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郭公の森  作者: 山田木理
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第5章 パンドラの箱


(ナッちゃん…)

 だーれ?

(ナッちゃん。ゴメンね)

 私に謝るのは誰?

 そっか。

 その顔は、ワタシの顔。

 ワタシは、泣きながら私に謝ってる。

(泣かないで)

 私は、ワタシに優しく微笑む。

(泣かないで。悲しまないで。私がいるから)

 涙を溜めるワタシが見えて、私は悲しくなる。

(ごめんなさい…)

 謝らないで…

 私と同じ顔をしたワタシ。

 だから、キライ。

(ごめんなさい)

 悲しくなるから。

 違うことが分かってしまうの。

 分かりたくなんかなかった。

 だって、いつも謝るのは私じゃなくて。

 私と、もう一人のワタシは、違う人間で。

 キライ

 そんな事知っていたけど…

 キライキライキライ

 鼓膜に、心臓に、脳に訴えていた。

 ずっと嫌いだった。

 ワタシがキライだった。

 あなたと違うから、一緒なのに違うから。 キライキライキライキライキライキライキライキライキライキライ

 ココロに訴えていた。

ずっと嫌いだった。

 アナタがキライだった。

 一緒なのに違うから。違いが分かるから。

 そして、そう感じる自分を、さらに深く嫌いになって、深く深く深く、藻掻いても、どんなに藻掻いても、深く深く沈むように嫌いになる。

 キライキライキライ…

(ごめんなさい)

 キライ…


 篤子!



 頬に濡れた感じがした。

 濡れたと感じるなら、ここは少なくとも水の中じゃないな。

 それに、苦しくない。

「ごめんなさい…」

 ドキッとして目を開いた。

 母さんだった。

「ごめんなさい。薙子」

 この感じは、随分前にもあった。

 瞳に突き刺す光。白い天井。自分に向けられる視線。

 そして、母さんの涙。

 前と違うのは…

「薙子」

 母さんの震える唇から零れる言葉。

「母さん…」

「全く無茶しやがって」

 ようやく出した私の声に鋭い声が入り込む。壁により掛かり、こっちに睨み付けるような視線を送る青木さんがいた。腕を組んでジッと見つめる目は、かなり怒っているようだ。

 無事だった。

 私はそれだけで満足して、怒っている青木さんに思いっきり笑顔を見せた。お陰で益々睨まれたけど、それでも嬉しかった。

 母さんが私を『薙子』と呼んでいると言うことは、私がワタシだと知ったのだろう。

 母さんが両手でグッと手を握る。

 左手首の包帯から目が離せない。

「母さん…。どうして?」

 白い包帯を見つめる目が潤んで、声も震えているのが分かる。母さんの瞳はさらに深い悲しみを帯びているようだ。

「薙子。もっと早くに話せば良かった」

 母さんの瞳から止めどもない涙がこぼれ落ちる。

「父さんを殺したのも、キリちゃんを殺したのも母さんだから…」

「母さんが?」

「母さんには、桐子っていう双子の妹がいたの。優しくて穏やかな可愛い妹だった。双子なのに、外見はそっくりなのに、性格が全く違う妹だったわ」

 母さんの瞳は私を通り越え、どこか遠くを見つめていた。

「父さんと最初に出会ったのは、キリちゃんの方だったの。二人は恋人同士だったわ。でも、母さん、父さんのこと好きになっちゃったの。キリちゃんは何も言わずに、私達の前から消えたの。ただ、悲しそうな目をして、母さんに父さんを譲ってくれた。キリちゃんが消えた時キリちゃんのお腹にも父さんの子供がいたの。キリちゃんは父さんにも何も言わなかった。ただ、私は何となく気付いていたの。気付いていたけど、気付かない振りをしたの」

「それが、悠里?」

 母さんは悲しい瞳をしただけだった。

 私の嫌な予感は、見事に的中してしまったのだ。単なる従姉妹だといいのに、その願いはあっさりと否定された。倉本悠里は、腹違いの姉妹でもあったのだ。だから、篤子は悠里を大事にしたのだと思う。哲平から、篤子がいかに悠里に干渉していたかを聞かされた時、何となくそんな予感がしていた。

「あの夜…、父さんが自殺した夜。父さんは最後の別れを言いに来たと言ったわ。本当は何も言わずに、会社のお金を横領したように見せかけて自殺するつもりだったらしいの。でも、母さんはそんな嘘、信じられずに本当のことを話して欲しいと言い寄ったわ。そしたら…」

 止めどもなく流れる母さんの涙に、私は、もう、いいよ。もう、終わったんだから、そう言いたかった。でも、何も終わってはいない。何故なら、篤子は未だに生きているのに私達の前に姿を現してはくれないのだ。

「母さんが、キリちゃんからお父さんを取らなければ…」

 そうしたら、私達はこの世に存在出来なかったんだよ。そんな事を後悔しないで。

 潤んだ母さんの瞳は、遠い日々を見つめ、狂おしい後悔に浸っていた。

「双子で生まれたくなかった…」

 心臓がグッと詰まった。

 この時分かった。母さんは、

『双子を生むんじゃなかった』

 と、後悔しているのではなく、双子で生まれるんじゃなかったと運命を呪っていたのだ。私には痛いほど母さんの悲痛が理解できた。それこそ、私が長年持ち続けた、痛みだったから。

「母さんが、父さんも、キリちゃんも、悠里さんも…」

 あぁ、母さんは死んだのが悠里だと知っているんだ。それでは、篤子が生きてるのも知ってるんだろう。

 母さんからの言葉は、口から漏れる嗚咽に取って代わり、これ以上、話させるのが酷い事のように感じられた。でも、私は知りたかった。父さんの自殺の理由を。昔の恋人が子供を産んでいたからと言って、父さんは、それを知らなかったわけだし、それが死に値する程の罪にも思えなかった。

「後は私から話します。お母さんは無理しない方がいい。自分の病室でお休みになって下さい」

 聞き慣れた低い声が、狭い病室に優しく響いた。いつもと同じ声の調子なのに、何故、今夜はこんなに静かに心に響くのだろうか?

「…いえ…私が…」

 泣き声混じりの声が途切れ、結局、母さんはそれ以上話すことが出来なかった。青木さんが、母さんを元の病室へと連れていった。

 一人になり、私は窓から暗い夜を眺めた。海に落ちたのは覚えているが、あれからどのくらい時間が過ぎているのだろうか?

