第2章 遠いメロディ
…聞こえる。
アレは…そう…、
カッコウのメロディー
キレイー
キラキラ光るエメラルドグリーンの中に、鮮やかな鳥が、二羽、羽を休めているの。
開けるとね、『カッコウ』が聞こえるの。
ほら、学校でも習ったよね。
カッコウ。カッコウ。ラララーラー
よく思い出せないや。
(ダメよ。母さんが大事にしている物なんだから)
大事にするから。
(困った子ねぇ)
ヤッター。
見て。見て。アッちゃん。
綺麗でしょ。
今日から私の宝物なの。
アッちゃんも欲しい?
アッちゃんの宝物は何?
ビー玉?ドラちゃんのマスコット?
もう!アッちゃんには宝物がないの?
じゃあ、これは二人の宝物ね。
ソウだ。
タイムカプセルしよう。
ほら、幼稚園の卒園式にしたじゃない。
地面に埋めて、十年後に掘り出すの。
二人だけの秘密だからね。
誰にも内緒。
二人の宝物だから。
二人の
二人だけの…
「…時50分…目撃者…。…間違…のか…」
途切れ途切れに、耳に会話が入り込む。
「…それを、目撃した…管理人…時間は?」
「…11時55分。間違いないそうです。4チャンネルでニュースが入る時間なので、覚えていたそうです」
何の話?
ニュース?
今、何時だろう?
リビングの時計に目を遣る。
何で私、リビングなんかで寝てるの?
9時?
「遅刻!」
ガバッとソファから飛び出すように立ち上がる。
「お嬢さんのお目覚めだ」
低い聞き覚えのある声。見覚えのあるスーツ姿。見覚えのある切れ長の目。
「どうして、アンタが家にいるのよ」
そう言った瞬間、彼の顔が明らかに強ばった。困惑したような顔。
「あっ、つまり…」
しどろもどろになり、ついには視線を思いっ切り逸らされる。
昨日とは、別人のようだ。
昨日。赤い血。
赤い血!
胸の奥から激しい吐き気を感じ、洗面所へ走った。喉に焼けるような痛みが走る。口から、唾液だか胃液だか、しこたま出す。それでも吐き気は収まらない。
鮮やかな赤が脳を刺激して、内蔵を掻き乱す。父さんの頭が割れていて、アスファルトに血が溜まっていた。脳味噌が散っていた。
父さんは、死んだ。
「大丈夫か?」
後ろからの声に、ぼんやりと頷く。
鏡から、昨日と同じスーツを着た青木さんが心配そうにこちらを伺う様子が見て取れる。もしかして、昨夜からずっと此処にいたのだろうか?
「…母さんは?」
掠れた声で訊いた。
「病院だ」
短い答え。何か付け足そうにも、付け足していいのか迷っているような響きだった。私達家族は4人だけだった。私達には親戚はいない…。母さんが病院に行き、私は独りぼっちに成るところだった。彼がいなければ。
「青木さん」
さっき、青木さんと話していたらしい若い感じの声が、彼を呼んだ。
「あの、彼女のことなのですが…」
「さっきも言ったと思うが、彼女のアリバイは私が証言すると言っただろう」
「しかし、目撃者が…」
「似たヤツだろ。暗闇の中で見間違いは、誰にでもある」
私のアリバイ?
「では、青木さんは被害者が屋上から落ちた直後に、偶然その娘によく似た人物が屋上に繋がる非常階段から走り去ったと言うのですか?そして、偶然その被害者の娘によく似た人物は死体を目撃したにも関わらず、119にも110にも電話せずに去った、と」
若い警官が奮う熱弁が耳を通り過ぎる。
「口を慎んだ方がいい。それに他殺と決まったわけではない」
鋭い瞳が、まだ若い警官を睨み付けた。警官はそれ以上何も言えないようだ。鏡を通してそのやり取りを見ている内に、またもや眩暈しそうになった。
何だかワカラナイ。
「大丈夫か?」
頭からスッポリとタオルを被せられる。
ちっとも、大丈夫じゃない状況だけど、私はタオルを被ったままコクリと頷いた。
リビングに戻ると、やる気満々の若い警官はいなくなっており、青木さんと二人きりになっていた。全てが、謎で、ただ不安だけが私の中に残る。あの警官が言っていたことは本当だろうか?管理人が、私によく似た人物を見たと言っていた。
篤子?
そんな筈はない。
私の視線は、空を彷徨った後、部屋の片隅の小さな箱に落ちる。
『篤子』が入った箱。
幽霊?
ブルッと身震いして自分を抱きしめた。
「冷房効きすぎだな」
別に寒い訳じゃなかった。
ただ、怖かった。
見えない不安で、一杯だった。
クーラーを切りに行って、青木さんは暫く戻らなかった。
がらんとしたリビング。まだ、入居して間もないマンションは人が住む気配が薄くて、自分はここの住人だと言うのに自分の家じゃないみたいに思えた。
自分の居場所を失った気がした。
唐突に沸き上がってくる淋しさに両手で顔を覆った。
篤子?
