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ぎんなんの人

作者: 榛名 赤城

           銀杏ぎんなんの人              

                                       榛名 赤城


 人は様々なことで悩むものである。


秋野春夫も悩んでいた。

「こっちへ来ないで!」「近寄らないで!」

いま、心静かに過去をふりかえると、春夫は思い出す。そういえば、自分が教師であったとき、授業中、机の間を巡回するときに、そう言われたことがある。今思えば、やむにやまれぬ生徒の叫びだったのだろう。多くの生徒が対教師ということで我慢している中にあって、あの生徒の叫びは誠に率直であったと言わざるを得ない。そのとき自分では気がつかなかったが、ずいぶん臭かったのだろう。いわゆる口臭だ。まさか机間巡視のときまで、臭いという自覚はなかったのだが。


この悩みについては、十代の始めの頃から、かれこれ五十年も続いている。


きっかけは、布団の中でふざけていた時、弟から「あんちゃん、口が臭い。」と言われたことだ。それからは、気が小さいせいもあってか、自分の口は臭いのだという観念にとらわれ始めた。


若い頃には、「エチケットライオン」という歯磨き剤が発売になった。口臭に効果のあるといううたい文句でコマーシャルが流れていた。薬局に行き、店の人に「エチケットライオンがほしい」と言えぬほど気が小さかった。

やがて郵政省(当時)に就職し、職場の健康診断で、思い切って医師や看護師に、口臭の悩みを相談したが、特に心配はないと言われてしまった。これも四十年も前のことである。


そうして働きながら大学を卒業し、教師に採用されて、今度はまるきり人を相手にする仕事となった。生徒や同僚と話さなければならない。そのたびに自分の口臭が気になった。


職員会議では狭いテーブルをはさんで自分の意見を述べたり、人の話を聞いたりする。そんな時、相手が鼻をつまんでいたり、鼻の穴を押さえていたりするのを直視するのはつらかった。自分の口臭のせいで、人にこんな嫌な思いをさせねばならないのかと思い、死んでしまいたいような気持ちにもなったものだ。


 その一方で、自分の臭いは、自分では自覚できない。

だから、本当はどんなにおいなのかも、よくはわからなかった。最近になって患部がわかり歯槽膿漏とはこんなにおいなのかと、時々実感できるようになったが。


このように、あるのかないのか、よくわからないことと、露骨に嫌な顔をされることの間をさまよいながら、自分で自分を否定しつつ、時には死んでしまいたいと思うほどに苦しみながら、ここまで生きてきたのだ。


人は自分を愛せなければ、他人を愛することはできない。であれば、このころ自分は本当に生徒を愛していたのかと疑問になる。生徒への愛なき教育がどれほどの効果を上げてきたのか。また、教育の根本は、生徒の自己肯定感をはぐくむことである。であれば、自己否定の人間が、生徒の自己肯定感をはぐくむことができたのだろうか、と反省する。

また、家族のことも本当に愛せていたのかと振り返ってみる。家族の幸せを考えることよりも、いつも自分のことしか考えていなかったのではないかと。

他の関係する一切の人たちに関しても、同様だ。自己を否定しつつ相手とで接していたならば、相手の良さを引き出すことなど、とうていできていなかったに違いない。申し訳ないことだった。


人一倍歯磨きには気を使っていたが、歯磨きくらいではどうにもならないようだった。「ようだった」というのは、自分ではわからないのだから、しようがなかったということだ。イオン歯ブラシ、ジェット水流式口腔クリーナー、電動歯ブラシも使った。ほかにもいろいろ試みた。ガム、仁丹、消臭スプレー(ピア)、マウスウォッシュ、ブレスケア、デトックス……などなど。この中でブレスケアだけが、時間限定的だが口臭防止の効果があるようだ。だが所詮根本的な解決とは程遠い。


ネットで、七千円も出して口臭解消のための本も買ってみた。その中の情報によると、口臭というものは年がら年中におっているというものではなく、におうときと、におわないときがあるということも知った。緊張したりして唾液がなくなって口の中が乾くと口臭が出るということも書いてあった。であれば、授業や会議で人前で緊張すると口の中が乾いて口臭が発するということもあったのだろうか。以前は、唾液が臭いの元だと思い、逆に口の中を乾かそうとしていた時期もあったのだが。


そんな中で整腸剤(ビオフェルミンSなどの)というものを知った。それを飲むと便臭やおならのにおいが消えたり、快便になったりする(きれいに、するっと排便できる)。やってみると効果がてきめんだった。それで今は快便のために、整腸剤は、食後三粒ずつ飲むように心がけている。


