」
なに、この会話。
確かに、私は最近痩せた。
3キロは痩せたんだけど、それを三崎課長に指摘されるとは。
「もう上がりだろ?飯でも食いに行かなかいか?おごってやる」
「え?」
私は企画部のオフィスを見回した。
金曜日は残業手当がつかないため、私と三崎課長以外誰もいなかった。
「間抜けな声を出すな」
いやだって、正気か、この人。
「二人で、ですか」
私がそう言うと、三崎課長はスッと立ち上がり私を真っ直ぐ見つめた。
「嫌か?俺と二人だけは」
……それはこっちの台詞だよ。
三崎課長……、三崎翔矢は、私よりも7歳上の32歳。
仕事は出来るし、スラリとした長身と涼やかなイケメンのせいで、社内の女性から圧倒的な人気がある。
けれど、何故か『俺に寄ってくるなオーラ』があからさまに出ているものだから、皆、指をくわえて見ている感が否めない。
そんなイケメンが、私と二人で飯?!
しかも課長は普段から私に冷たい。
加奈ちゃんとか、菜々子先輩には優しいのに、私には冷たいしニコリともしないのだ。
もしかして私、リストラなんだろうか。
「課長……もしかして私、首ですか」
私が上目遣いでそう言うと、彼は一瞬口をポカンと開けて、すぐに眉を寄せた。
「バカか。お前を首にしたら、大打撃だ」
「へ?」
「飯食いに行くぞ。早く支度しろ」
「はい……」
◇◇◇◇
二人で会社を出て並んで歩いていると、不意に課長が身を屈めて、私の顔を覗き込んだ。
「寒くないか?」
「はい」
「何が食いたい?」
私は課長をマジマジと見つめた。
「大丈夫ですか?」
課長は、あからさまに眉を寄せた。
「お前、失礼なヤツだな」
私は立ち止まった。
「白石?」
「……いえ、なんでもないです」
だって、不気味なんだもん。
課長は相変わらず眉を寄せたまま私に歩み寄ると、ガシッと手を握った。
「希望がないなら、俺の行きつけの店、連れていく」
うわっ!
グイグイと手を引かれて、私は三崎課長の行きつけの店へと入った。
「座れ」
「はい」
大通りから一本北に入った、狭い通りを更に北に入り、路地裏に進んだ先にある料理処。
「何でも好きなものを食え」
「はあ」
……多分、会話が弾まない気がします……。
私は何だか物凄く居心地が悪かったから、課長に思いきって言った。
「課長、お酒飲んでもいいですか?」
三崎課長は私を見つめると、フッと笑った。
「いいよ」
ドキンとした。
だって、『いいぞ』じゃなくて『いいよ』だったから。
課長は、私に会社の顔とは違った顔を見せた。
何だかそれが新鮮で、結構楽しかった。
「課長、ごちそうさまでした。課長、お酒強いですね」
店を出て大通りを目指しながら、私が悪戯っぽく笑うと、課長は綺麗な顔を私に向けた。
「弱く見えてたか?」
「ははは。そんなこと、考えた事ないですよ」
「考えてくれないか、これから俺の事」
「は?」
二人だけの路地裏で立ち止まり、ボケッと課長を見つめていると、課長はあからさまに嫌そうな顔をした。
「お前、鈍いのか」
……鈍いんじゃなくて、あんたがビックリさせてるんだよっ。
「そんなに見つめるな」
言うなり課長は、フワリと私を胸に抱いた。
「アンナ」
ドキンと鼓動が跳ねて、私は課長の胸の中で身動ぎした。
「心の中で、ずっとそう呼んでた」
早鐘のような心臓が煩くて、どうしたらいいか分からなくて、私はただただ課長の厚い胸に抱かれていた。
路地裏まで聞こえる何処かの音楽が、やけに良く聴こえる。
「アンナ、好きだ」
「か、課長……あの、あの私」
課長が僅かに身を離して、私の目を覗き込んだ。
「ん?なに?」
課長の涼やかな瞳と、通った綺麗な鼻筋。
それらが凄く近くにあって、私は不思議な気がしてならなかった。
「みんなに、見られます」
「かまわない」
かまわないのかよっ!
私はどうすりゃいいのーっ。
もう、恥ずかしいわ不思議だわで、私はアタフタと狼狽えた。
そんな私を見て、課長は照れたように笑った。
「この間の、サンプルの件、寺田から聞いたよ。頭ごなしに悪かったな」
わたしは、首を振った。
「いえ、あれは私のミスです」
課長は、思いきったように言った。
「ずっと、お前が気になってた。俺との事、考えてみてくれないか」
課長との事……?
