第三章 『アイロンと仲間』
「エクストリームアイロンは一九九七年、イギリスのレスターという町で生まれた。趣味であるロッククライミングの最中に平凡でないアイデアとして、アイロンがけを取り入れた事で始まったスポーツだ。ウェブサイト上で普及し、それが現在に至る」
アイロン部の面々は放課後、部室に集まると嶋本先生の軽い講義を聞くと次に、トレーニングを始める。
作業着に着替えると、嶋本先生を先頭にし、一列に縦隊を組む。スリングや、ハーネス、ヘルメットをつけ、更にフォースレスキューというレスキュー隊が使う、これ一本で車一台が壊せますという売り文句のハンマーやピックが一体になった工具を背負ってランニングを始める。
「ッチョーッチョーッチョーットーレ!」
「「ッチョーッチョーッチョーットーレ!」」
本当は歩調、歩調、歩調取れと言っているのだが、これを声の限り叫ぶとこのようになる。先生が叫んだ後にみんなが続いて叫び、歩調を合わせる。
「ッチニーサンシー!ッチニーサンシ!」
「「ッチニーサンシー!ッチニーサンシ!」」
「エクストリームっ!」
「「アイロン、ィヤァッ!」」
ここまで掛け声をかけると一番最初に叫ぶいわゆる前半呼称者が先生から僕になり、順に部員で回しながら三十分近く走る。
これは先生がレスキュー隊員時代にやっていたランニング方法で、装備を抱えたまま大声で叫びながら走ると相当疲れる。
だが、実際、断崖にぶら下がったりすると隊員同士で距離が離れたり、悪天候の為、声が通らなかったりする場面を想定すると、普段から最悪の状態で声を出せる訓練をしておかないと、いざというときに危険を知らせあう事ができないからこのように訓練するらしい。
おかげで、はじめの頃はみな喉がつぶれ、二ノ宮が呼吸困難に陥ったり伊藤っちゃん……伊藤先輩はそう呼ばれる方がいいと言う……なんかがお昼を戻したりしていた。
それが終わると今度は補強運動をする。
補強運動といっても嶋本先生レベルの補強運動であり、普段から鍛えてる僕でも少々厳しい筋トレであり、他の部員に対しては酷としかいいようの無い内容だった。
腕立てをするときは部員の首の上に自分の足を乗せ、四人でスクウェアを組んで実施する。女子である二ノ宮あたりは目の端に涙を溜めていたが、泣き出さず、よくこんな厳しいトレーニングに耐えていると思う。
それが終わり、クタクタになると、今度はロープワークの練習になる。
「もやい結びラン!、はじめ」
これも酷いトレーニングで二人でペアになり、片方が50メートルをダッシュした後、鉄棒にもやい結びをして戻ってくる。
そこで交代した相方が、ダッシュでそれを解きに行き、急いで戻り、相方の胴体にもやいを結ぶ。
それで遅かった方がペナルティで腕立て伏せをする。
もちろん、結び方を間違えた場合も同じようにペナルティだ。
「アイロン部ってアイロンをかけるんじゃなくて、鉄の男を作る部活なんじゃねえの?」
水下がそうぼやくのも無理はなかった。
僕らはあれから一度もアイロンに触ってないし、エクストリームアイロンをやっていない。
二ノ宮や伊藤っちゃんあたりは部活が終わる頃にはふらふらになっており、みかが迎えに来て僕に対し
「なんでちゃんと遙の面倒みないのよ!」
と拳を飛ばす事もしばしばあった。
僕もみんなも徐々に疲れてきており、ストレスを溜め始めていた。
このままではいけないと思いながらも何にもする事ができずに時間とストレスを積み上げていった。
そんな練習が二週間も続く頃、恐れていた事態が起こった。
「こんな部活やってらんねえよ」
ロープワークをやっているとき、水下がついに音を上げた。
水下はスリングを地面に叩きつけるとそれを蹴っ飛ばした。
僕は怒った。
「水下!スリングは丁寧に扱えよ!網目に砂でも噛んでみろ!それ一本で一トンは支えれるものも、そのせいで弱って切れたりするんだぞ!いざって言うときに命を預ける相棒を粗末にすんなよ」
「俺はロープワークや体を鍛えるためにこんなところに入ったんじゃねえよ!アイロン部ったってアイロンかけた事もねえし、女にモテる訳でもねえし。やってられっかよ!」
水下は僕の襟首を掴み、唾を飛ばしながら怒鳴った。
水下は女にモテたくてアイロン部に入った訳で決してエクストリームアイロンをしたくて入った訳じゃない。
むしろ、これだけのしごきがあって、これまでついてきたのが不思議なくらいだった。
しかし、これとそれとは話が別である。
僕も最近、アイロンをかけれずにイライラしていたし、それより、不真面目に人生を生きている水下のような奴が嫌いだった。
何かとチャラチャラしてて鼻につく野郎だったし、こいつが未だに部活に残っている理由がみかがマネージャーで顔を出すからだった。
「これぐらいのシゴキで音をあげてんじゃねえよ。実際、絶壁でやろうがどこでやろうが危ないんだよエクストリームアイロンは。そこで僅かでもその危険を減らすためにこうやって訓練してんじゃねえか」
「俺は楽してモテれりゃそれでいいんだよ」
水下が鼻で笑う。
ふざけた野郎だ。
かっとなって、僕の口が水下を罵倒する。
「お前なんかモテる訳ねえだろ!何にでもすぐ飛びつくけどすぐ飽きて何でも乗り換えるじゃないか。軽音楽部だって、サッカー部だって結局長続きしないで辞めたんだろ?何か一つに本気で打ち込んだ事あんのかよ!根性なし!」
言ってから、しまったと思った。言い過ぎた。