甘いココアの香りに私は顔を上げた。
そこには、湯気を立てたマグカップを私に差し出す青木さんが立っていた。
「ココア…。どうして?」
「勝手に台所を使って済まない。寒そうだったんで。それしか見当たらなかった」
酷くぶっきらぼうに言って、私にマグカップを押し付けた。朝の太陽の光が、徐々に窓から射し込みリビングに広がった。甘い香りが喉を温めていく。
あの日、最後に飲んだのも、やっぱりココアだった。
甘いココア。
ドキリとした。
嫌な符号があてはまった気がした。
「ところで、こんな状況で訊くのは何だが」
そう言って、目の前のソファに腰掛け、同じ目線に置かれた私の瞳を、無機質な漆黒の瞳でジッと見つめる。
「そろそろ本当のことを話してくれないか?」
本当のこと…
「君が覚醒剤を持っているんだろう?昨日のことも、あの火事も、もしかしたら、ヤツらに殺されたのかも知れないんだ。君のお姉さんも…」
「ただの焼死だって聞きましたけど」
自信なさそうに私は言った。私の顔を見て青木さんは少し困ったように続けた。
「確かにあの火事は、薙子さんの煙草の不始末と言うことで処理されてしまった」
「違うんですか?」
「オレが、覚醒剤の行方を追っていたとき、君、…『椎名篤子』と言う人物がクラブの若者を相手に覚醒剤を売っていたという情報を掴んだ。ところが、その次の日にはあの火事。疑うには十分だ。さらに、薙子さんの検死を担当していた監察医が彼女の死体にある疑問を抱いていた…」
無機質な瞳に強い光が灯った。
「オレには守秘義務があるから、こんな話は君にするべきではないのはわかっている。それに、君にとっては辛い話だ。だが、君はソレを聞くべきだ」
私はその強い光を受け止められず、目を逸らした。それでも、彼は話を続けた。
「薙子さんの死体は、辛うじて君の両親に確認が取れるくらいの損傷に留まっており、死斑も確認された。だが、それによって得られる死亡推定時間は火事があった時間よりずれている。そして、その死斑に動かされた跡があった。つまり、死後動かされたと言う証拠だ。薙子さんの死因は恐らく焼死ではないだろう。そして、もう一つ。篤子さん。君に確認したいことがある。薙子さんは普段から煙草は吸っていただろうか」
勿論、『薙子』は吸ってない。でも、死んだ『篤子』はどうだっただろうか?ほんの少しまでだったら、ハッキリNOって言えたけど。正直、今は分からない。
「大事なことだ。血中の一酸化炭素濃度が、約六パーセントあったんだ。通常、非喫煙者は一.三パーセント。つまり、薙子さんが非喫煙者だと俺の立てた仮説が外れてしまう」
つまり、『篤子』が煙草を吸っていなかった、と私が証言すれば、血中に含まれる六パーセントの一酸化炭素は火事によって得られた物であり、煙を吸って中毒を起こした後焼死ってなるわけか。問題ないじゃない。『篤子』は煙草なんて吸ってなくて煙に巻かれて死んじゃったのよ。でも、火事は煙草が原因で…。チガウ。何だかワカラナイ。
「…だが、喫煙者だとまだ可能性はある。薙子は死んだ後、誰かが火を付けたという可能性だ。他殺か事故かは不明だが、死体遺棄に放火。立派な犯罪だ」
「デタラメよ」
犯罪なんてナイ。『薙子』は焼死。警察は不審な点は何もないと言っている。青木さんが言っていることが本当なら、警察がもっと調べているはずだ。
「…司法解剖さえできれば簡単に分かったことだ。通常、検死、つまり外表面の状態などで死因が明らかにならない場合は解剖が出来るんだ。解剖さえ出来れば、気道、食道、肺の煤の吸引状態で火事が起きたのが生前か死後か判断できたはずだ」
「でも、解剖されなかったって事は何もなかったんじゃないの?」
「彼女の死体検案書が書き換えられたんだ。死因が、熱気吸入による気道熱傷、つまり『焼死』として処理されていた。その後、監察医が突然行方不明になった」
「誰が、そんな事を?」
「…恐らく内部の者だろう」
「その監察医は、殺されたの?」
「そうは、思いたくないがね。とにかく、その後オレは一人で色々調べたが、結局火事の原因も分からなかった。唯一、聞き込みであの火事の日に不審な白いワゴン車を見たという証言を得たが、それ以外何も出てこなかった。その目撃証言もいい加減だがね。それから、血液中から多量の塩酸メタンフェタミンが検出されている。覚醒剤だ」
「…覚醒剤。その死体は、本当に篤…薙子の物だったの?」
『篤子』自身も覚醒剤を?奥歯がカタカタと震えた。私の質問に、彼は眉を寄せた。
「君は、彼女が覚醒剤を使用していたとは思えないと?」
質問の答えではないが、私はそう信じているからこそ、それが篤子ではなかったら、という途方もない仮説を立てた。
「残念ながら、あの死体は君の双子の片割れだ。君の両親が確認している。薙子さんの部屋で、薙子さんの服を着て、薙子さんの顔で死んでいたんだ」
警察はそう思うだろう。でも、私『薙子』はここでこうして生きている。あそこで死体になっていたのは、『薙子』の部屋で、『薙子』の服を着た、『薙子』と同じ顔をした『篤子』だ。私と篤子は確かに両親ですら見分けがつかない。ましてや損傷の激しい死体だと尚更だ。でも、両親が確認できるほどには死体は傷ついてはいなかったのだろう。だとしたら、やはり、『篤子』が死んでいたのだ。
あ、でも!
「髪は?髪の長さは?」
篤子の髪は短い。でも、『薙子』はロングだった。
「髪?そう言われても、オレは死体を直接見てないし、でも、君の両親が確認したんだ。アレは間違いなく薙子さんだ」
そうだった。もしかしたら髪は焼け落ちて長さなど分からなかったのかもしれない。死体だから。
死体じゃなかったら?
私の髪は?目覚めた時は治療のためか、ばっさりと切り落とされていたけど、火事の直後は?もし、長かったら、いくら篤子の部屋で寝ていたとしても長い髪の『薙子』をショートの『篤子』と間違えるはずがない。
しかし、私は生死を彷徨うほどに重傷を負った。髪は焼け落ちたのかも知れない。だから『篤子』と間違われたのだろうか?
違う。チガウ。チガウ。
私の思考回路は、グルグルと破裂しそうなほど巡る。
どこかでは、分かっていたはずだ。
これは、故意でされたことだ。
私が、眠っている間に、誰かが『篤子』と『薙子』を入れ替えたのだ。私の髪を切り落とし、服を換え、篤子の部屋に運んだとしか考えられない。
誰が?