「は、い……」
そうしか、言えなかった。
課長は私の額に唇を押し付けてから、体を離した。
「送るよ」
「ありがとう……ございます」
それから私達は、まるで散歩をするようにゆっくりと歩いた。
課長は私の手を離さなかったから、私も素直にそのまま歩いた。
街はとても賑わっていて、手を繋いで歩く私達を、誰も気にしてはいなかった。
街路樹に絡められたライトがとても綺麗で、なんだか私達は恋人同士みたいだった。
「課長、もうここで結構です。ありがとうございました」
いつも新太と別れていた交差点で、私は課長にそう言った。
「そうか。じゃあ、また明日」
「はい」
課長は私の手を離さない。
「あの、課長?」
「アンナ」
「……っ!」
勢いよくその手を引かれ、私は課長に抱き締められると同時に、キスをされた。
唇に課長の大きな唇が重なり、私は眼を見開いく。
多分、3秒くらい。
「おやすみ」
課長は、少し微笑んでから踵を返した。
私は暫く呆然とその後ろ姿を見つめていた。
どれくらいそうしていたのかは、分からない。
だけどなんだか急に寒くなって我に返った。
……帰ろ。
ゆっくりと体の向きを変え、私はトボトボと歩き出した。
交差点を渡ると、大通からそれる為か、人通りが極端に減る。
その時、街路樹の脇から見知った顔が現れた。
背が高く、ボサボサ頭の眼鏡のアイツ。
「新太?!なにやってんの?」
なんだか凄く久し振りな気がしたから、私は少し笑った。
「なんか、久し振りだよね。どうしたの?」
新太は何故か黙りこくったまま、私の真正面に立ち、唇を引き結んでいた。
「なに、どーしたのよ?今日は加奈ちゃんと一緒じゃないの?」
新太は答えない。
私は新太の腕を掴んで揺すった。
「ねえ、新太ってばっ」
それから新太の眼鏡越しの瞳を見上げる。
「新太?!」
「アンナって三崎課長嫌いじゃなかった?なんでキスしてんの」
新太の声は低く、冷たかった。
「へ?」
私はビックリして、新太の腕から手を離そうとした。
その手を素早く新太が掴んだ。
「なあ答えて、アンナ」
「新太?」
「アンナってば。なんでキスしたの」
口調は静かだけど、怒ってるのが私には分かる。
「新太?私からキスしたんじゃないよ、されたんだよ」
「関係ない!キスしたのは確かだろ?!」
新太が声を荒げた。
私はビクッとして肩をちぢめた。
混乱して思わず息を飲む。
だって、なんで新太が怒るの?!
なんで怒られてんの、私。
「なに怒ってんの」
驚きのせいか声が掠れたけど、そんなのどうでもいいといったように、新太は私を引き寄せて至近距離から睨んだ。
「拭け」
「え?」
「唇、拭けって!!」
新太が私の首に片腕を回して、もう片方の袖を私の唇にあてがうと、乱暴に擦った。
「痛っ!痛いよ新太っ!」
袖との摩擦で、私の唇は一気に熱くなった。
「痛いってば、新太っ!」
その時、新太が乱暴に私の頬を掴んだ。
眼鏡の奥の瞳が苛立たしげに光っていて、私は眉を寄せたまま、それを見つめた。
「俺とのキスより、良かった?それとも、もうヤったわけ?感じた?イッた?」
「し、ん」
ヒリヒリと痛む私の唇に、新太が自分の唇を寄せて乱暴に塞いだ。
嘘でしょ。
私は暴れた。
ふたりに距離が生まれ、唇が離れる。
私はすかさず叫んだ。
「加奈ちゃんに悪いって思わないの!?」
「思わない」
斬って捨てるように、新太が冷たい声を放った。
「な、んで」
新太はこんな人だった?
出来たばかりの恋人を裏切るような男だった?
なんなの?なんで?
「新太、どうしたのよ!?変だよ、新太。私達はもうそんなんじゃないでしょ?」
新太は拳を握りしめたまま、私から顔を背けた。
「あんた、加奈ちゃんと付き合ってるんでしょ?!なのに、こんなのダメじゃん!」
「俺の事はどうでもいい」
はあっ!?
