第6章 郭公の子供達
私にとっては最も懐かしい声音に、体を覆っていた重い固まりが動きを止めた。男が上半身を起こし後ろを見遣る。その隙間から、私はずっと見たかった私の半身が見えた。
涙で歪んでいた視界が徐々に鮮明になる。鏡で見るよりも、自分を正確に写し出す。白いシャツにジーンズというラフな格好。何よりも見慣れたはずの顔は凍ったように固まっていた。
でもね、ほらね、生きてた。
「どうして、篤子が二人いるんだ?」
スギの問いに凍った顔がさらに冷たい笑顔に変わった。
「ソレは、篤子じゃないわ」
男に全身の体重を掛けられたままの私を、この世で一番見慣れた顔が、生まれて一度も見たこともない表情で笑う。私は溢れるはずの言葉を呑み込む。冷たい笑い声が私を凍り付かせたのだ。
「本当に馬鹿な子。こんな所にまで来るなんて」
「どういうことだ?」
男の不審そうな声に篤子は肩を顰める。
「椎名薙子よ」
「薙子?確か火事で死んだんじゃないのか?」
男の手は私から離れていたが、私はそれに気付くことさえなかった。今まで二四時間以上離れたことのなかった私の半身は、二ヶ月という時間に別の人間になったのか。
『篤子は死んだ』?
この人は、違う人間?
チガウ。
知らなかっただけ?
これが本当の篤子?
チガウ。
「そうよ。『薙子』は死んだわ」
ずっと近くにいて、誰よりも分かっていた。チガウ。体の一部とさえ思っていた。チガウ。だから、誰よりも好きで、誰よりも憎んでいた。ウソだ。ワカラナイ。
「だから、ここで既に死んだ人間がどうなっても誰も咎めないわ。そうよ。たとえ死んでもね」
冴え冴えとした顔。この世の誰よりも何よりも一番長く見てきたその顔は、そんな表情をいつから作るようになったの?
私の知っているその顔はいつも笑顔だった。甘い笑顔。そして、悲しい微笑み。
では、今見ている、その笑顔は?
男の物理的な呪縛から解き放たれた事すら気付かぬ内に、私は得体の知れない氷の呪縛に掛かっていて思考は完全に麻痺していた。
停止した脳に流れ込む声。
「スギ。あの男に最後の晩餐でも持っていってあげて。コンビニのおにぎりだけどね。手も足も解いたらダメよ。スギが食べさせて」
「チッ。トイレも食事もかよ」
ニッコリと篤子はスギに何か手渡す。
「お〜ぉ。X?パープルじゃんか」
「オランダ人のバックパッカーに貰ったの」
「とっとと、殺っちまおうゼ。あのオヤジ」
「ねぇ、スギ。この近くにダムがあったよね。手足を縛って生きたまま落っことそうか?」
会話の意味を理解する毎に、掛けられた呪縛が同じ堅さと冷たさを持つ氷に壊される。篤子がスギの手を借りて、加治さんを警察から助けたのは殺す為。スギが部屋を出ていき、篤子は後ろ手にドアを閉めた。
「殺すの?加治さんを殺すの?」
篤子は黙ったまま、ベッドに座り込んでいる私を見下ろす。
「悠里のため?どうして篤子が人生をメチャメチャにして復讐する必要があるの?」
「悠里は、私であり、あなただから」
ソレは、血を分けた姉妹だから?
「ナッちゃん。本当に馬鹿なのはナッちゃんの方よ。分かっているの?」
篤子の冷たい瞳の中に、昔の、そんな昔ではないはずの悲しい色が滲んだ。
「私は、『椎名篤子』は死んでない…」
懐かしくて悲しい光は間もなく消え、代わりに冴え冴えとした眼光に私は晒された。
「ナッちゃんが、いなくなれば私は『篤子』に戻れる」
砕け散った自身の思考回路を掻き集めるのに、どれほどのエネルギーを要しただろうか。
「その為に…?」
私の口からこぼれ落ちた声は空を彷徨う。
『薙子』と『篤子』を入れ替えたの?
彷徨った言葉は最後まで音として成立する事なく肺に淀んだ。『薙子』と『篤子』を入れ替えたのは篤子でも、『薙子』を抹殺したのはワタシだった。目覚めた時、自分が薙子だと言えば、いくら勘違いされていたとは言え、『薙子』を殺すことにはならなかった。これから、篤子が殺すのは『薙子』ではない。
だとしたら、ワタシは何者?
