#1
居住する三の宮が騒がしいことに気づいたのは、私が主のために昼食の手配をしているときのことだった。
何やら主はいつになく慌ただしい声音で私の名前を連呼している。
料理人に一言置いて、呼び声に従った。
「イルマ! まだか……!」
「旦那様? 何事ですか……」
少女の頃のようにところ構わず走るわけにもいかず、しかしなるべくの早足で宮の表口に駆けつけた私は、目にした主の姿に唖然としてしまう。
主、スルニエル公爵ダーリエク様は、王宮の一画に居住を許された重臣のお一人で、いつも涼やかな立ち振舞いと冬を連想させる白銀の髪と薄蒼のまなざしに『氷水公』などという失笑ものの二つ名を戴いている人物だ。
彼の表情を動かせるのは国でも数人、それさえも慣れた者なら気づくといった僅かな変化で、このように誰が見ても不機嫌だとわかることはめずらしい。
今朝、隙なく整えたはずの衣服が局地的な台風が過ぎたあとのように乱れた様子に、私は思わず声を上げた。
「あらまあ」
「あらまあじゃない。早くこれを何とかしろ」
むっつりと不機嫌な主の頬には見事な引っ掻き傷がこしらえられている。
『これ』と言われたモノが、主の肩の上で暴れていた。
近衛兵のマントにくるまれ、俵担ぎされたモノからはニョッキリと足が生え、主を蹴ろうとジタバタしている。膝までのニーソックスとスニーカーから察するに、まだ幼い少女。
「あらあらまあまあ」
「イルマ」
呑気な感嘆を発した私は、主の警告の声に了解の頷きを返した。
長身の主の肩のそれ――少女に向かって、『大丈夫よ』とささやく。
私の声を耳にした彼女は、ぴたりと暴れるのをやめ、身を隠すように被っていたマントのすき間から顔を覗かせた。
真っ赤に充血した黒茶の瞳が私を捕らえて、また潤んだ。
主の腕から離されて、しがみついてきた小さな身体を抱きとめる。
本人も何を言っているかわからないだろう泣きじゃくりながらの支離滅裂な言葉に、逐一相づちを返して、周りの人々に目配せした。
意を察した使用人たちがその場を去り、疲れた風に深いため息を吐き出した主が、ばさばさになった髪を掻き上げる。
あらわになった額にも引っ掻き傷を見つけて、まるで痴話喧嘩のあとのようだと思いながら、微笑んだ。
私の笑みに気づいた主が身動ぐ。
あらまあ、どうしてそんなイタズラが見つかった子供のような素振りをなさるのかしら。
「とりあえず、――説明していただけますかしら? 一体全体なにがどうしてどういうわけでこの娘がここにいるのか」
朗らかに発したはずの声が、低く響いてしまったのは、ひと気がなかったせいだと思う。