 篤子は孤児院に、まだいるだろうか?

 掴み損ねた手掛かり、もう少しだった。

 暫くして、青木さんが病室に戻り、側の椅子に腰掛けた。

 薄暗い空間が、重い空気に支配される。

「…今、何時?」

 私の質問に、彼は溜息混じりに答えた。

「爆弾は仕掛けてないぞ」

「悪かったわね。馬鹿なこと言って」

 ムッとして睨み付けると僅かに彼の頬の筋肉が緩んだ気がした。ホンの一瞬だったけど。

「丸一日だ。海に落ちてから。本当に馬鹿なことを。打撲程度だったから良かったが」

 切れ長の端正な顔で睨み付けられると、かなりの迫力があった。

「オレがあんな風に庇われて嬉しいと思うか?一歩間違えれば死んでいたんだぞ」

 確かに車の前に飛び出るなんて。

「でも、考える暇なんてなかったんだモノ」

 軽い反論をしてみた。

「だから、馬鹿なのだ」

 ムカッ。

「いいじゃない。私の命、私がどう扱おうと!」

「いいわけないだろ。オレがどんな思いしたか!」

 ただ、助けたかっただけなのに。何だか悔しくなってきて瞼が段々熱くなった。

「なによ。折角助けたのに怒らなくてもいいじゃない。馬鹿なのはアンタよ。アンタが死んだって聞いて私がどんな思いしたか分かるの?どうせ私が全部悪いのよ。みんな私のせいで傷つくの。私のせいで。私がいなきゃみんな幸せなのに、私がみんなを傷つけているの。篤子も、篤子だって…」

 グッと唇を噛み締め、奥から湧き出る涙を堪えた。そんな私を、切れ長の瞳がジッと捉える。そして、不意にその目が和らいだ。

「言っただろ。泣いていいんだ。辛い時は」

 グッと大きな手が頭を掴んで、私は広い胸の中に顔を埋めた。一度溢れ出した涙は止められない。どうしてこの人は人を泣かすのがこんなに上手いんだろう。

 でも、良かった。この人が生きていて。

「薙子。これから話すことは、さらにお前を苦しめることになるが、それでも聞きたいか?もし、これ以上苦しみたくないなら話さない。どうする?」

 私は首を何度も強く横に振った。

「言って。私は知らなければいけないの。知らないことで、これ以上苦しみたくないの」

 フッと私を抱きしめていた両手が離れ、そのまま私の腕を掴んで引き離し、真っ正面に切れ長の鋭い瞳が突き刺さった。

「分かった。話そう」

 私の内部を流れる血液が波打ち激しく心臓を叩いている。『知らない』恐怖が『知る』恐怖へと変貌する。知ってしまう事は、何かが変わることだ。そして、何かを変える力を持つことだ。

信じよう。誰を?じゃない。誰かを信じるんじゃない。

ワタシを、『薙子』を信じよう。

『知ってしまう』事は力を一つ得ることだ。だから、大丈夫。ココロに言い聞かせる。鼓膜に響く鼓動を宥めるように左胸に掌を乗せた。低い声は静かに響く。深い真実を背負って…

「これは、君の母さんが君の父親から聞いた話だ。悠里は妊娠していた」

 間を持って続く。

「おそらく、相手は君の父さんだ。だとすれば、十分な自殺の理由になる」

「…っ!」

 脳を流れる血液が真っ先に反応する。ガンとアタマを打ちつける衝撃。

「ま、待って。どうして?私の父親は悠里の父さんでもあるはず…」

 唇が震える。言葉が震える。血が震える。これが『知る』恐怖。

「勿論、最初、二人は知らなかった。先に知ったのは恐らく悠里だろう。倉本君が言っていただろう。悠里が止めていたドラッグに、再び手を出し始めていた、と」

 自分の恋した相手が、血の繋がった父親だった。然も妊娠してしまった。

 そんなの嘘だ。

 だから?

 だから、篤子は父さんを憎んだの?

 浮気をして、然も相手は十代であり自分にそっくりの娘。

 私だったら、許せない。

 自分の父親が血を分けた姉妹に手を出すなんて、妊娠させるなんて。知らなかったとはいえ、許せるモノではない。

「ここからは推測だが、悠里をドラッグ漬けにしたのは加治さんだろう。篤子が悠里をドラッグから遠ざけようとしても、彼等は悠里に薬を売り続けた。彼女は義理の、倉本君の父親からは腐るほど金を貰っていたからね。加治さん達はそれを知っていて、執拗に彼女に薬を売り、篤子は彼等の尻尾を掴もうと無茶な行動に走った。悠里の方にも現実を見つめるだけの力は残っておらず、ドラッグに溺れるようにのめり込んだ」

 悠里の死因は、薬物中毒だ。

 彼女を追いつめたのは、クスリと父さん。

『次、死ぬのは、アンタ。許さない』

 篤子の強い復讐。

 今なら分かる。

 それは、父さんへの復讐。

 アレは、父さんへのメッセージ。

 ジグソーパズルのピースが一つ符合した。

 オルゴールを掘り返した日、父さんは焼けた我が家に来て、私を見て逃げたのだろう。あの匂い。今なら分かる。アレは父さんがいつも付けていたコロンの匂いだったんだ。

「これも推測だが。君の父さんが事実を知ったのは火事の後だ。篤子が悠里の死に怒り事実を告げた。それを知った君のお父さんは自分の実の娘を妊娠させ、死に追いやった償いを死という形で取った」

 篤子が、そうさせたのだ。

 でも、私には篤子がもっと深い悲しみを秘めているように思えた。何故、そう思うのか分からない。ただ、ワタシの中でキリキリと内蔵を締め付けるような痛みがあって、それが全て篤子が今感じている痛みのように思えて仕方がなかった。それは、理屈じゃない。

 どんなに遠く離れていても、通じ合うなんて信じてなんかいない。

 それでも、私の中のこの痛みはどうしようもない。本当に痛むのだから。本当に手に取るように感情が、悲鳴が響いているのだ。

 火事があった日から、もうすぐ二ヶ月が過ぎようとしている。家族四人で暮らしていたのが、随分昔のようだ。

 篤子…、今、どうしてる?

 長野にいるの?それとも、それは単なる私の思い過ごし?