水下が僕の顎に、拳を叩きつけ、がちんと火花が僕の目の前で弾けた。
「ありえねえ場所でアイロンかけてる馬鹿野郎にそんな事言われる筋合いねえよ!気色悪いんだよてめえわ!」
言われて僕もかっと来た。
僕も水下の腹に蹴りを入れる。
水下はグラウンドに倒れ、頭を打ち付けたようだ。
目をしばたかせ、僕を見て怒鳴る。
「やりやがったな遠藤!」
僕と水下は取っ組み合いその場で殴りあいをはじめる。
「部長!水下君やめようよ!」
「先輩、やめてくださ……わあ!」
二ノ宮と伊藤っちゃんが慌てて止めに入るが二人の声は聞こえなかった。
たまたま通りかかったみかが仲裁に入らなければ僕らはいつまでも殴り続けていたかもしれなかった。
「居なくなりやがれ!この根性なし!」
僕は吐き捨てるように水下にそう叩きつけた。
……僕は自分が打ち込んでいるものを否定されて凄く、腹が立っていたのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
水下の方が喧嘩慣れしていたのだろう。
僕が少し手加減したのが原因かもしれないが、客観的に見て怪我が酷かったのは僕の方だったみたいだ。
僕は必要ないと言ったのだが、みかは無理矢理僕を保健室に引っ張り込み、簡易ベッドに座らせると消毒液とガーゼを持ってきた。
「ホンットに真一は心配かけるんだから!」
憮然とする僕の横にみかは腰掛けるとガーゼに消毒液を含ませると僕の右目の上に押し当てた。
熱を持っている右目の周りに冷たいガーゼが押し付けられ、鋭い痛みを感じて顔を引いた。
「真一、じっとしてなさい」
まるで母親みたく、みかは強く言うとガーゼで僕の目の周りを拭いていく。
どうやら、目の周りが切れていたようだ。白かったガーゼは血を吸って赤く滲む。
「どうして、水下君と喧嘩したの?」
「関係ないだろう」
「関係あります。一応、マネージャーだから」
「……バスケ部と兼務の癖に」
「真一って可愛くないねえ」
僕がむっとしているとみかは呆れたようにため息をついた。
「あんた一応、部長なんでしょ?なら部員の面倒みないと駄目じゃない。遙だって相当疲れてるじゃない」
「仕方ないよ。先生の話、聞けば聞くほど危険なスポーツだってのがわかるし、そうなればあれだけの訓練を事前にしておかないと下手したら死んじまうよ」
結局のところ、結論はそれなのだ。
危険だから、それ相応の訓練をする。危険すぎるから訓練もハードになるのだ。
「それはわかるけど……でも、エクストリームアイロンって何も断崖絶壁や車で走りながらするだけのものじゃないでしょ?人ごみの中でやったり、家の庭でアクロバティックにやってもエクストリームアイロンなんでしょ?」
みかは兼務のマネージャーの癖に勉強している。確かにその通りだ。
「勉強してるでしょ?兼務でも」
僕の表情を見てわかったのか、みかは得意げな顔をする。それがちょっと悔しかった。
そして、みかは更に痛いところをつく。
「真一がさ、最近アイロンかけてないからイライラするのはわかるけど、みんなが一定水準になるまで危ないから先生はきっとエクストリームアイロンをしないんじゃないかな?部長ならやっぱりその辺を理解してあげないと」
理解していた。
先生は僕一人であれば何かあった際に、サポートできるだけの技術はあるが、二ノ宮や水下、伊藤っちゃんが加わって、それぞれがトラブルを起こした場合に処理できるだけのスーパーマンじゃない。
だから、それぞれがトラブルを起こさない一定水準になるまで過激なエクストリームアイロンをしないのだ。
それを僕は頭の中では理解しているのだが、結局、考え方が子供で、どこかで納得していなかったのだ。
僕は水下に対し、それを説明し、納得させなければならなかったが、それができなかった。
部長としては失格だ。
また、それをみかに叱責された事についても腹が立つ。
腹が立つのは自分に対してだ。これをみかに腹が立つようであれば僕は人間として終わっている。
「……みか、悪かった」
「謝る相手が違うでしょ」
みかはため息をつきながら笑うと、傷テープを僕の額に貼り付けた。
「とりあえず、何とかして状況を良くしないといけないかな?水下君は私が部室までなんとか引っ張るから、後はあんたが何とかしなさい」
みかはどんと胸を叩くと、にっこり笑う。
僕は情けない部長としての自分と、兼務とは言え、立派にマネージャーを果たしているみかを比べ、頑張らねばと思った。
「そんかし、こんどバナナクレープ奢ってもらうからね」
みかはぺろりと舌をだして笑うと勢い良く飛び出していった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
次の日、僕は嶋本先生に企画書を持っていった。
無論、エクストリームアイロンの実施計画書だ。
今ある人材と技術、そして装備を勘案し挑めるエクストリームアイロンだ。
嶋本先生はそれをしばらく難しい顔で眺めていた。
僕はごくりと唾を飲み込んだ。
先生は計画に対し厳しかった。命を懸けたスポーツをするからだ。
それは重々承知していた。これまで何度か企画書を提出した事はあるが、ことごとく却下された。
どれもこれも
「お前は、この計画で失敗した時、死んだ人間の責任を取れるか?」
そう言われゴミ箱に投げられた。
だが、今回、先生はそれを僕につき返してきた。
「遠藤。お前、その計画に水下や二ノ宮の命、乗っける事できるか」