篤子が?
でも、たとえ医者も両親も私を『篤子』と間違えても、私自身が否定していたなら、この陳腐な細工は成り立たないはずだ。
ワカラナイ。けど、
誰かが、何かの目的で私と篤子を入れ替え、篤子に薬物を投与し、火を付けた。
考えるだけで、恐ろしい説に眩暈を覚える。
もしくは、篤子自身が私達を入れ替え…、
自殺?
「大丈夫か?顔が真っ青だ」
自分の考えは、眩暈する程、最悪の物だが、事実、事態は最悪だ。窓から射し込む光がやけに眩しく感じられ、冷房を切ったせいか体中の体温が上昇している。そして、時折、窓の隙間から入り込む生暖かい風が、ねっとりと体にまとわり付く。
目の前に座る男も、そう感じているのだろうか?見た目は、涼やかに見える。ぱっと見、どうしても冷たい印象を与える容貌がそう思わせるのかも知れない。冷たい切れ長の瞳。真ん中にスッと通った鼻筋。形のよい唇。中身より外見の印象が強すぎる。髪は昨日より雑な感じだ。今は、前髪がその切れ長の瞳に掛かっている。そっか、この人は一晩中ここにいたのだ。
「どうかしたか?」
いつの間にか彼をまじまじと見つめていたことに気づき、焦って顔を背けた。浅い溜息が耳から聞こえた。
「もしかしたら、君は本当に何も知らないのか…?」
ハラリと髪が瞳に掛かり、青木さんは長くスラリとした指で掻き上げる。ついさっき見せた強い意志が、少し揺らいだようだった。
「失礼」
長い指がスーツの内ポケットから携帯電話を取り出した。携帯の画面を確かめてから、電話に出た。
「はい。青木です」
立ち上がりながら話し始める。
「はい。本当ですか?…はい。…はい」
相槌が途切れ沈黙が流れた。
「…そうですか。わかりました」
静かにそう言い、携帯を内ポケットにしまう。こちらをチラリと見て、さっきよりも更に困った顔をしている。
良くない事?
不安になる。そんな顔しないでよ。
「君の父さんのことだが」
言い淀んでいる。
「何?やっぱり父さん、殺された…の?」
青木さんは立ったまま私を見下ろして小さく横に首を振った。そして、ゆっくりと私に近付き跪く。目線が合う。
「遺書が見つかった。君の父さんは自殺だ。会社の金を横領していたらしい」
「嘘…」
「遺書は会社のデスクから見つかった。自筆のものだ。筆跡から間違いないだろうとのことだ」
「アレは…?」
「アレ?」
「その、私に似た人物が屋上から走り去ったって言っていた」
「見間違いだよ。その女がマンションで目撃されたのは、11時55分。丁度君達が組員に追われていたときだ」
確かに、私は二人組に追われていたのだ。
携帯電話!
あの時、急に携帯電話が鳴り出し、私達は危ない目に遭ったのだ。私ははやる気持ちでバッグを引き寄せた。
受信メールが1通。前回と同じメルアド。
いえに かえるな
「家に帰るな?」
あの時間に携帯電話に刻まれたメッセージ。何を意味する?
「どうした?」
「何でもない」
切れ長の目に怪しまれないように携帯電話をポケットにしまった。
父さんの葬式は、『薙子』の四九日前に、行われた。会社は横領の事実を否定し、自殺の理由はハッキリしないままだった。それでも、火事についても、自殺についても不審な点は見られず警察は動かなかった。
「母さん。学校行くね」
「行ってらっしゃい…」
母さんは、口数が減った。
あれから、一週間が過ぎた。
学校に行っても、ぼんやりと窓を見つめる事が多くなった。『薙子』の時のように勉強を一生懸命する必要もなかったし、友達もいなかった。ただ、時折廊下を歩いていると、哲平が射すような視線を投げてきた。彼は『篤子』との、学校では声を掛けるなという約束を守っているらしい。だから、私は授業が終わると彼に見つかる前に急いで帰る。
あの夜、私が意識を失った後、彼は青木さんに無理矢理帰されたらしい。気になる事はいっぱいあるけど、私は少し疲れてしまった。彼と話すことで自分は『篤子』ではないと強く感じてしまう。彼は私の知らない『篤子』を知りすぎている。
帰宅部に混じり校門を出る。そして、少し歩いたところで青木さんに会う。彼は3日前、父さんの葬式が終わり、私が学校に通い始めた日から下校時間に合わせ来る。
「私、本当に何も知りませんよ」
私は何度か繰り返した言葉を、また繰り返す。隣で私の歩調に合わせゆっくりと歩く青木さんを横目でチラリと見上げる。何を考えているのか分からない漆黒の瞳は私を見ていない。
「何か変わったことは?」
低い響きの声。
「別に…」
それは本当だった。あれからは変わったことは何もなかった。携帯電話も二度のメッセージ以外何も私に伝えてこない。元々、私が持っていていいモノかさえ分からない代物である。でも、私に取っては唯一、それだけが味方の様な気がした。
死んだ『篤子』からのメッセージが携帯電話を通して私に届いている気さえした。
家にはバスを使い約30分。結局、彼はマンションの前まで私を送る。
そして、いつもの言葉。
「何かあったら、前に教えたオレの携帯に掛けろ。何度も言うようだが君の立場は非常に危険なものだ。オレが君の言葉を信じてもヤツらは信じないだろう」
「でも、あれ以来、大丈夫だから」
正直、鬱陶しかった。
「大丈夫じゃないだろう」
吐き捨てるように冷たい言い方。黒い視線が突き刺さり、胃がキリキリと痛む。
本当は、沢山考えなきゃいけないような気がした。知りたいとも思う。
『篤子』が死んだ訳。
父さんが死んだ訳。
私は何も知らない。
「君は分かってない」
ヤツらがどんなに危険か、と彼が言葉を続けるのを遮った。
「いい加減にしてよ。火事は薙子の煙草の不始末。父さんは自殺。それ以外何もないの!」
私は突き刺さる視線を背中に受け、マンションの中へ走った。彼がどんな顔で私を見送ったかなんて考えることもしなかった。エレベーターが最上階につく間、必死になって悪い方向に向かう思考回路をストップするようにした。淀んだ空気が狭い空間に凝縮して息を詰まらせる。
篤子、あなたはどうして死んじゃったの?
