April 10th
次の日。窓から射してくる眩しい太陽の光が顔に当たり、希は眩しさで一瞬少しだけ表情を歪ませてから少しずつ瞳を開こうとする。眩しいが、太陽の光は暖かかった。何となく少し暑いと感じるほどに。希はゆっくり瞳を開きかける。
「…………?」
少しずつ瞳を開いていたが薄目のような状態で開くのを止めた。薄目をした状態の視界には病院の白い天井は入っておらず、代わりに何かがあった。薄目のまま一度瞬きをしてよく見てみる。
「…………」
ここでその視界に入っていた何かは人である事に気づいた。眼鏡をかけた普通よりも少しだけ長めの黒髪の男性が頬を赤く染めながら、仰向けに寝ているこちらをじっと見つめていたのだ。希はまだ薄目をしたまま男性を見つめる。眼鏡をかけた男性はイケメン、という単語がぴったり当てはまるくらいに男前だった。年齢はまだ二十代くらいだろうか。男性は仰向けの希を覆い被さるような体勢でじっと見つめていた。
「(何してるんだろう、この人……)」
薄目をしたまま希は心の中で呟く。それからすぐに寝惚けてるのかな、まだ夢でも見てるのかな、と思うと薄目をしていた瞳を閉じた。瞳を閉じてからすぐにカチャ、と何か小さな音が聞こえた。希はまた瞳を少しだけ開いて薄目で見てみる。視界にはやはり男性が映っていたが、よく見てみると眼鏡をかけていなかった。どうやらさっきのカチャ、という小さな音は眼鏡をはずした時に鳴った音だったらしい。
「…………」
男性はまだ頬を赤く染めたままこちらをじっと見つめている。こちらをじっと見つめる男性の瞳は何故か愛おしそうだった。愛おしそうに見つめたまま男性は右手をそっと伸ばして優しく希の左頬に触れさせるように置いた。頬に触れた事で希の身体は小さく震える。男性のすべすべとしていて心地良い白い手が希の左頬を少しだけ撫でた。少しだけくすぐったかったがちょっと気持ちよかったのか希はまた瞳を閉じてしまう。瞳を閉じてからすぐに頬を撫でる手の動きが止まった。希はもう一度瞳を小さく開いて薄目で見てみる。
「…………」
男性は瞳を閉じていた。そして男性の顔が先程よりも自分に近く感じる。……いや、明らかに近かった。それどころか今も少しずつゆっくりと、どんどん自分の顔に近づいてきている。もう自分の視界には瞳を閉じて頬をまだ赤く染めている男性の顔しか見えなかった。希はまた瞳を閉じた。
「何してんですか!!!」
希はすぐにくわっと瞳を大きく見開いて男性の腹に両足で蹴りを入れて大声で叫んだ。腹に両足蹴りを食らった男性はベッドから転げ落ちる。それからすぐに希は跳ね起きて枕元にあるナースコールのボタンを乱暴気味に連打した。その間にベッドから転げ落ちた男性は背中を擦りながらゆっくりと立ち上がる。
「痛いじゃないか、希君……いたた、背中を強く打ってしまったよ……こらこら、ナースコールは一回でいいんだよ」
「誰か来て、誰か!! 男に襲われる!!」
「希君、ここは病院だ。大声を出しちゃいけない」
「大声を出さなければ入院中の患者を襲ってもいいというんですか貴方!?」
「襲う? とんでもない、僕は医者だ。医者として君の今日の身体の調子をチェックしにきたんだ」
希はベッドの上で座り込みながら身構える。どうやらこの男性は医者らしい。姿を見てみるとちゃんと白衣を羽織っていた。近くにも血圧を測る器具や体温計など健康状態を確かめる道具もあった。だが。
「……健康状態を調べる相手である患者に貴方は何をしようとしてたんです?」
「ああ、今は朝の六時だろう? この時間だと起きたとしてもまだ君は眠いだろうと思ってね。目覚めのキスならスッキリ目覚めるだろうと僕は君に覆い被さり」
「看護士さーん!! 他のお医者様ー!! もう誰でもいいから助けに来てくださーい!!!」
