第四章 『アイロンと海』
「先輩ぃ。辛いですぅ」
二ノ宮がもこもことした人形の中で悲鳴を上げていた。
「エクストリームアイロン…いえー」
「いえー!」
そう、熱い。僕も溶けそうな意識をなんとか繋げながら二ノ宮を励ます。が、その励ましにもいつもの覇気がなかった。
もうすぐ、七月を迎えようとしていた。
アイロンと出会ってから駆け抜けるように春を終え、僕とアイロン部は熱い夏を迎えようとしていた。
一学期の期末テストもなんのその、記憶の隅に押し込むと、まるでそんな事など無かった事にして僕らはアイロン部の更なる発展の為の活動をしていた。
電気屋の家電販売コーナーで僕らはアルバイトを兼ねてエクストリームアイロンをしていた。
象を模したイメージキャラクターのぬいぐるみを着てアイロンをかけていた。
人ごみのなかで注目を浴びアイロンをかける事は、酷い羞恥の中という極限の状況でのアイロンかけという事で、エクストリームアイロンの一つの形態として成していた。
逆に言えば普通じゃない場所でアイロンをかければそれがエクストリームアイロンになる。
まあ、いわゆる、店頭デモでかけるアイロンは初歩的なエクストリームアイロンである。しかも、部費も稼げて丁度いい。
アイロン部は正式な部では無いので当然部費等無い。だが、アイロン部の総意として絶対に夏合宿はしたい。いや、しなければならないという事で、皆でその費用を稼ぐ事にしたのだ。
僕はふらふらで倒れそうな二ノ宮の背中を軽く叩くと、新たに部の装備として購入した無線機のマイクで励ます。
「二ノ宮、頑張れ。今日の汗は明日の糧になるんだ。一緒に夏合宿行くぞ」
「……はい!一緒に、合宿了解ですっ!」
何故だろう。二ノ宮が急に元気を取り戻した。
無線機マイクから外部マイクに切り替え、くるくるとまわりながらコマーシャルを再開する。
「はーい!これが、ナソナルの新製品!強力スチームミストのNI232!ニクロムメッキの新ミラーマジで今までの二倍のすべりに!コードレスで使い方簡単!綺麗なクリスタルグリーンと、可愛いジュエルピンクの二つの色が選べるよぉ!」
演技がかった声で通りすがる客を集める。
そして、アイロン台にシャツを載せ、その上で軽快に滑らせる。
「ほら、シャツの上でアイロンが踊りながら皺をとっていきますよぉ!」
ぬいぐるみを着た二ノ宮の手の中でアイロンは踊り、荒れ地のようなシャツの皺を純白の雪原のようにきらめきを伴う皺一つ無い生地へと変える。
僕は通りすがりの子供に蹴飛ばされながら、二ノ宮の手腕に惚れ惚れとする。
二ノ宮はアルバイトが始まる前に店の人にこう言っていた。
「このアイロン台でスチームアイロンの宣伝をするなんて間違ってます。これじゃあスチームがアイロン台を抜けずシャツに戻り皺ができます。私のアイロン台を使わせてください」
そう言ってアイロン台を取り替えると店の人より上手にアイロンをかけてみせた。
アイロンを丁寧にかけるという点においては二ノ宮遥はうちの部員の中では群を抜いていた。
家が本職のクリーニング屋であり、その手伝いもしているみかだってアイロンを持たせれば目を見張るものがあるが、二ノ宮はその上を言っていた。
つまり、本職のクリーニング屋より上手にアイロンをかけているのだ。
右腕、左腕、右ヨーク、左ヨーク……ワイシャツの袖のポケットも流れるようにアイロンが滑っていく。
僕や伊藤っちゃんが半ば力任せにアイロンをかける中、やはり、女の子。シャツというスケートリンクの上を走るフィギアスケートのようにアイロンが舞う。
程なくシャツには魔法がかけられ、皺がなくなると、綺麗に畳まれた。
その惚れ惚れするようなシャツはえてしてアイロンの性能ではなく、それを扱う者の日々の研鑽に裏打ちされた技術、そして、アイロンより熱い情熱が織り成す芸術である。
だが、二ノ宮の魔法を、魔法使い二ノ宮が手にした魔法のアイロンによるものと誤信したお客様は、その魔法のアイロンを手に入れようと財布を次々に開く。
あっという間にデモ台の上にあったアイロンの箱は飛ぶように売れてゆき、程なくして、僕らは交代に来た水下と伊東っちゃんに後を任せて倉庫に引っ込んだ。
「ふぁー、疲れましたね」
「ぬいぐるみって暑すぎるんだよな」
僕と二ノ宮は段ボール箱が山積みにされた倉庫の中に設けた仮設休憩所のパイプ椅子に座り、一息つく。
ぬいぐるみを脱ぐと僕は汗でシャツがグッショリと濡れているのに気がついた。
「先輩、タオルです!」
「ん、ありがとう」
二ノ宮が冷えた水を含んだタオルを手渡してくる。二ノ宮は凄い気の利く子でこういう心配りも忘れない。
また、手渡してくれたときの笑顔もどきっとする程可愛い笑顔で、無防備に近づいてくるもんだからどぎまぎする。
バスケ部に居た時とは違い、凄い活発になった。それは二ノ宮に以前と違う魅力を与えていた。
「先輩、何か飲みます?」
「いや、いいよ。それより二ノ宮凄いな。僕や伊東っちゃんじゃあれだけ綺麗にシャツにアイロンをかけられないよ」
ちなみに、皺取りランキングをうちの部でつけるとするならば、二ノ宮の次に来るのは意外や意外、水下で、その次にみか、伊東っちゃん、残念ながら部長の僕は一番皺取りが下手である。
褒められて二ノ宮が嬉しそうに笑う。
「体力はやっぱり負けちゃうから他で頑張らないと悔しいですからね」
僕と二ノ宮は少し、その場で息をつき休む事にした。
ふと、二ノ宮が僕に聞いてくる。
「先輩、金井先輩の事、どう思います?」
僕はみかの話を思い出し、少し言葉を選ぶ事にした。
「うーんと、まあ、腐れ縁なのかなあ。ちっちゃい頃から一緒だし」
「でも仲、いいですよねえ」
「まあ、そう見えても仕方ないよ」
僕は当たり障り無いように答える。
二ノ宮がいたずらめいた笑みを浮かべて僕を見る。
「じゃ、私はどうですか?」
「え?……うーん」
流石に少し考える。