「ナッちゃん」
そう言って、足を一歩近付けた篤子に私はビクッと体で反応した。その反応に篤子は目を反らした。反らした目の端に懐かしい光が滲んでいるような気がした。篤子はベッド向こうに供えられたテーブルに近付いた。散らかった白い粉と注射器を禍々しく睨み付けてから、ソレより先にあるチェストを見下ろす。
蒼い箱があった。どこか見覚えのある箱をそっと開ける。
ポロン。
ゆっくりと奏で始められた曲に、私の家にある緑のオルゴールを思い出す。
「悠里の…、正確には悠里の母親の形見」
ジッとオルゴールを見つめたまま篤子は目を細めて呟いた。悠里の母親である桐子さんは、母さんに緑のオルゴールをプレゼントし母さんは桐子さんに、その蒼いオルゴールをプレゼントしたのだろうか。
「ナッちゃん。知ってる?郭公は託卵性と言って自分で生んだ卵を自分では育てないの。ホオジロやモズの巣に卵を産み付けるの。ホオジロやモズは巣に卵を産み付けられたら、カッコウの子供を自分の子供として巣立つまで育てるわ」
確か同じ事を哲平が行っていた。悠里は自分を郭公の子供だと言っていたと。カッコウの優しいメロディーが耳にまとわり付く。
「巣に産み付けられたカッコウの卵は、その巣の正式の持ち主であるどの卵よりも早く孵るの。そして、カッコウの雛は義理の母親の愛を独り占めにする為にどうすると思う?」
返事を待っている風でもない篤子はジッとオルゴールを睨んでいるが、その瞳にはオルゴールが写っていない。恐らくその耳にもこのメロディーは届いていないだろう。
「カッコウの雛は、義理の母鳥が餌を探し求めている内に、その母親が生んだ本当の卵を巣から落とし始めるの。生まれてから3日間、カッコウの雛は卵を落とそうと必死で藻掻く。それは誰かに教えられたわけじゃない。DNAに植え付けられた本能の働きなの」
寝室に充満するメロディーは徐々に速度を緩める。
「このオルゴールの絵は、カッコウじゃないね。カッコウはこんなに綺麗じゃないモノ」
篤子が睨み付けているのは、現実。
篤子に聞こえているメロディーは、真実。
ポロン…
静かにメロディーが時を止め、深い静寂をもたらす。
「もう、戻れない…」
篤子の視線は、暗い深淵を覗き込み過ぎて悲痛を帯びている。それは痛すぎる。
「この体は、汚れちゃたから」
錯覚?篤子の手が赤く濡れている。私は首を振り幻影を解き放って言った。
「戻りたいの?『篤子』に戻りたいの?」
私を殺せば篤子は『篤子』として生きていける。しかし、篤子は首を振った。
「『篤子』は、元々汚れていた…」
篤子の指がオルゴールを持ち上げ底に付いたネジを巻いていく。二度と戻らない時を戻すように。篤子が戻りたいのは、昔々、遠い昔。鳴り始めたメロディーに私はそう思った。
(二人だけの秘密ね)
懐かしい情景。
(二人だけの宝物)
もう、戻らない優しい日々。
「帰ろう…。篤子、一緒に帰ろう」
こんなに普通でどこにでも溢れている言葉を言った。誰にでも出来るはずのことを言った筈だった。
「どこに帰るの?」
だから、言葉を失った。『家に』と言いたいのに、帰る家はどこにもなかった。篤子が燃やした。シアワセの形をしていた家は、どこを探しても見当たらない。アレは、幻だったのだろうか。あの家族の風景は、綺麗な張りぼてだったのだろうか。
「もう、戻れないの」
カッコウのメロディーは篤子の言葉を消し去るほど大きくない。
「もう、止められないの」
篤子がゆっくりとベッドに座る私に近付いてくる。篤子に聞こえる音楽はオルゴールのように蓋をすれば止まるメロディーじゃない。篤子はズボンのポケットから小さな小瓶を取りだした。私は呆然と見ていた。私には篤子を止められないのだろうか?
透明な液体が入った小瓶の蓋を開け、篤子は一気に口に含んだ。
「篤子?」
ビックリして叫び、ベッドから立ち上がろうとした私は、完全に止まった。
唇に柔らかい感触を感じ、初めて篤子をこんなに間近に感じた。篤子の右手が首の後ろを支え、左手が私の腰に回っている。篤子の口から、暖かい液体が流れ込み喉を焼け付くように素通りしていく。
「何を…?」
解放された唇から出ようとした言葉は音にならなかった。篤子の手が背に回り私は抱き寄せられたから。強く、そして、優しく。
篤子の懐かしい香り。母親の胎内にいるときも二人はこうやって抱き合っていた。
喉に通った液体は、甘いココアの香りだったかも知れない。そんな有り得るはずもない事を考えている内に私の意識は、どんどん遠くへと、遠い昔へと落ちていく。
「ごめんなさい」
それは、意識が消える度に引きずられた篤子の夢。謝らないでと必死に頼む私。それが無意識に見た夢なのか、現実に聞いた篤子の声なのか。
「そして、さよなら」
もう、私には分からなかった。カッコウのメロディーが悲しげな音を紡ぎ続けている。
(ぜったいに誰にも言っちゃダメだよ)
小さな手がパタンと蓋を閉じ、メロディーを封じ込めて言った。
(うん。二人だけの秘密ね)
泥だらけの篤子の笑顔。
大好きだった。
小学生の初めての夏休み。
(ナッちゃん)
(なーに?)
