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第一章 『アイロンと僕』

「真一、せっかくの土曜日だし今日帰りどっか寄っていこ!」


ホームルームが終わり帰ろうとしたところで声をかけられた。


「遠慮しとくよ、金井こそバスケ部の試合近いんだろう?練習に行けよ」


 僕は同級生である金井みかの誘いをぞんざいに断ると、薄っぺらい鞄を手に取り席を立った。

僕こと遠藤真一と違い、金井みかは勉強もスポーツもできる絵に描いたようなクラスのアイドルみたいな奴である。

肩のラインで揃えた校則に引っかからない程度の茶髪のショートカット。活発な性格を象徴するような大きな目と、いまどき珍しいヘアバンドが特徴的と言えば特徴的か。

小さい頃からの腐れ縁であり、たまにこうやって声を掛けてくる。

 しかし、みかは来月にあるバスケの地区予選にもレギュラーに選出されており、今は僕のようなつまらない人間と関わっている暇は無いはずだ。


 「たまにはいいんだって。真一最近元気ないじゃん?だから一緒に遊びに行こうっていってるの」


形のいい眉を潜め、不機嫌な顔をあらわにしながらみかは言う。


 「ん、ありがとう。でも今日は忙しいんだ」


それはウソだ。

 今日の午後は何も予定はないし、何もする気は無い。


「何にもやる事なんか無いのに?」


 みかもその程度の僕の予定はわかる。

 しかし、僕はあえて取り合わない事にした。

 僕は答えずに鞄を持って教室を出る。

 正直、何をしてもやる気がおきない。

 私立北星学園で一年過ごし、今では二年生になるが、僕はこの学園生活を含む全てのものに嫌気がさしていた。

校門を出て、通いなれた道を歩く。

 まだ少し寒い春の風を頬に受ながら、学校の周りをランニングする野球部員とすれ違う。

 その野球部員は僕も知っている奴で、去年の春から真面目にクラブで練習し、今年晴れてレギュラーになった奴だ。

 僕に目をくれる事もなく、息を弾ませて走り去っていく。

奴の頭の中はきっと、地区予選で一杯なんだろう。

 僕はその後ろ姿を目を細めながら眺めると小さくため息をついた。

 僕は家につくと、居間で自分の茶飲み友達と電話している母親に、ただいまと一方的に伝えると二階にある自室へ入った。

 カーテンを締め切った暗い部屋の床に鞄を放り投げると、ベッドに倒れこむ。

 僕はブレザーを脱ぎ、ジーンズとトレーナーを着ると、その上からパーカーを羽織った。

 下でまだ、友達と電話で話している母親に出掛けてくる旨を告げるとそのまま外に出た。

 コンビニでサンドイッチを買うと、家の近くの公園に赴く。

 土曜日の公園は子連れの主婦が多く集まり、小さな子供が遊具で遊ぶ横でおしゃべりをしていた。

 僕はそれを横目で見ながらベンチに腰掛ける。

 先ほどコンビにで買ってきたサンドイッチを開きそれを齧る。

 隣のベンチでは灰色のコートを着た三十歳くらいのサラリーマン風の男が自分と同じようにサンドイッチを膝の上に開きながら、携帯電話で仕事の話をしていた。

 落ち着かない様子でサラリーマンは会社となにやら話し合っている。

 僕も来年は受験勉強をし、大学に進み、そしてこの人みたく仕事をするのだろう。

 まあ、うまく合格した場合の話であるが。

 僕はしばらくその人の様子を見ていた。その男の人は電話を終えた途端、大きくため息をつくとサンドイッチを齧りながら立ち上がった。

 それから、不機嫌そうな声で何かを呟きながら立ち去っていく。

 何か仕事でトラブルでもあったのだろう。 大人になれば色々と抱えるものがあるのだろう。

 その姿に遠い将来の自分を重ねながら、僕もため息をついた。

 どれくらいそこに居たのだろうか。

 ふと、僕の携帯電話が鳴った。

 僕は着信がみかである事を確認し、舌打ちすると一応出る事にした。


 「もしもし」

 「真一。今どこに居るの?」

 「ああ、さくら公園に居るよ」

 「あんた、机の中に宿題忘れてってるよ?今から持ってくから」

 「バスケの練習しなくていいのか?」

 「今日はいいんだって言ってるでしょうに!少しそこで待ってなさい」


 怒気をはらんだ声で一方的にまくしたてると、みかは電話を切った。

 僕は顔をしかめると、小さくため息をついて携帯電話をポケットにしまった。

 それから程なく、みかが公園に入ってきた。

 学校帰りのままなのだろう、まだ制服のままだった。

 みかの表情は誰が見ても怒っていた。


「真一、やっぱり暇なんじゃない」

 「まあ、そうなんだろうな」


 僕はみかの棘のある言葉を適当に流すと、そっぽを向く。

 みかは鞄から宿題のプリントを出すと、僕に突き出してくる。

 僕はそれを受け取ると、折りたたんでポケットにねじ込んだ。


 「ありがとう」

 「最近、真一、ぱっとしないね?」


 みかはため息をつくと僕の隣に腰掛けた。

 僕はサンドイッチを齧りながら、みかを眺める。みかは僕の膝の上にあるサンドイッチを取ると齧った。


 「こら」

 「これでいいでしょ?」


 みかは鞄の中から缶コーヒーを出すと僕に押し付けた。微糖のそのコーヒーは買ったばかりなのだろう、まだ熱かった。


 「できれば無糖がよかった」