確かに二ノ宮は可愛いし、彼女にしたいと目論む二年生、三年生も多い。
現に二ノ宮目的で入部してきた学生も何人かは居たがとてつもなくハードな練習と、二ノ宮以下の体力であることで男としての自尊心を砕かれ次の日には来なくなる。
そんな子にまあ、曲がりなりにも好意を寄せられているというのはある意味、凄い僕は幸せ者なのだろう。
そういえば激しい練習と言えば伊東っちゃんはよく辞めないよなあとも思う。何か理由があるのだろうか、今度機会があれば聞いてみよう。
僕の思考が関係ないところに入り込むと、二ノ宮が痺れを切らして身を乗り出してきた。
「先輩?」
ふと、汗でシャツが張り付き女の子の生々しいラインが浮き出ている二ノ宮を目の前に来ており、女の子特有の清潔で、だけど、扇情的な匂いを嗅いで心臓が跳ね上がる。
「ああ、あ、可愛いんじゃないかな?」
「……本当にそう思ってます?」
二ノ宮は僕の返答に至るまでの長かった沈黙で、可愛いという表現を嘘と取ったのか顔を膨らまして身を引いた。だが、その仕草もまた、可愛い。
「最近筋肉ついてきたからなあ。やっぱり筋肉質の女の子って可愛くないかなあ」
「贅肉がついてるよりいいじゃないか。女の人の筋肉って逆に体が締まって見えるから僕は好きだけどなあ」
「本当ですか!」
二ノ宮はぱっと顔を輝かせる。
「大丈夫だって。二ノ宮は自信もって大丈夫だと思うよ」
「先輩にそう言われると自信持っちゃうなぁ」
二ノ宮はそんな事を言って僕の隣に椅子を引き寄せる。
バスケ部の時と違って二ノ宮は積極的になった。正直困るくらいに。
「あ、そろそろ交代の時間だ。行かなきゃ」
「えー。もうちょっと先輩と二人で居たかったのに」
「また、さっきのように頼むよ。今回のエクストリームアイロンじゃ二ノ宮だけが頼りだ」
「エクストリームりょーかいです……今度、先輩のシャツもかけたげますか?」
「機会があれば頼むよ」
「期待してますから」
気恥ずかしさを覚えるような事を言いながら二ノ宮はぬいぐるみを被る。
いつか、二ノ宮のアイロンをかけた皺の無いシャツを着る事があるのだろうか。
逆に、二ノ宮が僕以外の人と付き合って皺の無いシャツを他の男に手渡す姿を想像すると、ちょっと悔しくも感じながら僕はぬいぐるみを被った。
まずは夏合宿だ。あのエクストリームアイロンは絶対に夏のうちにやらなければならない。
◆◇◆◇◆◇
「エクストリィィィム!アイロンッ!イヤァァァァ!」
波のしじまを、迸る咆哮が打ち消す。
サーフボードの上に固定されたアイロン台に乗った水浸しのシャツの上、水下はアイロンを押し当てて叫んでいた。
水下は去年の夏からサーフィンをはじめており、僕らの誰よりも早く波を捕らえ、波の上でアイロンをかけていた。
水下の横では、これでもう六度目になるが、伊藤っちゃんがサーフボードの上から投げ出され、海中に沈む。
「遠藤ぉ!」
「水下ぁ!」
僕は慣れない操作で水下のサーフボードの隣に位置づけると、アイロンを水下に伸ばす。
水下はシャツを乗せたアイロン台を僕の方に突き出し、僕のアイロンがシャツの上に押し当てられる。
「アイロン!イヤァァァァ!」
「イヤァァァァ!」
海岸では水着姿の二ノ宮がカメラのシャッターを切りながら僕らに手を振っている。
僕はそれに手を振って返そうとして、バランスを崩して海に落ちた。
僕が水面に顔を出すと、水下が僕の方を見て笑っていた。
そう。僕らは海に来ていた。
夏合宿と称し、あの、エクストリームアイロンをするために。
合宿初日、僕らは先生の車に必要な装備資器材を載せ、海に来た。
資器材を宿泊先であるペンションに置くと、初日くらいは海で遊ぼうという事で海に遊びに出た。
そこで水下が
「せっかくだからサーフィンでやらねえか?アイロンを」
と言ったものだから、僕や伊藤っちゃんは二つ返事で頷くとサーフボードをペンションで借りた。
経験のある水下にサーフィンを教わると、僕らは早速それでエクストリームアイロンをやっていた。
一旦、昼を食べるのに陸に上がる。
僕はペンションのシャワー室から出ると、バスタオルで体を拭きながら部屋に戻ろうとする。明日のエクストリームアイロンの為、もう一度プランを見直さないといけない。
その時、たまたま伊藤っちゃんの部屋のドアが開いていたもんだから僕は中を覗いて見た。
さすが、北星学園一の秀才。ここに来てなお、参考書を開き、ノートにシャープペンシルを走らせていた。
「伊藤っちゃん、勉強?」
「あ、部長。お構いなく」
「いや、凄いなあ。やっぱこう普段からの努力が伊藤っちゃんが北星学園で一番という地位を築いているんだろうなあ」
「あはは、流石に一学期は九番に落ちましたけどね」
それは初耳だった。
「ちょっと親の方からも発破かけられてて、少し勉強しとかないと危ないなぁってのが本音です。まあ、一応受験生ですから」
伊藤っちゃんは屈託無く笑う。
「でも、アイロン部だと勉強する時間ってあんまし取れないんじゃないですか?」
ちなみに、僕と水下の期末試験の結果は酷い事になっていた。
「そうですねえ。でも好き好んでやってる訳ですから。自分でやってることのツケくらいは自分で払わないと」
伊藤っちゃんが言うと嫌味なところがまったく無い。勉強はできるがそれを鼻にかけるところがないから、僕は好きだった。
水下と正反対のような性格だが、実は意外に水下と伊藤っちゃんは凄い仲がよかった。
「そういえば、伊藤っちゃんはアイロン部になんで入ろうと思ったん?」
伊藤っちゃんはシャープを止めて考える。
「そうですねえ……ぶっちゃけ、勧誘のチラシ貰ったとき、馬鹿だなーと思ったのがきっかけですね」
「馬鹿とは失礼な。正論過ぎて反論できないのが痛いけど」
あのチラシは今でも金井クリーニングの壁に貼られており、僕らが活動すればそれに伴い最近はそのバリエーションも増えた。
伊藤っちゃんは苦笑する。
