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郭公の森  作者: 山田木理
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第4章 昼、そして夜


「椎名。お前頑張ったな。先生は嬉しい。いろいろ、家族の不幸が在ったにもかかわらず、いや、その不幸をバネにして、きっと頑張ったんだな。うん。うん」

 『篤子』の担任を前に、私は溜息を吐きそうになる。お人好しの先生は『篤子』が先日行われたテストで50位だったことを、かなり褒めているのだ。毎回、上位を占めていた私が50位だったら、恐らく『薙子』の担任は心配するだろうが、殆ど下位だった『篤子』の場合は違うようだ。

(かなり手を抜いたつもりだったんだけど)

「何か言ったか?」

「いえ、別に…」

 『篤子』になってから私は授業以外殆ど勉強をしなかった。この進学校では、常に勉強しなければアッという間に上位どころか進級さえ危ない。特にこの目の前の先生は常にその心配をしなければならないのだ。成績別にクラス分けされるから、出来の悪い生徒はこの担任の受け持ちである。出来が悪いと言っても、別の高校に行けば充分優等生として扱われても不思議ではない。この高校はそれ程の超が付くほどの進学校なのだ。最初は『篤子』が何故この学校にこだわったのか分からなかった。

「椎名さん。先生のお話は終わった?何の話だった?」

 ボーダーラインすれすれのこの学校を希望したのは、『篤子』の私への対抗意識かとも思った。

「テストのこと?」

 違う。そんなワケない。

「椎名さん。50位だってね」

 『篤子』がそんな私みたいなつまらない対抗意識を持つ筈がないと、アタマで思っていた。ココロでそう願いながら。

「オレは当然1位だよ。誰かのおかげで」

 私の思考を邪魔する隣の金髪少年を睨み付ける。

 ワタシは心の中で『篤子』の中につまらない対抗意識をあることを願った。誰もが当然持っているつまらないモノを『篤子』が持っていないわけない。アタマで違うと繰り返し、ココロで願う。何故、ココロはそんなモノを欲しがるの?つまらないモノのカタマリで出来たワタシに『篤子』のワタシへの対抗心はあまりにも魅力的だった。

 何故かはわからない。

「学校では話しかけないんじゃなかったの?」

「それは、『アッちゃん』との約束。アンタとはそんな約束してないだろ」

「話し・か・け・る・な」

 ワザとゆっくり言う。

「あぁ、嫌だねぇ。ソレ、命令?」

 軽い声が耳に触る。

「お願いしてるの!」

「あのさ、椎名さん。お願いって言うのはね、そう言う顔でするモノじゃないんだよ」

「悪かったね。こういう顔で。アンタと約束した人は同じ顔じゃなかった?」

 会話しながら廊下を歩く私達を、周りの生徒が驚いたように振り向いていく。この金髪少年も火事を起こした双子の片割れである私も、結構有名人だ。が、この二人が知り合いだと誰も知らなかったのだ。勿論、他の人間には、私は『篤子』である。哲平は『薙子』と呼ばない代わりに『篤子』とも呼ばなかった。

「椎名さん。冷たい」

 わざとらしく拗ねてみせる哲平に、私はピタリと足を止める。

「私の教室、ここだから」

 彼のわざと驚いてみせる瞳が何故かムカつく。私はピシャリとドアで哲平を遮る。

「椎名さんって、A組の倉本君と仲良いの?」

 ハッとして振り返ると、『篤子』のクラスメートがいる。

「親しいって言うか何て言うか…」

 しどろもどろになって私は答える。一週間前から、つまり私が『薙子』だと知った翌日から哲平は遠慮なく話しかけるようになった。

「付き合ってるの?」

「まさか!」

 間髪入れずの私の反応に、目の前のクラスメートは安心したように笑った。

「よかった〜」

 何となく人付き合いを避けていたし、避けられてもいた私には、クラスメートとの久しぶりの会話らしい会話だった。小柄な体型の割には、自己主張がハッキリしていそうな彼女の大きな瞳を見て諭すように言った。

「でも、彼はやめた方がいいんじゃない?」

「どうして?付き合ってないんでしょ?」

「でも、彼って女関係酷いらしいし」

 私が『薙子』の時に聴いた噂はとんでもないモノばっかりだ。

「椎名さん。知らないの?噂の殆どが嘘よ」

「嘘?」

「そうだよ。倉本君に振られた女とか、付きまとっていた女が、悔し紛れに言いふらしたでっちあげだよ。そんな事も知らなかったの。やっぱり、椎名さんは倉本君と付き合ってなかったんだね。よかった」

 無邪気な笑顔を向けるクラスメートを、複雑な表情で見つめた。彼が好きなのは『篤子』なのだ。しかし、彼女は何も知らず私に笑顔を見せてくれる。

「二年生になったら同じクラスになれるように、頑張って勉強しよっと」

 この学校では、頑張り次第で倉本哲平と同じA組になれるのだ。もっとも、最下位のクラスである彼女がトップクラスのA組に為れる可能性は殆ど無い。

「随分、進学率に貢献しそうなヤツ」

 私は口の中で呟いて、可愛いクラスメートを横目に席に着いた。『篤子』もソウだったのかもしれない。きっと哲平と同じ学校に行きたくて勉強していたのだ。ワタシなんかへのつまらない対抗心ではない。好きな男の子と一緒の高校に行きたかった。ソウなんだってアタマが結論づける。ココロは何故か寂しがってた。なぁ〜んだ、それって、

「相思相愛じゃないの」

「どうかしたか?」

 私の呟きを、横を通りかかった担任が聞き止め、私を見下ろす。

「いえ、何でもないです」

 私は頭を振った。今はそんな事を考えている場合ではない。母さんの病状は随分良くなったが、問題は精神面だった。いつもぼんやりと考え事をしていて、出される食事にも殆ど口を付けなかった。私は心配で病院に母さんをもう少し預かって貰うことにした。私が学校に行っている間、母さんを家に一人にするのはやはり心配だった。