どうして、ドラッグを売っていたの?
どうして、父さんを憎んでいたの?
どうして、あの日、私にココアを…
頭を左右に振り、考えないようにした。鞄から鍵を取り出そうとした手を止め、代わりに携帯電話を取り出す。
これはあなたがくれた?
二人だけの秘密のオルゴールに入っていた携帯電話。これが篤子からのモノであるはずがないと思いながら、『篤子』は私の味方だと信じようとした。
あの日、ココアに睡眠薬なんか混ぜていないよね?
エレベーターの扉が静かに開き、僅かの間抑圧さていた空気が外へ漏れる。
優しい篤子。甘いココアのように温かい心を持ち続けていた篤子。あのココアの甘さは睡眠薬を隠す甘さ?
偽りの甘さ?
鍵を鍵穴に押し込み、ゆっくりと回す。母さんは仕事で、帰りは私の方がいつも早い。母さんは仕事を続けることで現実の苦さを忘れようとした。
私は、鍵を回す手を止めた。
鍵が開いている?
ドアを開いた。
「母さん、帰ってるの?母さん…」
息を呑む。
「…これは…どうして…?」
目を見開き、私は荒らされた部屋の中に足を踏み入れる。リビング中の引き出しがフローリングの床に散らばり、その中身もやはりひっくり返されていた。自分の部屋のドアも開いており、中を覗くと同じように私の私物がばらまかれていた。まだ新しい下着や教科書が床に散らかっている。火事で殆どの物が焼け、家の物は少なかったが酷い有様だ。
キッチンは特に酷かった。皿やコップが粉々に砕け散っている。そして、通帳も金目の物も散らかった物の中に混ざっている。
単なる泥棒ではない。
「…覚醒剤を捜していた…とか?」
青木さんは、確かに暴力団の連中はまだ諦めていないと言っていた。震える体を抱きしめ心を落ち着けようとした。
そうだ、電話。
アドレス帳に挟んだメモを取りだした。青木さんが無理やり私に持たせた携帯電話が書かれたメモ。
どうやって家の中に入ったか何て分からない。でも、彼等はきっとなんだって出来るのだ。覚醒剤を手に入れるためなら。
震える指で番号を押し込む。
『もしもし?』
低い声が受話器から聞こえる。けれど、私は返事が出来なかった。
『もしもし?』
ここで、助けを求めたら全部話さなくてはいけない気がした。
『…椎名…さん?…』
両手で受話器を下ろしていた。
盗まれたモノは何もない。
大丈夫。
自分に言い聞かせた。
(大丈夫な分けないだろう)
頭の中に青木さんの声が蘇る。両目をギュッと瞑りこみ上げる恐怖を押さえる。
大丈夫。
立ち上がって玄関に行き、鍵とチェーンをしっかりと掛けた。
大丈夫。きっと何でもない。
下駄箱の上に在った筈の花瓶を床から拾い上げる。丈夫な花瓶は縁が欠けているだけでまだ使えそうだ。それからそこに飾られていた造花の向日葵を掻き集め花瓶に戻す。
これは、脅しだ。覚醒剤を捜したとしても花瓶をひっくり返す必要はない。警察に駆け込めないだろうと踏んで部屋を荒らしたのだ。母さんが帰らない内に片づけなきゃ。母さんには『篤子』が覚醒剤を売っていたなんて知られてはいけない。これ以上母さんに心配掛けるわけにはいけない。
リビングを一通り元の状態に戻し、自分の部屋へと向かう。教科書を机に置いてから、床に散らばった洋服を持ち上げた。
緑の箱が目に入る。
「あっ…」
オルゴールが開いて転がっていた。フローリングの床に乱暴に叩き付けられたのだろう。蓋を繋げる小さな蝶番が一つ壊れていた。 大切な思い出の品だ。ベッドに腰を下ろし、底に付いたネジを回す。
ポロン
ゆっくりと小さな箱が、『カッコウ』のメロディーを奏で始める。錆ついて掠れた、音程の少し狂った不器用なメロディー。
ギュッと目をつむり、静かに蓋を閉じた。メロディーはパタンという音と共に止んだ。
部屋の片付けを済まし、割れた食器をまとめた袋を二重にし、ゴミ置き場へ運んだ。体中の神経を尖らせ周りに怪しい人物の有無を確認する。ギリギリの精神状態だった。マンションの入口で足を止め、ポストを開いた。中に入っていたのは郵便書留の不在通知。宛名は、『椎名篤子』。郵便局の閉まる時間には、まだ間がある。
差出人は『山田花子』?
知らない。『篤子』の友達にしては、わざとらしすぎる名前だ。
郵便局で受け取った物は何の変哲もない封筒だった。歩きながら封を切る。
中にはSDカードが一枚だけ。
SDカードを取りだした封筒の中身を、もう一度見直し、他に何も入っていないか念入りに見た。何も入っていない。
何のデータが入っているのだろう?