「でも、楽しそうだったと思ったんですよ。だってそうでしょう?あんな命懸けのありえない場所でアイロンをかけるんですよ?一度、自分もそんな馬鹿をやってみたいと思ったのが動機ですかね?」
「そうですかー」
僕は頷いた。その時、丁度水下が僕らに気づいて入ってきた。
「伊藤っちゃん?何勉強なんてしてるの?海だよ海。参考書間違ってるよ君?」
「いやいや、水っちゃんコレ僕の本業」
「いやいやいや、認めないよ。さ、水着娘ナンパしに行くよ水着娘。今日くらいは楽しもう」
伊藤っちゃんを無理矢理引っ張っていきそうな水下に僕は苦笑しながら言う。
「伊藤っちゃんは僕らと違って受験生だから」
「あーなら尚更息抜きしなきゃ。遠藤も来る?ナンパ」
「僕は明日の調整を先生とすっから後で行くよ」
「そか!金井と二ノ宮が怖いもんな!」
水下は僕の肩をバンバンと叩くと伊藤っちゃんを引きずっていく。
僕はその後姿を見ながら部屋に戻った。
僕は鞄の中から計画書を取り出すと先生の部屋を尋ねた。
先生は部屋の中で、学校の残務をしていた。
先生は僕を認めると机の上のファイルを片付ける。
「先生、明日のプランなんですが……」
「おお、それで俺も話があった」
僕らはそこでしばらくプランについて話を煮詰める。
だが、もともと夏休み以前から立てたプランなのであまり変更するところも無くその話も終わった。
「しかし、遠藤も一気に成長したな」
嶋本先生はタバコを口に咥えると火をつけながらそう言った。
「俺と初めて会った時の駄目人間が今じゃこうしてアイロン部として部長してんだもんな」
「先生がエクストリームアイロンなんて馬鹿なスポーツを僕に教えるからっスよ」
「俺もまさかお前がここまでのめりこむとは思わなかった」
「まさか、自分もここまでエクストリームアイロンにのめりこむと思わなかったスよ」
嶋本先生は苦笑した。
「アイロン楽しいか?」
「生きているって感じがしますね」
僕は照れずに答えた。
「どうしょうも無い危険な場所やありえない場所に居てアイロンかけてると、何でこんな事してんだろうっていう馬鹿さ加減と、こんな馬鹿してるの自分達くらいなもんだろうと考えると楽しいですね」
「馬鹿を一緒にやってくれる仲間もできたしな?」
僕と嶋本先生は目を合わせて苦笑する。
僕は嶋本先生に前から聞いてみたい事があった。
「嶋本先生はどうして僕にエクストリームアイロンを教えてくれたんですか?」
先生は難しい顔をして少し考えた後に答えた。
「昔の俺に、似ていたからな?」
「昔の嶋本先生にですか?」
「俺、昔レスキューやってたって話、しただろう?それ自体はとても誇りのある仕事だったんだけど親が先立って、自立してない兄弟の面倒を見るのに里に帰らなきゃなんなくなって辞める事になったんだ」
先生は苦笑していた。
「大学に居た頃に教職免許だけは取っていたから教壇に立って兄弟食わして、その兄弟がなんとかなった頃には、もう、やる気がなくなってたんだよな」
「レスキューを辞めたからですか?」
「お前もわかるだろうけど、苦楽を共にした仲間は下手な家族より信頼できる生涯の家族だ。それを全部捨ててきた後悔もあったんだろう。先立った両親を恨むのもどうかとは思うが、まあ、色々とごちゃごちゃした感情があったのは事実だ」
嶋本先生はタバコを灰皿に押し付けると冷蔵庫からビールを取り出した。
僕にも一本渡して、蓋を開ける。
「嶋本先生」
「未成年だろうと構うものか。お前はそんじょそこらのレスキュー隊員よりも使える。その手の職業なら食ってける。だから大人だ」
「んな無茶苦茶な」
僕に構わず、先生はビールを煽ると話を続けた。
「それでよ。兄弟が自立した後、一旦、教壇を退いてだな。イギリスに留学したんだよ」
「イギリスですか」
「ああ。そこでよ。英語を勉強してたらよ。そっちでできた俺の友達が、一彦はガッツがないとか言ってきて俺にアイロンとアイロン台を持たせやがった」
そう言って苦笑する。
「で、お前と一緒で崖の上から突き落とされた。それが俺とエクストリームアイロンの出会いだな」
「そうだったんですか……」
「だから俺もお前をみた瞬間、アイロンとアイロン台を持たせて崖から突き落としてやろうと思ったんだよ!」
嶋本先生が僕の首を太い腕で挟み込み、頭にビールの缶をぐりぐりと押し付ける。
そこにやってきたのはみかと二ノ宮だった。
二人とも妙に気合の入った水着を着ている。
「あー!真一はっけーん♪」
と申し立てるは扇情的な赤のビキニの金井みか嬢。
「せんぱーい!海行くよ!海!」
と申し立てるは清楚な白のハイレグの二ノ宮遙嬢。
二人は僕の腕を引っ張ると嶋本先生から引き離した。
「先生真一借りますねー!」
「せっかく海に来たんだからエクストリームアイロン以外でも遊びましょー♪」
「おう、気をつけろよ」
先生が苦笑する。
僕は竜巻のような勢いの二人に引きずられるようにして海にまた行く事になった。
◆◇◆◇◆◇
昼は海で散々遊びつくし、夜は砂浜でバーベキューと洒落込んだ。
先生は昼間の酒が抜けてないのか皆にビールを振る舞い、二ノ宮に酒を買ってこさせる始末である。
皆、程よくアルコールが回ると、途端に馬鹿になる。アルコールが人生を駄目にするとの格言があるが、それは、飲んだその場で人間が駄目になるからだろう。
「私、二ノ宮遙わぁ!遠藤真一に一言物申す!」
「私、金井みかわぁ!遠藤真一に一言物申す!」
「私、伊藤新吉わぁ!遠藤真一に一言物申す!」
「私、水下学わぁ!遠藤真一に一言物申す!」
この後、ミーティングをしようと思ってた僕はアルコールをセーブしていた事からまだそんなに酔っておらず、彼らの格好の肴となっていた。
「部長のいいとこ見てみたいぃぃ!」
二ノ宮が叫び、それにみかが続く。
「男遠藤頑張ります!」
次いで伊藤っちゃんと水下が続く。
「エクストリィィィィィム!」
「イッキでイェェェェェ!」