 「文句言える立場じゃないでしょう」


 みかはもう一本缶コーヒーを取り出し、それを開ける。

 みかのコーヒーはしっかりと無糖ブラックである。

 僕はコーヒーのプルタブを押し込むと、口をつける。


 「そうそう、真一?バスケ部の二ノ宮遥って知ってる?」

 「一年生のだろう?お前の後ろにしょっちゅう居るじゃないか」

 「今度、真一と遊びたいんだってさ?」

 「なんで?」

 「真一って疎いのねえ」

 「疎いんじゃなくて面白くないだろう。僕と居たって」


 僕の口調は少し怒ったものになっていた。

 何故だろう。凄くイライラする。

 僕はぐっとコーヒーを喉の奥に流すと、遠くのゴミ箱に空になった缶を放り込む。

 からんと乾いた音をたててくるくるとゴミ箱の中で缶が回る。

 みかはそんな僕の様子に気づく事もなくけらけらと笑っている。


 「いいんじゃない?本人さえ楽しければ。そんなもんでしょ?」

 「いいねえ、羨ましいよ。楽しいと思えるものがあるのは」

 「私は真一の方が羨ましいよ。一日中こうやってのほほんとして何も悩みもなさそうにぼけーっと暇にしていれるなんて」

 「そうなの?」

 「だって、今、みんな中間試験やクラブの試合だとかで忙しいじゃん。真一くらいだよこうやってだらだらしてるの」


 僕は言われようの無い苛立ちを感じつつも、それを胸の奥にしまいこんだ。


 「そうかぁ……」


 僕は吐き出すようにそう呟いた。

 しばらく、僕とみかはベンチに座ったまま、黙って公園で遊ぶ子供達を見ていた。

 サンドイッチも食べつくし、コーヒーも無くなる。

 そういえば昔、みかとここで遊んだ事もあったっけ。

 かくれんぼで、鬼だったみかを置いてそのままみんなで帰った事もあるし、今は撤去された回転遊具で遊んでいて、みかに足を掛けられて転ばされ、病院に行った事もある。


 「そういえば昔、ここでよく遊んだよね。かくれんぼで鬼のとき真一や博之達、私置いて帰ったよね?」

 「次の日、地球儀で遊んでた僕の足かけてちゃんとやり返されたじゃないか。病院で四針も縫ったんだぞ」

 「おかげで地球儀なくなったんだっけ」


 みかはくすくすと笑う。

 僕はため息をつくとみかに聞いてみた。


 「みか、自分の将来って考えたことある?」

 「うーん、まあ、大学行ってそれからまぁ、なんとかなるだろうくらいには考えた事はあるけど……」


 みかはそう言って一度言葉を切った。


 「でも、今はそんな事考えてる暇ないかな?だって、バスケとか恋とかで忙しいもん」

 「誰か好きな人でも居るのか?」

 「居ないよ。これから誰かを好きになるの」

 「はぁ?」


 みかの返答に僕は少々面食らう。


 「だって、高校二年のこの時期は一生の間で一度だって戻ってこないんだよ。だったらやれるだけの事やりたいじゃん?真一はそういうのって何かないの?」


何か言葉が胸の奥にのしかかってくるような感じがした。


「無いよ。あればこんな事してねえだろうに」

「まあ、そうでしょうねえ」


 答えて僕はまた、イライラしてきた。

 イライラの原因は多分自分でもわかってる。

 だけど、僕は認めたくないだけだ。


 「真一は部活に入らないの?バスケ部とか入れば遥が喜ぶんだけど」

 「今更入ったって練習してる奴に迷惑だろう?レギュラーになれる訳でもないし。多分ずっと帰宅部してるんじゃないかな」

 「真一だったらそんなものか」


 みかはくすくすと笑って立ち上がった。


 「行くのか?」

 「うん、何か話してたらバスケの練習したくなった」

 「試合、近いしな。頑張れ」

 「真一も頑張ってね」

 「……何も頑張る物がないけどな」

 「遥と付き合えば?恋愛も青春のうちだぞ」

 「考えるだけ考えておく」


 僕は適当にそう答えると、手を振って立ち去っていくみかの背中を見送った。

 僕はその後、公園を後にすると商店街のゲームセンターに足を伸ばした。

 帰宅途中の学校の後輩だろう、ゲームの筐体に群がり、がやがやとやっている。

 僕も携帯で友人と呼べる友人に連絡してみたが、あいにくどいつも出ないか部活で忙しいとの返答だった。

 いつもは一人くらいは誘いに乗るのだが、今日は珍しく皆無だった。

 僕はため息をつくと一人でゲームをして時間を潰すと、家に帰る事にした。

 家に帰ろうとする頃にはあたりも暗くなっていて、家に着いたら既に夕食の準備ができていた。

 そのまま食卓につく。

 珍しく夕食前に親父が仕事から帰ってきており、妹の麻奈を含め、家族四人で食卓を囲む事になった。


 「最近、学校どうなの?」

 「何も無いよ」


 以前にもした事のある受け答えをして僕はいつもと大して変わらない夕食を胃に収める。


 「麻奈はどうなの?」

 「部活で妙子ちゃんが足くじいて今日病院に運ばれたよ」

 「あら……」


 下らない会話を耳の端に留め、僕は食事を終えようとした。

 その時、親父が唐突に問いかけてきた。


 「真一は今何かやりたい事はないのか?」

 「なんでそんな事聞くんだ?」

 「お前部活も何もしてないだろう。かといって友達とつるむ訳でもないし。高校二年だってのに色っぽい話すらないだろう?なら別に何かやりたい事があるんじゃないのかって思っただけだ」