 手掛かりは全くない。

「青木さん、長野の孤児院には行った?」

「…倉本君が言っていたが、君は孤児院に篤子がいると言って、新幹線を降りたそうだな。今日の昼間、人をやったが篤子はいなかった。ボランティアの人たちしかいなかったそうだ。園長は外出中で連絡がつかない。もっとも、正直に現れるのだったら薙子がいる時に現れると思うが」

 ココロに出来た傷は時間を増す毎に生々しく膿んでいく。一つ一つ修繕不可能になるまで、まるでその時が来るのをジッと待っているように。この痛みは『篤子』の痛み?

 痛い。ズキズキ。イタイ。タスケテ。

 悲鳴が聞こえる。でも、

 言葉が聞こえない!

 悲鳴だけじゃ、何も分からない。鼓膜を揺すぶられても心を動かされても『知らない』。『知る』事が出来ない。

「オレは、薙子が言ったように、孤児院に篤子がいたのは、間違いないと思う。それから、これ…」

 そう言って、青木さんはスーツのポケットから携帯電話を取りだした。

「それは…」

「加治さんが拉致されたときに君が落としたモノだ。調べさせて貰ったが、これの名義はホームレスの男のものだった。火事の二日後に購入されている。当然、病院で意識不明の君には購入できない代物だ。これをどこで手に入れた?」

「家…、火事があった家の庭で…」

 『篤子』と『薙子』、二人しか知らない筈のオルゴールの中。土に埋めたオルゴールの中に、ひっそりと眠る二人だけの秘密。

 十年前の約束を忘れていたなら、手にすることのない篤子からのメッセージ。

 箱に残された一つの希望。

「これは、あの時、地面に落ちた衝撃で壊れてしまったが、これに電話やメールは?」

「メールが3回だけ…。一度目は、それを見つけたとき、『キヲ ツケテ』と。二度目は、クラブから追われている時、『イエニ カエルナ』って、時間で言うと、…父さんがマンションから落ちた直後だと思う…」

「篤子が目撃されているな。もし、早く帰っていたら、薙子が犯人になっていた恐れがある。メッセージに早く気付き帰らなければ、父親の無様な姿は見なくて済んだと、言うことか。三度目は?」

「長野で、加治さんに捕まったとき…」

「あぁ、あの時か…。何と入っていた?」

「『カジハ キケン』だと」

 青木さんは暫く考え込み、深く息を吐いた。

「カジハ キケンか。今更、火事の怖さを訴えたわけじゃなかろう。やはり篤子は孤児院にいたと考えるべきだな。あの日、君達が孤児院を出てすぐに加治さんも孤児院を訪ねている。表向きは刑事として倉本悠里の所在を確かめるために、本当は倉本君とオレの会話を盗み聞きしていたんだろう。それで、あの孤児院に何かあると疑った。恐らくそこでは、何も情報は得られなかっただろう。しかし、加治は君達と同じように大事なモノを見落とした。そこには篤子がいたんだ。あのテープの調子だと、篤子は悠里に薬を売っていた仲間の一人として加治さんの顔を見ている。そして、孤児院に訪ねて来た加治さんを陰から見て、その名を知りさらに薙子に関わりが在るらしいと踏んで携帯電話にメッセージを入れた。もう、少し早ければ良かったが」

 でも、もしあのメッセージがなかったなら、私は青木さんと加治さんのどちらを信じていたのだろう。

 篤子…

 私は壊れた携帯電話を見つめた。

 もう、篤子からのメッセージが伝わることの出来ない、壊れた小さな箱を。

「篤子は、…薙子を遠くから守っていたと考えるべきだな」

 私はコクリと頷いた。

 守られていた。

「加治さんは?」

「逃げられたよ。薙子を跳ねた覆面パトカーでそのままね」

 深く肩を落とした。最初の頃の無表情な人間はいなくなっていた。少し悲しそうに話し始めた。

「…倉本も言っていたが、オレ達と暴力団はお互い持ちつ持たれつだ。ラインを引くんだ。ここまでは見逃すが、ここからはダメだと。そして、暴力団の世界で起こった犯罪は暴力団の協力無しでは解決できない。今流行の科学捜査等はあまり当てに出来ない。オレ達に必要なのは徹底したスジ読み、つまり彼等を『知る』事によって犯罪の流れを読む。加治さんは長年その中で刑事やってきた人だ。91年に暴力団対策法が出来るまではね。アレは確かに効果があったよ。暴力団は資金源を押さえられ、小さな暴力団は解散していった。だが、本当の犯罪は地下に潜った。オレ達が『知る』事が出来ないくらいに。彼等は資金調達のために、普通の若者にまでヤクを売り捌くようになった。勿論彼等が直接売ることは滅多にしない。売人を通してだ。金が欲しい彼等と刺激が欲しい若者の利害が一致したわけだ。勿論、今若者の間で流れているドラッグは全て暴力団を通しているわけではないが。とにかく加治さんはそう簡単には捕まらないだろう。オレは追う暇もなく海水浴をする羽目になったし」

 と、彼は軽く皮肉を言って肩を竦めた。

 私のせいだ。私が余計なことをしたばかりに、逮捕できたはずの人間をみすみす逃がすことになったのだ。

「別にお前のせいじゃない」

 私の心を読んだように鋭い声が届いた。

「それから、『薙子』正確には悠里を検死した監察医が死体になって先日発見された。彼を消したのは、直接手を掛けたかどうかは分からないが加治さんだろう。これからはオレの仕事だ。篤子も見つけてやるから、薙子は、『薙子』として、ゆっくり休んでろ」

 そう言って、彼は椅子から立ち上がった。そして、僅かに微笑んでドアから出て行った。

 一人取り残され孤独感が否応なく沸き上がる。掌に預けられた小さな箱に、いつの間にか目が落ちている。

 一人…じゃないよね。

 広がり始める心の空洞を埋めるように呟いてみる。

 ゼウスからの贈り物、パンドラ。彼女が開けてしまった箱から溢れ出した物は、この世の様々な悪意。箱に残されたのは、希望。

 動かない携帯電話をそっと指でなぞる。

「一人じゃない、よね」

 答えのない問いは、狭い空間に静かに埋まる。私は、ギュッと目を瞑り、薄い布団に潜った。





次の日の精密検査は特に異常は見られず、私はすぐに退院できた。母さんは本人の希望もあり、外科から心療内科に移ることになった。怪我自体はもう殆ど直っていたが、精神に受けた傷は深く、担当医からも入院を勧められ未だに病室のベッドの上にいた。