(だーい好き)
篤子の笑顔。
その笑顔が変わったのはいつだった?
(大好き)
(止めてよ!どこの高校に行こうが篤子の勝手でしょ)
一気に膨らむ負の感情。
(ごめんなさい)
そんな顔しないで。
そんな悲しい顔、見せないで。
お願い。篤子。アッちゃん…
(アッちゃん。アッちゃん)
(なーに?)
(アタシもねアッちゃんのこと…)
大キライ。私と同じ顔を持っていながら、寸分も一致しない中身を持つ。誰からも好かれて、誰からも愛されていた。
だから、憎くて仕方なかった。
母さんからも、父さんからも愛されていた。
篤子は愛されていると思っていた。
あの家庭は、幸せを絵に描いたような家だと思っていた。
(違う。私は篤子じゃない)
ワタシはくだらないホームドラマの視聴者。つまらない台本を描いた三流の脚本家は誰よ。全部ウソだったなんて、幻だったなんて。『篤子』はワタシの幻?
甘いココアの中身は何?
懐かしい笑顔が遠くから私を見つめている。ドラマの主人公はいつも優しい笑顔の『篤子』。空間に流れる優しいオルゴールの音。音が風に乗り『篤子』に届く。
篤子の笑顔が、氷点下に凍り付く。
笑顔のまま凍り付いた篤子に追いつこうと私は足を踏み出そうとするが、地面から生き物のように生えてきた氷が足下から自由を奪っていく。胸まで伸びてきた氷を振り解きたいのにそれも叶わない。伸ばした腕までが冷たさ一つ感じられない氷に縛られていく。凍り付いた篤子の笑顔はピクリともしない。
「篤子。そんな顔で私を見ないで!」
凍り付いた篤子は、私の声など聞こえないように柔らかな微笑みを私に向けてくる。
「アッちゃん!」
瞳から溢れ出た涙は頬から滑り落ちた。加速度を付け落ちる涙が、氷点下に見る見るうちに凍り付いた。真珠よりも重さを増した涙が鉛の如く地面に突き刺さる。
ピシッ
足下に突き刺さった一点から、氷の大地にひびが入る。入ったヒビが、命を持った如くに走り出した。ヒビは迷うことなく、そこへ進む。氷の像と化した篤子の足下にヒビが辿り着くと、最初からそれが目的だったように篤子は足下から崩れ出す。足下からボロボロと音もなく崩れ出す篤子は、それでも優しく微笑みを掛ける。
「イヤーーーーーー。止めてーーーーー」
(もう、止まらないの)
「イヤーーーーーー」
パシッと頬を打たれる感覚。
腕を支配した氷が、砕ける。
「薙子さん」
両頬を、強くない力で打たれる。全身の氷がパッと砕け、呪縛が解かれた。見開いた瞳に、心配そうな老女の顔。
「やはり、一人で行かせるんじゃありませんでした。こんな事になるのなら」
「篤子は?篤子はどこ?」
上半身を起こし、激しく叫んでいた。園田さんの目が大きく見開かれる。
「やはり、篤子さんはここにいたのですね」
「見ていないのですか?」
園田さんは頷き、タオルで私の顔を撫でる。私は激しく息をし、全身汗だくだった。
アレは全て夢だ。そう思おうとした。
「一時間過ぎても来ないので、約束通りにここに来ました。インターホンを押しても誰も来ないので不安になって、勝手に入らして貰いましたが、誰もいないようですね」
「誰もいない?」
回りを見渡す。開かれたままのオルゴールを見る。音楽は終わっていた。
「篤子さんは、どこに行ったのですか?」
「そんなの分かりま…」
ダムだ。加治さんを殺す気だ。
「この近くにダムはありますか?」
「確か地図にあったと思いますが、そこに篤子さんがいるのですか?」
「いるわ。哲平ならここに来たときあるから場所を知っているかも知れない」
オルゴール。悠里の形見、大事なモノの筈。それをここに置いていく意味。
もう、戻れないと言った。
戻れないんじゃない、篤子は戻らない気だ。
篤子は私を殺す気など最初からなかった。
殺す気なら、睡眠薬なんか飲ませて、ここに置いていくはずがない。ベッドから起きあがろうとして、足下がふらついた。
「大丈夫ですか?」
慌てて園田さんが私の体を支える。睡眠薬が未だに効いているのだ。
「大丈夫です。先に車に戻って、哲平を起こして、ダムの場所を聞いて下さい」
自分で眠らせて置いて、起こすのも悪いが、今は哲平の気持ちなんかどうでも良かった。園田さんが頷いて、それでも心配そうに私を振り返ってから部屋から出て行った。私は何とか足に力を入れて立ち上がった。ベッドからオルゴールの置かれたチェストまで遠くはない筈だが、少し時間を掛けてしまった。これは持っていきたかった。大切なモノだから。二つあって初めて意味を為すモノだから。
宝物だから。
延ばした手が空で止まった。開かれたオルゴールの中に古く茶色になった封筒が二つに折られ中に収まっていたのだ。篤子が見つめていたのはこの封筒?