 「別にそんなの無いよ」


 僕はそう答えるのが少し、腹立たしかった。

 僕はさっさと自分の部屋に戻るとテレビをつけてゲーム機の電源をつけた。

 しばらくはそれで時間を潰し、飽きるとベッドに横になった。

 わかっている。

 そう、わかっているんだ。

 みかも親父の言うことも。

 僕のこの時間は昼間見た子供達の時間と一緒であり、過ぎ去れば戻る事のできない時間で、いずれはあのサラリーマンのような世の中の煩雑さの中に入らなきゃならない。

 その前に、時間のある今のうちにやりたい事や楽しい事をできるだけしろと言いたいのだろう。

 それはわかっている。

 だけど、何がやりたいのかがわからない。

 今更、みかの言うとおりバスケ部に入部したってずっと玉磨きで終わるだろうし、好きでもないバスケに時間を費やすのもまたもったいない。

 二ノ宮遥は確かに可愛い部類に入るのだろうが僕は彼女の事を知らないし、また好きでもない。

 また、向こうだって僕を好きかどうかも分からないし、浮かれてその気になったら馬鹿をみるのは中学の時に味わっている。

 恋愛に対して臆病になっているのもあるが、今は恋愛をしたいという気にはなれなかった。

 そう、僕は決定的に何かしたいという衝動に欠けていた。


「くそったれ」


 だけど、世の中にどれ程、この時期に思うような何か打ち込めるものを見つけて青春らしい青春を謳歌できる奴がいるのだろう。

 多分、僕のようにだらだらと過ごしてしまう奴の方がきっと多いはずだ。

 きっと、あの時、もっと遊んでおけばよかったと将来後悔しながら、大半の人は大人の事情という奴にもみくちゃにされるのだろう。

 僕は寝返りを打つと風呂に入らず寝ようと思った。

 まどろんでゆく意識の中で、所詮人生なんてこんなものだと思い込み、納得しようとした。

 漫画や小説みたいな青春なんて、人の作ったありもしない青春像で、こうなればいいなという理想の形なんだ。

 それはあくまで理想であり実際に叶うものでは無い。

 だから、僕はありふれた高校生活を送る標準的な高校生のままで終わるのだろうと、半ば諦めていた。

 だけど、どこかでそんな青春に憧れて、そうありたいと思う自分も居る。

 だから、こんなに腹が立つんだろうな。

 僕はここで考えるのをやめた。

 まどろみに落ちていく意識に身を任せ、その時、今日という何も生み出す事の無い一日が終わっていった。


 「担任の柴田先生が家庭の事情で急遽辞める事になりました。今度からこのクラスを受け持つ事になった嶋本一彦です。専門は英語です。よろしくお願いします」


 週を明けて登校したところ、担任の先生が変わっていた。

 まあ、担任の柴田は両親の借金だとか何かと実家で色々とあるという話を聞いていたのでややもすればこうなるとは感じてはいたが、まさか本当にこうなるとは思っていなかった。

 新しく取って変わった担任の先生は教壇で教鞭を取るより、ベンチプレスでバーベルを持ち上げている方が絵になるようながっしりとした体格の男だった

 年の頃なら二十台後半だろう、耳に残る大きな声で大雑把に出欠を取る。


 「そしたら、悪いけど休み時間に出席番号一番から順に面接してくからな。俺まだみんなの事全然わからないからな」


 嶋本先生はホームルームの締めでそう告げると、礼を済ませる。

隣の席のみかが囁く。


 「……何か熱そうな先生だね」

 「かもしれないな」


 僕はどうでもよさげにそう答えた。

 だが、僕はこの男との出会いがこれからの学校生活を変える出会いだとはまだ、気がついてはいなかった。


  ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 僕の面接の順番が回ってきたのは昼休みの一番最初だった。