「はい」
僕は静かに答えた。
僕はその計画書には自信があった。
嶋本先生はしばらく僕を眺めると、満足げに頷いた。
「よし、なら今日、ミーティングで発表しろ。それでお前が音頭を取ってエクストリームアイロンを実施してみろ」
僕は背中にずっしりと重たいものを感じて先生の前を立ち去った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その日、部室に入ると、凄い重苦しい雰囲気と沈黙が辺りを支配していた。
小さな椅子に二ノ宮が座り、装備資器材のチェックをしている。伊藤先輩は自分の訓練着にアイロンをかけていた。
そして、その向こうで水下がスリングを弄び外を眺めていた。
どうやらみかは約束をちゃんと守ってくれたようだ。
後は僕が頑張らねばならない。
だが、この雰囲気は少し重かった。
僕に水下のような器用さがあればこの雰囲気を和らげる事ができたのだろうが、あいにくとそんな器用さは持ち合わせていない。
この間の一件のせいだろう、二ノ宮と伊藤っちゃんは僕と水下の顔を交互に見て、何かを言おうとしては口を閉じている。
僕は水下をちらりと見ると、部室の黒板に歩み寄った。
水下は僕と目を合わせる事なく、部室の小さな窓から外を眺めていた。
僕は咳払いをすると、みんなに告げた。
「えっと、これから重大な発表があるから聞いてもらえるかな?」
みんなが顔を向ける。
僕はもう一度咳払いすると告げた。
「来週の日曜日、エクストリームアイロンを実施する」
僕がそう告げると、みんな目を丸くした。
「先輩、でも……」
二ノ宮が心配そうに声を上げる。
二ノ宮が心配しているのはみんなの技術や体力の問題だろう。
訓練すれば訓練するほど、自分の体力や技術を正確に把握でき、それに対しできる事とできない事が分かってくる。
だが僕は続けた。
「やるといったらやるんだ」
僕はきっぱりとそう告げると黒板に計画を書いていく。
「実施は日曜日十六時〇〇分、集合は駅前に十四時。実施場所は鳥山八景で二ノ宮は知ってるだろうけど、一番最初に実施した場所だ。」
僕は時間と場所をすらすらと書いていく。
「装備は登山装備を一式使う。ただ、長ロープは三つ……予備も含め四つ持っていく」
必要な装備も黒板に書き込み、それから一番大事な事を書き始めた。
「今回は断崖絶壁にアイロナーとテーブルの二人、それにピクサーの合わせて三人が降下する。まずはピクサーが降下し、その後を追ってアイロナーとテーブルが降下する」
テーブルとはアイロン台を持つ人の事で、ピクサーは写真撮影者。どちらも、僕が企画書を出すときに呼称しているコードネームのようなものだ。
「先輩、あと一人はどうするんですか?」
二ノ宮が指折り数えながら聞いてきた。
僕を含め、部員は四人、それだと一人余る事になる。
僕は頷くと答えた。
「不測の事態に備えて上で先生と一緒にサポートに回ってもらう。このサポート役には二ノ宮にお願いしたい。いざという時はレスキューの経験がある先生の指揮下に入ってもらう。だから、何かあっても落ち着いて先生の指示に従ってくれ」
体力的に二ノ宮にはこのレベルの断崖絶壁を降りれるだけのものが無いのが正直なところだ。
僕は崖の絵を描き、その上に二ノ宮と嶋本と書いて丸で囲む。
「そして、ピクサーは伊藤っちゃんにお願いしたい。伊藤っちゃんはカメラの経験があるんだよね?」
「ありますよ」
伊藤っちゃんは自前でミコンのデジタルカメラを持っている。
こういう荒場で使うのには少々不向きかもしれないが、そこは操作に慣れた伊藤っちゃんに任せるしかない。
「アイロナーとテーブルは僕と水下でやりたい。アイロナーを……水下、いいか?」
僕はもうちょっとマシな言葉が出ないものかと自分がもどかしくなった。
水下は面倒くさそうに僕の方を見ると、ため息をつきながら頷いた。
「テーブルは僕がやる。テーブルが下になって、アイロナーがその上に位置する。このとき、ピクサー、アイロナー、テーブルのお互いのロープが絡まらないようにしばらくは互いの間隔は三メートルは保持するように心がける事。そして、所定の位置についたら、合図するから、そこからこうやってフォーメーションを組む」
僕が黒板にフォーメーションを描く。
水下の下に僕が入り、その横にピクサーである伊藤っちゃんを書く。
「撮影は逆光を利用したいから、東側から伊藤っちゃんに撮影してもらう。で、肝心なのが水下だ。水下は所定の位置についたらそこから体の上下を反転してもらう。この際、ロープに足を絡めたり、他の人のロープに絡まったりするとトラブルになる恐れがあるから、気をつけてくれ。水下がもし、落下した場合、テーブルとして下に位置している僕も危なくなる」
水下がはじめて口を開いた。
「遠藤、それだったら技術も体力もあるお前がアイロナーをやった方がいいんじゃないか?」
それは正直僕も悩んだ。
何時間も悩んだ。
水下の体力は正直、僕よりあると思う。
ただ、性格が災いして、伊藤っちゃんや二ノ宮と違い、ロープワークやラペリング技術は僕らの中では一番下手だった。
だから、成功率としてはテーブルを水下に担当してもらった方が高くなる。
水下が更に攻める。
「いつも先生やお前が言ってるじゃないか、エクストリームアイロンは危険なスポーツだって。生還率は98パーセントじゃだめだ。限りなく100パーセントに近くないといけないって。それだったら俺がアイロナーになるよりテーブルの方がいいじゃねえか」