皆に羽交い絞めにされ、無理矢理ビールを口の中に流し込まれる。
みんなとこうやって馬鹿な事ができるのもあとどれくらいなのだろうか。
「先輩愛してまーす!」
「部長愛してまーす!」
ごろごろに絡まりあい、もみくちゃにされながら僕の意識も酔いの中に落ちてゆく。
まどろんでいく意識の中、僕はふと、この連中といつまでもこうした馬鹿をしていたいと思い、それが叶わぬ事と思い少しさびしくなった。
遠くで先生が僕らを見て苦笑している。
いつかは僕らも大人になってこの時の事は、こんな馬鹿をしたなと笑う、思い出と変わるのだろう。
ただ、でも、今はこの瞬間を大事にしようと思った。
「水下ぁ!俺もお前を愛してるぞー!」
僕は飲んだ勢いで水下に口づけし、ビールを水下の口の中に流し込む。
「先輩私もぉ!」
「遙は私がぁ!」
止む事の無い喧騒の中。
高校二年生の夏、アイロンと出会っていた僕は誰よりも充実した青春を送っていたに違いない。
◆◇◆◇◆◇
僕が目覚めたのは自分の部屋のベッドの上だった。
頭が割れるように痛い。時計の針を見ると十時を過ぎたあたりを指していた。
「お、気がついた」
ベッドの横にはみかが座っており、僕を笑っていた。
「あれ?みんなは?」
「先生が運んでったよ?今頃自分の部屋で寝てるんじゃないかな?」
「お前は大丈夫なのか?」
「私は大丈夫なんだな。だから、真一に悪戯しに来た」
僕はのそのそと起き上がる。
「あー、まだ、頭がぐらぐらする」
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ、ちっくら外でも散歩するか?」
「うん。そのツモリで来た」
僕はテーブルの上にあったパーカーをシャツの上から羽織るとみかと一緒に夜の浜辺を歩く事にした。
夜の浜辺は昼の喧騒がまるで幻だったかのような錯覚を覚えるほど、静かだった。
闇色のキャンパスに散りばめられた宝石箱の中身のような星空が投げかけるやわらかい光の中、潮騒の音が静かに響く。
みかは僕の後ろをゆっくりとついてくる。
「なんか、楽しいね」
「そうだな」
「こんな馬鹿やれるの今のうちだけなんだろうねえ」
「来年になったら僕らも伊藤っちゃんみたく受験だからねえ。こんな事もできなくなるよ」
「伊藤っちゃん、凄いよねえ。受験生なのにアイロン部の訓練してるんだもん」
「そうだよな。成績も下がってるみたいだし、大丈夫なのかなぁ」
「でも、うちの学校推薦枠も強いから伊藤っちゃんは推薦で大学行くんじゃないかな?前にそう言ってたし」
「そうなん?」
知らなかった。
「真一は大学どうするの?」
「一応、親には進学するように言われてるからね。考えてはいるよ」
「まだどこに行くかは決まってないんだ?」
「まあ、そうなるね」
僕はばりばりと頭を掻く。
今が面白いから将来の事を全然考えていない。自分で言うのもなんだが、まずい兆候だ。
「ところでみかは大学どこに行くか決めたの?」
「ううん。まだ」
「そっか、みかは僕と違って頭はいいからどこにでも行けるだろ?」
「それが、最近アイロン部のせいで勉強してないから成績下がりっぱなしなのよ。どうしてくれんのさ、アイロン部部長」
「知らないよ。そんなの自分の責任じゃないか」
僕らは苦笑する。
ふと、みかが僕の側に寄ってきた。
「ねえ、真一、遙の事、どう思う?」
「積極的だよな?可愛いし」
「そっか……じゃあ、私は?」
「珍しいな。お前がそんな事僕に聞くなんて」
「……そうかな?」
「今まで聞かれた事ないから考えた事ないなぁ」
「……そっか」
みかは少し寂しそうにそう、呟いた。
みかは僕のパーカーの袖を引っ張ると砂浜に座ろうと小さく言った。
僕はそれに促されるまま、座った。
みかは星の海と交じり合った水平線を眺めながらポツリと呟いた。
「綺麗だね。なんだか、ドラマのワンシーンみたい」
みかは目を細める。
「なんだか、隣に居る真一が格好よく見えちゃうし」
「もとから格好いいだろうに」
「アイロンかけてる時は見てて面白いけどね」
「言ったな」
僕はみかを軽く小突く。
みかは小さく舌を出して笑った。
僕は星の光に揺れては返す海を見ながら、その先に自分の行く道を見つけれず少し不安になった。
みかが僕の方を見つめて、形のいい唇を開いた。
「ねえ、真一……」
僕は、叫んでいた。
「ワアアアアアアアアアアアアアアア!」
みかが驚いて目をぱちくりさせている。
「何か、叫びたくなった」
みかは少し、残念そうな苦笑を浮かべたが、立ち上がって海に向かって叫んだ。
「真一の馬鹿やろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
僕も立ち上がり叫ぶ。
「みかのあんぽんたぁぁぁぁぁぁぁん!」
「アイロン部さいこぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
「エクストリィムアイロンイェェェェェェェェ!」
「イェェェェェェェェェェェェェェ!」
僕らは見つめ合うと心の底から笑いあった。
少し気恥ずかしい気がしたが、それでも今はこんな時間を大切にしたかった。
僕らはペンションに戻る事にした。
みかがそっと僕の手を握る。
僕はみかのその手を握り返す。
やわらかく、気持ちのいい時間が過ぎていく。
ただ、そんな時間は長くは続かなかった。
◆◇◆◇◆◇
ペンションに戻ると、水下が知らない男女二人に怒鳴っていた。
ペンションのロビーで二人の男女と水下、伊藤っちゃんが対峙して何か揉めているようだった。
「はぁ!だからあんたら何言ってるの?」
四十台半ばだろうか、品のよさを感じさせる夫婦だろう。その夫婦が顔に少し怒りめいた色を浮かべ、完全に顔を怒らせている水下を睨んでいた。
水下の後ろには伊藤っちゃんが複雑な顔をして立っている。