 本音は二人きりになるのが恐いのだ。でも、逃げない。ココロに巣くった『知らない』と名の付いた恐怖を消すためには、『知る』しかない。

 今週末は、その第一歩。私は週末、遠出をする予定だった。あの写真に写る母さんの悲しい微笑みの理由を知るために。


「週末、どうする?」

 帰り道、ちゃっかり私の隣で話しかける金髪の有名人を無表情で見返した。

「どうするって?アンタには関係ないでしょ」

「うっわ〜。まじ?かなり、冷た〜。氷河期のアメーバだって凍り付くような台詞」

 あれから一週間。私を守ってくれるはずの刑事は現れない。

「な〜にが、『オレが守る』よ」

「何?何か言った?」

「別に何も言ってない」

「とにかく、週末どうする?映画でも見に行く?」

「何で?どうして?アンタと?バカじゃない?」

「ほんっっっっとに、お前ってアッちゃんと性格は正反対だな」

「知ってるわよ」

「とにかく一人になるのは避けた方がいいだろ」

 分かってる。そんな事。だから、哲平がいつも私と帰っていることも、週末、誘うことも。でも、アイツが…

「あの刑事が私を守ってくれるんなら平気でしょ?」

 哲平も、青木さんがアレ以来一度も姿を現さないことを知っている。

 あんな言葉信じるんじゃなかった。

 どうして、こんなに腹が立つんだろうか。

 他人なんて当てにする方が間違ってる。悔しがっている自分に、また腹が立つ。

「アイツのことなんか忘れろよ」

「私が失恋したみたいに言わないでよ!」

 何だか哲平の言い方に腹が立った。

「悪かったよ」

 さすがにここまで冷たい態度に腹が立ったのだろうか。彼が不意に立ち止まった。私もつられて立ち止まり哲平を振り返った。

 彼はジッと私を見ていた。

 哲平の真剣な瞳が嫌いだった。普段いい加減で冗談ばかり言うヤツなのに急にそんな目されたら、どうしたらいいか分からなくなる。

「何?」

 私は黙り込む哲平に声を掛ける。しかし、彼はジッとこちらを見つめたまま口を開こうとしない。

「言い過ぎたわよ。悪かった。ごめん」

 とりあえず、謝ってこの場を凌ごうとした。それでも、口を開こうとせずこちらを見ている。

「だから、ゴメンって言ってるでしょ。週末は用があるのよ」

「用って?」

 低い声が短く問う。真剣な視線が私に絡み付いて離れない。

「別に大したことはないよ。ちょっと長野まで行くだけだから…」

「長野?」

「新幹線ですぐよ」

「オレも行く」

「はぁ?冗談でしょ?」

「どうして、長野に行くんだ?」

「アンタには関係ない」

「教えないなら一緒に行く」

 教えても、一緒に来るくせに。

「勉強しなくていいの?こんなコトしてると、アッという間にトップの座奪われるわよ」

「『薙子』が戻らない限り、大丈夫だ」

「じゃあ、放っておいたら?そしてら、三年間トップよ。良かったじゃない」

「怒るぞ」

 ビクッとして私は体を強ばらせた。

 今まで私の悪限雑言に、真剣に怒った人間などいなかった。母さんも篤子も悲しい顔をするだけだったし、父さんはいつも家にいなかった。居たとしても、あの人の怒った顔など一度も見たことなかった。

「分かったよ。一緒に行けばいいんでしょ」

 決まり悪そうに私は上目遣いで彼を見た。

「わかりゃいいんだよ」

 哲平はニッコリと笑って私の頭を大きな掌で掻き回した。


「どうして、駅弁ってこんなに高いんだ?千円だぜ。こんな事ならコンビニで何か買えば良かったよな」

 隣の座席に座りながら、私に弁当を差し出す。私はソレを受け取る。

「ハイ。これも」

 冷えたウーロン茶が私の目の前の簡易テーブルに置かれる。窓の風景が徐々に流れ始め、私は前に置かれた弁当に視線を落とした。隣では哲平が既に半分以上弁当を食べている。

「食えよ。朝から何も食べてないんだろう?」

 綺麗に焼けた卵焼きを頬張りながら、なかなか箸の付かない私の弁当を箸で差す。

「アンタこそ」

 肯定の意を含んだ問い返しに、哲平はヤッパリねって口をモゴモゴさせながら言ったみたいだった。

「これ、最近、発売したヤツ。CM見た?」

 嬉しそうにチョコレートのパッケージを私に見せる。弁当を食べ終わったばかりとは思えない程の速さで次々と袋を開けていく。

「うん。上手い。ナッちゃんもどう?」

「アンタねぇ。ガキの遠足じゃないんだから」

「じゃあ、何しに行くんだ?」

「う…」

 言葉に詰まり、私は仕方なくバッグから写真を取りだした。母さんが赤ちゃんを抱いた写真だ。哲平がマジマジと写真を見つめ呟く。

「悠里?」

 私の想像は確信に近付く。

「どうして、その赤ちゃんが悠里だと思うの?」

「どうしてって。この女の人は悠里の母親だ。それより、どうして、ナッちゃんがこの写真を…」

 そこまで言って、ようやく病院で見た私の母親を思いだしたようだ。

「哲平がその写真を見て悠里の母親だと思ったように、私も家族の写真に混じったこの写真を、当然のように母さんだと思ったの」

 哲平が目を凝らしてジッと写真を眺める。

「で、どっちなんだ?」

「分からない。ただ、そこには赤ちゃんが一人しか写ってないでしょ」

「…じゃあ、悠里か?」

「たぶん…。単なる想像だけど」

「二人は姉妹だった、と?」

 単に似ているだけでは済まない。

「悠里の母親は娘を守る保護者を捜していたと言ったよね。保護者だったら彼女の母親や親戚がいるじゃない。わざわざ他人を保護者に当てる必要はないでしょ」

「確かにそうだけど…」

「でも、彼女には最初から家族がいなかった」

「そう言えば、確かに彼女の親戚は見たことないなぁ」

「ウチの母さんもね。孤児だったの」

「なるほど。つまり、悠里とナッちゃん達は従姉妹同士だったわけだ」

「その想像を確かめに行くの。母の育った孤児院にね」

 単なる従姉妹だといいけど。私は不安を呑み込んだ。私は本当に何も知らなかった。篤子が悠里に出会ったことで、知ってしまった事実。それを知りたかった。母さんの原点に全ての謎が在る。

 『篤子』のことをもっと知りたいと思った。

 知らなければならないと思った。私は何も知らなかった。『知らない』コトが、私の恐怖であり、そして、ワタシの罪。


 新幹線の駅を下り、更に鈍行で先に進む。それから、バスに乗る。

「30分ぐらいだね」

 バスの運転手の行ったとおり、そこには30分で着いた。バスから降りると、土の匂いがする暖かい風が頬を打つ。そこは緑の映える美しい場所だった。色付き始めた山々が近くに見え、稲穂を実らせた大地が風に波打っている。その中に、孤児院はあった。白を基調にした落ち着いた建物は決して新しくはないが、丁寧に使われていたのだろうか、特に見窄らしさは感じられない。屋根の天辺に十字架が掲げられている。

 母さんは、自分のことは殆ど話さなかった。子供の頃のことも、親のことも…。訊くと悲しそうな目を私に向けた。だから、それ以上訊くことが出来なかった。だけど、孤児院の名前だけ一度教えてくれたことがあった。それを手がかりに探したのだ。