 重たい足を引きずり、病院から外へと踏み出す。残酷に突き刺さる日差しを何とか体中に受け止め歩き出した。一人で家に帰るのは気の重い作業に思えた。少しでも時間を延ばそうと庭に備え付けられたベンチに腰を落とす。チリチリと肌を焼く太陽を恨めしげに見つめ深く息を吐いた。

「ナッちゃん。良かったー。もう帰ったかと思ったよ」

 そう言って走ってきたのは哲平だった。私が返事する間もなく隣のベンチに座り大きく息を吐く。

「良かったよ。大した事なくて。車に跳ねられた上に、海に落ちるし」

 アレはつい一昨日のことだ。自分でも車に跳ねられ、海に落ちたにもかかわらず、ピンピンしているのが信じられない。

「本当にさ、ナッちゃんにしろ、アッちゃんにしろ、何し出すか分かんないよな。アッちゃんなんか見た目が大人しい分、そのギャップが激しくて、内に秘めたエネルギーが何かの拍子に爆発するって言うか。何て言ったらいいのか分かんないけど、ほっとけないって言うか…」

 自分で言っておいて、恥ずかしくなったのか急に黙り出す。真っ赤になった哲平の耳を見ながら、そう言えばコイツは篤子のことが好きだったんだなぁと改めて思った。哲平は自分の内心を隠そうとするように話題を変えた。

「青木のヤツ、大丈夫かな?肋骨三本は折れているはずだけど」

「え?いつ?」

「加治に撃たれた時だよ。知らなかったのか?防弾ベストって言うのは弾丸を食い止めても、そのエネルギーまでは止められない。致命傷を避けられるにけど、肋骨や内臓は無事では済まないんだ。ソレに、アイツ心臓撃たれたって。かなりヤバイんじゃない」

 知らなかった。つまり、私を助けに倉庫に来た時はもう折れていたって事で、その体で銃を平気でぶっ放し、海に沈んだ私を助けたというのだ。

「…ていうか。どうして、私より哲平のほうが知ってるの?…その前に、どうしてアンタは勝手に青木さんに孤児院のことを御丁寧に彼に報告したのよ!」

 彼は、ばつが悪そうに私を見返した。

「仕方ねぇだろう?ナッちゃんが何者かに狙われていたのは確かだし、オレ達だけで出来る事なんてないんだ。事情を知っているヤツに話を通すしかねぇだろう?オレだって青木みたいな胡散臭いヤツになんか頼りたくないよ。でも、ナッちゃんは無防備過ぎるんだよ。分かってないんだよ」

「じゃあ、アンタは何を分かってるって言うの?同じ高校生じゃない」

「ヤツらの怖さは少なくとも分かってるよ。暴力団がどれだけの力を持っているかってくらいわね。悠里はヤツらに殺されたんだ。吸い尽くすところまで吸い尽くされていたよ。まさか、死んだなんて思いもしなかったけどね。でも、殺したのはヤツらだ。…オレの親父も同罪だけどね。悠里を家から追い出し、孤立させ、然も破滅するには十分な金を払って。見ていることしかできなかったオレも同罪かな。…負い目があるから、かな。今思えば、アッちゃんが悠里を必死になって救おうとしていたのも、負い目があったからかもしれない」

 黙るしかなかった。それならば、私も同罪だから。悠里の父親を奪ったのは母さんだけど私は何も知らずに両親の揃った家庭で何不自由なく暮らしていた。悠里から父親を奪ったことなど知りもせず、私は一人であの恵まれた家庭で意味もなく反抗し、母さんや父さん、そして、篤子に辛く当たっていたのだ。今更ながら恥ずかしくなる。悠里が中年の父さんと不倫したのは潜在意識で父親を求めていたからかもしれない。まさか、本当の父親がその相手になるとは思いもしなかったろう。

神様は残酷すぎる。普段神など露ほども信じていないけど、こんな過酷な偶然は神様のせいにするしか怒りのやりようがない。篤子が悠里に知り合ってしまった偶然を含めて。

「青木に知らせたのは、間違ったとは思ってないよ。ナッちゃんが急に新幹線から降りた時、オレにはどうしようもなかった。新幹線を止められる力も持っていないんだ。すぐに長野に来ているはずのヤツの携帯に電話し、ヤツが実際に長野に来ていたと知ったときは、ヤツを味方として信じるしかないと思ったよ。彼はオレにそのまま東京に戻るように指示して電話を切った。それから、暫く何の連絡もなかったんでオレは心配になって、また携帯に電話したんだ。ヤツは暫く気を失っていたらしくて、オレが掛けた携帯の着信音で目を覚ましたんだ」

 加治さんはそれで死んだと勘違いしたのだ。心臓に命中し気が競っていたのだろう。夜の田舎道とはいえ、いつ人が通るとは知れない。彼は青木さんの生死を見誤ったのだ。

「哲平はどうして倉庫に?」

「ヤツが携帯で、急いで例の倉庫に行って、人がいる気配がしたら絶対に見つからないように、警察に電話して、人が死んでいるとか適当なハッタリでもかまして警察を呼べって俺に指示したんだ。ヤツはあまりオレを関わらせたくないようだったが、警察自体も信じ切ってないようだったから。確かに警察は確証もなく他人の所有物に潜入することは出来ないし、だからといって呑気に手続きをしている暇はないと思ったんだろうな。でも、一般人のオレは嘘でも方便でも言って警察を呼ぶことは出来るから彼はそれを期待したんだと思うよ。オレは近付きすぎて見つかったけど」

「少し見ない内に、随分と彼と仲良くなった訳ね」

 何だか自分の知らないところで動かれていたのが無性に腹が立って、思いっきり嫌味を込めて言ってやった。

「本当にお前ってかわいくねぇよな」

「私は篤子じゃないモノ。…篤子になんてなれない。思い知らされた」

 唇を噛み締めた。これは本心。悔しいけど、どんなに頑張っても篤子にはなれない。ついつまらない事でも腹が立ってしまう。

「アッちゃんが二人いても気持ち悪いだけだよ。別の人間なんだから当たり前だろ」

 何気ない言葉だった。

「馬鹿だな。…『薙子』が死んで悲しむ人間がいただろうに」

 その時、思い出したのはクラスメートだった。こんな私のために涙を流してくれた二人を私は欺いたのだ。

「とにかく、加治って言うヤツは青木に任せて、オレ達は篤子を捜そう」

 哲平は腕時計に目を走らせる。

「でも、手掛かりが…」

「ないことはない。オレだってナッちゃんがベッドで眠りこけているとき、自分も寝てたわけじゃない。実はミカが…って言ってもナッちゃんは知らないんだよな。ミカって言うのはスギの彼女なんだけど。覚えてるかな?薙子が始めてクラブ言ったとき、声掛けてきた男。ロンゲのジャンキーだよ」