ラベルには何も書かれていない。何か見当も付かない。
書留で届いたデータ。
荒らされた部屋。
彼らが捜していた、…パスワード。
散らばった点がうっすらと線になる予感。
「椎名篤子さん?」
振り向くと中年の男の人が立っていた。少しよれた地味なグレーのスーツ。
私を追っている暴力団関係の人ではないとすぐに理解できた。
「えっと、どちら様で…すか」
その男性はニッコリと微笑み溜息を吐いた。
「まぁ、一度しか会っていませんから忘れられても仕方在りませんが、覚えていませんか?病院で青木と一緒にいた」
「あ。刑事さん?」
病院に青木さんと一緒に来た、確か…、
「加治です」
この強面なのに、どこか人懐こい笑顔は覚えている。
「何か、…どうしてここに?」
「実は、青木に頼まれてね。君の様子を見てくれと頼まれた。椎名さん、彼に電話をしなかった?」
そう言われれば、確かに部屋が荒らされて動転して、思わず掛けたのだ。
家の固定電話は非通知になっているから、わからないかと思ったけど、やっぱり、ばれていたようだ。
「青木はちょっと抜け出せなくてね。代わりに上司の私に様子を見てこいと頼みよった。よほど君のことが心配と見える」
クスクスと笑顔で、私を見て可笑しそうに笑う。何故か顔がカーと赤くなってしまった。彼は覚醒剤の行方が心配なのだ。私を心配しているわけじゃない。そう思うと、今度は何かムカムカしてきた。
「何もなかったね?」
加治さんが念を押した。何もなかった訳じゃないけど、私は困ったように俯いた。
「椎名さん。困ったことがあったらいつでも頼っていいんだよ。私の携帯の番号も渡しておこう。それで、少しでも君の不安が取り除けるのなら」
そう言って、私に番号のメモを差し出した。
「何か持ってるの?」
メモを受け取ろうとした手に、封筒が握られたままだったことに気が付いた。
「これは…」
話してしまおうかと一瞬心が動いた。
何も言えない私の肩をポンッと肩を叩き、加治さんは微笑む。
「まぁ、とにかく君の無事を早く彼に教えないと、本業に差し障りが出そうだ。彼は本当に君のことを気に掛けているからね」
それは分かっていた。あれからわざわざ30分の帰り道のためにここまで来るのだ。
私は彼から貰ったメモと一緒に、SDの入った封筒を制服のスカートのポケットに突っ込んだ。
「それから、もう一人、君を心配している人がいるよ」
そう言って、私の肩越しを指差した。私は後ろを振り向いたが、何もない。と、思っていたら電信柱の影から、哲平が困った顔をして出てきた。
「ずっと、彼女を付けていただろう?」
加治さんは哲平を見てニッと笑う。背が低く見えるのは、哲平の高い背のせいだろう。青木さんもかなり背が高いから、あの時も低く見えた。それでも、がっしりとした体付きに、刑事という仕事と長く付き合ってきた年輪のような物を感じる。
「せいぜい、お姫様に悪い虫が付かないように気を付けるんだな」
私の新しい護衛が見つかり、自分の役目は終わったと言わんばかりに去っていった。
「アイツも刑事か?」
機嫌悪そうにムスッとして私の側に寄ってきた。開林学園の制服の彼は、自分の家には帰らずに私をずっと付けていたのだろうか?
「それより、何だよ。あの青木ってヤツ。下心でもあるんじゃねぇか?」
きっと、いつも青木さんが私を家まで送っていることを知っているのだ。私は次に哲平に何を言われるかと警戒の眼差しを向ける。存在感のあるクッキリとした瞳にジッと見返され、ワタシの中の負い目が、彼の瞳から自分の目を反らせてしまう。そして、彼から逃げるように歩き始める。
「待てよ。どうしてオレから逃げる?」
哲平が前に回り込み、私は両肩を乱暴に掴まれた。真正面に真剣な彼の眼差し、同じクラスだった時は一度も見ることのなかった表情。クラスではいつも皆を笑わせたり、自信過剰な顔ばかり見ていたから、こんな表情されると困ってしまう。
「アッちゃん、教えてくれ。何があったんだ?火事があったときから、いや、もっと前から変だった。悠里もまだ見つかってない。心配じゃないのか?あんなに仲良かったのに」
ユウリ…。
前にも彼の口からその名を訊いたような気がする。
いつだったか思い出せないけど。『篤子』はそのユウリとも親しかったのだろうか?
掴まれた両肩から、彼の痛切な想いが流れてきそうで怖くなった。顔を上げることが出来ない。その瞳に嘘を突き通せないかも知れない。徐々に込められる指の力に両目を強く瞑って声を絞り出す。
「倉本君。痛いよ」
「『テッちゃん』だ。ずっとそう呼んでくれていただろう?どうして、急によそよそしくするんだよ」
「テッちゃん…」
俯いたまま、まるで言葉を噛み締めるように口にした。
「そうだ。それから、ドラッグを何処に隠したんだ?アレを持っている限りアッちゃんはヤツらに狙われるんだぞ?分かっているのか?本当は警察に駆け込むのが一番いい方法だけど、そうしたら捕まるから…。苦労して入った高校も、それに悠里のこともあるし」
次々と『篤子』しか知らない事実を突き付けられ、心拍数が上がり始める。彼と二人きりになるのは、そう言うことだった。私の知らない『篤子』を乱暴に突き付けられるのだ。
夕焼けの赤い光が彼の金髪をキラキラと輝かせる。薄い茶色の瞳には、私が写っている。でも、彼が見ているのは『篤子』だった。
違うのに…
胸が締め付けられるように痛み、私は両手で彼の掴んだ腕を振り解いた。
「アッちゃん?」
彼を突き飛ばして、私は走り出した。これ以上、何も聞かないで。もう、イヤ。
全部、イヤ。
こんなの『薙子』と何一つ変わらない。
生まれ変わろうと思ったのに。『篤子』みたいに優しい人間になろうとしたのに。
イヤな奴。
私は、『篤子』に向けられる優しさに嫉妬し始める。
イヤな奴。前と変わらない。
私は『薙子』で、醜いワタシを心に持ったまま捨てることが出来ない。
結局、人を傷つける。
最低。
嫌い。キライキライキライキライ
『薙子』なんて嫌い。
消えて、なくなっちゃえばいい。
キライキライ。大キライ。
『篤子』なんて…!