篤子が見つめていた事実。
封筒を手にする。宛名は、『長谷桐子』。『長谷』とは、母さんが結婚する前の性だ。差出人は、『椎名夕子』。母さんの結婚後の名前。
母さんから悠里の母親に送られた古い手紙。
唾を飲み込み、封筒に指を滑り込ませた。
最初に指に触ったのは、一枚の写真だった。それは見慣れた写真。幼い私と篤子が並んで笑っていた。二,三歳の頃の写真だろうか。次に封筒と同じように黄ばんだ便箋を取りだし、文字に目を這わせる。
『桐ちゃんへ
手紙を読みました。始めにハッキリしておきます。篤子も薙子も正真正銘、私の子供です。3年前、あなたがしたことは許されることではありません。しかし、そこまで追いつめてしまったのは私ですね。あなたが罪の意識を持って、3年間過ごしたことはどれだけあなたを傷つけたでしょう。でも、今更、それを告白されて、どうしようと言うのでしょうか。篤子と薙子は私の子で、悠里は間違いなくあなたの子です。
あなたから子供の父親を奪ったのは私です。ですが、その復讐を生まれたばかりの赤ちゃんを入れ替えると言う正気を失った行動に走り、自らの子供を巻き込んだあなたを私は許しません。その罰として、もう二度とこのようなことを口にせず一生心に留めて置いて下さい。私も罰として一生その事実を表に出しません。
あなたが、私の篤子と薙子を見たことあるかどうか知りませんが、私の子供達の写真を同封します。そっくりでしょう?誰一人として、双子ではないと疑ったことなどありません。母親である私自身、間違うことがあるほどです。あなた自身、実の娘がどちらか分からないでしょう?とにかく、約束して下さい。これは、二人だけの秘密です。夕子 』
「酷いよ。オレを眠らせるなんて」
玄関に付けたバンの前で、腕を組んで哲平が私を睨み付けた。私が近付くと、怒った顔は心配そうな表情に一変した。
「ナッちゃん、真っ青だよ」
「薙子さんは睡眠薬を飲んでいるんです。今は普通に歩くのもやっとな筈です」
本当の理由は違ったけど、勘違いしてくれた園田さんに感謝した。
「大丈夫か?」
そう言って私の手を引いてくれる哲平もやはり私に飲まされた薬が効いているはずだ。
「ダムに早く行きましょう」
「あぁ、ここから車で行けばそう遠くない」
そう言いながら、哲平は車に私を導いた。
車が動き出してから、哲平はポケットに手を入れ携帯を取り出した。
「一応、青木さんに連絡入れとくよ」
「どうして?」
私は短く返した。哲平に心臓の鼓動を聞き取られないように、自分の焦りを読まれないように。園田さんにも、加治さんがそこで監禁されていたとは言っていないはずだ。篤子が罪を重ねる前に止めなければならない。でも、たとえ止められたとしても、警察が介入してくれば、篤子は無傷ではいられない筈だ。間違いなく逮捕される。
「どうしてって…」
返答に困った哲平を見ながら、もう一度眠ってくれればいいのに、と都合のいい事ばかり考えてしまう。結局、哲平は青木さんにばかり連絡をする自分が恥ずかしくなったのか電話をやめた。
「で、スギは篤子と一緒にいたのか?」
顔に表情を出さないように、軽く頷く。
「何で一緒だったんだ」
ドラッグを餌にスギに警察の手から加治さんを奪う手助けをさせる為。
「どうして、ダムなんかに行くんだよ」
加治さんを殺す為。
「あそこは大して景色も綺麗じゃないし、遠いし周り何もないから観光客も滅多に来ないようなところだよ」
だから、だ。人気のない所だと知り、ここを選んだのだ。スギの別荘を知っていてスギに近付き、持っていたドラッグをちらつかせ、ここまで来たに違いない。スギの方もかなり中毒症状が出ているから、警察にも言わないだろうと踏み、巻き込んだのだ。
「ナッちゃん。何だよ。答えろよ」
思いっきり、不機嫌な表情を出す前に園田さんの助け船が出た。
「倉本君。薙子さんは薬を飲まされて頭痛が酷いようです。そこまでにして置いて下さい。」
運転しながらバックミラー越しに哲平を説き伏せる。園田さんには読まれている。どこまで私の心を見透かしているか分からないが、ただ不安の入り交じった瞳で私の方をチラリと見る。まだ聞き足りないことばかりだろうが哲平は渋々口を閉じた。それを確認したように小さな溜息が運転席から聞こえた。
善良で常識のある大人から見れば、園田さんの行為が間違っていることは一目瞭然であるだろう。それでも、園田さんが私や篤子の言う通りにしてしまうのは、彼女も知っているからだ。聖書の教えを信じる彼女だからこそ知っているのかも知れない。
警察、つまり法律は決して人を助けるには万能ではないことを。園田さんがしたことも篤子がしたことも、日本に住むためには守らなければいけない約束を破ったのだ。破れば当然罰せられる。秩序という線を引くことによって、確かに私達は守られている。それでも、人は助けを必要としている。心が軽くなる魔法を、呪文を捜し続けている。
私も自己嫌悪と名の付く深い沼にはまった自分の手を引いてくれる暖かな手を、求め続けていた。足に絡み付いた水藻を解く内に、深い闇を見すぎてしまう内に、泳ぎ方を忘れ、助けられることばかり考えるようになった。
篤子は?