「はいはい、小林さんどうしまし……島田先生!?」
また叫ぶとここでようやく看護士の女性が部屋の扉を開けて入って来た。看護士の女性は小走りで来たのか大きく息をふう、と吐いたが希と一緒にいた男性の姿を見てギョッとして大慌てで入ってくる。
「島田先生、小林さんの病室には他の看護士や医師達と一緒じゃなければ入ってはいけないとあれほど言ったのに!」
「僕は医者だ。それに彼の傷の手当てもやったんだ、彼の身体の事は僕が一番知っている。大丈夫さ」
「そういう事ではなくてですね! 貴方は治療中にも隙があれば気を失った状態の小林さんの身体をベタベタ触ったり撫でたり頬擦りをしたりと……!」
「心臓の音や脈を調べていたんだよ僕は。医者として当然だろう?」
「寸前で私達が止めましたが舐めたりはしなくていいでしょう!?」
「失敬な、傷の消毒だよ!」
「消毒用の薬はちゃんとあるんですからっ!!……ごめんなさい小林さん、私達がちょっと目を離した隙に……! 何かされませんでしたか!?」
男性としばらく言い合いをした後看護士の女性は急いで希に駆け寄った。内容も聞いたせいか希は布団をかぶってガタガタと震えていた。看護士の女性は何度も謝りながら布団の上から希を優しく擦る。擦られつつまだ少し震えながら希をぼそりと聞いてみた。
「……誰なんですか、あの人は。お医者さんなんですかあの人は」
「この人は島田 仁先生といって、医者です。小林さんのケガの手当てなどをこの人がほぼ全て担当しました。性癖というか、好きなものを除けばしっかりしていて本当に、とても優秀な医師なんですが……」
看護士の女性は希を擦りながら先程の男性、島田仁に視線を向けながら説明する。仁はベッドテーブルに置いていた自分の眼鏡をとってかけていた。それから眼鏡の中心を中指で少し押してかけ直し、白衣を揺らしながら希に近づいてくる。希は先程よりも深く布団に潜り込み、看護士の女性も「先生!」と慌てて希を庇うように間に立った。
「初めまして、小林希君。さっき彼女が説明した通りだ。僕の名前は島田 仁。君の手当てを担当した医師だ。一応、この間木花病院には最近来たばかりさ。分かっていると思うが好きなものは希君、君だ」
「それを言って俺が握手するための手を出すと思ってるんですか貴方は……!?」
仁はにっこりと笑いながら希に向かって握手を求めるように手を差し伸べてきた。希は布団から青くさせた顔だけを出して仁をじっと睨みつける。
「一目惚れなんだよ。色んな男を見てきたが、君のような人は初めてだ。愛おしく感じる。今すぐにでも抱き締めて唇を奪いたいくらいに君が好きなんだ」
「看護士さん、吐くための容器ってどこにありましたっけ……」
「ベッドの下です、今取りますからもう少し我慢しててくださいね!」
「僕は元々男性が好きだった。好みの男性患者が来るとついつい身体を触ったりしてしまう癖があってね。そして君を見た瞬間、衝撃が走る位に心を射抜かれたんだ」
「看護士さん、まだですか……」
「待ってください! あ、ありました! ありましたよ! はい、いつでもどうぞ……!」
「もう他の男性患者の身体を触っても僕の心は癒されたりしない。少しも。もう君しかいない。僕は君じゃなければダメな身体になってしまったのさ……これは『恋』という名の不治の病だ……希君、責任はとってくれるね?」
「島田先生貴方患者をどんどん不調にさせていくってどんな医者ですか!? それからここは病院です、そういう場所でも無いので服を脱がないでください!!」
看護士の女性は吐くための容器を希に差し出しながら振り向いたが顔を真っ赤にしてすぐに背を向けて希を向き合う形になった。島田仁は頬を赤くして恍惚とした表情を浮かべて艶やかな視線を希に向けながら白衣などを脱いでいたのだ。既に上半身裸になりかけている。上半身裸になろうとした時に服を脱ぐ手を仁は止めた。