「待って。アッちゃん」
耳に心臓の音が響いている。哲平の声が重なる。どのくらい走ったか、人通りの少ない路地に来ていた。グイッと片腕を声の主に掴まれた瞬間きつく抱き寄せられた。
「アッちゃん」
耳元に彼の息が吹き掛かる。走ったせいで乱れた彼の息が熱かった。心臓がキリキリと痛み始める。急に走ったせいだけじゃない。
「アッちゃん…」
痛切な『篤子』への想いが『薙子』に響く。
「ずっと、ずっと前から…」
お願い。言わないで。
「ずっと、アッちゃんのことが…」
違う!
「好きだっ…」
「違う!」
両手で思いっ切り彼の胸を突き飛ばした。
!
その瞬間、サッと血の気が引いた。彼の悲しそうな顔の後ろに…アレは、確か…。
ズシッ
後頭部に鈍痛が走り、目の前が真っ暗になった。彼の悲しそうな顔の後ろには、どこかで見覚えのある黒いスーツ姿の、暴力団と思われる男が立っていたのだった。
(ごめんなさい。ナッちゃん)
どうして、篤子が謝るのよ。篤子の自由でしょ。何処の高校受験しようと。
(でも…)
うるさいよ。勉強の邪魔だから出てって!
(ごめんなさい)
もう、止めてよ。私が悪者みたいじゃない。
(ごめん…)
いい加減にして!
謝っても仕方のないことでしょ。
謝らないでよ。
そんな辛そうな顔しないで。
同じ顔見せないで!
(ごめんなさい)
繰り返し響く声。
チクチクと心臓を蝕む。
どうして、私達、双子なんかに生まれたんだろ?同じ顔していなければ、もっと優しくできたかも知れない。同じ顔していなければ、一人の人間として接することが出来たかも知れない。
(ごめんなさい)
それは、『篤子』?
それとも、『薙子』の言葉?
「アッちゃん。アッちゃん」
『篤子』を呼ぶ声がする。
「アッちゃん。大丈夫?」
あぁ、『篤子』は生きているの?
うっすらと天井が見える。
「痛っ」
頭に鈍痛が走り、手を伸ばそうとしたが叶わなかった。両手が後ろ手に縛られているのだ。頬に冷たい床の感触を得て、自分の身を起こそうとした。しかし、ご丁寧に足まで縛られており、身を起こすのは至難の業だった。「大丈夫?」
隣で同じように縛られた哲平が自分を心配そうに見ている。暴力団に拉致されたらしい。自由になる首を回し、辺りを見渡す。十畳ほどのフローリングの部屋に、ミニキッチンが備え付けられている。その隅に冷蔵庫があるだけで、およそ生活感のない部屋である。私達を拉致した男達はここにはいない。
「ここは?」
そう訊いた瞬間、自分は馬鹿だと思った。彼も拉致されたのだ。分かるはずがない。しかし、彼からは意外な言葉が出た。
「悠里の部屋だ。きっと、悠里はヤツらに捕まっているんだ。だから、捜してもいなかったんだ。勝手に人の部屋を使いやがって」
憎々しそうに、主人のいない部屋を睨み付ける。ガランとした部屋には、俄に人が住んでいたと言っても信じられなかった。空のペットボトルやビールの空き缶や冷蔵庫の側に転がっているだけで、ベッドすらなく隅に毛布が丸めてあるだけである。
「アッちゃん。ドラッグを彼等に返した方がいいよ。悠里の事も気になるし…」
「……。」
「アッちゃんは火事で何もかも忘れちゃったのか?悠里のことも、オレのことも!」
その目から、何も答えない私に対する激しい怒りが感じられる。
私はその怒りにワナワナと唇が震えるのを止められない。
「…ごめんなさい」
震える声で謝ると哲平の怒りの表情はやりきれない悲しみへと変わる。
「こっちこそ、悪かった。さっきも…」
すまなそうに、顔を私に向け無理に笑顔を作った。
「とにかく、誰もいない内に逃げる方法を考えよう。ヤツらは、オレ達をずっと此処に閉じこめておくとは思えない。恐らく一時的に使っただけだ」
哲平は後ろに縛られた両手を徐々に動かし抜けようとするが。ナイロンテープで何重にもきつく縛られた縄はそう簡単には外れないようだ。ただ、いたずらに腕を締め付け擦れた部分が赤く染まって行くだけだった。廻りを見渡しても、助けになるような物は何一つ置いていない。
カーテンのない窓には暗闇が広がっている。
母さん心配しているかな?
「アッちゃん。何ぼんやりしてんだよ」
コツッ
フローリングの床に足音が滑り込む。
「お嬢さんの方は諦めがいいようだな」
冷ややかな声に顔を上げると、黒いスーツを身に纏ったこれで三度目の男と目が合う。恐らくあの内ポケットには拳銃が入っているんだろう。いかにも極道を目指す男。オールバックの髪は油でギトギトである。
「お嬢さんのおかげで、オレの立場も大分悪くなってね。何しろ、警察に覚醒剤を奪われたと思ったら、ちゃっかりアンタが売り捌いていたからな」
嫌らしい目つきで睨まれ、ゾッとした。
「アンタのせいで、オレの首は皮一枚で繋がっているんだ」
立てていた両膝に磨かれた黒光りする靴を乗せられ、私は横に倒れた。
「自業自得だろ!」
横から助けるように哲平が声を出す。
「成る程、確かに自業自得だ。では、オレに何をされても、オレ達の物を横取りしたのだから自業自得というわけだ。そうだろう?兄ちゃん」
グッと答えに詰まっている哲平が、転がった私からも見える。
「覚醒剤はもういい。確かそこの兄ちゃんの義理の妹さんかな?彼女に教えて貰ったから。半分も残ってなかったが」
「悠里が?彼女は今どこにいる?」
「さぁ、それは私の知らぬ事だ」
「くそっ。じゃあ、覚醒剤が手に入ったならどうしてまだオレ達を付け回す?」
男は、肩を竦めて私の方を見直す。
「パスワードだ。いい加減、パスワードを教えろ」
「パスワード?何のことだ?この前も言っていたよな?」
哲平が聞き返す。彼も何の事だかわからないようだ。
「このお嬢さんは知っているはずだ。アンタの携帯のロックを解除するパスワードだ」
携帯電話?あの携帯電話?