みんなの顔を見ると、二ノ宮や伊藤っちゃんも表情でそう訴えている。
だが、僕は迷わず言った。
「僕は水下を信じている。アイロナーは水下でテーブルは僕だ」
シンと空気が重くなった。
僕はみんなに告げた。
「今週一杯は体力トレーニングより部室の壁や校舎壁を使ったラペリング技術を中心にトレーニングする。以上」
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学校の壁でトレーニングした結果、どうしてもフォーメーションがうまくいかなかった。
移動の際にロープを絡めたり、水下が上下反転する際にロープを放したり。
正直、絶望的といってよかった。
三度目の失敗の時、水下はロープを放し、下に居た僕を巻き込み落下した。
嶋本先生の激が飛んだ。
「水下ぁ!これが本番ならお前は遠藤と一緒に死んでるぞ!」
僕の上で水下が唇を噛んでいた。
目の端に涙を溜めている。
「っはぁい!」
なかばやけくそ気味な返事をして水下が立ち上がる。
その日、フォーメーションは一度も成功しなかった。
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次の日、やはり、フォーメーションは綺麗に成功しない。落下はせず、一応アイロンは成功するが、ロープが絡まるようじゃ成功とは言えない。
先生の激が水下に飛び、今日は先生の手が水下に飛んだ。
「水下ぁ!もっと真面目にやれ!本気で取り組まないと死ぬぞ!」
心配して二ノ宮が部活の後、部室で着替えてい僕にこっそり相談してきた。
「先輩、アイロナーはやっぱり先輩がやった方がいいと思います。なんなら私がやりますよ」
「二ノ宮には体力的にちょっと厳しいだろう。気持ちは嬉しいけどこの配置は換えられない。」
僕はきっぱりと言い切った。
「でも」
食い下がる二ノ宮。そこに伊藤っちゃんが入ってきた。
「あら、揉めてたんですかね?」
「いや伊藤っちゃんどうしたの?」
「多分、二ノ宮さんと一緒です。水下君の技術では正直成功するとは思えません。厳しいでしょうが僕は配置変更を提言しますよ」
伊東っちゃんは物腰こそ柔らかだが、言葉は本気だった。
「……水下か」
僕はため息をついた。
「これじゃまるで先輩が水下さんを虐めてるようにしか見えないですよ。水下さんだって今日、先生に殴られてたし。正直、見てられません」
「だけどなぁ!」
僕は声を荒げた。
その時、丁度、水下が部室に入ってきた。
作業着を収めに来たんだろう。
僕は舌打した。
水下は疲れた体を引きずりながらロッカーに自分の作業着をロッカーに収めると鞄を持って帰っていた。
「聞かれたかな?」
「多分……聞かれましたね」
伊藤っちゃんと二ノ宮が顔を見合わせる。僕はすぐに水下を追いかけた。
外に出て、帰ろうとしていた水下の肩を掴む。
「水下ぁ!」
水下は僕を振り返ると今にも泣きそうな顔をしていた。
「俺はお前が言うように何やっても本気になれねえ人間だよ!っくそ!」
水下は吐き捨てるように言ってグラウンドを走っていった。
今になってわかった。
水下はそれを誰よりも気にしていたんだ。
水下は本気になれた物が無い。前の僕と同じように本気になれる物が見つからなくて悩んでいたんだ。
だから、僕は、水下を見てイライラしていたんだ。
昔の僕とどこか似ていて。
だけど、僕は叫んだ。
「水下ぁ!俺は信じてるからな!」
僕は叫んでいた。
水下が一瞬止まる。だが、水下はそのまま走り去っていった。
「信じてるからなあぁっ!」
水下に聞こえると信じて、僕は叫んでいた。
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僕は計画を入念に見直した後、やっぱりプランを変える事はしなかった。
僕は装備の点検を終えると部室の鍵を閉めて出る。
あたりはすっかり暗くなっていた。
僕は体をもてあましていたので、フォースレスキューを背負うと、ランニングしながら帰ろうと思った。
だが、部室を出るとそこにはみかが待っていた。
「よっ!」
「バスケ部、こんな遅かったのか?」
「真一を待ってたのよ。いろえんぴつのクレープ奢ってもらう約束でしょ?」
「もうこんな時間だろ?いろえんぴつ閉まってるよ」
みかは商店街にあるいろえんぴつというクレープ屋のバナナクレープが大好きなのだ。ことある事に奢らされてはいるが、一度も奢って貰った事は無い。
だが、時計の針を見ると八時を過ぎておりもう店は閉店している時間だ。
「しょうがないなぁ。じゃあまた今度にしよっか?」
「帰り、ランニングするから付き合うか?」
「ええー?制服が汗臭くなるから勘弁してよ」
それも可哀想だと思い、僕はフォースレスキューを部室に置いてきた。
僕とみかは久しぶりに二人で帰る事になった。
「真一、最近たくましくなったんじゃない?」
「そうかな?……そうだろうな。あんな訓練してればそうなるよ」
僕はダラダラと無目的に生きていた一ヶ月前と比べると、確かに逞しくなっている自分を見て、ちょっと感激した。
変われば変われるものだ。
「最近、遙はどうなの?」
「女の子だから、少し体力的には厳しいけど、それでも技術の飲み込みは早いよ」
「へえ……ぃの成せる技かぁ」
「ん?」
みかがしんみりと何かを呟いたが初めの方は聞こえなかった。みかは首を左右に振るとそのまま歩き出した。
