#10
あの日、泣き腫らした顔で、彼女は笑って言った。
――ちょっと旅行に来たと、思うことにします。
帰還が叶うその日まで、彼女の日々を楽しいことでいっぱいにしようと思った。
仕上げに淡い紅色を唇に載せると、鏡の中、キョトンと少女が瞬きした。
おおお、と可憐な少女に似つかわしくない雄々しい感嘆の声を発して、チホさんは鏡に顔を寄せる。
娘時代に数回しか袖を通していなかったドレスが出てきたので、たまにはいいでしょうとチホさんをメイド総出で着飾ったのだ。
最近あまりこうした機会がなかったので、つい力が入ってしまった。
朝からお風呂にマッサージ、お化粧道具も用意して、やり遂げたため息を吐く。
出来上がりを確かめ、チホさんはキラキラとした瞳をこちらに向けた。
お嬢様みたいだ、と喜ぶ少女に微笑んだ。夜会でもあれば、仕立屋を呼んで、ドレスを作って――と夢想していると、チホさんは残念なことに『それは無理です!』と首を激しく振って拒否した。
緊張するのは最初だけで、あとは慣れだから、楽しいのに。鞘当てとか取り合いとか。
ねぇ、とメイドたちに同意を求めると、みんな頷いたので機会を見計らって連れていってあげよこうっと。
着なくなったフワフワのドレスや、それを身につけてはにかむチホさんを見ていると、娘も欲しかったかもと少し思う。
うっかり口にして主の耳に入ると大変なので、ここだけの話だが。
『いつも可愛らしいのに、今日はとびきりですね!』
『ええー、もう、イストくんは口がうまいなー』
キャッキャとはしゃぐ子らの声に顔を向けると、目を離した隙に生意気な息子がちゃっかりとチホさんのエスコート役をつとめていた。
『お庭でお茶会なんてはじめてっ』
『はじめてをご一緒できて、うれしいです』
息子はこれだし。
調子のよいイストの声に、私は眉根を寄せた。
あの子ちょっと最近図に乗りすぎ。あとで“父上”にガツンとやってもらおう。
回廊から庭へ出て、四阿へ向かう。
今か今かと姫君の登場を待っていた王子たちが、チホさんを感嘆で迎える。
チホさんは照れつつも、くるくる回ってドレス姿をご披露していた。なんと無邪気で可愛らしい。
……お馬鹿さんたちがひきとめ作戦に入る前に、早く帰してあげなくちゃ。
彼女はまだ彼らを年上の友人としか見ていないけれど、時間がたったらどう変化するかわからないし。
なかなかにやっかいなのだ。
寄る辺なき身で親身にされると、依存がなし崩しに恋になるとも限らない。経験済みです、はい。
ポットのお茶がなくなったら、のんびりしている元凶たちの背中を蹴っ飛ばしてやりましょう。
『早苗さーん!』
少し離れたところで立ち止まっていた私を、手を振って少女が呼ぶ。
軽く振り返して、四阿の影に入った。
とたん、お行儀よく座り直す青年たち。
いやね、もう物差し持って追いかけ回したりしないのに。
「……サナエとはお前の名だったか?」
チホさんの呼び掛けが耳にひっかかったのだろう、王子がこちらを見る。
昔自己紹介しましたよ。七、八歳じゃ覚えていらっしゃらないか。
「ええ、普段は使いませんけれど」
たまに主が呼ぶくらい。
「チホ殿の真名と響きが似ていますね……」
「それはまあそうですわね」
首を傾げている青年たちに給仕しながら、様々な甘味を前にはしゃぐチホさんを眺める。
なるべくなら、彼女が還るときは、楽しい想いだけ持っていってほしい。
自分の望みを代わりに、なんてよくないことだけれど、それでも。
昔の私に似た少女には、違う結末が訪れるよう、願うのだ――。
<了>