違う。
彼らが持っている『篤子』の携帯電話だ。
しかし、私が知る限り『篤子』は携帯なんて持っていなかった。『薙子』の携帯は壊れたまま使われておらず、私が、現在もっているのは、火事の後に母から与えられた物と例の携帯電話。だが、『篤子』がドラッグの密売用に携帯を入手していることも考えられる。
「アンタが余計な事をしてくれたおかげで、こっちもとんだとばっちりだ。携帯を破壊するのは簡単だが、どうしても中を確かめたいそうだ」
「…私が、無事に家に帰らないと、…あるデータを入れたメールが自動的に警察宛てに送信されるように設定してある」
ハッタリをかましてしまった。
手にジンワリと汗が染み出る。
これは賭だった。賭と言うよりテレビドラマの見すぎかも。
バッカみたい。こんな子供だましにひっかかるか?
あれ?でも、明らかに相手の顔が強ばっている。
どうやら、賭に勝ってしまったようだ。
相手のほうがバカだったようだ。
私はギッと相手を睨み付けた。
本当の勝負はこれからだ。
「堂々と道を歩けたのは、そう仕組んでいたからに決まっているじゃない。警察にドラッグのことがバレるのは不本意だけど、死んじゃったら仕方ないモンね。アンタ、本当に極道向いてないんじゃない?」
「…このアマ」
ヤバ。怒らせ過ぎだ。
男の歯軋りの音が聞こえそうだった。
徐々に赤みを帯びつつある男の顔を見上げる。
その『篤子』の携帯電話のデータには警察に知られてはまずい内容が記録されているのは間違いない。しかし、携帯を破壊する前に確かめたいこと。送信記録?
私は心臓の音が聞こえているのではないかとの不安を隠しながら、言葉を慎重に運ぶ。
「でもね、私もやっぱり警察になんか捕まりたくはない。分かるよね?私が言ってるコト」
驚いてジッと私の顔を見ている哲平を尻目に、私は芝居を続けた。
「なかった事にしましょうって言ってるの。私はそのデータを絶対に他の誰にも渡さない。あなた達も私達を忘れる。簡単で悪くない取引だと思うけど。私も下手に事を荒立てて警察のお世話にはなりたくないの」
男の額にもジットリと汗が光る。女子校生相手に、冷や汗をかくなんて大した相手ではない。
「あの状況でデータを送信していたとはな…」
あの状況?
「送信内容を確かめろ。と言われた時は、まさか、と思ったが、…分かった。もう、お前達には手を出さない。ただし、それは、パスワードを教えたらだ」
「今は、ダメ」
私はキッパリ否定した。
「私達が無事に帰ったら、教えるわよ」
女子校生を甘く見るなよ。
と、言わんばかりに男を睨みつける。
「しかし、ボスが…」
相手は完全にこっちのペースだ。焦るな。焦るな。
「あなたは覚醒剤を警察に押収された上に、それを女子校生に横取りされた失態を、パスワードと引き換えにチャラにして貰えるんでしょ?」
「何で、そこまで…」
勘だった。いや、観察力の勝利ということにしておこう。
「パスワードはちゃんと教える。帰ったらね。でも、覚えておいて。データは別の安全な場所に入れてあるの。家にパソコンはない。前みたいに勝手に家の中荒らしてもなにも出てこないよ」
ゆっくり、息をする。焦るな。
「携帯からデータは送信してはいない。だから、パスワードを教えても送信記録はない。でも、ボスにそれを証明するためには、パスワードで携帯を開くしかない。だから、それを、私はあなたに教える」
「じゃあ、どうしてデータがそっちにあるんだ?」
「SDカードよ」
相手は明らかに顔をこわばらした。
よくわかんないけど、私のポケットにあるSDカードを思い出していた。
もうほとんど思いつきと妄想と願望で私は話を進める。
とにかくこっちが迷った顔をしたら、嘘がばれる。もう後がない。後には引けない。
『篤子』の携帯とやらに大事なデータがある。やつらには都合の悪いデータ。それは、彼らの手にある。都合が悪いから、破壊したいが、それを送信しているのか、していたのなら誰に送信したかが気になるところだ。しかし、携帯にはロックがかかっており開かない。
これが、私の想像するストーリーだ。
細かなところは、全部省略。
『都合の悪いデータの内容』『あの状況』そして、『パスワード』
相手は、私が『篤子』だと疑っていない。
「アンタのボスは私がSDカードにデータを移したとは思っていないようね。携帯に残ったデータと送信記録で安心するはず。あなたたちもこれ以上大事にはしたくないでしょ?警察も動いているし。私が無事に帰れたら、パスワードを教える。それで一件落着。でも、保険のために、私が定期的にあるサイトにアクセスしないと、データは警察に送られ、さらにブログで全部公開なんてなるように設定しちゃうからね」
帰ったら、ブログつくんなきゃ…
明らかに戸惑った表情が、男の顔に浮いている。迷っているのだ。窓が閉め切られているせいで風のない部屋は、ジワッと蒸し暑い。冷房設備はあるようだが、今は機能を停止したままである。
「…分かった」
男の絞り出すような声に私は勝利を実感した。とりあえず、この現在の危機は脱出できそうだ。問題は『パスワード』。これがなければ、同じことの繰り返し。
「とにかく、家に帰してよ。じゃないと教えないから」
自分でも嫌になるほど嘘が上手い。
『篤子』になって、上手くなったのは嘘だけだった?