「不調だって? とんでもない、彼はもう健康だよ。治療はちゃんと終わったんだから。それに、今日で退院だ」
仁は上半身裸になりかけの姿できょとんとしたような表情でそう言った。それを聞いて希は「え?」となり、それからすぐに気付く。昨日は身体を動かすだけで傷が痛んだのに今は何も痛みが感じなかったのだ。今日の朝、仁を蹴り飛ばした時でも何処も痛く感じなかった。
「何ともないだろう? 君のような大ケガをした患者さん用に作った特効薬さ」
仁は着ていた服を着直しながら笑う。希は確認しようと着ていた病衣を上だけ脱いで身体中に巻いていた包帯を次々と取り解いてみる。あったはずの傷は全て完全に治っていた。
「魔物からの攻撃で出来た傷もこの通り簡単に治る。ケガをしたらいつでも来てくれよ」
「はい、ありがとうございま……え?」
仁の言った言葉に希は視線を向けてお礼を言おうとしながら瞳を見開く。今魔物、と仁は確かに言った。希は恐る恐る聞いてみる。
「……今、魔物って」
恐る恐る聞いてみると、仁は小さく笑みを浮かべながら頷いて言った。
「ああ。魔物の存在は知っているよ。最近変死事件が多発しているだろう? その中で奇跡的に生きていてこちらに運ばれた患者さんもいてね。大半が「化け物だ」と言っていたよ。実際、僕もこの目で見たからね。間木花病院前で人型のトカゲのような化け物が人を襲っているのを見たんだ。幸い、襲われていた人は無事だ。君に使った特効薬も、魔物によって受けた傷を治すために以前作ったんだ」
そう言って仁は白衣の懐からビンに入った薄緑色の液体を見せてきた。
「……薄い青汁?」
「ははは、最初はそう見えるよね。これがその特効薬さ。間違っても飲んだりしないでよ?」
なんてね、と笑いながら特効薬が入ったビンをまた仁は懐にしまう。それからしかし、と仁は呟き希をじっと見つめた。
「……契約者、か」
希を見つめて小さく呟く。希は首を傾げながらもう一度仁に聞いてみた。
「契約者の事も知ってるんですか?」
「昨日、ここを通る際に会話が聞こえてきてね。魔物の力を使ってその魔物と一緒に戦うんだろう?……君のような少年があの魔物と戦うと想像すると、胸が痛くなる」
仁は腕を組みながら真剣な表情で希を見つめて俯く。その姿を見て希は少しおろおろとする。俯いていた仁は顔を上げて希を心配そうにじっと見つめた。ベッドに座り込んでいた希は立ち上がる。
「戦うしかないです。戦わなきゃ、俺が」
希は心配そうに見つめてくる仁の瞳を見つめ返してそう言った。それを聞いた仁は見つめたまま黙り込んでいたが手を伸ばして希の右肩に手を置く。
「君の気持ちは分かったよ。……ただ無理はしないでほしい。生き物は死んだらもう生き返らないんだ。僕のあの特効薬だって、命を落とした人に使っても傷を治すだけだ。その人は生き返らない。……僕だって生き返るような薬を作りたかったけど……」
そう言って仁は希の右肩に手を置いたまま悔しそうに俯いた。それからすぐにまた顔を上げる。心配そうな表情は無く、決意した表情になっていた。
「だが僕は諦めない。君が魔物と戦って人々を守るように、僕も全力で人々を助ける。この手で。もちろん、君の力にもなりたい。……そうだな、もし戦ってケガをした時はいつでも来てくれ。全て無料で治療するよ」
仁はもう片方の手も希の左手に置いて真っ直ぐ見つめながら言い、希は思わず声を上げる。
「む、無料って……! いいんですかそんな!? 流石にお金払いますよ!?」
「いや、大丈夫さ。むしろ僕にはこれしか出来ない。……もし他にも力になれる事があればいつでも言ってくれ、全力で協力す」