「みか、バスケ部の方はどうなんだ?」
「ん。地区予選ね、準優勝」
「あ……」
「試合、終わっちゃった」
そう言ったみかは少しさびしそうだった。
そうだ。エクストリームアイロンの実施計画が立ってからずっとそればっかりに頭が働き、みかのバスケ部のことを考える暇がなかった。
「真一、なんか忙しそうだったから先週に終わっちゃったよ」
「ごめん」
「応援に来て欲しかったなぁ……」
「え?」
「いや、何でもないよ!」
みかは急に走り出す。
僕はそれを追いかけた。
「真一、アイロン頑張ってね!」
みかはくるりと回るように振り向くと笑っていた。
僕はずしんと背中に重いものをふと感じた。
みかは僕の横に並び、ゆっくりと歩調をあわせてくれる。
「真一、悩み。あるんでしょ?」
「何でだよ」
「あんた馬鹿だからすぐわかる」
昔っからみかはそうだった。
僕が何か考え事をしていたらそれが手に取るように分かってしまう。
僕は言うべきかどうか迷った。
「言ってもいいのかな?」
「言って楽になるなら聞いてあげるよ?」
僕はその誘惑に負けそうになった。
正直、あと数日しかないのに、このままでは命を落としてしまいそうで怖い。
僕は口を開こうとして、やっぱり閉じた。
これは水下の問題であって、僕の問題じゃない。僕は信じると言ったんだ。
「駄目だ。やっぱり言えないや」
「……そっか」
みかはそれ以上、聞いてこなかった。
僕は空を眺めて、明日こそいい風が吹くように祈った。
「ね、真一、少し、公園寄って行こう?」
「え、ああ、あ、いいよ」
急にそんな事を言われるもんだから、僕は少し返答するのに戸惑った。
まあ、少しくらい夜風に吹かれるのもいいかもしれない。僕とみかは二人でさくら公園に行くことにした。
さくら公園には昼のような子供の喧騒は無く、心地よく肌寒い風と静寂が漂っていた。
僕は自販機で暖かいコーヒーを買うと、みかに一本渡した。
「無糖がよかった」
「奢ってやるから文句は言うなよ」
僕はしっかり無糖のコーヒーを買うと、それを持ってベンチに座る。
みかもならってベンチに座り、僕の顔を少し覗き込んだ後、俯いた。
「……最近、遙どお?」
「明るくなったんじゃないか?前はお前にべったりって感じだったからね。前より可愛くなった感じる気はするよ」
僕はコーヒーを啜りながら正直に答えていた。僕がもうちょっと大人であれば隣に座るみかの微妙な反応にも気づけたのであろうが、まだ、僕はそこまで精神的に成熟していなかった。
僕とみかはしばらく黙って椅子に座っていた。
しばらく忙しかったから、こうやってのんびりできるのも心地いい。
みかが昔、ダラダラとしている僕を羨ましいといった気持ちが良く分かる。
「あのね……真一……ちょっといいかな?」
「ちょっとどころか好きなだけどうぞ」
僕は冗談めかして言う。心地よい夜風が僕の頬を撫ぜる。僕はこのまったりとした雰囲気にどっぷりと浸かり、みかの顔に浮かぶ表情なんてまったく目に入ってなかった。
「えっと、うん。あのね、私ね……」
みかが口の中でぶつぶつと呟いている。僕はそれにさりとて気をとめず、聞き流していた。
だが、突如、みかは大きな声で
「ひょっとしたら私、真一の事……」
その時、みかの声を遮るように物音がした。
どすん。と、バスケットコートの方からあからさまにボールやそんなものと違う落下音がした。
僕はそっちの方が気になり立ち上がる。後ろではみかが複雑な表情をしていたのだろうが、僕はそれを見ることができなかったし、見えたとしても大人ではないからその表情の意味するところがわからなかっただろう。
「何だろう」
僕がバスケットコートを見てみると、バスケットのゴールの支柱の首の部分にロープが結び付けられており、その下で人がゆっくりと起き上がろうとしていた。
「あれ、水下君じゃない?」
みかがその人影を見てそう呟いた。
街灯の下、浮かぶ姿は間違いなく水下だった。
水下は顔に擦り傷を作り、鼻血を流していた。
多分、顔から落ちたのだろう。水下は鼻血を着ている作業着の袖でぬぐうと、ロープを掴んだ。
ロープをハーネスに固定し直し、支柱を上ると、小さく何かを呟いていた。
「アイロン……準備よし!……フォーメーション……フォーメーションよし!ピクサーよし!テーブルよし!……アイロン準備!」
水下はくぐもった声で一つ一つのの動作を確かめるように、呼称する。
そして、水下はロープにぶら下がったまま反転する。だが、もう腕の筋肉がついていかないのだろう。また、水下は頭から落ちてしまった。
「水し……」
飛び出していこうとしたみかを僕が引き止めた。
「……くぁ……」
水下はまた噴出してきた鼻血を拭いながら立ち上がる。コートには落ちた鼻血が茶色い染みを作っており、水下はコートに座り込むと頭を振っていた。
多分、軽い脳震盪を起こしているのだろう。
だが、水下はそれでもまた、ロープを掴んだ。
「アイロン……準備よし……フォーメーション……フォーメーションよし!ピクサーよし!テーブルよし!……アイロン準備!」
水下が震える腕を必死に撓ませ、膝の間にロープを挟み、頭を下にロープにぶら下がる。
そして、腰につけていたアイロンに手を伸ばし、それを頭の下に掲げると最後の掛け声をかける。
「……エクストリーム……アイロン……イヤァッ……」
僕は目の奥が熱くなってきた。