あるときは、自分はいわゆる「自臭症」(におわないのににおうと思い込む病気)ではないかと考えたりもした。人は皆、自分をよく考えたがるものだ。しかし、遠慮のない小さな子どもでも臭がるので、やはり臭いのだろうという結論に達した。そして、これまでずっと人生の悩みの種であった。


このことが人格形成にも、おそらく影響を与えただろう。対人関係では、いつも相手が不快な表情を浮かべていないかと、相手の顔色をうかがうようになった。びくびく人生である。飲み会も自由闊達な話が出来ず、つまらなかった。必要以外は飲み会には出ないようにし、なるべく一次会だけで帰るようにした。付き合いの悪いやつと思われていたのではないか。出世にも影響しただろうか。しかし、相手に口臭で不快な思いをさせ、自分も気づまりを感じるくらいなら、早く帰ったほうがいいと思っていたのである。


家族や親戚の集まる食卓では、なるべく人に近づかないようにした。人の家を訪ねるときも換気に気をつかい、少し戸を開けたりして(相手は不審に思ったことだろう)、気兼ねしながら訪問した。人と車に乗る時は、冬でもいつも窓を開けた。


相手の反応としては、いくつかパターンがある。鼻をつまむ人、鼻の穴を指で押さえる人、鼻で息をしない人、せきこむ人、戸や窓を開け放つ人、などなど。


十代のころよりの悩みであり、もう人生の大半はこの調子できてしまった。教師の仕事は、常に人前に立って話さなければならない。個人面談も、学級懇談も、家庭訪問もある。口臭が苦になり、そのために仕事をやめようと思うことさえ何度かあった。


母を亡くし、群馬で一人暮らしをしている父のもとに帰ったとき、口臭のことを相談したことがある。「朝起きたとき、コップ一杯の水を飲むといい。」と父は言った。どういう気持ちで息子の相談を聞き、どんな気持ちで答えてくれたのだろう。この父の一言を、春夫は生涯忘れないだろう。


仕事については、退職金が割り増しで出るようになって見切りをつけ、計算高いとは思ったが、三年早くやめた。もちろん、口臭がすべての理由ではないが。


「ああ、人生には努力だけではどうにもならぬことがあるものだ。」――これは口臭とともに半生を過ごした人間の、ひとつの悟りといえるだろう。


そんな劣等感と、人へのひけめを意識する中で、どう自分は教師生活を切り抜けてきたのか。思えば、毎朝仏壇の前に座り、1時間の唱題を実践してきた。その1時間の題目で、34年間を切り抜けてくることができた。唱題により、自分の生命の鏡が磨かれ、生徒が何を考えているのかがわかり、それに応じた対応ができる。そのことを実感してきた。朝の祈りの中で、生徒の名前を見て成長を祈り、自己を見つめる作業をした。自分の至らぬところを点検し、生徒の長所を思索した。これがあったからこそ、自分は劣等感に押しつぶされなかったのだ!何とか教師の仕事を続けられたのだ。これがなかったら、春夫は精神の病になっていたかもしれぬ。そうだ、唱題が自分を支えてきたのだ。今になって、春夫はつくづくそう思う。


このようにタテに過去をふりかえって、さまざまに思索をめぐらせた。そして今度は、ヨコに広く世の中を見てみるとどうだろう、と春夫は思った。口臭に悩む人は意外に多くいるだろう。こんなに口臭グッズが売れていることをみれば、すぐわかる。口腔ケア用品は、売り場にあふれている。日本中に需要があるのだろう。何十万、何百万、あるいは何千万と、口臭に悩んでいる人がいるのではないか。悩まないまでも気にしている人がいるのではないか。

「○○病の友の会」というのはよくある。その会に参加して、「この病で悩むのは自分一人ではなかった」「気持ちが軽くなった」とか報告される。

「口臭友の会」でも立ち上げたら、どんなに人が集まるだろうか。(いや、逆に集まらないかもしれないが。)そして、人知れず自分のように悩んできた人たちが、悩みを共有することで、パーっと気持ちが明るくなり、心が軽くなり、新しい人生の出発ができるかもしれない、と春夫は思った。

 

とにかく、同じ悩みを持つ人が、世の中には少なくないということだ。


春夫はさらに考えた。これ以外にも、さまざまな他の悩みを持つ人がいるだろう。芥川の「鼻」の禅智内供はソーセージのように鼻が長いのが悩みだったが、色々やってみて、結局、もとの長い鼻が一番落ち着くという結末となった。