慌てる希に仁は首を横に振り、それからまた真っ直ぐ希を見つめて言いかけたが鼻血を垂らす。仁は気付いて「あ」と声を漏らしながら希から離れて手で鼻血が垂れる鼻を押さえた。
「……すまない、希君。我慢していたが君の姿があまりにも刺激的でね。耐え切れなかったよ」
仁は頬を赤くして先程の決意した表情が嘘のように今の表情は興奮したような恍惚としたものになっていたのだ。それを見て希はすぐに後退り、身構えた。看護士の女性も大慌てで仁に駆け寄り、彼の首根っこを掴んで病室から出ようとする。
「と、とにかく、小林さんは今日で退院です! 本当に失礼しました!」
「またね希君、いつでもおいで! 僕はいつでも愛する君を待っているからさ!」
仁の首根っこを掴みながら看護士の女性はそう言って病室から出て、仁も引っ張られながら鼻血を垂らしたままそう言って病室から無理矢理引き摺り出されたのだった。希はその場で立ったまま二人が出て行った様子を見ていたがここで神奈がつかつかと入ってくる。
「やっと終わったのね」
「……いつからいたの?」
「六時前から病室前で待ってたわ」
「ああ、そう……いや、助けてよ!? 何で入って来ないのさ!?」
面倒臭そうに喋る神奈に希は文句を言う。すると神奈は苦い表情を浮かばせて希にこう返した。
「……あんな気持ち悪い空間に入れると思う?」
「…………だよね」
ごめん、と希は頭を下げてそう返したのだった。
「はあ、また病院から出る前に仁先生に迫られちゃったよ……ああいう面がなければ本当にいい先生なのに」
準備も終え、ようやく希は病院から出てきた。着替えを持ってきていなかったので制服姿でぐぐっと伸びをする。その隣で神奈は黙ってキャリーバッグを引いて歩いていた。それから間木花病院の目の前にあるバス停でバスを待ちながらしばらくお互い無言になる。するとここで神奈が口を開いた。
「貴方の家は何処?」
神奈はバス停を待ちながら希に視線を向けずに聞いてきた。希は神奈に振り向く。
「えっと……今来るバス乗って、んで夜満兎駅前のバス停で降りてそこから……」
「そう。分かったわ。そろそろ住む場所に困っていたところなの」
それを聞いた神奈はそう言ってまた黙り込んだ。希はふう、と息を吐きながら自分も黙って待とうとしたがすぐにまた神奈に振り向いた。
「……住む場所に困っていたところって、どういう事?」
「見て分からない? それに昨日言ったでしょう、『人間界に降りてきたばっかり』って。だから泊まれる場所を探していたの。昨日は貴方の付き添いという事で病院に泊まれたけれど、一昨日なんて野宿よ。誰も来ないような公園で隠れて寝たのだから。……私、一応貴方に色々教えたわね? 魔物の事や契約者の事」
視線を一切向けずに神奈は喋っていたが「それから」と言いながら希に向かって振り向き、睨み付けるようにじっと見つめてきた。
「……昨日、貴方は私に失礼な事を言ったわね? 忘れたとは言わせないわ。アイスで許してあげるとは言ったけど、やっぱりまだ許せないの」
「…………な、今度は何をしてほしいの俺に」
希は少し顔を青くしながら一歩だけ下がる。
「さっきも言ったでしょう? 私は住む場所に困っているの」
「……ま、まさか」
そんなやり取りをしている内にバスがやってきた。バスは間木花病院前のバス停で停まると入口用と出口用の扉を開ける。神奈はキャリーバッグを持ってさっさとバスに乗り込んでいく。と、入り口前で振り向いた。
「そういう事よ。貴方の家の使っていない部屋、私の部屋にさせてもらうから」
そう言ってまた背を向けながら「貴方も早く乗りなさい」と言って空いている席に座ってしまう。希は唖然としながら神奈の乗っていく姿を見つめてから頭を掻きつつバスに乗り込んだのだった。