「すっげぇ田舎」

 哲平は辺り一帯の田園を見渡し、遠くの小さな町を目を細めて見ている。

 ここが、母さんが育った所。

 胸の高さまであるゲージを手で押すと音もなく開いた。片隅の庭に数羽の鶏が地面にばらまかれた餌をつついている。

「こんにちは…」

 電話でも一本入れてから来たら良かったかなと思いつつ、遠慮がちに声を出した。時間は昼の一時である。真昼の太陽が回りの空気を熱くする。

「とにかく、玄関に行こう」

 哲平が建物の入口に向かう。私もその後を追う。

「み〜っけた」

 そんな柔らかな声と共に私の足に何かが絡み付いた。見下げると、2,3歳の男の子が私の足にしがみついていた。あどけない顔で私にニコニコ笑っている。

「ゆうちゃん。ずる〜い」

 別の方向から間延びした幼い声が、聞こえこちらに向かって歩いてくる。足下の子供より更に幼い感じの小さな女の子だ。二人とも親に捨てられた孤児なのだろうか。そんな事を何一つ感じさせない笑顔を私に投げる。幼い女の子は私の足下に抱きついた男の子を引き剥がそうとしている。

「ミホも、おねえちゃんと遊ぶの」

 小さな頬を膨らませ、今度は私の反対側から私に抱きついてくる。私は困ってしまい、ただ、オロオロとした。

「モテモテだな」

 可笑しそうに哲平が私を笑った。

「ちょっと、笑ってないで何とかしてよ」

 私は両側から引っ張られ、更にどうしようもなくなった。足下の二人の攻防戦が今も続く。

「だって、ミホちゃん。ずるするモン」

「ゆうちゅんはオニだモン」

「ミホちゃん。白いブーブーにかくれた」

「ちがうモン」

「ずるいのは、ダメだもん」

 女の子は男の子に掴みかかろうとして、男の子は一気に泣き始めようとした。

「やだ。泣かないで」

 私は男の子を慰めようと、屈み込んで頭を撫でてみた。私の方こそ泣きたい気分だ。遠くで笑う哲平の頬面をひっぱたきたい気分になるのを押さえて必死になって慰める。

「あら、あら、ゆうちゃんもミホちゃんもダメでしょう。お客様を困らせたら」

 ようやく大人の声がして、ホッと声の主を見た。線の細い老女だった。鍔の広い麦わら帽子を被り、ジャージのズボンを履いている。手の軍手を脱ぎながらこっちに向かって来る。農作業の途中といった風である。

「こんにちは、何か御用ですか?」

 柔らかな笑みは、母さんを思い出させる。この人が母さんを育てた人かも知れない。何となくそんな事を考えながら会釈した。

 子供達から何とか解放され、私達は応接室に通された。狭い応接室はきちんと整理され、壁には子供達の描いた絵が所狭しと飾られていた。婦人がお茶を用意している間、ゆっくりとそれらを眺めた。母さんが育ったところ、そう考えると何だか恥ずかしいような気持ちになった。哲平は落ち着かないようにソファに置いてあった新聞をぺらぺらと捲っている。婦人がお茶を持って現れると私達は短い挨拶をした。

「院長の園田です」

「…椎名薙子です」

 もうこの世に存在しない名を告げてから、私は母の名を出して、話を促した。

「…そうですか。夕子ちゃんの娘さんですか。夕子ちゃん…、お母さんは元気にしていますか?」

 懐かしそうに私を見て、そう訊ねる彼女に私は曖昧に頷いた。ここまでは、単なる火事として処理されたニュースなど届いてはいないようだった。わざわざ話して年老いた婦人を悲しませようという気にはなれなかった。だから、私は一番知りたかった事を早速訊いた。

「母に姉か妹かいませんでした?」

「ええ。それはよく似た双子の妹さんがいましたよ。双子で孤児院に来ることは珍しいので、私もよく覚えています」

 やっぱり…。然も、双子…。ソレは事件の鍵を握る符号のような事実。

 母さんも双子だったなんて…

「妹さんの方はここを出られてからもたまに連絡をくれたんですが、貴女のお母さんの方は、妹さんから近況を訊くだけだったので心配していたのですよ。それも随分昔の話なのですが…」

 そう言って、園田さんはニッコリと微笑み立ち上がった。近くの戸棚から箱を取りだし、更に中から一通の手紙を取りだした。

「桐子さんからの…、お母様の妹さんからの手紙ですよ」

 古い封筒から一枚の写真を取り出す。色の薄いカラー写真だった。

「ここを出て、半年後に送ってくれた写真です。あなたと同じ年の頃ですね。そっくりでしょう?でも、二人の性格は正反対だったのですよ。竹を割ったような気持ちよい性格の夕子さんに対し、桐子さんは春の日だまりのような少女でした」

 暖かな笑みを注がれ、私は写真に目を落とした。今の母さんの落ち着きからは、竹を割ったような性格と言われてもピンとこない。自分にとっては、母さんこそが春の日だまりだった。『篤子』のような…。母さんは義務教育終了と同時に高校へも行かずに働いたのだ。孤児だった母さんは中卒だった。色々苦労したのだろう。今の落ち着きは、そう言った全てを経た落ち着きなのだろうかとぼんやり考え、古い写真の中にいる同じ二つの顔を眺めていた。私と『篤子』のように母さん達は寄り添い笑っている。どちらが母さんか私には分からなかった。

「あの…」

 私は写真の中で一人が持つ緑色の箱に目が行った。小さすぎてよく見えないけど、これは…

「この手に持っている物、何だか分かりますか?」

「それは、桐子さんがお姉さんに、初めて貰った給料でプレゼントしたオルゴールです。手紙にそう書いてありました」

 このオレゴールは、私が母さんから無理矢理貰った物だ。こんなに大事な物だったなんて知らなかった。『篤子』は知っていたのだろうか。

「あの、私と同じ顔をした女の子が以前訪ねて来ませんでした?」

 暫く園田さんは記憶を探るように考え込み、ゆっくりと首を横に振った。

 不意に子供達のはしゃぐ声が、窓から流れ込み、穏やかな老女の視線が庭で遊ぶ子供達を追う。白髪の混じった髪は丁寧に束ねられ、深い皺が顔中を覆い、彼女がここで過ごした長い年月を感じさせる。子供達を追う視線には限りない慈愛と悲しみが同居している。僅かに入り込んで来た西日が、老女の瞳にぶつかり、濡れたように光った。その憂いに満ちた瞳が思いがけずこちらに向けられ、私はドキッとした。私は、その深い憂いを帯びた視線を避けるように哲平を見た。哲平は隣に座り一言も口を聞かず、園田さんを見ているだけだった。

 私は沈黙を破り、穏やかに言った。

「ありがとうございます」

 私達は礼を言って外に出る。園田さんはゆっくりと私達を門まで送る。太陽が大分傾いている。

「そろそろ、バスが来る頃ですよ」

 園田さんはそう言って、細いアスファルトの先を見つめた。2時間に1本しかないバスを待つ。徐々に近付いてくるバスを見つめ、老女は静かに呟いた。

「本当によく似ていますね」

「…え?」

 よく聞き取れず、振り返った。それと同時にバス滑り込む。ドアが開き、哲平が先に乗り込む。私も急かされるように後に続こうとした。

「薙子さん…」

 耳に滑り込む穏やかな声に、バスに乗りかけた私は足を止めた。振り返った目に西日が突き刺さる。目を細め彼女を見ようとした。けれど、その背後から受ける強い西日で彼女の表情は翳っていて見えない。

「薙子さん。…人を許すのは難しいことです。でも、人を許して、初めて自分も許されるんですよ…」

「え?」

「お客さん。まだですか?」

「すいません。もう、出ます」

 私は急いでバス乗り込む。背に儚い声が届く。

「お元気で…」

 バタンとドアが閉まり、声が遮られる。凛としたその老女はどこまでも悲しい笑顔を見せ、やがて見えなくなる。

 胸が酷くざわつく。

 見落としていた?何か大事なモノを。

 そんな感じがした。

「どうした?」

 終始、黙っていた哲平が心配そうに私を覗き込んだ。

「何でも…ない…」

 実った稲穂の海を見つめながら、沸き上がる不安を押し込めようとした。今日最後の太陽の光を浴び、黄金の海は繰り返し繰り返し、優しいさざ波を語る。耳に聞こえない優しい囁き。聞こえない波音は誰のためのモノ?