僕はみかの腕を掴むと、その場に背を向けて立ち去った。
後ろをちらりと振り返ると、また、落ちた水下が再度ロープに手を伸ばしていた。
着ている作業着はぼろぼろに擦り切れてる、顔は血だか泥だかがわかんないようになっていて凄い、汚い。
だけど、それでもロープに手を伸ばす水下はとても、格好よかった。
「みか……」
「ん?」
「……水下は格好いいよな」
「……そうだね」
なんか、視界が歪んできた。
僕は目に浮かんだ汗を拭うと、とにかく、頑張ろうと心に決めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「……エクストリーム!アイロンイヤァッ!」
うまくいった。
嶋本先生や、二ノ宮、伊藤っちゃんが見守る中、僕と水下のフォーメーションはうまくいった。
誰も文句は言わなかった。
水下の下でアイロン台を掲げ、僕は静かに頷いた。
水下の顔は青く腫れており、そして、伊藤っちゃんの号令を待つ。
「ピクサー!撮影よぉし!撤収準備!」
「撤収準備!」
水下がアイロンを腰に収め、反転し、フォーメーションを解いてシュミレーションは終了した。
「凄いです!今までで一番綺麗です!」
二ノ宮がぱちぱちと手を叩く。
先生は頷くと僕や水下のラペリングフォームについて若干の注意をして終わった。
「水下やったな!」
僕は嬉しそうに水下の肩を叩く。
「まあ、当然だな」
水下は青く腫れた顔で笑った。
精一杯の強がりだろう。でも僕はそれがまるで自分の事のように誇らしかった。伊東っちゃんも同じように喜んでくれている。
後は本番まで僕らはそれを繰り返した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
本番の日、僕は例のごとく寝坊した。
「真一、いい加減にしなさいよ。あんたはいっつも本番の日に遅れるよね?」
みかに叩き起こされ準備が整うと借りっ放しのCB400で駅前に向かう。
もう既にみんな集まっており僕とみかが一番最後だった。
「先輩おっそーい!罰払ジュース」
「部長、ご馳走様です」
二ノ宮が少し膨れて僕を攻め、伊藤っちゃんがそれに乗る。僕はみんなに謝ると罰払でジュースを買ってきた。
アイロン部として始めて計画したエクストリームアイロンだ。
危険だとはわかってはいたが、何かピクニックに行くようなそんな楽しさがあった。
嶋本先生は今日はチェロキーで来ており、僕以外の人はチェロキーに乗る事になると思ったが、二ノ宮が
「先輩のタンデムに乗ってみたいなー?いっつも金井先輩は乗ってるんでしょ?私も乗せてください!」
と、せがまれ、山の駐車場まで二ノ宮を乗せる事になった。
みかが複雑な表情をしていたが、僕は別段構わずタンデムに二ノ宮を乗せた。
駐車場につく頃には精神的にへとへとになった二ノ宮を降ろすとみかが笑っていた。
「先輩、帰りは安全運転でお願いします」
みかとまったく同じ事を言われ僕は苦笑すると、装備を持って山に入った。
僕らは男子と女子に別れて着替えると、ハーネスを装着したり金具をチェックしたりした。
「水下、お前、ハーネスの金具大丈夫か?」
「大丈夫っス」
嶋本先生が水下のハーネスの金具を少し気にしていたが水下は大丈夫だと言い切った。
ハーネスの金具には予備がなく、またハーネスに固定されているものだから変えようがない。
「最悪、スリングで座席作ってそれでやる方法も考えろよ?」
「ええ、でも、大丈夫っす」
そうなのだ。ハーネスが無くてもスリングでハーネスの代わり「座席」を作る方法がある。僕は一応、先生が作ってくれたロープワークの読本に目を通し確認しておく。
水下も気がつけば座席の作り方の確認をしていた。
まあ、何度も練習し、体が覚えている事には間違いない。
伊藤っちゃんはカメラの準備をしており、二ノ宮は間隔を取ってロープを木の幹に縛り付けていた。
先生が二ノ宮の張ったロープをチェックする。万が一結び方に間違いがあれば結び目にかかる力は変な掛かり方をして、結果、そのロープに命を預ける僕らの生死に関わるからだ。
嶋本先生は満足そうに二ノ宮のロープの結び目を見て頷いた。
「先輩、雑毛布敷いて来ますね」
「一応、命綱つけていけよ」
「はい」
二ノ宮は胴にもやい結びで輪を作ると近くの木に反対側のあまった部分をもやいで固定した。
そして、ザックの中から汚れた毛布を取り出し、崖の淵に敷く。
あれはロープを垂らしたとき、崖の角とロープの摩擦を柔らかくし、ロープが切れるのを防ぐものだ。
たかが、アイロンをかけると侮るなかれ。エクストリームアイロンの真髄はその周到な準備にある。
僕はヘルメットを装着すると、水下と装備の点検をお互い実施した。
確かに水下のハーネスは少し磨耗してるかもしれない。水下は僕らが帰った後、一人、さくら公園で練習していた。これはその時についた傷だろう。
僕はあえて気がつかない振りをした。
「ハーネスよし!スリングよし!」
「ハーネスよし!スリングよし!」
伊藤っちゃんが二ノ宮に装備を見てもらっている間、僕はシャツを固定したアイロン台を背負った。
何かあったときのスリングを肩からかけると、僕はみんなを集めた。
嶋本先生がみんな一人一人の顔を見ると告げた。
「お前たちの努力は、きっとお前たちに答える。努力はした奴にだけ、微笑む。大丈夫だ。頑張れ」
体の奥から、熱くなってきた。
みか以外の部員が一列に並ぶと僕は厳かに告げた。