彼女こそ必死で笑顔を作り、今にも崩れ落ちそうな我が家を守ってきたのではなかったのか?ずっと、助けを必要としていたのは篤子だったのでは?
双子の姉妹。
疑いようのない事実だった。
何て脆い血の繋がり。どんなに微笑んでも風が吹けば一瞬にして崩れ落ちる繋がり。
郭公の雛を自分の子と信じて育て続けるホオジロの親は、もし、それが我が子ではないと知ったら、今まで育てた郭公の雛を巣から突き落とすだろうか?昔、カッコウの雛が我が子を突き落としたように。
「もう少しで着きますが、篤子さんはどの辺りにいるか見当は付きますか?」
「分からないけど、この辺で降ろして下さい」
「オレも行くからな」
横目で怖いほど睨まれれば、イヤとは言えない。言っても来るに決まっていた。
「園田さんはここにいて下さい」
それを肯定の返事と取った哲平は、安堵の溜息を吐いた。車のドアを開けると冷たい風が肌を撫でつけた。森林独特の匂いを鼻孔に受け、大きく息を吐く。砂利道を上っていくと、突然山が開け、ダムを見下ろした。深い山と山の間に挟まれたダムは小規模なものであり、『立入禁止』のカンバンを付けたフェンスが人の進入を防いでいた。辺りはシンと静まり人の気配は感じられない。
「誰もいないみたいだけど…」
フェンスに指を絡ませ、ダムを見下ろしていた哲平が、こっちを振り向いて言った。
「本当にこのダムに来てるのか?」
私は何も答えず四方を山に囲まれたダムを睨み付けた。
もう、遅かった?
そんな不安が私の中に沸き上がる。篤子は加治さんを生きたままダムに突き落とすと言っていた。篤子は本気だった。もう、戻れないと言った篤子の悲しみが脳裏を過ぎる。
「大丈夫?ホントに顔色悪いよ」
気付くと、哲平が私の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫だから」
自分でも、ちょっと冷たいなと、思えるくらい突き放した言い方をして目を反らした。目の端に私の心を盗み見ようとジッとこちらを見据えた哲平の眼差しが見て取れる。
「ナッちゃん。もし、ここにアッちゃんが来てるとしたら、目的は何だ?」
刺すような視線を私に向けたまま、答えたくない問いをしてきた。心臓の鼓動が激しく鳴り始め、私は胸を掴んだ。
立っているだけなのに、息が切れ、汗が噴き出し始める。
「ナッちゃん!」
哲平に腕を掴まれ、自分が倒れそうになったことを知った。
「早く、早く、捜さなきゃ…」
口から譫言のように、言葉が零れた。
「早く…」
その時だった。
遠くで、銃声が森の静寂を裂いた。
「…ッ!」
二人は同時に固まり、そして、先に動いたのは哲平だった。彼は頭の回転が速い。私を一瞬睨み付けるとフェンスに駆け寄った。バシッと金網に両手を打ちつけ、銃声が響いたと思われる方角に目を凝らして探った。哲平は、ダムの上流に何かを見つけたようだ。
「チクショウ!橋だ。あの橋に誰かいる」
確かに、木々の枝が邪魔してよく見えないが橋の上に、人の頭らしきものが目に付いた。上流の橋までは、今まで歩いてきた砂利道の先にある。私は何かを考える前に、橋を目指して、最短距離であろう森の中を走り始めた。かなりの急斜面を、体全体で登った。恐怖が体中に広がる。
今の銃声は篤子が撃ったモノか、加治さんが撃ったモノか。この体に広がる恐怖は、私のモノか、篤子のモノか。
走りながら、叫んでいた。
「篤子、止めて!」
私には何故か分かっていた。撃ったのは篤子。そして、この恐怖も篤子のモノだ。木々の隙間に、ようやく人の姿を捉えた時、自分と同じ悲しい叫びが聞こえた。
「来ないで!」
森を抜け、砂利道に出た。目の前に車一台、通れるかどうかの粗末な橋が架かっていた。そして、篤子が銃を握っていた。しかし、その先にいたのは、加治さんではなかった。
「スギ?」
後ろから追いついた哲平が、篤子に銃を突き付けられ震えている相手を呼んだ。顔を真っ青にしたスギは橋の手摺を背に太股に血を滲ませていた。篤子はスギに銃口を突き付けたまま、こっちをチラリと見ただけで視線をスギに向け直した。