 クラブでしつこく私にドラッグを売るように言ってきた男のことだ。

「スギが浮気してるって言うんだ」

「それと篤子と何の関係があるの?」

 意味不明の話に少し肩を落とした。

「浮気相手がアッちゃんらしいってミカが言うんだ。ミカはオレとアッちゃんが親しかったことは知ってるから、オレが何か知ってるんじゃないかってさ。ナッちゃんがアレ以来クラブに出入りしていないことは知っていたから、もしかしたら、ってね」

「いつ?」

「ナッちゃんが『篤子』じゃないって分かった次の日」

「どうして、隠してたの?」

「確証もなく混乱させたくなかったんだよ」

「それで?」

「その後、オレは毎晩クラブに行ったけど、分かったのはアッちゃんが結構頻繁にクラブに出入りしていた事だけだった。何か探っていたのかも知れないけど、アッちゃんはジャンキーばかり相手にしてて、ヤツらの話は的を得てない上に信頼性がないからな」

 哲平は話を切ると不意に立ち上がった。

「これから人に会う。ナッちゃんも一緒に来るんだ」

 グッと手を掴まれる。

「これから?」

 頷いてそのまま私の手を引っ張る。

「誰に会うの?」

「園田さんだよ。孤児院の院長。昨日電話があったんだ…。アッちゃんが新幹線を降りた後に、孤児院にも電話しててさ。もちろん、その時は何もわからなかったけど、自分の携帯の番号だけ教えておいて、何かあったら連絡してほしいと」

 何かを知っているかもしれない。篤子を匿っているかも知れない私の母さんを育てた人。思い出せるのは、深い悲しみを隠した静かで穏やかな瞳。

 哲平は、私の二歩先を私の歩調に合わせることもなく歩いていく。お陰で少し小走りになりながらついて行かざるを得ない。

「孤児院で応接室に通されただろ。綺麗に整理整頓されたあの部屋を覚えているか?」

 あの人の正確を表すように、豪華ではないが質素で落ち着いた雰囲気だった。

「オレ達が通されて、園田さんはソファを勧めお茶を煎れに部屋を出た」

「それが?」

「ソファに無造作に新聞が置かれていたんだ。きちんと整理された部屋にね。オレは何気なく新聞に目を通したんだ。その新聞の日付は七月一八日。火事の翌日だ。小さく火事の記事が載っていたんだ」

 私は驚きに足が止まった。

 あの人は、やはり知っていたのだ。『椎名薙子』がこの世に存在しないことを。

「どうして、哲平はその時に何も言わなかったの?言ってくれたら…」

 哲平は振り向いた。

「分からなかったんだ。あの人の真意を測りかねたんだ。何かを訴えたいのなら何故口に出して言わない?何故、ワザとそこにあの新聞を置いた。しかし、ナッちゃんがあそこにアッちゃんがいるって言って、始めて彼女の訴えたかったことが分かったんだ」

 グッと握られた拳に、やるせない感情を押し止めているようだった。すぐ側まで来ていたのにも関わらず、手に出来なかった。目にすることが出来なかった。哲平も同じように感じていたのだった。然も、老婦人の沈黙の訴えを目にしていたのに、それに答えることも出来ずに、自ら『篤子』から離れてしまったのだ。

「園田さんは全てを話してくれるって?」

「あぁ、話したいことがあるって…」

 哲平はクルリときびすを返すと、スタスタと歩き出す。それ以上何も聞くことが出来なかった。哲平の背中には、私と同じようなやるせなさが現れていたから。


 私鉄を乗り継いで、各駅の小さな駅に下りた。哲平がクルクルと回りを見渡している。恐らく、園田さんを捜しているのだろう。

 それにしても、どうしてこんな所で?

「あの人がここを指定してきた。オレにも何故か分からない」

 口に出していない疑問に答え、哲平は腕時計に目をやる。

「少し、早かったかな」

 駅前にはこじんまりとした商店が並び、その先は住宅地が軒を連ねている。

 彷徨っていた哲平の視線が留まり、私もその先に視線を移した。老女があの時と同じ微笑で軽い会釈をする。

「先日は黙っていて申し訳在りませんでした」

 微笑が消え、顔に蓄えられた皺が僅かに翳る。

「ここでは、何ですから…。この近くに私が昔住んでいた家がございます。そこへ案内します。すぐ近くですから」

 園田さんが言ったように、その家には五分ほどで到着した。二階立ての古い家だった。白い壁は淀んだ色に染まり、緑の蔦が南の壁に這っている。軋んだ音を立てるゲージに手を掛け中に入る。

「二年前まで、息子夫婦が住んでいたんですが、転勤になってしまいましてね。一年間の予定の転勤だったんで水道もガスもそのままにして行ったんですよ。ですが、思ったより期間が少し伸びたようで…」

 急いで掃除したのだろうか、掃除機が廊下に置きっぱなしになっていた。座敷に通され、園田さんは用意していた冷えた麦茶を私達の前に静かに置いた。ガラス越しに小さな庭が見える。老女の視線は小さな庭を彷徨っていたが、その瞳からは深い闇だけしか見て取れなかった。

「…あなた達が長野にいらっしゃった時に全てをお話しできたら、楽になれたでしょう」

 小さな皺に囲まれた瞳が揺れており、細い体は小刻みに震えていた。

「篤子はあの時あなたのところにいたんですね?今はいるんですか?」

 私は堪らずに訊いた。

 震わせていた細い体をグッと引き締め、次の瞬間にはしっかりと私達を見据えていた。

「悲しんでいる場合ではありませんね。全てお話しします。篤子さんは確かにあの時、孤児院にいましたが、今は私にもどこにいるか分かりません。ですから、早くあなた達とお話ししなければと思ったんです」

「どこにいるか分からない…」

 体から力が抜けた。しかし、私には知らなければいけない事実が在る。園田さんはそれに答えるように強く静かに言った。

「篤子さんを止められるのは貴女だけかも知れません」

「止める?」

「アッちゃんは何をしようとしているのですか?」

「復讐でしょう」

「復讐…」

 分かっていた。

「最初から話した方がいいでしょう」

 心臓のざわつきを押さえ園田さんと呼ばれる老婦人をジッと見つめた。園田さんは静かに語り始めた。

「篤子さんに初めて会ったのは、彼女が中学に入学されたばかりの時でした。長野の孤児院に突然訪ねてこられたんです」

 最初から私と哲平は顔を見合わせる羽目になった。篤子は悠里に出会う前に、母さんに双子の妹がいることを知っていた?