「これより!エクストリームアイロンを実施する!」
「「了解!」」
皆が鋭く返答する。
「これより各人の任務を指定する!」
任務指定の号令は形式的なものだが、これが、僕らの動きにメリハリを与える。
「アイロナー、水下に指定する!」
「水下、了解!」
「ピクサー、伊藤に指定する!」
「伊藤、了解!」
「補助、二ノ宮に指定する!」
「二ノ宮、了解!」
それぞれに対し、指をさし、任務を分担する。
そして、みんなで円陣を組んだ。
僕が腹の底から、声の限り叫ぶ。
「北星学園ア・イ・ロ・ン・部ゥゥゥゥゥゥ!」
「「ッヤァァァァァァァァァァァァ!」」
びりびりと大気が震える。
多分、十二人の高校野球児が集まって円陣を組んでもここまでは声は出まい。
いまここで声を出している連中はこれから死地に赴く連中だ。
気合の入れ方が違う。
「ハイッ!」
「「オウッ!」」
「ハイッ!」
「「オウッ!」」
「エクストリィィィィィィィィィム!」
「「アイロン!ッイヤァァッ!」」
周囲の木が凪ぎ倒れそうな程の気合を炸裂させると僕らは走って自分の所定の位置についた。
「アイロナー準備!」
「ピクサー準備!」
「テーブル準備!」
号令と共に皆がまるで精密機械のように同じ手順でハーネスの金具にロープを通す。
皆が皆、ロープを通すと命綱を結ぶ。
今回は上にみかを含め、三人残る形になるので命綱を木の幹に繋いでいる。
もし、途中でトラブルがあっても、最悪落下して死亡する事は避けたかった。
そして、ロープ、命綱が準備できると、それに体重をかけてみる。
その動作まで伊藤っちゃんと水下、僕はユニゾンしていた。
あの厳しい訓練を、それこそ気が狂いそうになるまで繰り返したんだ。これくらいの芸当は造作無い。
たった、数週間の訓練だがお互いがこの厳しい訓練の乗り越えた仲間として、数年ダラダラと友達をやっていた人間に比べ、遥かに厚い信頼関係が僕らにはあった。
「ロープよし!確保よし!アイロナー水下準備よぉしッ!」
「ロープよし!確保よし!ピクサー伊藤準備よぉしッ!」
「ロープよし!確保よし!テーブル遠藤準備よぉしッ!」
それぞれ、お互いが準備ができた事を確認しあうと、僕は皆に号令をかけた。
「降下ァッ!」
「アイロナー降下!」
「ピクサー降下!」
「テーブル降下!」
僕らはそれぞれ落ちれば即死の断崖絶壁の降下を始める。
学校の外壁より高いが、僕らには積み上げられた訓練があった。
一番最初、先生に連れられて無理矢理降下したときとは違う。
繰り返し積み上げた訓練は危険に対する余裕を僕に生んでいた。
危険の上に身を置いてその危険を自分の支配下に置いている充実感はまた、今までの恐怖だけのエクストリームアイロンとは違う充実感を僕に与えてくれた。
伊藤っちゃんも水下も危なげなく、降下している。
「ッチ、ニィ!ッチ、ニィ!」
お互い、号令をかけながら降下スピードを合わせる。お互いが同じ高度に居た方が装備にトラブルがあった場合に対処がしやすいからだ。
僕らはもういいだろうと思う高さまで降りると号令を止めた。
「降下やめぇ!」
その号令を受け、水下と伊藤っちゃんは止まる。
「フォーメーション!用意ッ!」
「フォーメーション了解ッ!」
二人が了解すると、僕らは高度を調整する。
アイロナーである水下を一番高い位置にし、ピクサーである伊藤っちゃんを真ん中に、そしてテーブルである僕を一番下に置く。
「テーブル、準備よぉしっ!」
「ピクサー、準備よぉしっ!」
「アイロナー、準備よぉしっ!」
それぞれが位置につくと息を飲む。
「フォーメーションッ!」
僕が号令を飛ばす。
「フォーメーションッ!」
聞こえてはいるのだろうが復唱する事で聞こえている事を教えてくれる。また、聞こえていない人にその号令を伝えてくれる。
基本ではあるが、これが一番大事な事である。
これからが本番である。
基本の繰り返しを本番でも繰り返す。
練習ではうまくいったが、本番でうまくいかなければそれは無意味である。
僕らのこなしてきた訓練を信じるしかなかった。
そして、僕らがお互いにしてきた訓練はこの死地においても揺るぐことのないお互いへの信頼をもたらした。
一人でやるエクストリームアイロンとは違う、皆でやるエクストリームアイロン。
僕は今までに無い感動と、胸の置くからこみ上げるエネルギーが口から迸りそうになるのを堪えながらフォーメーションを取る。
僕はアイロナーである水下の下に崖を蹴って慎重に移動する。
長いロープが絡まり合わないように最新の注意を払う。
そして、練習と同じようにフォーメーションが成功する。
「ピクサー、準備よし!」
伊藤っちゃんが親指を立てて僕に合図を送る。
僕はそれを受けて右手でロープにブレーキをかけると、左手でシャツを固定したアイロン台を掲げた。
「テーブル、準備よし!」
そして、水下がそこで転回した。
その様子は危なげなく、水下が流した血と汗に裏打ちされた努力が、成功を導いたかのようだった。
「アイロナー、準備よし!」
全部の準備が整った。
僕らの気持ちはこの瞬間、一体となった。
「「エクストリィィィィィィム」」
極限な状況における、アイロンがけ。
「「アイロォォォォン!!!」」
僕らの咆哮が大気を揺るがす。
吹きすさぶ風も、僕らのエネルギーの奔流がかき消していく。
「ィヤアァァァァァァァァァァッ!」
アイロン台の上に水下の熱くたぎった鉄の塊が押し付けられる!