僕とみかは状況がわからずぽかんとしていると、水下が口早にまくしたてた。
「伊藤っちゃんの親だかなんだか知らないけど、何?部活やめて戻って来いってあんた一体何様なのさ?伊藤っちゃんは好きでここに居るんじゃねえか。別にここの旅費だってあんたの金じゃねえんだから何も言われる筋合いねえぞ」
「水下君、いいよ。これは僕の問題だ」
「だけどよ!」
「ありがとう。でも、いいんだ」
伊藤っちゃんが水下の肩を掴み、静止した。
その夫婦は伊藤っちゃんが水下を止めると堰を切ったようにまくし立てはじめる。
「新吉。お前は今こんなところで遊んでる場合じゃないだろう?今、自分がどんな時期にあるか考えろ。大学に行くんだから大学に行った先を見据えて勉強しなきゃならないだろう」
「そうよ。新吉。あなた聞けばとても危険な遊びをしてるみたいじゃない。怪我でもしたらどうするの?将来はうちの病院を継いで貰うんだからしっかりしてもらわないと。今からでも遅くないから夏期講習に行きなさい」
どうやら二人は伊藤っちゃんの両親みたいだ。
伊藤っちゃんは僕とみかを見つけると少し気まずそうに頬を掻いた。
「見苦しいところを見られましたね」
「どしたの?」
「うちの両親が今頃になって予備校の夏期講習に行けと言うんですよ。僕は前に断ったんですけどね」
伊藤っちゃんがそう言うと、伊藤っちゃんの父親が怒鳴る。
「私はそれを認めてない!」
伊藤っちゃんは苦笑する。
「父上。僕はずっとあなた達の言うとおりにしてきました。あなた方の望む結果を出すため、勉強し、大学も推薦で入学をできるだけの物を得ました。無論、大学に行った後もあなた方の望むように医者になるための勉強をするツモリです」
伊藤っちゃんの母親が眉を吊り上げて怒鳴る。
「なら、なんで夏期講習に行かないの?言ってる事が無茶苦茶じゃない」
「でも、今はアイロン部としての活動を認めて下さい」
伊藤っちゃんはきっぱりと言った。
しかし、伊藤っちゃんの父親が黙っていなかった。
「そんなに遊びたければ家を出て行け!お前のような親不孝者は帰ってこなくていい!それでいいんだな!」
「あなた。新吉にそこまで辛く当たらなくても……」
流石にこれには母親の方が父親を諌めていた。だが、伊藤っちゃんは涼しい顔で言った。
「いいですよ。父上。僕もしばらくは戻りません。それでいいですか?」
「新吉!」
母親が伊藤っちゃんを諌めるが、父親の方が母親の腕を引っ張ってペンションを出て行く。
「行くぞ」
「あなた……」
立ち去っていく二人の後姿を眺めながら伊藤っちゃんはため息をついていた。
そして、両親が居なくなると僕らに対して苦笑した。
「すみませんね。少々過保護なところのある親ですから」
「伊藤っちゃんはこれでいいのかよ?」
水下が心配そうに伊藤っちゃんに尋ねる。
「まあ、仕方ないですよ。アイロン部でいくら頑張ったところであの人達が僕に求めているものとは全然違うんですからね」
「でもよぉ」
「僕はね、今までずっとあの人達の言いなりになってきた。勉強だってずっと一番であり続けたし、望みの大学への進学も決めた。だから、ここに来て僕は自分でやりたい物をみつけようと思ったんですよ」
伊藤っちゃんはロビーにある椅子に僕らを座るよう指示し、また、自分も腰掛ける。ぽつりぽつり、と語り出す伊藤っちゃんの顔には何か吹っ切れたような爽やかさがあった。
「はじめは親に対するささやかな反抗のツモリだったんですよ。辛い訓練も親への面当てと考えれば全然苦にはなりませんでした。ところが、やってるうちに段々面白くなってきましてね。みんなと馬鹿やってるのが凄い楽しくて仕方が無い」
だが、水下はあくまで伊藤っちゃんを心配する。
「でも家を勘当されて大丈夫なのか?」
「そういえば今まで一度も自分の親に対してわがままってのを通した事無かったですね……こういうのも結構いいもんですね」
伊藤っちゃんはまるで人事のように笑う。
水下が頭を抑え、ため息をつくと呟く。
「ったく、伊藤っちゃんも無茶しやがんな。合宿終わったらどうすんのよ?」
「まあ、バイトで稼ぎながらサウナでもはしごしますよ」
「……そんなんだったらウチに来な?うちはオフクロに捨てられたダメ親父しかいないからどうにでもなるし」
「いいんですか?」
「放っとけるかよ」
水下が照れくさそうにそっぽを向く。
こう見えて水下は仲間思いのいい奴だったりする。フォースレスキューを抱えたランニングで二ノ宮や伊藤っちゃんがドロップアウトしそうな時、真っ先にフォースレスキューを代わりに持ってやるのが水下だった。
水下が言わなければ僕が伊藤っちゃんを引き受けると言おうとしたが、大丈夫のようだ。
こういうとき本当に思う。
中途半端な友情より、一緒に苦渋を舐めた者同士の連帯は、何よりも強い。
◆◇◆◇◆◇
「これから、今回のエクストリームアイロンのプランについて説明する」
次の日の朝、二日酔いで頭痛を訴える二ノ宮や嶋本先生を無理矢理僕の部屋に連れてくると、みか、水下、伊藤っちゃんを交えて今回のエクストリームアイロンのプランについて説明する事とした。
「今回のエクストリームアイロンは海中エクストリームアイロンだ」
「海中って……水の中?」
「そうだ」
みかが不思議そうに僕を見つめる。
「でも、海の中だとアイロンに熱がこもらないんじゃない?」
「うん。僕もその点を調べて回ったんだが、その場合、アイロンで力一杯プレスする事によってシャツの皺は伸びるんだ。自宅の風呂場で実施して確かめたから間違いない」
「間違いなく、もう一度洗濯が必要だね」
「問題はシャツの皺ではない。海中でアイロンをかけるという事だ」
僕はみかの突っ込みを軽く流すと、自宅から持ってきたホワイトボードに計画を書いた。
「今回はレンタルで借りたボートに装備を積み込み、エントリーポイントまで行く」
僕がこの付近の海岸図を描き、エントリーポイントをバツで示す。エントリーポイントとは海中にダイブする地点の事を言う。