 生徒指導室という名前だけの空き部屋に入り、机を挟まず嶋本先生と向き合って椅子に座る。


 「ええと、遠藤真一だな?何だ部活動してないじゃないか。さみしい野郎だな」

 「……先生失礼ですよ」

 「お前こそ青春に対して失礼な奴じゃないか。どのみち、お前、彼女とかもいなさそうだしな」


 嶋本先生はげらげらと笑いながら、僕の肩を叩いた。初対面で失礼極まり無い事を言われているが嫌いになれない爽やかさが嶋本先生にはあった。


 「で、お前、これからどうする気よ」

 「これからって?」

 「高校生活だよ。何かやるのか?」

 「高校三年になったら受験勉強して大学行こうと思います」


 僕は正直にそう答えた。

 嶋本先生は額を押さえながら難しい顔をすると、一人頷いた。


「寂しい奴だなぁ……」

 「自覚はしてます」


嶋本先生はひとしきり僕の顔を眺めると、何かを納得したように頷く。


 「じゃあ高校二年やってるうちは暇なんだな?」


 僕は頷くしかななかった。

 嶋本先生は生徒指導簿に何かを書き込むと、にやりと笑った。


 「よし、お前、俺が今度顧問する部活に入れ」

 「は?」

 「丁度部員になれそうな奴探していたんだ。いいだろう?暇なんだから」

 「確かに暇ですが、やりたくない事までやるのは嫌ですよ」


 僕は顔をしかめる。

 嶋本先生は笑顔のまま頷いた。


 「確かにそうだよな。だが、何もやる前から面白くないと決めつけるのもまた良くないだろう。とりあえず一度やってみてから決めてみろ」

 「はあ」


 僕は曖昧な生返事を返す。

 嶋本先生はにやりと笑うと、僕の肩を叩き、告げる。


 「お前、明日も暇だろう?だったら放課後俺と付き合え。さっそく、部活動だ」


 何か一方的に流されているような気がしないでもないが、僕は頷いた。


 「でよ?これだけは自分で準備してもらいたいものがあるんだ」

 「はあ」


 ジャージでも用意すればいいのだろうか?僕は明日、この新しい先生に何と言って入部を断ろうか考えていた。

 嶋本先生は僕の予想を裏切ったものを用意しろと言った。


 「アイロンとアイロン台は自分で用意してくれ」


   ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 ホームルームが終わり、帰宅準備をしている時に昼の出来事をみかに話したところ、みかが怪訝な顔をした。


 「はあ?アイロンとアイロン台?何の部活なの?」

 「……聞くの忘れてた」


 僕は頭を掻いて難しい顔をする。


 「あの体で真一と二人して、シャツにアイロンをかけてる姿ってあんまり想像できないんだけど」

 「僕も想像したくないな」

 「なら、なんで断らなかったの?」

 「断る理由が無かったから……明日には断るよ」


僕が鞄に教科書を詰めながらそう答えるオと、教室の入り口に知った女生徒が居た。

 みかの後輩の二ノ宮遙で、遙は僕と目が合うと軽く頭を下げる。

 僕も彼女に軽く頭を下げ返すと、目の前で唸るみかに顎で合図する。


 「ふーん……あ、遙が来た。真一、バスケの練習行くね。もし暇だったら練習見に来る?遙も喜ぶよ?」

 「いや遠慮しとく。今日は孝とゲーセン寄って帰る」

 「そ、じゃあまたね」


 僕は軽快に走りさるみかの後ろ姿を見送ると鞄を取り学校を後にした。


   ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 ゲーセンで十分に時間を潰した後、家に帰った。

 母親が洗濯物を干している横を通りすぎならが、僕はアイロン台を探す。


 「母さん、アイロンとアイロン台ある?」

 「自分でシャツの皺でも伸ばすの?」

 「いや、明日部活動で使うんだと」

 「あんた部活やるの?」

 「体験だけどね、まあ、行くって事になってるから一応持ってかないと」

 「何、運動部員の洗ったシャツにアイロンかけるのかい?」

 「わからないよ。それだったら何か嫌だから辞めてくる」


 何か母親が言った事が本当になりそうで嫌な気がした。

 他の運動部員の洗い終わったシャツをアイロンがけするなんて何か屈辱的だ。別に関係ない奴のシャツなんざ知ったこっちゃいない。

 僕は押入れのすみにあったアイロンとアイロン台を見つけると引っ張り出す。


 「このアイロンコードついてないよ?」

 「ああ、それ今流行りの充電式コードレスアイロン。充電されてるからスイッチ入れれば使えるわよ」

 「いいや。借りる」

 「ちゃんと返しなさいよ」


 僕は少し焦げて茶けているアイロン台とアイロンを持って自室に戻った。


   ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 次の日、僕はスポーツバックにアイロン台とアイロンを入れて登校した。

 放課後、嶋本先生のところに行くとそこには先客でみかと二ノ宮が居た。


 「あれ?なんでみかも居るんだ?」

 「マネージャー兼務。今、風邪が流行ってて今日バスケ部の練習中止なんだって。だからこっち来てみたら嶋本先生が一緒に行っていいって」


 みかは楽しそうに笑う。

 その横で控えめに二ノ宮が僕に頭を下げる。


 「えっと、金井先輩に言われてついてきたんですけど、遠藤先輩何をするんですか?」


 二ノ宮にそう言われて僕は嶋本先生を見る。

 嶋本先生は足元に置いてあった、大きなザックを背負うと笑った。

 そのザックはまるでアフガンやイラクの戦場でも潜りぬけたかのようにほころんでおり、また、更なる戦場へ向かうのか大量の荷物が入っているようだった。


 「じゃ、遠藤が来たから行くか」

 「行くって、先生どこに行くんですか?」


 僕が聞くと先生は僕の背中を外に押して行く。


 「着けば分かるって」


 嶋本先生に連れられ、嶋本先生の車に乗る。


 「これから、鳥山八景にいくぞ」


 鳥山八景は学校から三十分くらい車で行ったところにある観光客用に設けられた山道だ。

 もともとこの地区は扇状地になっていて、山から川が流れている。川の上流は谷になったり、切り立った崖になっていたり、八つの絶景があることからそう呼ばれているところだ。