「来ないでって、言ったのに…」
「アッちゃん。スギをどうする気だ」
隣の哲平が足を踏み出そうとした。
「来ないで!撃つよ」
鋭い篤子の声が哲平の足を止めた。
「て、て、哲平か?」
スギが声を絞り出した。
「た、助けてくれ。オレが何をしたって言うんだ」
「…ッ…ハハッ…アハッ。だって、許せないんだモン」
篤子の乾いた嗤いがシンと静まった森に響く。
こちらを見ずに篤子は言葉を続ける。
「悠里を妊娠させたのは、コイツだったんだよ。私、勘違いしたの。悠里と父さんが一緒にいたのを見ただけで、悠里が父さんを男として見ていたと知っただけで、決めつけてしまった。悠里は違うって言ったのに、信じてあげられなかった。バカだよね」
「スギ。本当なのか?」
「…ゆ、許してくれ」
「無理矢理?…レイプ?」
だから、悠里は苦しんでいた?実の父親をソウと知らずに好きになって、好きでもない相手にレイプされ、妊娠して…
「私がそれを知ったのは、父さんが自殺すると言っていたその日だった。父さんを止めようとしたけど、…遅かった」
父さんを止めようとして、あの日マンションに現れたんだ。父さんが自殺した日、確かに篤子は目撃されていた。
「始まりは、そう。卒業式の父さんの裏切り…」
篤子も気にしていた。出張で海外にいるはずの父さんが、女の人と歩いていた。私は、その女性の顔はよく見えなかった。でも、篤子には見えていたのだ。
「私ね。父さんの嘘を許せなくて…。調べたわ。いろんな事が分かってきた。いろんなモノが見えてきた」
砂の城のように、一波で消えてしまうような家に住んでいることが分かった。それでも、私の場所はその家しかなかった、と篤子は淋しそうに呟いた。
「中学生の時、一人で長野に行って、母さんに双子の妹がいるって知ったの。それで、あの日の女性が悠里の母親だとわかったわ。二人は会っていたの。私、何だか許せなくて、悠里の母さんに逢って、彼女を責めたの。そうしたら、彼女は、悠里は自分の娘じゃない事を、もしかしたら、私の母親かも知れないって告白した。ますます許せなくなって。アンタなんか母親の資格も生きている資格もないって、言ってやったの。そしたら、あの人、本当に死んじゃうんだモン…。その後で、悠里と偶然を装って友達になった。私は悠里に負い目があったから優しくしていただけなのに彼女はまるで私を本当の姉のように慕った。その可能性は充分あったけどね…」
篤子の血を吐くような告白に、私は何も言い返せなかった。彼女はそんな以前から全てを知ってしまい。優しい微笑みの下で自分のした罪にこんなにも苦しんでいたのだ。
「父さんを殺したのも、私。父さんは苦しんでいた。悠里の母親が死んでから、父さんは私と同じように偶然を装って彼女に近づいた。本当のことを言えないまま、優しくしていくうちに悠里がどんどん父さんを好きになっていったみたい。そして、あの火事。私は妊娠させた相手を父さんだと勘違いをした。だから、父さんにひどい手紙を送った。父さんはそこで 死んだのは悠里で私は生きていることに気づいた。」
あのメモのとこだ。
『次、死ぬのは、アンタ、許さない』
父さんは、私が『篤子』ではなく、『薙子』だとわかっていたのだ。
「妊娠させたのが、父さんではないと気付いたのは、父さんが自殺する直前だった。スギが本当のことを話したから…私は急いで父さんに電話をした。父さんは私がどこまでかかわっているかはわからないようだった。父さんから私には連絡はできない状況だったし。ただ、父さんは謝った。昔、自分の恋人であった悠里の母を殺したのも、自分の娘である悠里を殺したのも自分だと。そして、私も苦しめたこと。母さんや薙子も苦しめたこと。父さんは、最後に言ったよ。死んで償うしかないと。止められなかった…」
淡々と話す篤子は一つ一つ気持を整理しているようだった。