「ッダァァァァァァァァァァァッ!」
僕はその熱いアイロンを受け止める!
熱い咆哮がぶつかりあい、アイロン台の上で暴れる!
シャツの上で迸るアイロンの熱さはさながら水下の、僕の、伊藤っちゃんの、そして、上で僕らのサポートをする二ノ宮の。
僕らのどこにも行き場の無いエネルギーを爆発させてるようだった。いや、爆発させていたんだ!
僕と水下の目が合う。
僕が不敵に笑うと、水下も口の端を吊り上げて答えた。
シャッターを切る音が、風の音より激しく僕らの耳を打つ。
「ピクサー!撮影完了!撤収ゥ!」
「撤収っ!」
その号令がかかり、僕らはアイロンとアイロン台をしまった。
そして、撤収準備に取り掛かる。
だが、その時、それは起こった。
鈍い金属音がした。
「あ……!」
水下のハーネスが壊れた。
先生が指摘し、僕が見逃した金具が、壊れていた。
その光景は僕の目の前でスローモーションの様にゆっくりと、鮮烈に目に焼きついた。
「……っ!」
声にならない悲鳴を上げて、水下の体が宙に舞う。
僕は咄嗟にアイロン台を放し、両手で水下の体を受け止めていた。
僕の体も宙を舞う。
だが、僕はまだ、ハーネスに吊るされた命綱があった。
上で支えてくれるだろう二ノ宮を信じて叫ぶ。
「二ノ宮ァっ!」
僕の体の落下が止まる。
二ノ宮が命綱を支えてくれたのだろう。
だが、命綱には僕と水下の二人分の体重がかかっていて、僕のハーネスの方がこのままでは先にやられてしまう。
僕は胸の上に水下を抱えるように抱くと、急いでロープを握り、ロープに体重をかける。
水下は僕の胸でゼイゼイと息を上げ、がくがくと震えていた。
「水下、大丈夫か!」
「あ、ああ?あ、ああ……」
水下はパクパクと金魚のように口を動かす。
「俺、生きてるのか?生きてる?ああ、生きてる……」
水下はかなりのパニックに陥っていた。
僕もつられてパニックになりそうだったが、僕は訓練どおりやるべきことをやることに勤めた。
人間、困ったときは繰り返し練習した事が自信になる。
「アイロナーのハーネスが破損したぁ!」
僕が大声で上で待機する二ノ宮や先生にも報告する。
伊藤っちゃんが同じ高度まで降りて慎重に近づいてくる。
僕はパニックにならないように落ち着きながら次すべき事を考えた。が、考えるより先に訓練された体が動いていた。
繰り返した訓練は、僕の口を借りてすらすらと次にすべき事を指示させる。。
「これよりアイロナーはスリングにて座席を作成!テーブルはその補助に入る!ピクサーはカラビナの設置補助!」
「りょ、了解」
伊藤っちゃんはブレーキを駆りながらハーネスに吊るした予備のカラビナを外す。
「……くそう、結局、何やっても俺は中途半端なのかよ」
水下が悔しそうに泣いていた。
パニックに陥ったんじゃない。
こいつは自分の努力が、たった一つの事故で無駄になった事に泣いているのだ。
僕は知っている。
水下はいい加減な奴で、何事にも真面目になった事が無い奴だった。
それは水下自身もわかっていたのだろう。
だが、僕はそれでも知っていた。
あの夜のバスケットコートで水下はぼろぼろになりながらも一人で、何度も何度も這い上がった。
腕が震え、顔が血に染まり、泥だらけになりながら、それでも、頑張っていた。
それは水下の本気であり、水下はそれをこの一週間繰り返したのだ。
「水下ぁ!」
僕は叫んでいた。
「僕は言っただろう!水を信じてるって!お前の技術にはミスは無かったし!手順、スキルにもミスは無い!今のは事故だ!単なる事故だ!まだ誰も死んでない事故だ!」
僕の口から出てくる言葉は思考で編み上げられたものじゃない。
ゆえにそれは僕の本心だった。
「僕は信じてるからな!こんな事故にあっても、なお、僕らにはそれをどうにかできるだけの訓練をしてきた!それだけの技術を身につけたんじゃないか!お前は誰よりも頑張ってたじゃないか!絶対生きて帰る!」
水下が泣きながら咆えた。
「ウァァァァァァァァアアアアアアア!」
水下は叫びながらも、自分の肩にかけたスリングを解き、自分の腰に巻きつける。
僕はスタンスを広く取り、水下が作業し易いようにしてやる。
水下は恐慌に陥りながらもハーネスを手早く外すと、座席を作り始めた。
何度も繰り返し編んだ座席はしっかりと水下の腰で固定される。水下は全体重を僕の胸に預けて座席を編んだ。
水下は取り乱してもなお、正確に座席を編みきったのだ。座席はロープワークの中では難しい部類に入る。水下は恐慌の中でそれを成功させる事ができたのは他ならぬ水下の努力の賜物としか言いようが無い。
しっかりと固定された座席に、伊藤っちゃんから受け取った代理金具であるカラビナを固定し、それにロープと命綱を固定する。
そして、ロープと命綱の固定をしっかりと確認すると僕から離れた。
「アイロナー!復帰!」
「アイロナー復帰了解!撤収ッ!」
「撤収ッ!」
今度こそ僕らは撤収した。
水下が流した涙は風に吹かれて消えていた。
常に死と隣り合わせであるエクストリームアイロンの本当の恐怖を皆は初めて感じただろう。
それでも、崖を上りながら水下がふと、僕らに言った。
「…ありがとう。俺、アイロンやってよかったよ」
それは僕らの心に、確かに響いた。