 だが、実際は極めて認知度の低いローカルな観光名所であり、地元民でもあまり近づくことがない場所である。

 嶋本先生の運転する緑色のジープのチェロキーに揺られながら、二ノ宮がみかに囁く。


 「遠藤先輩これから何するんですか?」

 「さあ?でもアイロン持って来いって昨日言われたみたいだよ?」

 「アイロン?何に使うんですか?」

 「さあ」


 それを今一番知りたいのは僕だ。

 しばらくしてジープは鳥山八景の駐車場につく、僕らはジープを降りると各々の荷物を持つと先生の後についていった。


 「さて、これから山登るからな」


 先生はさらりとそう言って、巨大なザックを背負ったまま山道を登っていく。


「お、ギョウジャニンニクだ……採っていこう。多分まだ沢山あるんだろうな」


嶋本先生は足元に生えている山菜をむしり、ザックにねじ込む。


 「先生、自然観察クラブか何かですか?」


 僕が聞いてみると先生が眉の根を眉間に寄せて人を馬鹿にしたような顔をする。


 「お前、アイロンとアイロン台持って自然観察するツモリか?もうちょっと考えろ」


 なら、せめてアイロン台とアイロンを何に使うのか教えて欲しかったが先生はすたすたと山道を登っていく。

 僕の後を二ノ宮とみかがゆっくりと上ってくる。

 しばらく、山道を登ると先生は「危険入るな!この先崖あり」と書かれた古い看板が立てられ黄色いロープの張られた小道に逸れて、そのロープを越えて中に入っていく。

 僕とみかと、二ノ宮はそれぞれお互いの顔を見合わせる。


 「おーい、何してる。早く来ーい」


 どこか楽しげな声で嶋本先生が僕らを呼ぶ。

 僕らは何か釈然としない物を感じながら先生の後を追った。

 まだ、春先とはいえ少し寒い。

 歩く先で枯れた枝を踏み、靴の下でぱきぱきと音がする。

 スネまで茂った草を掻き分けながら、先生の後を追う。


 「枝がスカートに引っかかる……」

 「……先輩、背中に虫ついてますよ」


 みかや二ノ宮は虫を払ったり、スカートの裾を気にしながら嫌そうな顔をする。


 「みか、二ノ宮と一緒に車で待ってたらいいんじゃないか?制服じゃ辛いだろ」

 「でも、何するか気になるからついてく。遙ももちろん行くよね?」


 みかに詰め寄られ二ノ宮は半ば強引に頷かされた。


「とりあえず俺、先に先生のところに行ってるから後からゆっくり追いつきな?」


 僕は二人を気遣いながら、もはや森となった山道を進み、先生の後を追う。

 しばらくして、道は急に途切れていた。

 看板にあったとおり、崖になっていた。

 崖の高さは五十メートルだろうか、下には川が流れており、その川を挟んで先程車で走った道路が走っていた。

 道路の脇に立っていた看板からすれば今僕らがいる場所は鳥山八景の一つ、鳥山絶壁の上に居る事になる。

 先生はザックの中からロープやらヘルメットやらを取り出しながら、何やら準備をしている。

 その様子を一部始終眺めながら僕は嫌な予感がした。


 「先生、これから崖を降りるツモリですか?」

 「途中までな」


 先生はそう言って僕にナイロン製のベルトを投げて渡した。

僕も映画や、ニュースで見たことがある。これはハーネスという奴だ。


 「ラペリング用のハーネスだ。それ、とりあえず着けてくれ。ああ、制服が汚れるっていうんだったら、そこに作業服あるからそれに着替えろ。後、ロープで手を焼かないようにグローブもつけろよ」

 「……ロッククライミング部ですか?」

 「残念だ。これからするのはロッククライミングみたいなもんだが、それは目的を達するための一つの過程でしかない」


 僕は嶋本先生の隣で、用意された作業服に着替えながら、僕は顔を難しくする。

 いい加減、そろそろ何をするかはっきりさせた方がいい。

 ロッククライミングは昔から一度やってみたいとは思ってたからやってみてもいいが、それでもないとなると何をするのか問いたださねばならない。


 「先生、そろそろ教えてくださいよ!こんな崖まで来てロッククライミングまでして何をするんですか」


 嶋本先生は目をぱちくりとさせながらまるで何でわからないのか不思議な顔をする。


 「お前、自分の荷物で何もって来てるんだ?」

 「アイロンとアイロン台です……」


 僕はアイロンとアイロン台をバックから取り出すと嶋本先生に見せた。


 「おお、西芝の新型、今流行りのコードレスアイロンじゃないか、一番いいの持ってきてるじゃないか」

 「これで何するんですか、断崖絶壁で崖に張り付きながらアイロンでもかけるっていうんですか?」


 嶋本先生は僕の肩を叩くと


 「わかってるじゃねえか。なら聞くんじゃねえよ」


 と笑って答えた。

断崖絶壁に張り付きながらアイロンをかける?