「今回は水深二十五メートルのポイントで実施する。本来なら公式記録に挑戦するためにも四十メートル以下でチャレンジしたいところだが、僕らには十分な訓練を積めるだけの時間が無かった。正直、二十五メートルでも危険なチャレンジである事には変わりない」
僕はバツの横に二十五と書く。
「今回の活動域は二十五メートルでの活動となるから、減圧停止を要しない限界潜水時間は二十五分となる。今回は限界時間を使って実施する。それ以上の活動となった場合は水深五メートルの地点で減圧停止時間を五分設ける事とする」
「なら、潜行、浮上にかかる時間も勘案すると、約十八分の活動ですね」
「減圧停止はしないが、安全停止は一応しよう。安全停止時間を含めると十五分弱と考えた方がいい」
伊藤っちゃんが自分のダイブテーブルの中にスケジュールを鉛筆で書き込む。
「先輩、反復潜水は実施するんですか?」
「潜行から三時間の休憩後反復潜水を実施する。その時はそうだな……同じく二五メートル地点において二十分の活動にしよう」
「了解」
みんな自分のダイブテーブルにスケジュールを書き込む。
「アイロンとアイロン台は各自で把持していく。カメラはバディで一台持って行けば交互に撮影できる。問題は……」
「誰と誰がバディを組むかだろ?」
嶋本先生が腕組みして考える。バディとはダイビング中におけるペアの事で、海中でトラブルがあった場合、このペアに助けてもらったりする。
「俺がダイブマスターだから俺が一番経験の少ない奴と組むとして……金井を除いて俺、遠藤、伊藤に水下、二ノ宮でバディを組むと一人余る。誰か一人にボートで残ってて貰わなきゃならない」
それが一番酷だった。みんなこの夏合宿恩このエクストリームアイロンのためにアルバイトし、過酷な訓練に耐えてきたのだ。
それをボートで待ってろなんて酷くて僕はとても言い出せなかった。
僕はこの時まで、反復潜水時に誰かと代わろうと考えていた。
「それなら私が加わればいいんじゃないですか?」
その時、みかが手をあげた。
「馬鹿。水中は危ないんだぞ?水圧による身体への影響にしたって、正確な知識が無いと危ないし、スキューバの装備だって正確に扱えないといざというとき、誰も自分を助けてくれないぞ?」
「知ってるわよそれくらい。一応、ナウイのオープンウォーターの資格はあるんだから」
みかは胸を張って答える。
皆が驚く。ナウイとは、スキューバダイビングの資格認定機関の一つで全世界的に認められている機関である。
オープンウォーターとは一番最初の段階の資格であるが、基本的な装備の扱いやプールでの講習、海洋講習を経なければ獲得できないものである。ちなみに嶋本先生はナウイのダイブマスターの資格を持っている。
「いつの間に取ったんだ?」
「あんた達が夏合宿って言ってるから次はダイビングだなーって思って、こっそり資格取りに行ったの。一度、エクストリームアイロンやってみたかったし。ちなみに、BCとかも全部一式、揃えて持ってきてるから大丈夫」
「用意周到だな……じゃあ誰が誰とバディを組むかな……」
みんなが顔を見合わせる。
二ノ宮が手をあげる。満面のどこか悪戯めいた笑みを浮かべている。
「えっと、水下先輩と伊藤先輩は体力的、技術的にも同レベルなのでペアで組んでもらって、技術的に余裕のある部長と先生に女子のサポートに回ってもらった方がいいと思います」
「なら、真一と組もっかな?……オープン取ってるから一応、技術的にも余裕あるし」
みかがそう言った時、二ノ宮が首を振った。
「金井先輩、ナウイでオープン取っているとはいえ、その他の連携とかでまだアイロン部とは余裕が無いと思うので先生と組んだ方がいいんじゃないですか?私が遠藤先輩と組みますよ」
ぴしりと空気が軋んだ気がした。
みかが笑顔を作る。それも、どこか怖い笑顔だ。二ノ宮も白々しい笑顔で応ずる。
「大丈夫よ。海洋での実施経験は遙よりかはあるから。遙こそ先生と組んだ方がいいんじゃない?」
二ノ宮も頑として譲らない。
「いえいえ、やっぱりアイロン部として先輩は譲れません」
もう、理屈にすらなってなかった。そのやり取りを見て嶋本先生が苦笑する。
「よっし、じゃあ、遠藤、お前が選べ」
「ええ!」
僕は顔一杯に困惑の色を浮かべているのだろう。水下と伊藤っちゃんがニヤニヤと笑いながら僕を見ている。
一方、二ノ宮は「もちろん私ですよね」と今にも言わんばかりの顔で僕を見てるし、みかは憮然としながらも自分を選ぶように僕を睨んでいる。
僕は助けを求めるように水下に視線を送ったが、水下は相変わらずニヤニヤ笑いながら
「遠藤はモテるねえどっち選んでも苦しいんだから自分の好きなようにしろよ」
なんて言いやがった。
僕はどうしようか迷った挙句。
「じゃあ、二ノ宮が僕のバディだ」
と答えた。
「やったぁ!」
と喜ぶ二ノ宮。一方、みかは表情に驚きを隠せないでいた。
「……水中はとても危険だ。だから、なるべくなら万全の状態で望みたい。特に二ノ宮はハイパーベンチレーションの気が多いし、エアも多く使うからいざというときエアの使い方の上手な僕が近くに居る方がいい。それにみかは正直どのくらいの技術があるかわかんないから先生の側に居る方がいい」
「……了解」
みかは納得いかないような表情で俯いてしまった。僕はちくりと心に痛みを感じた。
だが、それとこれとは話が別。命懸けのスポーツに私情は挟まない。
「……いいかな?じゃあ、出発は十時、それまで各自ウェットスーツ、BC、レギュレーター、ダイブコンピューターのチェックをしておく事。あと、体調が優れない、副鼻腔に異常を感じる者はすぐに申し出る事。でないと減圧時に鼻腔が破裂して血だらけになるからね」
「了解」
「よっし、解散」
僕らは早速準備に取り掛かった。
◆◇◆◇◆◇