園田さんが最後に言った言葉。

 彼女は何を言おうとしていた?

『人を許すのは難しいことです。でも、人を許して、初めて自分も許されるんですよ』 それは、クリスチャンとしての言葉?

 私に何を言いたかった?

 そして、その言葉と同時に思い出される篤子の文字。

『次、死ぬのは、あんた。許さない』

 篤子の文字で記された強い復讐の意志。

 許さない?

 何を?

 誰を?

 ワタシを?

 悠里を苦しめた人間達?

 分からない。篤子は何を憎んでいた?

 父さん?

 それとも、母さん?

…人を許すのは難しいことです。

…許さない。

 グルグルと巡る悪い予感。


「なっちゃん。来たよ」

 哲平の言葉に前を見ると新幹線がホームに滑り込んできた。

「本当に田舎って参るよな。乗り継ぎは多いのに、本数が少なすぎ。お陰でもう外、真っ暗だよ」

 溜息混じりの哲平の声と共に新幹線に乗り込む。席に着くなり、哲平はホームで買ったお菓子やジュースを広げ始める。私は未だに心に犇めく渦のような物を感じながら、それを眺めていた。哲平の指がプルタブに突き付けられ、弾けるような音と共にシュワッと炭酸の小気味良い音が耳に聞こえた。荷物を抱えた観光客が何とか席を確保し、笑い声を立てている。

「まだ、何も知らないんだろうな」

 不意の哲平の言葉にズキッとした。

 ワタシの事かと思った。でも、違った。

「あんな小さいのに、親に見捨てられてさ」

 悲しそうな哲平の表情。哲平の父親は彼にとってあまり良い父親ではなかったらしい。母親もすぐ死に、新しい母親も、また死んだ。

 そして、孤児院にいた子供達は何も知らないように私に笑顔をくれた。あどけない笑顔は、自分の悲しい事実など微塵も感じさせない。それでも、夜になれば母が恋しいと泣くのだろうか?

 私は、足にまとわり付いていた小さな子供を頭に思い描く。

 笑顔の可愛い…

 あの子達の…

「哲平…」

 私の声が小刻みに震え出す。

「何?」

 缶を持つ手を止め哲平が私に振り向いたが、私はどこか別の場所を見ていた。アナウンスが発車のベルを鳴らし始めている。

「あの子達、私に何を言った?」

「はぁ?」

「あの、子供達よ」

「ナッちゃんにまとわり付いてきたガキのこと?」

「そうよ」

「何って?遊んでって言ってなかった?」

「そうじゃなくて…。一番初めに私にくっついてきた男の子よ」

「そんなの覚えてねーよ」

 私はガタンと立ち上がった。

「おいっ。ナッちゃん?」

「『みつけた』って言ったのよ!」

 私の足は既に出口へと向かっていた。

「かくれんぼしていたんだろう!ちょっと、待てよ」

 慌てて哲平が私の後を追う。私は足を緩めることなく言い返した。

「一緒にかくれんぼしていたのは『篤子』だったのよ!」

 私は閉まりかけたドアから一気に飛び降りた。哲平の私を呼ぶ声も、彼自身も、目の前でドアに遮られる。

「なっちゃん!」

 ガラス越しの哲平の声は新幹線と共に滑り出し、私の耳には届かなかった。




高まる心拍数を気にすることもなく、ただ自分の鈍感さに激しい罵倒を浴びせたい気分だった。

 どうして、気付かなかったんだろう?

 あの人は何もかも知っていたんだ。

 あそこには、篤子がいたんだから。

 あの子はかくれんぼのオニで、『篤子』を見つけたんだ。どうして、そんな単純な事に気付かなかった?

 あの人が私に掛けた言葉は、遠くで見ていた『篤子』への言葉だったんだ。

 あの人の瞳はあんなに訴えようとしていたのに…

 今日二度目の小さな無人駅に辿り着く。バスは終わっている。ここから、あの孤児院まではタクシーなら15分だ。

 あそこに『篤子』がいる。

 胸の鼓動が激しさを増す。

 もう、既に外は暗い闇の世界に沈んでいた。タクシーを呼ぼうと駅の外の公衆電話に駆け寄る。イエローページを持つ手が震え、なかなか目的のページが見つからずイライラとした。ガクガクと震える手を沈めようとして、私は逆にイエローページを落としてしまった。

「あぁ、もう!」

 自分に腹が立ち、それでも本を拾おうと屈み込んだ。

「タクシーの番号ならそこに書かれているよ」

 見覚えのある声に、顔を上げるとそこに加治さんが立っていた。

「加治さん?」

「ほら、ここに」

 笑顔で、公衆電話の上の方を指差す。先には丁寧に三社のタクシー会社の電話番号が記されていた。

「加治さんですよね?どうしてここに?」

 偶然にしては、ここはあまりにも遠すぎる場所だった。

「恐らく椎名さんと同じだよ。青木があまりにもあの火事に拘るんでね。それに、あの事件。暴力団の組員が二人も殺されただろう。その現場であるマンションの住人の行方を追っていたんだ」

 そうか。悠里の母親は、私の母と同じくあの孤児院出身である。手掛かりを掴もうとここまで来ていたのだろう。

「孤児院に行ったんですか?」

「あぁ、でも、残念ながら、倉本悠里の情報は得られなかったがね。君は今から行くのかね?」

 加治さんは呆れたように暗い空を眺めた。確かに、今から行くにしては常識はずれな時間帯である。

「加治さんは車で来られたんですか?」

「そうだよ。携帯電話を署に忘れたんで、公衆電話で掛けようと駅に来たら、君を見かけて…」

「あの、もう一度、孤児院に行って貰えませんか?」

「今から?」

 驚いたように見られ、ちょっと図々しいかなとも思ったが、一刻も早く行かなければ『篤子』に逃げられるような気がした。

「いいよ。そんなに遠くもないし、何よりこんな夜遅くに未成年を放っておけないからね」

 優しい笑顔に甘えることにして、私は加治さんの車の助手席に乗り込んだ。車は静かにもと来た道を走りだした。昼間に一度来た道なのに、夜はガラリとイメージを変え違う町のような気がした。