「冗談ですよね?」


僕が聞き返すが先生は至極真面目な顔で答える。


 「冗談なものか。極端なアウトドア活動のスリルを健康なプレス加工されたシャツの満足と結合する最新のデンジャラススポーツ……これが、今からお前のやるスポーツ『エクストリームアイロン』だ。俺とお前はこれから誰も体験したことの無いようなスリルのある生活を体験するぜ?」


 嶋本先生はそう言って親指を立てて不敵に笑う。

 今、分かった事がある。

 こいつは多分、馬鹿だ。

 先生という職業だが、間違いなく馬鹿だ。

 確かに誰も体験しはしないだろう。

 誰もそこまでしてアイロンなどかけようとしない。

 嶋本先生はハーネスをつけると、ザックの中からコイル状にまかれたロープを二巻き取り出した。

 それを慣れた手つきで手近な木の幹に巻いて固定する。

 嶋本先生はロープの片方を崖の下に向かって投げる。ロープはコイルを解きながら緩やかな弧を描いて崖下へと落ちていく。


 「先生、アイロンかけるにはこの崖めちゃくちゃ高いですよ」

 「エクストリームアイロンじゃこんなところ常識だって。まあ、一番最初のうちは人の多い通りだとか、家の庭で逆さづりになってアイロンが妥当なんだけど、それじゃお前も楽しくないだろう?」


 楽しくなくてもいい。とりあえず身の安全を保障してもらいたい。

 僕が作業着に着替え、ハーネスをつけて木偶人形のように突っ立っていると嶋本先生はザックの中にあったヘルメットを僕の頭に被せる。


 「まあ、落ちたらこんなの役に立たないが、ヘルメットは上からの小石とか落下物に対しては有効だからな。準備ができたらハーネスの金具にロープを通せ……って言ってもやり方わかんねえよな。いい、俺がやる」


 嶋本先生は僕の腕を引っ張り、木の幹に固定されたロープの場所まで来ると腰のハーネスの金具にロープを通した。


 「うっし、準備はこれでOKだ。アイロン台とアイロン持て。シャツは……さっきまで着てた学校のシャツあるだろ。それも一緒に持って降りるぞ」


 嶋本先生は僕の準備が終わると、自分のハーネスにロープを通しながらそう言った。

 僕は一応、先生に言われるままアイロンとアイロン台、さっきまで着ていたシャツを手に持つ。

 先生は準備ができると、ザックの中からカメラを取り出し、首にぶら下げる。


 「よっし、じゃあ、行くぞ」


向こうも準備が整ったのだろう。

 もう顔が断崖絶壁をロープでラペリングして降りるツモリでいる。

 僕はもう一度、嶋本先生が降りるツモリでいる絶壁を眺めた。

 地質についてはよくわからないが、花崗岩とかそんな名前がついてそうな灰色の岩肌がむき出しになった崖で、高層ビルの屋上から地面を見下ろすくらい高さ、やはり最初の目測どおり、五十メートルくらいはあるのだろう。

崖の下を覗きこむと程よく恐怖心を煽る爽やかな風が吹き上げてくる。

 足元にあった小石を蹴って崖に蹴り落としてみるが、下に落ちるまでにかなりの時間がかかってる。石が地面を叩く音は無論、聞こえない。

 僕は軽い眩暈を覚えて先生に言った。


 「先生。危ないです」


 酷く、端的な言葉で現状を表せたと思う。僕が国語の先生なら間違いなく満点をつける回答だ。

だが、彼は英語の先生だった。


 「大丈夫だって。降り方とか俺が教えてやっから」

 「そういう問題じゃなくて、落ちたら死にますよ」

 「だろうな……なんだ、遠藤ビビッてるのか?」


 正直、ビビッている。

 もし、この場所に僕と嶋本先生しかいないのであれば僕はここで素直に頷いて、辞退したかもしれない。

 そうすれば、僕はいままで通りの安穏とした生活をだらだらと送る事ができたかもしれなかった。

 だけど、運命というのは時に残酷なもので、その登場がもう少し、遅ければ別の結果を招いていたのかもしれなかった。

 丁度、その時にみかと二ノ宮が僕に追いついてしまったのだ。男の尊厳という物がある以上、二人の前で醜態をさらす訳にはいかない。

 二人は息を切らしながら、作業服にヘルメット、腰にはハーネスをつけてアイロンとアイロン台、それにシャツを抱える僕を見ている。

 当然、その姿は僕から見ても滑稽なのだから二人にとっても滑稽なものに映るだろう。

 二ノ宮が口元を押さえて笑いをこらえている横で、みかが目をしばたかせて僕に尋ねる。


 「あんた何するの?」

 「これから崖の途中でアイロンがけするらしい」

 「崖の途中でアイロン崖?体張った新手のギャグ?」

 「お前からも先生に言ってやってくれよ。こんなの無意味だって」


 僕はみかを巻き込んでなんとかこの場をしのごうと思った。


 「確かにねえ……はたから見たビジュアル的には馬鹿で面白そうだけど……ちょっと危険すぎる気がするわ」

「落ちたら死んじゃいますよ」


 みかと二ノ宮が崖を見下ろしながら恐る恐る口に出す。

 先生は二人の肩を叩くと


 「刺激的だろ?」


 と笑い飛ばした。

 確かに刺激的だが、こんな刺激は要りません。

 嶋本先生はみかと二ノ宮を面白そうに眺める。

 どこか自信のある、そして、いたずらめいた笑みだった。


 「金井と二ノ宮はバスケ部だよな?」

 「はい」

 「ところで、バスケットボールってのは高いところにあるゴールにボールをシュートして相手チームより多く点数を取るのを競うゲームだよな?」

 「ですね」

 「それに何か意味なんてあるのか?」

 「はあ」


 嶋本先生の質問にみかが曖昧に答える。

 だが、明らかに納得のいかない顔をしている。そりゃそうだろう、一生懸命やってきているバスケに何か意味なんてあるのかなんて言われれば僕がみかの立場でも納得がいかない。