ボートでエントリーポイントに到着すると僕らはお互いの装備をチェックしあった。
浮力調整装置であるジャケットタイプのBCを着てボンベを背負う。
レギュレーターの残圧計を確認し、お互いの装備に不備が無いか確かめる。
みんなの装備が整ったのを確認すると僕はみんなを集めた。
「集合!」
「了解!」
そして、僕は一同を集めると号令を飛ばす。
「これよりエクストリームアイロンを実施する」
「了解!」
もはや儀式のような物だが、これは号令する方も号令を受ける方も気が引き締まりまた、気分も高揚する。
「バディの確認!水下、伊藤!」
「水下了解!」
「伊藤了解!」
水下と伊藤っちゃんが鋭く答える。
「嶋本、金井!」
「嶋本了解!」
「金井、了解。でいいのかな……」
こういう号令に慣れていないのだろう、みかの返答だけ締りが無い。後で文句を言ってやる。
「遠藤、二ノ宮!」
「二ノ宮了解!」
「本エクストリームアイロンは水中での実施となる。各自エアー残量、潜水速度、浮上速度に十分注意してくれ。各自、エキジットポイントの再確認を怠るなよ?水中ではお互いのバディから離れすぎないように留意、また、ダイブマスターは嶋本先生だ。バディ同士で解決できないトラブルがあればライトで知らせる事」
「「了解」」
「では時刻あわせ」
皆がダイブコンピューターの時計を合わせる。
「よし、各自エントリー準備!」
「「了解」」
皆がボートの舷側に腰掛ける。
「マスク準備!」
「「マスク準備よぉしっ!」」
皆がマスクをかける。
そして、僕が大声で叫ぶ。
「北星学園ア・イ・ロ・ン・部ぅぅ!」
「「ファイっ!オウ!ファイ!オウ!」」
皆が声を出し、通りすがりのヨットが好奇の目で僕らを見てくる。
「「エクストリィィィィィィィム!」」
「「アイロン!イヤァァァァァっ!!」」
叫んで一番端に座っていた二ノ宮からドミノ倒しのように順次、エントリーしていく。
背中のタンクの重さを利用して後ろ向きに倒れるように海の中に落ちる。
海面が白い飛沫をあげて、僕らを飲み込む。
僕はレギュレーターから圧縮された酸素を大きく肺に吸い込みながら辺りを見回した。
エントリー時の気泡が僕の目の前を覆っており、その気泡が徐々に晴れていくと、そこに広がる光景に僕は目を奪われた。
海の中は物凄く綺麗だった。
空から差し込む光が、海の中を泳ぐ宝石の様な魚の体に反射し、まるで昼間の星空みたく輝き、その星の輝きが手を伸ばせば届くような位置にあった。
僕はバディである二ノ宮を見つけると、順に水下と伊藤っちゃん、みかと嶋本先生の姿を確認する。
嶋本先生が皆、居ることを確認すると親指を立て、それを下に向ける。潜行を示すゼスチャーだ。
僕らは同じゼスチャーで返し、潜行を開始する。
僕はBCのエアを抜き、浮きもしない、沈みもしない中性浮力となるように調整するとフィンのついた足で水を蹴った。
紐で繋がれた二ノ宮が僕の隣まで来て笑いかける。その笑顔が、陽光の差し込む海の中、まるで御伽噺の人魚が急に目の前に現れたようでドキッとする。
二ノ宮は紐で僕を引っ張るように海の底へ誘う。
二ノ宮は少し浮かれているのだろう。訓練の時より動きが多い。
ダイビングの時はなるべくゆっくりとした動作を心がけなければならない。でなければタンクの中の圧縮酸素を多く吸わなければならず、エアの減りも早い。深く早い呼吸を繰り返す状態であるハイパーベンチレーションの状態になれば、体内二酸化炭素の量を誤り、呼吸のリズムが崩れ失神する事もある。
特に二ノ宮にはそういう悪い癖があったので僕は紐を引っ張り二ノ宮を引き寄せるとスレートにその旨を書いた物を見せ、諌めた。
二ノ宮は拳で自分の頭を軽く小突いて小首を傾げる。反省しているのかしていないのかわからないが、とりあえず理解はしてくれたようだ。
遠く、そんなやり取りを見ていたみかが複雑な表情をしていた。僕はみかと目が合ってしまい、同じように複雑な表情となる。
みかは僕から目を逸らすと、再び潜行を始める。僕も後を追うように潜行した。
水の中を潜って行くと、鼓膜が圧迫され、不快な痛みを感じる。専門用語で言うならスクィーズが僕を襲った。
水圧が僕らの生活するレベルの気圧を超えると体の各所に圧力をかける。特に体の中の空洞である鼻腔、副鼻腔に圧力がかかりこれを放っておくと色々な疾病が起きる。
僕は鼻を押さえ、口をつぐむと息を強く吐く。ぷちっと耳の奥で何かが繋がるような音がした。すると耳の奥に残る不快感が消える。
バルサルバ法と呼ばれる鼻腔内の圧平衡を保つ為の技術でダイビングの基礎技術である。
僕は潜行し、水圧が掛かるたび、こまめにバルサルバ法で圧平衡を保つと、ゆっくりと潜行していく。
先ほどまで綺麗な水色だった水の中は潜って行くほど鈍く暗くなっていく。日の光が届きづらくなるからだ。
そして、程なくしてそれは僕らの前に姿を現した。
一面、真っ白いどこまでも広がる砂漠のような砂の海底。小魚が白い絨毯の上で翻る。
泉に投げ込んだ銀貨が揺らめくように小魚が煌き、僕はその光景にしばらく目を奪われていた。
万物の生命が生まれた海。
その中はまるで沢山の神秘が詰められたおもちゃ箱のようだ。ひっくり返せば無限の神秘が目の前に飛び込んできて、僕らを飲み込んでいく。
ゆっくりと僕の前をウミガメが通過していく。まるで僕ら等そこに無いかのように悠然と通り過ぎる。
二ノ宮が僕の肩を叩く。僕がはっとして二ノ宮の方を向くと、二ノ宮は防水ケースに入ったカメラを携え、僕の胸に括りつけられているアイロン台とアイロンを指差す。
そうだ。僕はエクストリームアイロンをやりに来ているのだ。
僕は海底に辿りつくと、アイロン台を設置する。
僕の周りに、みかと伊藤っちゃんが寄ってきて一列に並ぶようにアイロン台を設置すると皆がアイロン台の上にシャツを載せる。
その目の前を魚が通り、好奇の目で僕らを見て通り過ぎて行く。