「倉本悠里の母親と君の母親が姉妹だったなんて驚いたよ。ところで、椎名さんは、お母さんの故郷をどうして訪ねる気になったのかな?」

「何となく…」

 と言いながら、何となくで必死になって行くヤツなんかいないよな、とすぐに思った。でも、『篤子』がいるかもしれないから、とは言えなかった。何しろ、今は私が『篤子』なのだから。

「そうか。何となく…か」

 穏やかな声は、全てを見透かされているのではないかと思わされた。もしかしたら、青木さんがこの人には全て話しているかも知れないし…。時折、街灯に照らし出される加治さんの表情をチラリと見て、この人には全て話した方がいいのでは、と、私はそんな事を考えていた。

「知っていると思うが…。青木がね…」

 調度、考えていたことを言い当てられ、心臓が激しく揺れた。

「君のことを…、あの火事の事を、随分熱心に調べているんだよ。でも、」

 信号で車を停止させた加治さんは、徐にこちらに振り返り、真剣な眼差しで言った。

「彼には、あまり関わらない方がいい」

「…どうして?」

「部下のことを悪く言うのは進まないが、何かと署の方では問題の在る男でね。自分勝手な単独行動はするし、今も君に随分迷惑を掛けているんじゃないかな」

 確かに、青木さんは一般市民である私を利用して事件を解決しようとしていた。車一つ通らなかった交差点の信号が、ようやく青に変わり車はゆっくりと加速し始める。加治さんは前を向きながら会話を続けた。

「…これは、個人情報だから、絶対秘密だが、君のために言おう。彼のね、父親は暴力団の組長なんだよ。一人息子である彼は、当然、その跡継ぎとして育てられていたんだ」

「嘘でしょ」

 俄には、信じられない彼の素顔に驚きを隠せなかった。

「しかし、彼は高校に入るとすぐに、親に反抗して家を飛び出した。それからは、母方の祖父母の家で育てられたと聞いている」

 彼のあの無謀な行動の基礎は、そんなところから来ているのだろうと、思わず納得してしまいそうになる。夜の下に広がる稲穂の大海原は、強い風に不気味にうねっている。

「…青木は、我々に何か隠しているようなんだ」

 それは、私の事だろうか?

「例の覚醒剤の件に関しても…。署の中には彼が暴力団と繋がっているのでは、と見る人間も少なくはない。勿論、私はそんな事信じていないがね。私が育てた部下なんだ…。そんな事、信じたくないよ」

 悔しそうな加治さんの言葉が、気持ちが私の耳に入り込む。

「つまらない話をしたね」

 チラリと私を見て、気分を変えるようにニッコリと微笑んだ。そして、笑顔のままで念を押した。

「青木には、関わらない方がいい」

 私は黙ったまま窓の永遠に続くと思われる田園を見つめる。二度目の風景。

 昼間と夜は、全く違う風景を見せる。

 『篤子』の顔は二つあった。

 昼間の顔と、夜の顔。

 どっちが本当の顔?

 どっちも『篤子』の筈なのに…。

「こんなにも、違うんですね」

「…何がかね?」

「風景です。昼間来た時と夜では全く別の場所を走っているみたいです」

「君は、初めてじゃなかったんだね」

「実は昼間に一度来ているんです。そろそろ着く頃ですよね」

 私は目を凝らして稲穂に浮かんでいる筈の孤児院を探した。一本の細いアスファルトでは擦れ違う車も殆ど無かった。

「スピード違反だな」

 バッグミラー越しに加治さんは後ろを見ていた。私は首を捻り、アスファルトを物凄いスピードでこっちに向かう車を見つけた。

「田舎の道は空いてるからね。良く在るんだよ」

 制限速度で走っている加治さんの車にその車はアッという間に追いついてきた。その車は、細い道幅の道路で無理矢理、追い越しを掛ける。

 キキキー

 その車は、追い越した途端、前に滑り込むようにしてブレーキを掛けた。加治さんは急ブレーキを掛けざるを得ない状況になった。私はシートベルトのお陰でフロントガラスに顔面をぶつけずに済んだが、シートベルトをしていなければ、明らかに重傷を負っていただろう。

「ヤレヤレ、なんて危ない車なんだ」

 運転席で落ち着き払った声が聞こえ、加治さんはシートベルトを外していた。前の車は、私達の車を止めるためにワザと前に入ったのだ。

「君は、絶対、外に出ちゃダメだよ」

 ジッと私の目を見据える。屈んだ加治さんのスーツから拳銃が覗いていた。私はコクンと頷き、彼は安心したようにドアから出た。前の車から人が下りるのが、ライトに照らし出されハッキリと見えた。

「青木さん…?」

 ライトに照らし出されたのは、スラリとした背の高い男。青木さんだった。

「どうして…」

 加治さんが言った言葉が、悪い予感に拍車を掛ける。

 暴力団と繋がっている。

 そんな筈はない。

 あの人は誰より一生懸命だった。私に近付いたのも…事件を解決させるためだし…。

 でも、全て、逆だったら?

 事件解決どころか、事件をうやむやにするために、私に関わったのだとしたら?

 そのために、私を『篤子』のままにした?

 思考回路がバグってしまう。

 アタマは考えようとしていた。でも、心臓から震え出す。血管を通して全身に広がる不安。違う。青木さんは、そんな人じゃない。

 チガウ!そう思う側から、不安。

 じゃあ、あの録音された会話は?

 あの、声の男は『青木』と呼ばれていたではないか?

 でも、声が違ったような気がした。

 コワイ。

 でも、あの時、青木さんは確かに動揺していた。

 不信感が血管を駆けめぐる。

チガウ。不安。コワイ。チガウ。チガウ。ワカラナイ。

 冷たい汗が体を麻痺させる。

 外に出た加治さんと、青木さんの二人の距離は、約10メートル。

 青木さんの声が聞き取れない。

 二人はどんな会話をしているのだろう。加治さんの声は聞こえるが、ハッキリと何を言っているのかまで理解できない。

 ただ、緊迫した空気だけが私にも伝わる。

 ドウシヨウ。

 見守るしかないのだろうか?

 ワタシには何もできない。

 そして、青木さんが加治さんに銃を向けた。信じられない。

 コワイ

 何が起きているの?

 自分の心臓の音が煩い。

チガウもフアンもコワイもワカラナイもドウシヨウもグルグルグルグル回転する。

 難しい顔した青木さんだ。ギリシア神話に出てきそうな均整の取れた彫刻の顔に痛さと動揺がこびり付いている。それでも、銃を真っ直ぐ加治さんに向けている。

 ダメだ。チガウ!何が?

 止めなきゃ。

 彼に銃を撃たせてはダメだ。どうして?