 みかは少し憮然とした態度で答えた。


 「確かにボールをゴールに入れるだけだったら何の意味も無いかもしれないですけどそんな事言ったらスポーツなんてみんな意味が無いじゃないですか?スポーツってある意味ゲームみたいなものですから楽しめる事に意味があると思います」


嶋本先生がにやりと笑うのが見えた。


「そうだ、スポーツは楽しむ事に意義がある。このアイロンがけも一緒だ。アイロンをかけてシャツの皺を伸ばすのが目的じゃない。要はいま、金井が言ったとおり、皺を伸ばすまでの過程を楽しむのが目的だ」


 何か言ってる事がわかるようでわからない。

 わかってはいけないような気もする。

 みかはまだ難しい顔をしているし、二ノ宮も半分納得したような納得しないようなわからない顔をしている。


 「ま、いいや。とりあえず行くぞ。いつまでもこんなところでビビっていても仕方ないだろう」


 ビビってという言葉に反応して僕はむっとした。

 二ノ宮やみかが居る前では僕は男としての尊厳を保たねばならない。 

命の危険と男の尊厳であれば間違いなく命の方をとるべきなのだろうが、女子二名を前にしてそれができる程僕は人間として成熟されてなかった。


 「真一、危ないよ。やめな?」

 「先輩、やめた方が絶対いいです!」


 僕は俯き、二人に目を合わせる事なく。


 「いや、やる」


と答えた。

本当はやりたくはないのだが、そう言わざるを得ない。

 だってそうだろう。やっぱり崖を降りるのが怖いからやめさせてくださいなんてみっともない事、言えるわけがない。

 僕は先生に簡単にロープの持ち方や降りるときの足運びを教えてもらうと、背中にアイロン台を背負って崖を降りる事にした。

 まるで地面が九十度傾いたかのような絶壁をゆっくりと交互に足を変えながら降りる。


 「遠藤、もうちょっと体を起こせ!ロープを抱きかかえるように降りろ!でないと疲れるぞ」


 先生が上から叫ぶ。

 まだ先生は降りないみたいだ。

 僕は先生の言うとおり体を起こして、垂直に立っている地面に対し、体を九十度曲げて、まるで腰の悪い老人みたいな格好でゆっくりと降りた。


 「いいぞ!初めてにしては上出来じゃないか」


 僕はそれに答える余裕がなかった。

 どのくらいの時間がたったのだろう。

 多分、まだ、五分も経っていないのだろう。

 だが、僕にとっては一時間以上たっている気がした。

 その時には十五メートルくらいは降りていた。

 ロープを握る手がじっとりと汗ばむ。

 背筋も嫌な汗が伝わり、僕は心細くなってロープを抱き寄せる。

 吹き上げる風はどんどん強くなるし、下をみると、吸い込まれそうなくらいに地面は遠い。

 眼下を流れる川は白い水しぶきをあげ、激しい勢いで流れている。

 僕が両手を僅かに開けば、僕は全ての物が支配されている自由落下の法則に基づいてそこに落ちる事になるのだろう。 

落ちたら時は多分、もの凄く痛いのだろう。

 前にバイクの交通事故現場を見た事があるが、そのときはバイクの運転手の太ももの骨が皮ズボンから肉を裂いて剥き出しになっていた。

 ここから落ちればそんなものでは済まされないのだろう。

 僕はそう思うと、そこから動けなくなた。

 怖くなったのだ。

しばらくそこで蓑虫のようにロープにしがみつき、風に揺られていた。


 「遠藤ー!どうしたー!」


 上で先生が叫ぶ。


 「真一ー!」


 みかの声だ。

 見上げると、三人が心配そうに僕を見つめていた。

 さっきまで、僕の心を奮い立たせていた男の尊厳とやらは完全に折れ、今は恥でも何でもいい、とにかく助かりたい気持ちで一杯だった。


 「センセー!!」


 自分でもみっともないと思う。

 でも、それでも僕は助かりたかった。


 「やっぱ怖いです!助けてください!」


 みかや二ノ宮に後でなんと思われようが僕はその時、自分の命の方が大切だった。

 二ノ宮やみかは、そんな僕の情けない姿を見てどう思うだろうか。

 僕は叫んだ後に恥ずかしく途端に恥ずかしくなった。


 「待ってろ!今行くから!」


 上から嶋本先生がまるでテレビでみるレスキュー隊員のように軽快に崖を降りてくる。

 それに比べて僕はなんてみっともないのだろう。

 先生は僕の横まで降りると、片手で僕の肩を揺さぶった。


 「大丈夫か?遠藤」


 心配そうに顔を覗き込んでくるが、僕は恥ずかしくて顔をあげられなかった。


 「怖いのか?」


 僕は黙って頷いた。多分、今目の前に鏡があれば僕の顔は真っ青で今にも泣き出してしまいそうな顔だろう。

 僕は心底後悔した。

 先生が何をするのかわかんなくて、のこのことアイロンなんか持ってついてきたが、こんな事になるとは思わなかった。

 僕は所詮普通の人間であり、決してドラマや小説みたいな青春は送れない。