「でも、本当に殺したのは、私だよ。悠里の母を責めなければ、死ななかった。悠里の母が死ななければ悠里も死ななかった。悠里が死ななければ、父さんも死ななかった」
銃を持つ篤子の手にグッと力がこもった。
「こいつらと同罪…」
「ヒィ…。や、止め…」
裏返った声を出したスギの前に、哲平が立ちはだかった。
「アッちゃん。もう、いいだろう?」
真摯な哲平の声が私にも届いた。
「悠里を死に追いやったのは、オレの親父で、オレも同罪だ。許せないのなら、オレも殺されなければいけないんだろう?」
篤子の顔がさらに苦痛に歪んだ。
「…オレ、アッちゃんのこと好きだよ。悠里も同じだったと思う。親父とオレとで、ボロボロにしてしまった悠里の唯一の救いだったんだよ。アッちゃんは」
「だから、それは…、」
「負い目とか、そんなのは、悠里は全く知らなかった。悠里にとって、アッちゃんは、ただの優しいお姉さんだった」
「悠里は気付いていたと思う。悠里に父親のことを告げた時に分かったと思うよ」
「それでも、悠里にはアッちゃんしかいなかった。オレ、側で見てて、すごくソレ伝わってきたよ。だから、自分を許してやれよ」
優しい声だった。
「でもね、もう、遅いの…」
消え入りそうな篤子の声が、二度目の銃声に重なった。
森の鳥達が一斉に羽ばたく。
私はギュッと目を瞑り、沈黙の中、恐る恐る目を開いた。血を流していたのはスギではなく篤子だった。銃は地面に落ち、血の流れる右腕をもう一方の手で押さえていた。
「椎名篤子さんだね」
地を這うような低い声が、沈黙の中響いた。
「生きていたのか…」
「青木さん?どうして、ここに…」
そこまで言って、私は哲平を睨み付けた。「ナッちゃんがドライブインで下りている間にスギの別荘をね。ダムも教えようとしたんだけど、ソレはナッちゃんに止められた」
「電源を途中で切られたんでね。別荘まで行ったら誰もいないから捜していたんだよ。そうしたら銃声だ。まさか、『篤子』がいるとは思わなかった」
「どう言うことだ?」
哲平が話を飲み込めず聞き返す。私はもう分かっていた。DNAが一致したわけが。
「DNA鑑定だ。あの死体と薙子は間違いなく双子だった」
「やっぱり私が郭公…」
そんな小さな呟きを耳にした。その意味が分かったのは、ワタシだけ。
「ソレは加治さんの銃だろう?彼はどこだ」
「さぁ…」
篤子の声が頼りなげに風に紛れる。
「残っていた覚醒剤を全部静脈注射したの。そうしたら、森の中、走って行っちゃった」
どうでも良さそうに言ってから、篤子は四方に広がる森を見上げた。
とても、篤子を遠くに感じた。
無表情に森を見つめる篤子に胸が締め付けられた。
イタイよ…
私は素早く動いた。
後ろにいた青木さんに体当たりを喰らわし、バカみたいに大声で叫んでいた。
「逃げて!お願い、逃げて!」
青木さんは一瞬よろめいただけで、すぐに銃を構え直した。しかし、篤子はピクリとも動かなかった。ただ、懐かしそうに私を見ていた。
「ばか!どうして、逃げないのよ!」
涙が溢れた。
「ばか。どうして、笑ってんのよ」
逃げる気配のない篤子に青木さんは構えた銃を降ろした。閑かな森に、私のしゃくり上げる音だけが聞こえているように感じた。
「ねぇ。ナッちゃん…」
昔から何一つ変わらない声。私には僅かも出せない優しい響きが耳に流れる。
「聞こえる?郭公が鳴いてるよ」
「え?」
耳に神経を集中し、森を見渡した時、
「篤子!?」
篤子は石で出来た橋の欄干に登っていた。涼しげに顔に風を受け、二〇センチ程の幅に両足を揃えて立っている。橋から川の表面まではかなりの高さだ。しかも、ダムの上流のせいか、深すぎて底が見えない。落ちれば助からないだろう。緊張が張りつめた。篤子以外は動けなかった。動けば、篤子は躊躇いもなく落ちるだろう。それを知ってか、篤子はこちらを穏やかに見下ろして言った。
「どうして、私がナッちゃんと『篤子』を入れ替えたか分かる?」
全てが終わった後、篤子が『篤子』に戻るためではない。篤子にはそんな気は全くなかった。では、どうして?