 私は、ドアから飛び出していた。

 ワカラナイけどチガウ。コワイけど止めなきゃ。

 二人はドアの音に一斉にこちらを向いた。

「椎名さん。ダメじゃないか!」

 驚いたようにこちらを加治さんが見る。

「薙子!こっちに来い!」

 青木さんの怒鳴り声が聞こえる。

 落ち着き払った冷ややかな声に馴染んでいた私は、彼が焦りを感じているのを初めて見た。ライトに照らし出された顔に、焦りが付け加えられる。

「椎名さん。行っちゃダメだ」

 加治さんも、スーツの内から拳銃を取り出す。

「薙子。よく聞くんだ。加治さんは、暴力団と繋がっていたんだ」

「何をさっきから訳の分からないことを!繋がっていたのは青木の方だろう!」

 彼もまた、ついさっきまで笑顔を見せてくれていた人とは、まるで別人の様だった。

「椎名さん。騙されてはダメだ。アイツに付いていったら口封じに殺される」

 ビクッと肩を揺らして青木さんを振り返る。苦い口調を含んだ彼の声が響く。

「薙子。オレを信じるんだ。加治さんが偶然薙子を見つけたのか最初から狙っていたのか解らないが、彼は危険だ」

「青木。いい加減目を覚ませ。彼女には罪はないんだ」

「薙子。信じるな」

「青木。こんな所まで何の用だ。何が目的で長野まで来た?」

「倉本君から、昼ごろ携帯に電話があったんですよ。孤児院に行くと。それで、夕方ごろ、長野に向かいました。向かっている途中で、また電話がありました。薙子が今度は一人で孤児院に行った。しかも、携帯を新幹線に忘れていったと話してくれました。それから、気にかかることも言っていました。とにかく、薙子を探さなくては、と孤児院によろうとしたら、加治さんの車を見つけたんですよ。正直、信じられませんでした。あなたがこんな行動に出るなんて」

「そんな話、信じられると思うか?」

 本当だろうか?

 哲平が、わざわざ嫌っていた青木さんに連絡するだろうか?

 迷う心は止められない。加速度を付けて青木さんを疑っていく。

 コワイコワイコワイ。

信じられない。臆病なワタシ。信じられない。

 誰か助けて!

「加治さん。これ以上、罪を重ねるのは止めて下さい」

 風に流れないしっかりとした青木さんの言葉が私の耳にも届く。

 強い風が夜の海原に吹き荒れる。何一つ遮る物などない。

「椎名さん。アイツを信じてはダメだ」

「薙子。こっちに来るんだ」

 二人がこっちをジッと見る。

 どっちを信じればいいの?

 何が本当で、

 何が嘘?

 真実はどこへ行けば、記されている?

 誰か、教えて。コワイ。

 何がホント?何がウソ?

 コワイ

 間違えるのがコワイ。違っていたらコワイ。今までずっと間違っていたから!誰よりも何よりも否定されるのがコワイ!

 …お願い。

 篤子!

 

 ピピピピピピ…


 携帯電話が鳴り出す。

 私のではない。例の携帯電話だ。車外に出たときに、助手席から落としたバッグ。その中から、携帯電話が鳴り響いていた。

 私は、バッグを拾い上げる。

 風が頬を叩き付け、稲穂が大きくざわめく。

 中をまさぐる。

 手に掴んだのは、


 カジニ キヲツケロ


「椎名さん?」

 カジは加治さん?

 私は加治さんを見つめ返す。

 携帯電話を信じるの?

 携帯電話は『篤子』なの?

 『篤子』を信じればいいの?

 夜の『篤子』。昼の『篤子』。

 本当の『篤子』はどっち?

 ホンモノはどっち?

「薙子!」

 青木さんの声が、風を突き破り聞こえる。

 遠くまで、広がる大地。

 稲穂の海。

 昼間の稲穂は、どこまでも美しく…、

 力強い。

「違う!」

 ワタシは叫んでいた。

「椎名さん?」

「違う!ここは、昼間見た風景じゃない!」

 走り出していた。

 青木さんに向かって。

 夜も昼も、同じ。

 たとえ、どんなに光を遮られようと、どんなに暗闇に沈もうと、変わることなどない。

 同じなんだから…

 ここは昼間来た道とは、違う道。

 だから、15分過ぎても孤児院はどこにも見当たらない。


 昼間の『篤子』夜の『篤子』…

 ホンモノは?


 後ろからグイッと腕を引っ張られ、青木さんには届かなかった。

「薙子!」

 さっきより遠くに青木さんの声が聞こえる。こめかみに銃口が押し付けられるのは二度目だ。

 恐いけどコワくない。

 少し分かったから。

 彼が味方だと分かったから。

「加治さん。止めて下さい」

 銃で狙いを付けたまま、こちらに向く。

 一度目は助けられたんだから二度目も大丈夫なのかな。 後ろに引きずられながら、青木さんを見る。彼の顔に迷いが見えた。この前とは状況が違う。距離も、視界も、対象物も、何もかもが、彼を迷わせている。

 もしかしたら、助からないかな?

 死を目前にして、実感が湧かない。

 『薙子』はもう、死んでいるからかな?

 あぁ、でも、死ぬ前に…

 …篤子に…会いたかっ…た…

 後頭部に鈍痛が走り、全てが闇に消えた。

 私の手にあった物が手から滑り落ち、小さく音をたてた。そのすぐ後、遠くで銃声が聞こえたような…



 聞こえるのは、あのメロディー。

 軽やかな三拍子を刻むカッコウ。

(二人だけの秘密よ)

 それは、私が言った言葉。

 宝物。

 エメラルドグリーンに輝く宝石箱。

 大切な、大切な…

(ごめんなさい)

 誰?私に謝るのは。

(ごめんなさい)

 それを、ずっと言いたかったのは、私。

 ゴメンね。ゴメンね。

 いっぱい傷つけた。

 酷いこといっぱい言って、ごめんなさい。

(ごめんなさい)

 どうして、謝るの?

 謝るのは、誰?

 篤子?

 …母さん?







「痛っ」

 頭を思いっきりぶつけたような衝撃に意識を取り戻した。

「痛った〜」

 また、ぶつけた。私はかなり揺れている。私が揺れていると言うより、地面が揺れている?

 目を開いても、真っ暗。

 どうやら目隠しらしい。

「痛っつー。もう!どこ?」

 丁寧に両手、両足を縛り上げられ、目隠しをされている。 つまり、青木さんはあそこまで来ていて助けられなかったのね。

 ガタン

 そして、この圧迫感と激しい揺れ。見えないけど、車のトランクの中らしい。 加治さんに捕まったのだ。いい人って見かけじゃないのよね。

笑顔に騙された、私が悪いって?

「痛い!」

 誰も聞いてないと知りつつも、つい大声を上げる。

 コンクリ詰めで東京湾か?

 それとも、雑木林か?

想像力を働かせ、ろくな想像をしない。

ガタン!

「痛っ…」

 バカ。

 青木さんのバカ。


 バカ…

(ごめんなさい)

 違う。バカなのは私。

 ごめん…なさい…



寒い。

 どうして、こんなに寒いんだろう。

 風を感じる。潮の匂いだ。

 長野って、海、あったかな?