 何か特別な事なんて何も無い青春を送ってだらだらと大人になれればよく、それがどれだけ素晴らしいものか、こうなるまでわからなかった。

 これだったら、今日も授業が終わって家に帰ってゲームでもしていた方がまだ、マシだった。

 僕は目の端に涙を溜めながら、ずっと俯いていた。

 そうしたら、隣で、先生が急に叫び出した。


 「ウオオオオオオオオオオオオオ!」


 僕ははっとして、隣に居る先生を見つめる。


「先生?」


 先生は僕の顔を覗き込むと、爽やかに笑う。


 「なんか、こう、生きてる感じがするな?」


 こんな時に何を言ってるのかわからなかった。嶋本先生は楽しそうに続ける。


「俺も最初は怖かった。けど、そんときは叫んだ。すると怖くなくなった。遠藤、お前も叫んでみろ」


 僕がきょとんとしていると、先生は僕にむけてもう一度叫んだ。


 「オオオオオオオオオオオオオオオオ!」


 僕は目を細めながら、それを聞いていた。

 先生が叫び終わる。

 僕は叫び返した。


 「アアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 上で二ノ宮とみかが、まるで僕らが気が触れてしまったのではないかと、心配そうな顔をして、僕らを見つめていた。


 「オオオオオオオオオオオオオオ!」

 「アアアアアアアアアアアアアア!」


 僕と先生は交互に何回か叫びを交わした。


 「っしゃあ、その気合だ!」

 不思議と先ほどまであった怖さは消えていた。


 「遠藤、イチ、ニ、イチ、ニで降りるぞ!」

 「はい!」


 自分でも驚くぐらいの大きな声で先生に答えた。


 「エクストリィム!アイロォン!イチ、ニ!イチ、ニ!」

 「イチ、ニ!イチ、ニ!」


 先生がかける号令にあわせて、僕は足を交互に降ろす。

 先ほどまでとは違い、自分の中に見えないエネルギーが流れ込んでくるような気がした。

 僕と先生はそのまま、ゆっくりと交互に足を下ろしながら崖の半ばまで降りる。

 さっきまでうるさかった風の音が今では何も聞こえない。

 崖から遠くに見える僕が住んでいる町がなんだかとても小さく見えるし、そんなのにも目を向けるだけの余裕もあった。

 崖の半ばまで来ると、僕らはそれ以上降りるのをやめた。


 「エンドォー!」

 「はい!」

 「アイロン台、準備!」

 「アイロン台!準備よぉし!」


 もう、何か吹っ切れた。

 僕はやけくそになりながら叫ぶ。

 右手で尻にロープを押し付けブレーキをかけると、左手で背中に背負ったアイロン台を膝の上に乗せる。


 「シャツ!アイロン用意!」

 「シャツ!アイロン準備よぉし!」


 ハーネスに引っ掛けていたアイロンとシャツをアイロン台の上に力強く乗っける。


 「スイッチオン!」


先生が叫ぶ。


 「スイッチオン!」


僕の指がアイロンのスイッチを捻る。

 アイロンの鉄が徐々に熱を帯びてくる。

 僅かにこぼれたスチームがアイロンの鉄の上で弾け、蒸気となる。

 鉄が、熱くなった。


 「エクストリィム!アイロン!」

 「アイロン!」


 僕は熱くなったアイロンをシャツに押し付けた。

 膝に力を居れ、アイロン台一杯に広がった薄く黄色いシャツにアイロンを当てる。

 僕がアイロンを押す度に、シャツの皺が一つ、また一つと消えていく。

 僕は吹き上げる風を受けながら奇妙な感覚にとらわれていた。

 僕がもし、右手のロープを放せば落ちて死ぬのだろう。

 死と隣り合わせの状況で僕は今何をしている?

 両親に遺言を書くわけでもない、恋人に別れを言っている訳でもない。

 シャツにアイロンをかけて皺を取っているのだ。

 僕は急におかしくなった。

だって、考えてみろ。落ちたら死ぬかもしれない崖に張り付いてアイロンがけをしているんだぞ。

 多分、日本中のどこを探しても今、この時点でこんな酔狂をしているのは僕しかいないんだ!

 体の腹の奥底から、今まで感じた事の無いような熱い感じが溢れてくるのがわかった。

 多分、これが生きている事を感じているって事なんだろう。

 僕がアイロンをかける横で先生がカメラのファインダーを覗いている。

 カメラのレンズは額に汗を浮かべ、必死にアイロンをかけている僕に向けられ、小気味のいい音を立ててシャッターが切られる。

 僕は腹の奥から湧き上がってくる衝動を抑えられず、気がつけば叫んでいた。


 「オオオオオオオオオオオオオオオオ!」


 僕の叫びが世界を包んだ。

 目の前が真っ白になっていくような錯覚を覚えながら僕は叫んだ。

    

 昔の自分が書いたものを見てると、苦笑しながらも「こんなのどうやったら書けるんだ?」と不思議になることも、しばしば。

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