「あの日、ナッちゃんが予定外に帰ってきて焦った。最初は悠里を『篤子』に仕立て上げ、醜い砂の城と共に『椎名篤子』をこの世から抹殺するつもりだった。そうして、復讐するつもりだった。もう、いない人物を疑う人間はいないからね。でも、一階の私の部屋から出火した場合、二階のナッちゃんは危険だと思った。だからといって、睡眠薬を飲ませないわけにはいかない。中途半端で気付かれてもまずいから…」
私には郭公の鳴き声は聞こえなかった。
「だから、眠ったナッちゃんを私の部屋に運んだ。でも、急に私は『篤子』を抹殺するのが恐くなった。それは賭だった。でも、勝算はあった。だって、ナッちゃんが私になりたがっていることを私は知っていたから…。私の裏の顔を知らずに、いつも私を羨ましそうに見てたナッちゃんに苛立ちを感じつつも、私はそれを知らないふりして、わざとナッちゃんをイライラさせていた。私が唯一ナッちゃんに勝つことが出来る笑顔でわざとナッちゃんを傷つけていた。私は本能で演じる術を知っていた。嫌われないように、ナッちゃんより誰からも好かれるように。でも…、だから、私は誰よりもナッちゃんになりたかった」
「嘘よ。そんなの」
「何でも出来るナッちゃんが羨ましかった。誰にでも強く自分を主張できるナッちゃんが、演じていないナッちゃんが、心底、羨ましかった。」
「違うよ。強いんじゃなくて、卑怯で、臆病なだけだった。篤子と同じように笑っても、認めて貰えないような気がして恐かった。嫌らしい自分を笑顔で隠しても、全てを見透かされてしまうのが恐かったから、いつも、ビクビク怯えて、イライラして、どうしていいか分からなかった。家族を自分から拒絶する以外、方法を知らなかった」
「それでも、羨ましかった。笑顔という仮面を付けずに真っ直ぐに家族に向き合っていたナッちゃんが羨ましかった。あの家でお互いの仮面の存在を知りつつ、何食わぬ顔して笑顔の仮面を被り続けていたあの家の住人の中でナッちゃんだけがとても眩しかった…」
「私はそんなに綺麗じゃない!醜くて汚くて臆病で、最悪最低の人間だよ」
「そう思う自分に真正面にぶつかれるんだよ。ナッちゃんは…」
視界が涙でぼやけて、篤子の表情が読みとれなかった。虚しい会話だけが、続けても悲しいだけの会話が、篤子の心を伝えてくれる。
「それでも、私はあの家の住人でいたかったのかな…。郭公の雛がホオジロの子供に成り代わるように、ナッちゃんが自ら『篤子』に成り代わるように仕向ける事によって、郭公の雛に仕立て上げたのかもしれない。自分をあの家の正式な子供だと認めたいが為に、私が可哀相なホオジロの雛になる為に…。私が『薙子』をこの世から抹殺した郭公の雛だというのに…」
「じゃあ、私達、二人とも郭公の子供だね」
『篤子』に成り代わり、『篤子』への愛を独り占めしようとしたのだから。
涙でグチャグチャの顔を何とか笑顔に変えて見せた。篤子は少し驚いたよう私を見て、頷いた。
「そうかも知れない…」
と、呟いてから、ソウだと、よかった…と付け加えた気がした。私はそっと手を伸ばし、一歩一歩篤子に歩み寄った。
これからは、私が篤子に笑顔をあげよう。
もう、少し。
篤子と笑っていたい。昔みたいに、大好きな篤子に笑顔でいて欲しい。篤子は笑顔の仮面だと言うけれど、それは、違う。篤子の笑顔は誰よりも優しい笑顔だモノ。
「篤子…、帰ろう」
徐々に鮮明になる視界に穏やかな表情でそれを聞いている篤子が見えてきた。風がいつ篤子を浚うか分からない。私は指を伸ばし、言葉を続ける。
「私達は、本当に似ているね…」
『篤子』になって、初めて篤子を知った。優しい笑顔に隠された本音を知った。それでも嫌いになんか為れなかった。一人苦しんでいた篤子が痛々しかった。むしろ私と同じように人を憎む気持ちや嫉妬心を持つ篤子を一人の他人として初めて愛おしく感じた。今までワタシがスキだった『篤子』は、自分がそうなりたいと願う自分だった。自己中で自己満足な理想を『篤子』に重ね、そう出来ない自分にイライラして、その鬱憤を全て篤子に叩き付けていた。自分のエゴイズムでワタシは篤子を追いつめていたのかも知れない。篤子に痛いだけの仮面を被り続けさせたのは、私だったのかもしれない。篤子の悲鳴が、叫びが聞こえていたのに、耳を無意識に塞いでいたのかも知れない。素顔の篤子はこんなにもたくさんの表情を持っていたというのに、私は無意識に瞼を閉じていたのかもしれない。ごめんなさい、と悲しい顔で繰り返し何度もココロに響いていたのに。
『篤子』になれなかった理由が今なら分かる。だって、私は自分で耳を塞ぎ、目を閉じていたのだから。『篤子』を知ろうとしなかったのだから。
だから、私は自分の作り上げた『篤子』ではなく、篤子に、自分によく似た『篤子』に、ココロからの言葉を口にした。
「どこにも行かないで、大好きだから…」
綺麗な笑顔だった。
誰よりも一番見慣れているはずの私が、ハッとするくらい篤子は綺麗に笑った。
だから、手を掴み損ねた。
指の先にホンの僅かな温もりが触れたような気がした。
今まで、見たこともないような綺麗な笑顔で私の目の前から姿を消した。深い河は、一瞬で篤子を飲み込んだのだ。
森のどこかで、郭公が鳴いていた。