 悠里と出会ったのは偶然じゃない。

「そこで、お母様に双子の妹さんがいらっしゃること知られて…。夏休みや長期休暇には日帰りでしたが、たまにいらっしゃって子供達と遊んで帰られました。その時、東京で悠里さんとお友達になったって話してくれました。それから高校生になられた頃、私に助けを求めてきました」

「助けって?」

「悠里さんが死んでしまう、助けてと必死になって。私が昔看護婦の仕事をしていたのを思い出したのでしょう。私は悠里さんの家に行って悠里さんを看ました。悠里さんは薬物中毒でした。医者に診て貰うように説得しましたが、悠里さんは頑として行こうとしませんでした。無理に連れていこうとしたら、それこそ手首を切ってやると言って、私達はどうしようも在りませんでした。悠里さんは妊娠していたのです」

「嘘だろ」

 声を振り絞るように言ったのは、哲平だった。私は知っていたので、黙って聞いていた。

「お腹の子の父親は悠里さんの実の父親であり、彼女が覚醒剤を始めたのは、付き合っている男性が実の父親だと知ってからだと篤子さんは私に教えました。…悠里さんは強く否定しましたが、他に彼女がそこまで追いつめられる理由が見つかりませんでした。篤子さんは苦しんでいました。自分のせいで悠里さんを苦しめていると、酷く自分を責めていました」

 老婦人の瞳に強い憎しみが光ったような気がした。細い骨張った両手がグッと握られ話を続けた。

「悠里さんのマンションも暴力団がたびたび来るようになってゆっくりと休養も取れなくなりました。それで、私は悠里さんにこの家で休むように勧めました。私も施設を若い者に任せて暫く悠里さんを看ていました」

「ここで?」

 私は改めて年期の入ったこの家を眺めた。

「悠里さんは日を追うごとに弱り、この家で息を引き取りました」

 耳に木々のざわめきが聞こえ、私達の時間は一時中断された。シンと静まった部屋に時計の針が、遠慮がちにコチッと響く。

「亡くなられたのは、火事のあった土曜日の夕方です。私達に見守られ悠里さんは息を引き取りました。篤子さんは何度も何度も呟いていました。『父さんも、覚醒剤を売った暴力団も絶対許さない』と。正直言って、私もあなたのお父様を許せませんでした。あなたのお母様も、妹の桐子さんも私が育てた子供だと思っています。そして、あなたや篤子さんや悠里さんは私の孫と言っても過言じゃありません。その子達が苦しめられていると思うと、悔しくて、悔しくて…」

「それで、あなたは悠里さんの死体を私の家まで運んだのですね」

「篤子さんは『悠里さんに成り代わって復讐してやる』と。私は止めるべきだったんです。でも、出来ませんでした。私も許せなかったんです。罪を憎んでも人を憎む事はあってはならないことです。でも、私は許せませんでした」

(人を許すことは難しいことです)

 それは、彼女自身への言葉。

 彼女の顔に刻まれた皺が小刻みに震え、薄い唇をきつく噛んで話を続けた。

「私は悠里さんをあなたの家に運びました」

「もしかして、あなたは白いバンを使いましたか?」

「はい」

 青木さんは不審な白いバンが見かけられてと言っていた。そして、孤児院の子供達が言っていた『白いブーブー』は、孤児院所有の白いバンのことだったのだ。

「私は篤子さんが火事を起こすだろうと言うことは薄々分かっていました。篤子さんは何も教えてはくれませんでしたが、彼女はお父様だけでなく、お母様にも怒りを感じていましたから、そのくらいするだろうと思っていました」

 母さんが桐子さんから父さんを奪ったから?

「しかし、翌日、私は新聞を見て驚きました。死亡したのが篤子さんではなく薙子さんになっていたからです。あの日は、篤子さん一人だと聞いていたので、何故死んだのが薙子さんになっていたのか分かりませんでした」

「…」

 どうして、篤子が私を『篤子』にしたのか。

 私は篤子の真意も分からぬままに『篤子』になった。

 私が『篤子』になった理由は、ただ『篤子』になりたかっただけ。では、どうして、篤子は私を『篤子』にしたの?

「その後も、篤子さんは孤児院に来ましたが、その疑問には答えてくれませんでした。ただ、『もう、関わらない方がいいです』としか言いませんでした。あなた方がいらっしゃった時、何度も全てお話ししようと思いましたが、何も言えませんでした。許して下さい」

「それで、篤子は今どこにいるのか、全く心当たりはないんですか?」

「はい。一昨日、あなた方が帰った後、加治さんという刑事が来られました。私は何も知らない振りをしました。篤子さんは、『これで最後にします』と言って私の前から消えました。もしかしたら、篤子さんは…」

 篤子は死を覚悟で?

 嫌な予感。

 隣にいる哲平も、顔から血の気が引いていた。篤子はどこにいるのか見当も付かない。

 プルルルルル…

 不意に鳴り出したベルに私はビクッと肩を震わした。哲平の携帯だった。哲平は急いで携帯を取り出す。私は黙ってそれを見ていた。

「もしもし?…ミカか?今それどころじゃないんだ。切るぞ」

 哲平は携帯を切ろうとした。しかし、その手が止まった。

「…ちょっと待て。…分かったから落ち着いて話せ。…うん…うん」

 電話の相手は相当何かに怒っているようで私にも会話が途切れ途切れに聞こえてきた。

『…絶対、浮気してんのよ…聞いてる?…酷いと思わない?二人でスギの別荘に行ったのよ。信じられないわ』

 怒り狂った女の声が携帯を通して聞こえてくる。哲平は携帯を切ると私に振り向いた。

「篤子はスギの別荘にいる」

「どういうこと?」

「分からないけど、ミカが言うには二人で別荘に行ったと」

 黙って聞いていた園田さんが口を開いた。

「急いだ方がいいです。篤子さんは何かしようとしています。私はここまで車で来ましたから、急いで行きましょう」

 考えている余裕はなかった。私達は、家の前に止めてある白いバンに乗り、急いでそこへ向かった。

 グルグルと嫌な予感がアタマを駆けめぐる。早く止めなければ。篤子を止めなければ。


 高速に上がり、景色が目まぐるしく変わる。

 孤児院のバンは、長年使っているのであろうか、かなりの年代物である。スピードを出すとギシギシと嫌な音をたてた。それでも園田さんは出来る限りのスピードを出しているようである。