私は皮肉な嗤いを呑み込んだ。
「分かったら、早くこのひも、解いてよ」
男はナイフで私と倉本哲平の縄を解き始めた。自由になった両手を見つめ、逸る気持ちで言う。
「とにかく、ここを出よ…」
ガチャ。
ドアと共に私の一発逆転が一瞬で消えたことを悟った。
「全く大したお嬢さんだ」
別の厳つい声に顔を上げると、玄関に五〇絡みの中年と若い二人の男が立っていた。
ボスだろう…
「木、木澤さん…」
私と取り引きした男は、赤い顔から一転して青ざめていく。木澤と呼ばれた男は、深い溜息を吐いて青ざめた男に一瞥をくれる。
「君には、失望したよ。こんな小娘に踊らされるとはね」
「しかし、木澤さん…」
ニッコリと木澤は微笑み、チラリと右後ろに控えている若い男に振り返った。僅かに顎をしゃくる。
「ま、待ってくれ…」
それは、あまりにも早く何でもないことのように行われた。パシッと空気が破裂した音だけが狭い空間に響いた。
サイレンサー付の拳銃。
さっきまで私と話していた男は、後頭部から床に倒れた。フローリングの床に、どす黒い血が溜まる。
血の臭い。
父さんも頭から血を流して死んでいた。
密封された部屋に濃い血の臭いが充満する。吐き気が襲う。あの日と同じ、噎せ返るような血の臭いに体中の血液が凍り付く。
「アッちゃん!」
私は膝から崩れ落ちた。それでも、意識は何とか保っている。
「君の父上の作っている建物は丈夫で防音効果も良さそうだな」
ボスらしき男は、哲平をチラリと見て言った。ギッと彼は男を睨み付ける。
「オレ達をどうする気だ!」
「君達次第だ」
胸が苦しいよ。
「とりあえず、パスワードを教えてもらおう。ひどく気にかけている人がいるのでね。それから、SDカードをよこしてもらおうか」
目を落とした床に血の広がりを見る。
これは現実?
網膜に残ったアスファルトに浮かぶ血も、ザクロのようにパックリと頭が割れていた父さんも、全てが目覚めの悪い夢なのかも知れない。夢?
夢じゃなかったら何なの?
周りの会話はつけっぱなしのテレビから流れる遠いフィクション。現実に割り込む隙を与えない嘘だらけのフィクション。
私はこちらにゆっくりと黒光りする靴が近付いて来るのさえ、まるで他人事のように、見ていた。
「警察だ!」
ドアが激しい音と共に開き、青木さんの声が静まった室内に突然響いた。
それは、安っぽい刑事ドラマの続き?
「また貴様か!」
木崎の動きは素早かった。私は腕を掴まれ、無理矢理立たされた。そして、こめかみに固い感触を感じても、私は他人事のように周りを見ていた。
「この女がどうなってもいいのか?」
銃口がグイグイとこめかみに食い込む。
足下に広がる赤い血液。哲平の額に汗がうっすらと浮かんでいる。生々しい血液の臭い。青木さんの髪が乱れ、彼の漆黒の髪が額に張り付いている。この人にも汗をかく事が出来るんだ。当たり前か。人なんだから。それにしても、銃口を突き付けられたこめかみが痛かった。早く終わらないかな。
いつまで、こんなくだらないドラマを演じ続けなければならないんだろう。
一体、いつまで…
『篤子』を…
もう、いい。
どうだって、いい。
自分は『篤子』には為れない。
怖くなんかなかった…
私は生気のない瞳で対峙する青木さんを見つめた。この人はまた一人で来たのだろうか。助けに来るなら救急車ぐらい用意してよ。
でも、どうして彼はここに助けに来たのかなぁ?
「この女を助けたかったら、そこを退け」
男はそう言って、乱暴に私を引きずり、前に進もうとした。しかし、青木さんは道を空ける様子はない。それどころか自分の銃を取りだし私達に狙いを定める。
「おい!アッちゃんを殺す気か?」
哲平の声。
その声が届いているのか届いていないのか狙いを付けた銃を握る手を緩めることはない。若い二人の男達は、木澤が狙われ動くに動けない。私と彼の距離は三メートルも離れていない。
当たれば即死?
私をジッと見る切れ長の瞳。私はその感情の顕れない瞳の奥を見つめ返した。
早く撃ちなよ。
信じているから…
何を?
誰を?
空気を引き裂く破裂音が、鼓膜にジンと響いた。
「うっ」
短い唸り声と共に、拳銃の呪縛から解放された。私に銃を突き付けていた男は利き腕の肩を撃ち抜かれ、押さえる左手の隙間から血を滴らせる。
グラリと視界が廻る。
「全く困ったお嬢さんだ」
聞き慣れた低い声が耳を掠り、長い腕に抱き留められた。
「大丈夫よ」
短く言って彼の腕を振り解いた瞬間、膝がガクンと折れた。
「これの、どこが大丈夫だって?」
片手で腕を掴まれ、乱暴に引っ張り上げられた。彼の皮肉が何故か可笑しかった。これは、昼間の会話の嫌味?
それとも、今の?
パトカーの音が間近に迫る。
「アッちゃん。大丈夫?」
哲平の声も嫌味に聞こえてくる。
何が大丈夫なのだろうか?
私はコクリと頷く。
「でも、顔が真っ青だよ」
それは、血の臭いせい。この狭い空間で起こった悪夢の痕。
馬鹿げた悲劇で、真面目な喜劇。
…そんなモノ怖くない。




