#むかしのはなし
――異世界トリップ。
そんな“ふぁんたじー”なことが、自分の身におこるなんて、思ってもいなかった。
それ系のフィクションを友だちが好んでいたから、どんなものなのか、概要は知っていた。
普通の少年少女が救世主として違う世界に喚ばれる物語。
喚ばれた世界で、彼らは特別な力を目覚めさせて、使命を果たす。
そうしてもとの世界に還り――あるいはその世界に骨を埋め――旅は終わる。
だけど、誰に喚ばれたわけでもなく、何の使命もなく、何の力もなく、ただ一本道を間違えたように異なる世界に入り込んでしまった者の結末は?
誰の意図もなく、もちろん自分の意思でもなく、ただ迷子になってしまった、私は?
◆◆◆
普通に休日の街を歩いていただけなのに、周りのもの全てが異国の風情になっていたことに私が気づいたのは、変わってしまってから、数分経っていた。
見慣れぬ街の様子と人々に違和感を覚えながらも、(お祭りでもあったかな)と考えていたなんて、我ながら呑気すぎる。
チラホラ降ってきた雪を避けるためコートのフードを被り、ポケベルを手に、耳はウォークマンで塞いでいて、注意散漫になっていたことと雑踏の音が聞こえなかったのも、一因かもしれない。
そうしたらもっと早く、異常に気がついていたかも。
気がついていても、どうしようもなかっただろうけれど。
――私が幸運だったのは、(おかしいな?)と感じはじめてすぐに、一人の婦人と行き合ったことだ。
人混みを避けようと、端へ端へと無意識に移動して、ふと路地裏で踞っている人を見つけて私はそちらに近づいた。
『おばあさん、大丈夫ですか?』と彼女の実年齢を知れば、失礼きわまりない言葉をかけたのは、薄い髪色を白髪と見間違えたため。
鮮やかな緑色の瞳が、私を見て驚いたように見開かれた。
(おばあさんじゃなくてちょっと若い……外人さんだ、ヤバイ)一瞬そう思ったけれど、声をかけてから逃げる方がよっぽど失礼だし、開き直って『気分が悪いですか、日本語わかりますか』と、あくまでも母国語で通してみる。
と、血の気が引いた顔を疑問一杯に、首をかしげているので通じないとみた。
『えーと、えーと、キャンアイヘルプユー? とかいって英語で答えられてもわからない! でも通じてないっぽい……英語圏の人でもないのかなぁ……』
呟きながら、持っていたミネラルウォーターでハンカチを濡らして、おばさんの額を拭い、近くに交番はあったかなと、辺りを見回して――絶句した。
視界に飛び込んできた光景に、目を疑った。
いつもと違う街並み、ではなくまったく知らない街並み。
まったく見覚えのない、異国の人々。
――なに、これ。どこ、ここ。
どうして私、こんなところにいるの――?
立ち尽くした私の様子がおかしいと気づいたのか、おばさんが何事か話しかけてくる。
だけど何を言われているのかわからなくて、余計に混乱した。
イヤホンを越えて耳に入ってくる音が、意味をなさない。
周りの人々が、何を言っているのかわからない。
――こわい。
おばさんが何か叫んだあと、道を歩いていた男の人が立ち止まり、首を巡らせる。
また、おばさんが声を発する。
彼がこちらを認めて、近づいてくる。
頭の隅では(おばさんの知り合いだろうか)と見当をつけつつ、その他の部分は恐慌を来していて――青年の氷みたいな冴えた瞳と視線が絡んだ瞬間、私はその場から逃走した。
どうして逃げたのかなんて、それはひたすら怖かったからに決まっている。
コンクリートやタイルじゃなく、煉瓦と土壁、木が組み合わさった西洋風の建物。
まるでマンガや映画の中から抜け出てきたように、時代がかった衣服の人々は、あきらかに私とは違う人種で。道行く人の中、腰に下げられた剣が玩具ではない存在感を訴えてくる。
私以外、ううん、私だけがその場で異質だった。
なにがなんだかわからなくて、とにかく『ここ』から抜け出したかった。
家に帰りたかった。
――どこにもいけないうちに、先ほどの青年に捕まってしまったのだけれど。
青年から投げつけられた意味がわからない言葉に混乱した私は、腕に噛みついたり引っ掻いたり、散々に暴れたものだ。
本当ならそのあたりに放り出されても仕方がなかったのに、彼は厳しい表情のまま、私が落ち着くまで腕を貸してくれた。主が千穂さんに対して寛容だったのは、すでに経験済みだったからだと思われる。