僕はアイロンを手に取ると、それをシャツの上に押し当てた。
「エクストリーム……アイロン……」
緩やかな光が投げ込まれる海の底。
アイロン台に揺らめくシャツに冷え切ったアイロンを押し付け、僕は熱い感動に胸を震わせていた。
辛い訓練を経て、皆でアルバイトをして、そして、この許された者だけが踏み込む事のできる領域で僕は何をしているかというと、アイロンをかけている。
ああ、アイロン……なぜ、こんなに僕を狂わせる……
揺らめくシャツの袖に、魚が入り込む。袖から入り込んだ魚は袖を通りぬけ、シャツの首から抜けて行く。
その様を見てシャッターを切る二ノ宮が笑う。
冷たく、鈍く光るアイロンが水の中で揺らめくシャツの上、ゆっくりと滑る。
生命の生まれたゆりかごの底でアイロンをかけるという背徳感じみた感動が僕の胸の中で弾けていた。
僕は一通りシャツにアイロンをかけ終わると、二ノ宮と交替した。
僕は海底に正座し、シャツに丁寧にアイロンをかけている二ノ宮をファインダーに収め、シャッターを切る。
二ノ宮が僕の方を見てピースをする。
僕が苦笑すると、僕の隣でみかが面白くなさそうな顔をしている。
僕はエアの残量を確認すると、先生の方を見た。先生は僕に対し頷くと浮上のサインを出した。
僕はそのサインを確認すると、皆にも同じように指示を出した。
僕はアイロン台とアイロン、シャツを体にくくりつけると、若干、BCに空気を入れ浮力を得ると、早過ぎないペースで浮上を開始する。
高圧窒素が体内に残留している状態で急速浮上をすると、体の中で高圧窒素が弾け、血管の中に気泡を作る。
振ったコーラの二酸化炭素が蓋を開けた瞬間に泡を吹くのと同じ原理だ。
その気泡が血管を塞ぐと、血が頭に上らなくなり死に至るケースもある。
ゆっくりと浮上し、急に体の中で圧縮窒素が沸騰しないように留意する。
「……?……!」
皆が浮上する中、バディ同士を繋ぐ紐の先に感触が無く、僕の背中が一気に冷えた。
僕は浮上して辺りを見回す。
僅かに浮いてくる気泡を頼りに二ノ宮を探す。呼吸をしているのであれば必ず気泡が僅かであろうとも浮いてくれるからだ。
程なく、二ノ宮の姿を見つけたが、僕は心臓を鷲掴みにされたような心地になった。
二ノ宮はまるで糸の切れた人形のように水の中に漂っている。
近くによって顔を覗き込むと、目を閉じ、明らかに意識が無かった。
やばい。とてつもなく危険な状況だ。僕は早鐘のように鳴る心臓に落ち着くように命じると、落ち着いて状況を確認しようとした。
マスクを外し呼吸を確認する。微弱ながら息はある。
残圧計を見てもまだエアはある。
最初はタンク異常によるエア枯渇かと思ったが違うようだ。
僕は二ノ宮のウェイトベルトからウェイトを外し、自分のウェイトも外す。
レギュレーターを二ノ宮の口に戻すと、僕は急速浮上にならない程度の、ぎりぎりの速さで浮上した。
水面に出て、二ノ宮を仰向けにし、マスクを外す。
「二ノ宮ぁ!」
マスクをはずし二ノ宮の頬を叩く。再度、二ノ宮の呼吸を確認するが、二ノ宮は呼吸していなかった。
すぐに脈を取る。
脈拍は確認できた。心臓は動いている。
先生や水下の姿は見えない。
遠くにボートが見える。僕はばしゃばしゃと水面を叩き、ボートに対し緊急事態があった事を伝える。
上手に伝わっているかどうかはわからない。
だけど、今は二ノ宮を助ける事が先決だった。
マウストゥマウスによる人工呼吸を訓練どおり実施しようとした。何はともあれ、呼吸が無い場合、酸素を供給してやらねばならない。
が、不覚にも二ノ宮の顔を見てしまった。
「………」
一瞬ドキリとする。
目を閉じ、日の光を受ける水面に浮かぶ二ノ宮はまるで御伽噺のお姫様が眠っているような美しさがあった。
僕はこれから、この可憐な唇にこれから口づけするのだろうか?
二ノ宮の唇を奪ってしまっていいのだろうか?
「やるしか、ねえよな」
僕は頭を振って雑念を振り払う。あくまでこれは救命行為だ。命が無ければ後で二ノ宮は怒る事もできない。
「気道確保……」
首を持ち上げ、気道を確保する。
僕は二ノ宮の鼻をつまむと、唇から空気が漏れないように、自分の唇を覆いかぶせるように二ノ宮の唇に押し当て、息をゆっくりと吹き込んだ。
二ノ宮の胸が僅かに隆起する事を視認。肺に空気が入ってるのを確認し、唇を離す。
ゆっくりと胸が元に戻り、肺から空気が無くなるのを確認すると再び人工呼吸を実施する。
何度かその行為を繰り返していると、ボートが僕らの側にやってきた。
「遠藤!大丈夫か!」
舷側からロープを投げながら先生が叫ぶ。
「二ノ宮の意識が無い!脈はあるけど呼吸が無い!」
「そのまま人工呼吸を続けろ!回収する!水下!近くの再圧チャンバー施設に連絡を入れろ!最悪減圧症の恐れも考慮する!」
「了解!伊藤っちゃん、金井!先生のフォロー入ってくれ!」
「みかさんは酸素ボンベを用意して!僕と先生で二人を引き上げます!」
船の上がとたんに騒々しくなる。僕は先生の投げたロープに捕まり船の舷側まで来ると先生と伊藤っちゃんの助けを借りて、意識の無い二ノ宮をボートの上に引き上げた。
みかが酸素ボンベを持ってくるまでの間、僕は二ノ宮に人工呼吸を続けた。
みかが酸素ボンベを手にその様子を見て呆然としていた。
僕は呆然としているみかに語気荒く
「みか!酸素ボンベよこせ!早くしろ!」
と怒鳴る。
みかは慌てて僕に酸素ボンベを手渡す。僕は酸素ボンベを二ノ宮の口にあてがう。
BCをはずし、タンクを外すと、甲板に横たわらせ、楽な姿勢をとらせる。
程なく二ノ宮は薄く目を開くと僕の姿を見つける。
「二ノ宮!」
僕が呼びかけると二ノ宮はうわ言のように呟く。
「……先輩が居て……私にキスしてくれてた?……先輩……ここ、天国ですか?」
僕は全身の力がどっと抜けて、甲板に腰を落とした。
立ち上がれない。
緊張が解け、安堵を噛み締めると、腰が、砕けていた。