 声が微かに聞こえる。

「…って…乗り換えるとは…だな」

「そのお陰で…だろう?」

 加治さんと、聞き慣れない男の声。両手両足を縛られたまま、頬に冷たいコンクリートを感じる。目隠しもされたままで、私は聴力と臭覚を働かせる。

「…この小娘のお陰で、とんだ目に遭ったようだな」

「全くだ。警察から押収されたブツを横取りした上に、売り捌いて、更に、奪い返したと思ったら、罠だった」

「フン。会話を録音されたわけか?」

「そうだ。覚醒剤をワザと奪わせておいてこっちの足取りを追って、声を録られよ。顔を見られてなかったから、私の本当の素性には気付かなかったようだがね」

「しかし、アンタも木澤が警察に捕まった途端に、木澤を裏切りこっちに付くとはなかなか最低だな」

「アンタに言われたくない。木澤が消えて、組の若頭の座は、殆どアンタで決まりだと聞いている。護摩堂のオヤジも焦るだろうな」

「それよりその録音されたデータの方は大丈夫なのか?アレが警察に行けばアンタは終わりだ。そうだろう?青木さん」

「もう、警察には戻る気はない。今日の午後には海の上だ。暫くは海外の方で身を潜めているさ」

 耳に聞こえる会話に、虚しさを覚えそうになる。『青木』と、ここで呼ばれているのは、間違いなく、加治さんだ。

 彼は、『青木』と言う偽名で、裏の仕事をしていたのだ。きっと、あのSDカードの音声を青木さんと聴いた時、彼は声の主が分かったのだ。私は加治さんとは二、三回しか会話した事ないし、音は雑音だらけで、マスクをしたようにくぐもった声だったから気付かなかったけど、彼の部下である青木さんには分かってしまったのだ。それでも、確証が掴めるまでは迂闊なことを言えるわけもなく、黙ったままだったのだろう。恐らく、私の前から消えた一週間は、ずっと調べていたに違いなかった。

 今、思い返せば、色々なことに気付く。

 部屋が荒らされた日に、青木さんに掛けた無言電話。青木さんは加治さんには言わずに私のマンションに来ていた。加治さんは青木さんが電話を受けたときに側にいたのだ。それで、何か探るために私のマンションに青木さんより早く着き、私を尾行して郵便局へ行ったところを見ていた。そして、SDカードを持っていた私を見た。悠里のマンションに拉致された時、木澤が私の手にSDカードが在ることを知っていたのも理解できる。青木さんがもっと早く来てくれれば…

 でも、青木さんが一足遅くに来てくれたお陰で、母さんは自殺未遂で済んだけれど…。自殺は衝動的なモノかも知れない。私が書留を受け取らなければ、家を空けることはなかった。  

私がいれば母さんも自殺なんて考えるはずない。たぶん。

 そして、テープを送ったのは、間違いなく『篤子』だった。今の会話でもハッキリした。でも、どうしてそんなモノを送ってきたのかは、分からないけど…。

 私に判断を任せたのだろうか?

「殺すのか?」

 へ?知らない男の声が現実に引き戻す。

「この女か?」

 私の事?

 私は気絶している振りをして、聞き耳を立てた。

「そうだな。この女のせいで海外に逃げる羽目になったからな。それと優秀な部下のお陰で」

「部下?」

「あぁ、極道の一人息子だ」

「あ?」

「私の部下は実はやくざの息子だと噂があってね」

 そんないい加減な噂話で作られた作り話を、私は信じそうになってしまったのか…。

 あの時、迷った自分に後悔する。

 青木さんは、どうなったのかな…。

 あの銃声は…どちらの銃?

 それにしても、私の命は今や風前の灯火である。海が近いと言うことは、東京湾コンクリ詰めコースらしい。

「殺すならこんな所まで、持ってくる必要はなかったんじゃないのか?」

「船に乗せて日本を放れたところで捨てた方が安全だろう?それに、気になることがあってね」

「気になること?」

「この女、『薙子』と呼ばれていた。『篤子』と双子の火事で死んだ筈の女の名前で。恐らく、まだ何か隠されていそうなんでな。念には念を入れて」

「どういうことだ?」

「さあな。そう呼んだ人間はもういないからな。どっちにしても、この女は生かして置くわけにはいかない。もう一人殺るも、二人殺るも同じだ」

 …青木さんは、雑木林コースか。

 どうせなら、一緒に…

 え?ウソ!

 殺されたの?

 私の血の気が一気に引いた。

 私のせいだ。

 私が、無茶して一人で戻ったりしたから、加治さんの車に不用意に乗ったりしたから。

 もう、人を傷つけたく何かなかったのに。

 殺されるなんて、殺されるなんて。

 殺されても、死なないと思っていたのに。


「失礼」

 携帯が鳴り知らない方の男が何やら話している。会話が途切れ、加治さんが男に訊く。

「どうした?若頭が決まったか?」

 若頭というのは、関東一帯を束ねる広域暴力団、山岸組の事実上、No2だ。先月、殺されたと聞いたが、この男が新しい若頭となったなら、強大な力を持つことになる。今回の件で、随分調べたのだ。この程度のことならネットが教えてくれる。もっとも、どう転んでも助かる見込みがない私にとってはどうでもいいけど。

「いや、違う」

 男は否定した。

「椎名という女を、殺すなと…」

「何?」

「最高幹部会から、ウチの事務所にそんな連絡が入ったらしい」

「幹部会から?」

 訝しむような加治さんの声を遮り、荒々しくドアを開く音が響いた。

「痛っってぇなー。離せよ!」

 哲平?

「何だ?この小僧は?」

「倉庫の前をウロウロしていたんで」

 男の部下らしい声。

「散歩だよ!散歩!」

「午前三時に、こんな所を散歩するヤツがいるか!」

 怒鳴り声の後、鈍い肉を叩き付けたような音と共に、ウッと短い哲平の呻きを聞いた。

 どうして?もう誰も傷つけたくなんかないのに、青木さんのようにしたくない。

 死んで欲しくない。

「倉本君だったかな。そんなにこの女の子が心配かな」

「何で、オレのこと…」

 動揺した哲平の声が耳に伝わった。そして、一瞬の間の後、フンと鼻を鳴らした。一度加治さんと会っていたのを思い出したらしい。

「…なら、話は早い。もうすぐここに警察が来る」

「何だと?」

「アンタが正道会の木澤を裏切り、峰岸組と組んでいたのはバレていたんだよ。この港倉庫も峰岸組のモノだろう?」

 どうして、哲平がそんな事知ってんのよ!ネットにはそこまで詳しく出てなかった。

「とにかく、もう諦めろ」

 キッパリとした哲平の声が続くと思われたが、その前にパッと視界が開けた。使われていない倉庫の事務室。錆び付いた鉄筋の骨組みが剥き出しになっており、寒々とした空間。アルミで出来たドアがギシギシと軋み風が吹き込んでいる。ドアを背後に、呆然と立ちつくす加治さんと見知らぬ組長と、哲平を連れてきた若い組員が私を見下ろしている。