そうして私は、自分が知らない世界……タイムスリップなどでもなく、異世界にいるのだと、知った。
どうあがいても、私はもとの世界に還れないのだと理解したのは、さらに後のこと。
十五歳でこちらに来て、十八年。
もとの世界で過ごした年月よりも、こちらで生きた年月のほうが長くなってしまった。
おばさんの養い子となって、働きながらこちらのことを学んで。
言葉が通じず不審人物そのものだった私を保護してくれた青年――主に仕え、主の伝手で王子様の子守になったり、養母の後任で公爵家の侍女長になったりと、書き出したら枚挙にいとまがないほど、いろいろあった。
望郷の念が消えることはない。
突然いなくなった私を家族があてもなく探しているかと思うと、いまだ焦燥に胸が押し潰されそうになる。
せめて、無事を伝えられたら。
帰ることはできないけれど、生きて、私なりに幸せに生きていると伝えられたら。
――無理なこととはわかっていても。
◆◆◆
「イルマ? 灯りも点けずにどうした」
衣装箱の奥から荷物を取り出して懐かしく眺めていたら、いつの間にか日が落ちていたらしい。
訝しげな声と同時に、薄暗かった部屋が明るくなる。
寝台に腰掛けた私を見て、主は眉をしかめた。
正しくは、膝の上に置いた物を見て。
この世界では、異質な機械。
古ぼけたポケットベルに、MDウォークマン。
私がこちらに来る少し前に、クリスマスプレゼントとして両親と姉に貰ったものだ。
電池はとうに切れて、ただのガラクタと化している。
見れば故郷を思い出し、かといって捨てらるわけもなく、ずっと仕舞い込んでいた。
「……そんなものを眺めて。また帰りたい病か」
「いつまでも、帰りたいと思う気持ちはなくなりませんわ」
私が向こうのことを想うと、いつからか不機嫌になってしまうようになった主は、膝の上からそれらを取り上げる。
鏡台の脇に無造作に置かれ、ムッと見上げると睨み返された。
「お前は暇にさせるといかんな」
「暇なんてございませんが」
どこを見てそうおっしゃるんだか。
ある程度他の者にまかせているといっても、家のことは私がとりしきっているのだ。
時間の隙はあっても、暇などはない。
「チホが帰れば、落ち込むんじゃないか?」
「……それは、まあ、多少は……」
妹のような娘のような、彼女が居なくなれば寂しいだろう。
だけど千穂さんにとっては、喜ばしいことだ。
帰ることのできるあの子を羨ましく思うけれど、安堵のほうが大きい。
シーツに手をついた主は、寝台を軋ませ身をかがめてきた。
「息子は生意気なのがいるし。次は娘がいいか」
耳元でささやかれた声に滲んだ艶と、不埒に動く手に、私の頬が引きつる。
「……いえ、あの、ええと、そんな無理にはりきったりなさらなくても」
「無理に?」
息のかかる近さで、主が微笑む。
ぞわっと背筋に悪寒が走る。
普段ずっと表情筋をサボらせているくせにこういうときだけ……!
「子が生まれたら、無駄なことを考える暇もなくなるだろう」
なんかそれ十年前くらいにも聞いた! 言葉通りになった!
『早苗さーん! あのねえ、あたしいいこと思いついたー! ……ぇ』
賑やかに扉を開けてやって来た千穂さんが、笑顔を凍りつかせる。
寝台の上、主が私にのし掛かっている光景が、彼女の目にどう写ったのかは想像に固くない。
主の肩越しに、少女の顔色が赤くなって青くなる様が見てとれた。
『し、職権乱用っ……? パワハラ!』
「……ああ、駄目だよチホ。父上の邪魔したら数年単位で根に持たれるよ」
千穂さんの後ろからヒョイと顔を覗かせた長男が、部屋の状況を認めて呆れた一瞥をこちらに投げる。
わあわあと騒ぐ千穂さんを宥めつつ、言いくるめて去っていった息子の将来が危ぶまれてならない。
まだ十歳だというのにあの老成ぶり、誰に似た。
間違いなく、私の上で息子の気遣いに満足げに頷いているこの人だろうけど。
「……旦那様。夕食の采配があるんですが」
無駄だろうけれど、一応お願いしてみる。
案の定、フン、と鼻息ひとつで一蹴された。
「たまには夫をかまえ」
毎日かまっているじゃないですか! という苦情は無かったことにされて。
主の腕の中、ささやかな復讐方法を練る私だった。
いつか、この長い旅が終わるとき、私がどちらの世界に還るのか、わからないけれど。
きっとこの腕を離すことは、できないだろう。
fin.