「どうでもよくないわ!加奈ちゃんと」
私の言葉を新太が遮った。
「三崎課長と付き合ってんの?」
「付き合ってないよ」
新太が意地悪そうに笑った。
「じゃあ、なに?俺に恋人が出来たから、三崎課長が、代役って訳?」
「はあっ!?」
新太が一歩ずつ私に近付く。
「愛とかないのに、一緒に飯食って、DVD観て、買い物行って、セックスすんの」
新太が再び私の二の腕を掴んだ。
「答えろよっ!」
「いい加減にしろっ!!新太のバカッ!」
新太が、我に返ったように眼を見開いた。
「新太……」
新太は小刻みに頭を左右に振ると、苦しげに顔を歪めた。
「アンナ……」
足早に新太は去っていってしまい、私はガタガタと震える体を自身の腕で抱き締めた。
ポツポツと雨が降り始めていたが、私は全く気付いてはいなかった。
◇◇◇◇
翌日、私は加奈ちゃんの眼を見れなかった。
加奈ちゃんの恋人である新太と、キスをしてしまったから。
加奈ちゃんはいつもと変わらない様子だったけど、私は必要以上に彼女と関わることはなかった。
三崎課長もいつも通りで、彼を見ていると昨日の事が嘘みたいだった。
……今日は早く帰って寝よう。
何だか疲れてるし。
……総務課、行かないと。
私はパタンナーとの打ち合わせでいない菜々子先輩の為に、領収書を総務課へと届けに向かった。
エレベーターが私達企画部のある3階に止まり、扉がゆっくりと開いた瞬間、私は息を飲んで硬直した。
エレベーターの中に、新太がいたから。
新太に言われた言葉が甦る。
『 愛とかないのに、一緒に飯食って、DVD観て、買い物行って、セックスすんの』
新太も私を見て僅かに息を飲んだ。
今エレベーターに二人きりはキツイ。
私は素早く踵を返した。
階段に向かいながら、唇を噛み締めた。
……なんでこんな事になっちゃったんだろ。
新太に恋人が出来たから?
その恋人が、加奈ちゃんだったから?
私が三崎課長に告白されたから?キスされたから?
どれも違う気がするし、どのせいにも思える。
新太と、もう二人で会うことはない。
鳥姫で、焼き鳥を食べビールを飲み、愚痴をこぼし合うことも。
そう思うと、胸がグーッと重かった。
◇◇◇◇◇
週末、私は街に出掛けた。
理由は……三崎課長に、映画に誘われたから。
独りになると、新太と仲たがいした事ばかり考えて、苦しくなる。
お互いに長い間恋人がいなかったために、馴れ合いすぎたのだ。
けれど、新太には恋人が出来た。
もう、友達以上の関係は終わりにすべきだ。
三崎課長の誘いは素直に嬉しかった。
だって気が紛れる。
新太の事を考えなくてすむ。
劇場の前で、三崎課長の姿を見つけた。
「課長!」
私が走り寄ると、課長は決まり悪そうに口元に忙しなく手をやり、私を困った顔で見た。
「課長はやめろ」
「あははは!すみません。三崎さん、何が観たいですか?」
私がそう言うと、課長は人混みも気にせずに私を引き寄せて、腰に手を回した。
「いつか、翔矢って呼んでくれるか?」
「か、ちょう……」
「アンナ」
課長が綺麗な唇を私の頬に寄せた。
「んっ、くすぐったい」
思わず首を縮めた時、信じられない光景が眼に飛び込んできた。
加奈ちゃんがいたの。
彼氏と。
腕を組んでにっこり笑っている加奈ちゃんは、相変わらずウルウル系女子だった。
でも、違ったの。
彼氏が、新太じゃなかった。
動揺する私になどまるで気付かず、加奈ちゃんは、彼氏にキスをされてフワリと微笑んだ。
「アンナ?」
「あ、ごめんなさい!」
私は我に返って三崎課長の整った顔を見た。
「私、なんでもいいですよ」
「じゃあ、これにしよう。時間も待たなくてすみそうだし」
「はい」
いつの間にか、加奈ちゃんの姿は消えていた。
私の動揺は、映画中も収まらなかった。
……まるで意味がわからない。
なんなの?!
加奈ちゃんが新太に告白して、二人は恋人同士になったんだよね?
まだ、飽きるような段階じゃないでしょ?
なのに、なんで他の人とイチャついてんの!?
意味分かんない。
加奈ちゃんが、二股掛けてるの?
だとしたら、許せない。
新太に、そんな事するなんて、許せない。
確かめなきゃ。
確かめなきゃ。
私は加奈ちゃんに真相を確かめる決心をした。