「どうしてスギとアッちゃんが一緒なんだ?」

 哲平が苛立ち紛れに零す。

「スギって篤子とは親しくないの?」

 私の記憶にある限り、スギはどこにでもいそうな今時の若者だった。

「親しいって程でもない。アッちゃんの夜の友達は、単に悠里の友達だから友達付き合いしているだけか、本当にドラッグを売りつける客ぐらいで、個人的に親しくしているとは思えない。スギも元々悠里の友達だっただけで、アッちゃんとはさほど親しくないはずだ。ドラッグの客でもあったけど」

 窓から入る風に短い髪が頬を打つ。

 篤子…

 何をしようとしてるの?

 体の中心に、不安が鉛のように凭れ掛かる。

 もう、元に戻れないの?

 戻るって、どこに?

 ワタシが、私に聞き返す。

 懐かしい我が家に?幸せな我が家に?そんなモノ何処にあったの?

 私は何を見てきた?何を知っていた?

 シアワセな我が家?

 チガウ。あの家の住人は世界一の役者だ。お互いを騙し合い続け、シアワセを演じ続けた。舞台は絵に描いたような一軒家。ワタシだけが当方もない道化役。いや、ワタシは取り残された単なる観客だったのかも知れない。何も知らず『シアワセ』と名の付いた芝居を見せつけられていた。くだらない、つまらない、でも、悲しいくらい切ない芝居を。

 幕を下ろしたのは『薙子』。

 そして、次に演じるのは何?




 私は、サービスエリアで一旦車を止めてもらった。トイレの鏡に向かい、私は『篤子』に語りかける。

「もう、誰も傷つけないで」

 傷は『篤子』自身を傷つけ続けている。

 それでも、復讐を止めないの?

「でもね…」

 そして、私は返事をしない鏡のワタシに、誓う。

「ワタシは、もう、誰も傷つけないよ」


「遅い」

 あからさまに不機嫌な哲平に曖昧な微笑みを向ける。

「もう、昼過ぎよ。お腹空いたと思って」

 私はサービスエリアで買ってきたハンバーガーとカップのコーヒーを哲平に渡した。彼は焦りのあまり空腹さえ忘れているようだったが、狭い車内に広がった御馳走の匂いに腹を鳴らした。少しばつが悪そうにそれを受け取ると、黙って食べ始める。園田さんは助手席にサンドイッチを置いたまま食べようとはしなかった。

 自分のために買ったホットココアに口を付けた。甘い香りが喉を潤す。結局、私もハンバーガーを一口食べただけで、それ以上口が動こうとはしなかった。

 インターチェンジを下り、山に挟まれた曲がりくねった道を徐々に上へと上る。私はチラリと哲平を見て、それから園田さんに向かい訪ねた。

「園田さん。哲平から教えて貰った道、大体分かりますか?」

 フロントミラー越しに園田さんが見つめ返しコクリと頷く。

「ええ。ここからは殆ど一本道なので、彼の案内がなくてもいけます」

 風が緑の涼やかな匂いを運んでくる。

「あなた達は似ていますね」

 園田さんが声を低くして悲しそうに言う。

「薙子さん。どうして全て一人でしようとなさるのですか?何故、もう『関わるな』とおっしゃるのですか?」

 静かだが訴えるような口調に、私は何も答えず、ただ自分の肩にもたれ掛かってきた哲平の寝顔を見つめた。

「母の睡眠薬をコーヒーに混ぜました。レンドルミンと言って安全性は高いのですが、効果は低く睡眠を促す作用しかないと医者が教えてくれました。でも、その別荘に付くまでは起きないと思います。園田さん、お願いです。そこに付いたら、彼を連れて帰って下さい」

「出来ません。そんな事、私が出来るとお思いですか?これは私にも責任があります。ハッキリと私は法に触れる罪を犯しました。死体を運んだのですから」

「だから、これ以上巻き込みたくないのです。分かって下さい。私達を苦しめないで下さい。私にこれ以上人を傷つけさせないで下さい」

 行楽シーズンが過ぎた山間の道は擦れ違う車もなく、窓から入る風の音だけがひっきりなしに耳に入って来た。暫くして園田さんの深い溜息が風の音に混じる。

「分かりました。しかし、私は帰りません」

「園田さん!」

「待っています。別荘の側に車を止め、一時間だけ待ちます。それ以上時間が掛かるようでしたら迎えに行きます。それなら、よろしいでしょう?篤子さんがそこにいれば、ゆっくり話をしてきて下さい」

 篤子がいたら…

「それから、必ず携帯電話を持って行ってください。そして、いざとなったらすぐに警察を呼んで下さい。分かりましたね」

 諭すように言われ、私は頷くより他ない。

「もうすぐです」

「止めて下さい。篤子に見つかったら、また逃げられるかも知れないので、別荘から見えるところで止めないで下さい」

 山間に黄緑の屋根が見えた所で、車は道路をそれ、砂利道で止まった。

「あの家です。いいですか。一時間ですよ」

 運転席からこちらをジッと見つめる瞳に、もう一分でも晒されていたら、私の決心に迷いが出そうになる。私の視線は彷徨い、そして、眠っている哲平へと落ちた。

 私は携帯電話を握り締めた。

「一時間ですね」

 グッと力を込めてドアを横に滑らす。鈍い音をたてて開いたドアからオレンジ色の光が私を照らす。目を細め眩しい夕日を眺めた。

「園田さん。篤子を連れて帰ります」

 頬に暖かな日差しを受け、精一杯の笑顔を作ってみせる。園田さんは何も答えず、ただ頷いた。

 篤子がいる。

 徐々に高まる心拍数が私に篤子の存在を教える。理屈では説明できない引力が、篤子と私を惹き付ける。

 いる。絶対に。すぐそこに。

 鳥肌が全身を覆う。

 その時、携帯に着信がはいる。

『オレだ。薙子か?』

 青木さんだった。

「私だけど。今、それどころじゃないの」

『よく聞くんだ。篤子は死んでいる』

「…っ?何言ってるの?」

『あの火事で死んだのは、篤子だったんだ。念のため監察医が残していた死体の髪をDNA鑑定して貰った。薙子の物と一緒にな。結果を言おう。一致した。DNAが一致すると言うことは、つまり、一卵性双生児だ』