ある人は太っていることに悩み、ある人は薄毛に悩んでいる。


またある人は、別のことで……。――このように悩みは、千差万別であり、人それぞれに何らかの悩みを持って生きているといえよう。



どれも本人にしてみれば、深刻な悩みなのだろうが、第三者が見たらどうってことのない悩みもある。どうして人はこのようなことに悩むのだろう。劣等感を持つのだろう。一般的な「人」というものを想定し、人と違うからか。人と同じようになりたいからか。しかし、その一般的な「人」も何らかのことで悩んでいる。悩みのない人は、おそらくいないのではないか。

悩む必要のないこともある。悩んだとて、どうにもならないことだってある。その場合は受け入れるしかないのだ。


しかし、嫌われ者のゴキブリやハエの退治で暮らしを立てている会社もあるように、口臭があるゆえに商売が成り立っている企業もあるのだと思うと、不思議な気持ちになる。「悩み解消企業」といえる。商売を成り立たせるために、さまざまな悩みがあるのだろうか。いや、やはり悩みがあるから、商売が成り立つのだ。


考えてみれば、病気をなおし、害虫を駆除し、汚れたものを洗濯し、といったマイナス面をプラスにすることで成り立つ仕事、業界というものはたくさんある。とくに最近は、清潔志向というものが盛んである。企業ともなれば、売らんがために人々の劣等感をあおるような風潮もみられる。例えば「悩み無用」などと言って高価な商品を買わせるところもある。それをどんどん宣伝するのは、ちょっとやりすぎのような気もする。悩んでもいないのに、コマーシャルを見て、悩まなければいけないのかなという気持ちにさせられてしまうこともある。


春夫はある日、秋のイチョウ並木を歩いていた。銀杏が落ちていた。踏むと嫌なにおいがした。そして気がついた。臭くても愛されているものがあるということに。


ぎんなん、あの臭いぎんなんの外皮の中に、栄養価満点のタネがある。そしてそれをいったり、煮たり、茶碗蒸しに入れたりして食べる。ほかにも、納豆、くさや、チーズ、ぬかみそ、などなど、くさくてもうまいものがある。においの強い納豆だが、毎日の食卓にのぼり、納豆を愛する人も多い。くさやは、話によればうまいらしい。チーズはビールのつまみにもなる。中国には臭豆腐しゅうどうふという食品がある。スウェーデンのスール・ストロミングというのは、相当臭いらしい。


人間においても、くさくても愛される男。そういう男になれたらいい。春夫はそう思うようになった。そこになぜ早く気がつかなかったのだろう。それに気がつけば、また違った人生を送れたかもしれない。しかしまだ若い。あとの人生をどう生きるかで、人生最後の勝負はきまるのだと、春夫は思った。

 

彼は、生き方を変えようと思った。「くさくたっていいじゃないか。それ以上の魅力を持とう!」

太っていたっていいじゃないか。はげていたっていいじゃないか。くよくよすることはない。他人がとやかく言うのは、余計なお世話じゃないか。


――最近、春夫は外国に旅行することがある。年に⒈~2回は出かける。

外国には、日本にないものがたくさんある。トルコの、乾燥した気候。イスラム寺院には偶像が無い。ベトナムの暖かさ。バイクの洪水。ドイツの石畳。大聖堂。葡萄酒のうまさ。中国の広さ。運河と水路。中国将棋は、駒が丸い。バイクはほとんど電動バイクだった。タイの信心深い人々。どこでも祈りが捧げられていた。バンコクの人々は、食事はほとんど外で取るという。インドは、30歳以下の人口が60パーセント以上だという。外国に行くことで、今まで知らなかったことを知ることができた。新しい目を開くことにはなった。日本では当たり前のことが、外国では当たり前ではないことも多い。


世界は広い。人間もいろんな人がいる。そしてみんな元気に生きている。自分も、その多種多様な人間の中の一人なんだと、春夫は思った。なんだか、心が晴々してくるのを、春夫は感じていた。イチョウ並木の上空には、青い空が広がっている。

                 

    

            

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして 短編新着からきました。 最初から最後までコメディっぽい話かな?と思って 読んでたのですが、彼が自分を受け入れてからの生き方 がなんだか、コミカルとシリアスさが混ざってて面白か…
2014/10/23 14:44 退会済み
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