 そして、目隠しを持った哲平がいる。少しホッとしたような、嬉しそうな表情で私の腕の縄を解こうとしている。

「久しぶり…。でもないか。昼間一緒にいたんだよね」

 色々在りすぎて、あれから随分長い時間が経ったような気がする。在りすぎて…

「青木さんは?」

 哲平に対する私の第一声がそれだった。少しムッとしたような彼の後ろで、ピクリと頬を引きつらせた加治さんの横顔が見えた。

「生憎ピンピンしてるよ」

 加治さんの正面のドアから、銃を構えたまま、青木さんが現れた。

 よかった。

 ホッとした。誰も、まだ傷ついていない。

「トドメを刺すべきでしたね。加治さん」

「そうだったな。先を急ぎすぎた。急所に命中したと思ったがね」

 特に残念そうに感じられない声で呟く。

「左胸に当たりました。相変わらず見事な腕ですね」

「防弾ベストか…」

 そこまで言い、私の頭上で乾いた鉄の音がした。セーフティーを外したらしい。

「頭には、防弾ベストもないだろう?」

 真っ直ぐに伸びた加治さんの腕が私の眉間を狙う。哲平の喉を鳴らす音が聞こえ、私の前に立ちはだかる。

 どうして、私を守ろうとするの?

 責められこそすれ、守られる価値など何一つない私を庇うように背に回す。

「無駄です。もうすぐ警察が来ます」

 歪んだ悲しそうな切れ長の瞳が、真っ直ぐと、元上司の男を射抜く。

「人質が死んでもいいのか?」

 長い永遠の沈黙。本当は一分も過ぎていないかもしれない。今は哲平の生殺与奪を握る銃口が近付く。

 開かれたドアから潮の匂いが鼻を突く。湿った空気が狭い空間を充たす。私の背後にある倉庫へ続くと思われるドアから、埃っぽい臭いが染み出ている。

 もう、誰も傷つけたくない。

 ずっと、願っていた。

 あの甘いココアが喉を潤す度に、後悔した。

 本当は、もっと優しくしたい。

 そして、強くなりたい。

 拳をギュッと握りしめる。

「今、何時?」

 沈黙を破る私の声に一同が振り向く。

「ナッちゃん?」

 哲平が振り向く。

「2時57分だ」

 低い声が、正確な時間を告げる。

「この倉庫には、爆弾が仕掛けてあるわ。3時ジャストに爆発するって言ってた」

 哲平の頬が引きつっている。

(また、お前は〜、そんなハッタリを!)

 そんな顔である。前に拉致されたときに、かましたハッタリが哲平の脳裏をよぎっているに違いない。

「そんなハッタリ誰が信じるか」

 加治さんが、鼻で笑う。

「暫くここで私を一人にしたでしょう?その時、知らない二人の男が入って来て、そんな事話してた。会長を殺された敵討ちみたいなこと話していたから、正道会の人達じゃないかな」

 口元にゆっくりと弧を描いてみせる。

「バカな。外は見張らせていたんだ。そう簡単に近付けない」

「私はどうせ死ぬんだからどっちでもいいけどね」

 やっぱり、嘘か。とでも言いたげに加治さんは肩を竦める。

「1分切ったな」

 チラリと腕時計を見て、青木さんが呟いた。

 そして、沈黙。

 私はジッと青木さんを見つめた。

 切れ長の瞳の、さらに奥を覗く。

 彼の表情はピクリともせず、心の奥までは覗けない。

 それでも、この人には分かる筈だ。

 1分が酷く長い。

 そして、私の視線は、注意深く加治さんを追う。

 一瞬の隙も逃さずに。

 もちろん、爆弾など嘘っぱち。

 隙は、一瞬だけ。

 そう、彼はきっと腕時計を覗く。

 一瞬の心の隙だ。


 私には、青木さんがトリガーを引く瞬間まで見えた気がした。


 パァン


 私の手の方が、コンマ一秒速かったかも知れない。片手で哲平の腕をひっつかみ、もう、片方の手は倉庫へ通じるドアを開けた。

 後ろを見なかった。

 青木さんの腕を信じた。

「うわー。何だー?」

 そんな声を出しながらも、足は既に私より先に進んでいる。あの部屋に居たのは加治さんだけではない。知らない暴力団のボスもいたし、その手下もいた筈だ。

 倉庫は思ったより広く、幾つものコンテナが道を作っている。

 パン。パン。パン。

 後ろから銃弾に狙われ、素早く道をそれながら哲平の後を追いかける。部下らしき男達が追ってきている。あの部屋はどうなったのか想像も出来ない。加治さんが撃たれたのか、青木さんは撃ち返されたか。私達は、ただ、外へ向かい走った。

 外へ出た。潮の匂いが急激に鼻を突き、ムワッとした湿気混じりの空気が全身を浸す。

 遠くにパトカーのサイレン音を聴いた。

 銃声が一斉に静まる。

 足を緩めながら、後ろを振り向く。

 暗闇の中、追っ手がいるのか見えない。

 グッと手を引かれ、トラックの後ろに私達は身を隠した。哲平が私を後ろに隠すように伸ばした腕を、悔しい思いで見つめた。

 本当は私が皆を守りたい。

 青木さんはどうしているだろうか?無事に加治さんを逮捕できただろうか?

 夜の港にサイレンの悲鳴が近付き、静けさを掻き砕く。サイレン音に逃げている男達の影がコンテナの隙間から過ぎる。エンジン音が慌ただしく交差する。

 青木さんが見えた。

 銃を構えたまま、無駄のない動きを見せる。

 何かを捜しているようだ。

 逃げられたのだろうか?

 彼はゆっくりとコンテナの陰を一つ一つを調べる。海が彼の背後で煌めいていた。

 私は暗闇に目を凝らした。

 何かが光った。

 彼が背にしている車の運転席。

 彼は気付いてない。

「ナッちゃん?」

 私は走り出していた。

 光ったのは眼だ。

「青木さん!」

 エンジンが唸った。

 馬鹿かも知れないけど、私の体は青木さんと車の間に割り込んでいた。

 体全体に、衝撃が襲う。

 全ては、スローモーションだった。

 フロントガラスにぶつかり、私は空を舞った。

 サイレンの悲鳴がやけに遠い。

 空に広がる闇は全てを呑み込むように口をパックリ開けている。

「薙子!」

 耳に確かに届いた声。

 最後に届いたのは、確かにその声だった。

 次の衝撃は、背中。

 グッと視界が歪む。

 口からも、耳からも、鼻からも、体中の穴から海水が私の中に流れ込み、肺に溜まっていた空気がゴボゴボと音を立てて一気に絞り出される。

 肺を掻きむしり取りたくなるような息苦しさ。

 助けて…

 苦しみの中、手を伸ばす。

 助けて…

 何も掴むことなく、手は水を切る。

 沈む。

 深い闇の中へ…

 其処には何がある?

 沈んでいく…

教えて…



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