「ウソよ。じゃあ、園田さんはウソをついていたって言うの?何かの間違いよ!篤子は死んでなんかない!」

 それだけ言うと電源を切っていた。

 DNA(デオキシボリ核酸)。いわゆる人間の設計図だ。細胞核にある遺伝子の本体であるDNAは、アデニン、グアニン、シトシン、チミンの四つの塩基が、様々な順序で約三〇億個並んでいる。そして、この三〇億個の中に一定の塩基配列が繰り返し出てくる。さらに、人によってこの繰り返し回数が異なるのだ。確か、これがDNA鑑定の原理だ。

 現在、警察では四種類のDNA鑑定が行われていると聞く。ABO式の血液型鑑定、そしてこの四種類のDNA鑑定を実施した場合、日本人において同一の型を持つ人間の出現頻度は、最もあり得る組み合わせで六万六千人に一人だという。

 六万六千分の一。

 ゼロじゃない。 

 篤子は死んでいない。私には分かる。

 篤子はいる。絶対に。すぐそこに。

 そんな鑑定など無意味だ。ワタシには分かるのだから。

 視界が開け、こじんまりとした別荘が緑を背景にひっそりと建っている。玄関に立ち、震える指と戦いながらベルを押す。反応がなく、もう一度ベルに指を近付けた時、ゆっくりとドアが開いた。クラブで一度だけ会った男が髪を掻き上げながら、開いたドアから現れた。彼がスギだ。

「早いな。それとも道に迷って戻ってきた?」

 私を見ている目がどこか虚ろで定まっていない。私を篤子と間違っているのだろうか?

 私は黙ってスギを見返した。

「だから、自転車でも往復一時間掛かると言っただろう。コンビニなら車で連れて行ってやるよ」

 彼は私の腕を引っ張ると顔を近付けた。汗の匂いがした。彼の手を払い、真っ直ぐに彼を見た。彼の瞳は瞳孔が開いて、充血した目は濁って何も映していない。何が可笑しいのか口元に笑みを浮かべていた。中毒症状がかなり進んでいるように見えた。

「どうしたんだよ」

「私は篤子じゃない。着ている服を見れば分かるでしょう。篤子はどこ?」

 早く事を終わらせようと早口で突き放すように言い立てた。

彼の目が大きく見開かれる。

「クックック、何だよ。もう、キメちゃってんの〜。速ぇー。ムチャ速ぇー。ヒトがラインまで作って待っていたのに、クックック。あ〜ぁ。あのオヤジ、どうすんだよ〜。夜中に呼び出してオヤジ狩りなんてさ〜」

 おやじ?って?まさか…

「加治さん…?」

 まさか、篤子が加治さんを逃がした?しかし、オヤジ狩りという言葉から察するに『監禁』の方が正しいのかも知れない。

 そんな私を無視し、スギは私の腕を掴み中に引きずりこむ。どんどん廊下を突き進みドアを乱暴に開け部屋の中に私を押しやった。コイツは人の話を聞いていない。

「それより、篤子は…」

 そこまで口にして私は言葉を呑み込んだ。そこは寝室だった。彼の開いた瞳孔が光る。全身に緊張が走り、体を翻そうとした。が、私の腕を掴んでいた指に力がこもり、肉に食い込んだ。

「痛っ」

 視界がひっくり返り、バウンドする。マットの柔軟性に一瞬忘れた我を取り戻し、ヒンヤリとしたシーツに両手をついて体を起こそうとした。

「楽しもうよ」

 真正面からニヤリと嗤う男の顔を、睨むしかできなかった。起こし掛けた体は既に男の下にあり、体重をまともに掛けられ動きを封じ込められた。耳に息がかかり掠れた声でワタシを呼ぶ。

「篤子…」と、

 唯一自由になる首を横に向け少しでもその臭く熱い吐息から逃げようとした。真横に向けた視界に注射器が見えた。予防接種と病院以外で使うソレの側に、ライターとくすんだ色のスプーンが無造作に置かれていた。テーブルの上は白い粉が僅かに散っていて、丸められた万札が転がっている。

「篤子。今更しらばっくれるなよ。知ってんだぜ。お前がド淫乱だって。金持ちのオッサンだとか医者のヤツとヤってんだろ。オレにもそのつもりで付いてきたんだろう?」

 何を馬鹿なことを。篤子がそんなコトするはずがない。

「大した女だよ。あの進学校に通う女子校生が、男手玉にとって利用していたんだろう?オレだってあのオッサンを捕まえるために利用したんだろう?」

 耳元で囁かれる戯言に近い真実に、意識の蓋を耳に掛けようと努力した。

「次はあのオッサンをどうするつもりだ?」

 努力は虚しく徒労に終わる。

「本当に殺すのか?」

 止めて…、そんな嘘は聞きたくない。熱い息が耳から滑り込み、直接脳が犯されていく。

「篤子…」

「違う!」

 絶叫していた。

「チガウ、チガウ。私は篤子じゃない!」

 目から次々溢れ出す涙は誰のためのモノ?

「私は篤子じゃない!」

 歪んだ瞳に写るのは…?

「どうでもイイさ。何だってイイ」

 頬の肉に男の指が食い込んでくる。にやけた口元から唾液が滴り落ち、鼻から血が流れ出る。男は嗤っている。

「イヤだ。助けて…」

 自由になった片手で男の顔を掴み、押し上げるが、全く効き目がない。

 コワイ。どうしてこうなった?ワカラナイ。

 男の鼻から流れた血が私の頬を濡らす。

 タスケテ。助けて…

「…アツコ。助けて」

 瞼に過ぎる優しい微笑み。喉が覚えているココアの甘さ。歪んだ現実な視界。流れる涙の塩辛さ。イタイ。携帯から低い声で伝えられた冷たい言葉。

『篤子は死んでいる』

 死んでない!

 狂おしいほどに『篤子』の生を願う。憎んでいた。嘘じゃない。キライだった。これも本当。でも、それは『薙子』がいるから比較してしまうから。『篤子』は私の、そうありたいと願うべき姿をしていて、だから、それはスキだから。だから、お願い。 


「篤子。助けて!」


 オネガイだから…


「…ナッちゃん?」

 この世で、一番聞き慣れた声が耳に届いた。




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