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晴れを待つ僕と、雨を待つ君。

作者: 雨灯ひひ
掲載日:2026/07/13

 僕は、晴れを待っていた。


 理由はひとつではない。


 まず、洗濯物がたまっている。


 昨日まで使っていたタオルが、いま部屋の隅で小さな山脈を形成していた。標高はおよそ四十センチ。登頂する気はない。


 次に、布団を干したい。


 最近なんとなく布団が重い。湿気なのか、疲労(つかれ)なのか、あるいは僕の人生が染み込んでいるのか、どれかは分からない。


 それから、自転車で少し遠くまで行きたい。


 駅前に新しいパン屋ができたらしい。外観がやたら白く、店名がフランス語で、窓際に小麦を入れた麻袋が置いてあるタイプの洒落た店だ。


 たぶんパンは高い。


 でも、僕は行ってみたかった。


 つまり僕には、晴れなければならない理由がたくさんあった。


 カーテンを開ける。


 空は曇っていた。


「……惜しい」


 惜しいという表現が正しいのかは知らない。


 晴れではないが、雨でもない。天気としては煮え切らない状態だった。


 僕はテレビをつけた。


『本日の天気は、全国的に雲が広がりやすく、ところによっては雨が降るでしょう』


「ところによるなよ」


 僕はテレビの前で天気予報士に圧をかけた。


『なお、晴れ間がのぞく地域もある見込みです』


「どこだ」


 天気予報士は答えなかった。


 当然である。


 僕はテーブルの上に置いていた、てるてる坊主を見た。


 昨日、ティッシュで作ったものだ。


 顔は油性ペンで描いた。笑顔にしたつもりだったが、左右の目の高さが違い、口角も片方だけ上がっている。


 インクが(にじ)んで穴が開いてるところもある。


 天候を操るというより、こちらの弱みを握っていそうな顔だった。


「頼むぞ」


 僕はそいつを窓際につるした。




 一方そのころ──


 どこかにいる君は、雨を待っていた。


 理由はひとつではない。


 まず、新しい傘を買った。


 透明なビニール傘ではない。持ち手が木製で、布地が深い青色で、開くと内側に小さな星が散っている傘だ。


 そして、雨で濡れたら模様が浮かびあがる。


 君はその傘を玄関に立て、昨夜から何度も眺めていた。


 一度だけ、部屋の中で開いてみた。


 危ないのでやめた。


 次に、長靴を履きたい。


 少し前に買った黄色い長靴だ。子ども用のように見えるが、サイズは合っている。


 君は店頭で三分ほど迷い、最終的に「まあ、雨の日なら許されるだろう」という独自の解釈により購入した。


 それから、水たまりを踏みたい。


 大人になってから、水たまりを堂々と踏む機会は急激に減る。


 踏んではいけないわけではない。


 ただ、君がわざと踏むような真似をすると、すれ違う人々はギョッとする。友人なら一歩後ずさるだろう。そして、ガラスケースの中の奇妙な虫を観察するかのような、冷たく乾いた目を向けられる。


 長靴を履けば、少しだけ許されるのではないか。


 君はそう信じていた。


 つまり君にも、雨が降らなければならない理由がたくさんあった。


 窓を開ける。


 空は曇っていた。


「……もう少し」


 君は空を励ました。


 テレビをつける。


『本日の天気は、全国的に雲が広がりやすく、ところによっては雨が降るでしょう』


「そこを全国的にしよう」


 君は天気予報士に交渉を持ちかけた。


『なお、晴れ間がのぞく地域もある見込みです』


「余計なことを」


 天気予報士は謝らなかった。


 当然である。


 君はテーブルの上に置いていた、逆さてるてる坊主を見た。


 顔は赤いペンで描かれていた。


 なぜか牙があった。


「頼むね」


 君はそいつを窓際に逆さにつるした。




 同じころ、僕は洗濯機を回し始めた。


 まだ晴れてはいない。


 だが、ここで弱気になってはいけない。


 洗濯とは、天気との信頼関係である。


 こちらが「君なら晴れる」と信じなければ、空だって本気を出してくれない。


 洗濯機が回る音を聞きながら、僕は天気アプリを開いた。


 降水確率は四十パーセント。


「六十パーセントは降らない」


 僕は都合のいい解釈をした。




 そのころ君も、天気アプリを開いていた。


 降水確率は四十パーセント。


「ほぼ降るね」


 君も都合のいい解釈をした。


 空はひとつなのに、人間はずいぶん自由である。




 僕はベランダに出た。


 風は少し冷たいが、雨の匂いはしない。


 たぶん。


 雨の匂いが具体的にどういう匂いなのか、僕はよく分かっていない。


 アスファルトっぽい何かを感じたら、だいたい雨の匂いということにしている。


「いける」


 洗濯機が停止した。


 僕は濡れた衣類を抱え、ベランダへ運んだ。


 シャツ。


 タオル。


 靴下。


 靴下。


 片方しかない靴下。


「またか」


 洗濯機には、靴下を片方だけ異世界へ転送する機能がある。


 取扱説明書には書いていないが、あると確信している。


 僕は片方だけの靴下をいったん保留し、洗濯物を干した。


 最後にバスタオルを広げる。


 完璧だった。


 ベランダいっぱいに、僕の生活が並んでいる。


「めいっぱい晴れろ!」


 僕は空を見上げた。




 そのころ君は、玄関で黄色い長靴を履いていた。


 まだ雨は降っていない。


 だが、ここで弱気になってはいけない。


 雨具とは、雨との信頼関係である。


 こちらが「君なら降る」と信じなければ、空だって本気を出してくれない。


 君は青い傘を持ち、外へ出た。


 当然、誰も傘を差していない。


 通行人が一度だけ君の傘を見た。


 不思議そうな顔をされた。


 問題はない。


 君は近所を歩き始めた。


 水たまり候補地はすでに把握していた。


 コンビニ前のくぼみ。


 公園入口のタイル。


 歩道橋下の排水が悪い一帯。


 雨さえ降れば、どこも優良物件になる。


「おもいきり降れ!」


 君は空を見上げた。




 僕は布団を干す準備をしていた。


 洗濯物だけではない。


 今日は布団も干す。


 晴れを待ち続けた者だけに許される、上級の家事である。


 僕は布団を抱えてベランダに出た。


 その瞬間、頬に何か冷たいものが当たった。


「鳥のフンか?」


 だとしたら最悪だ。


 恐る恐る触ってみた。


 よかった。違った。


 空を見上げる。


 また一滴、落ちてきた。


「待て」


 僕は空に話しかけた。


 空は待たなかった。


 ぽつ。


 ぽつぽつ。


 雨粒が増えていく。


「おい」


 僕は布団を放り出し、洗濯物へ飛びついた。


 シャツを回収する。


 タオルを回収する。


 靴下を回収する。


 靴下。


 片方しかない靴下。


「お前はもう好きにしろ!」


 僕は片方だけの靴下を見捨てた。


 風が吹いた。


 靴下が飛んだ。


「待て!」


 僕は身を乗り出した。


 靴下はひらひらと舞い、下の階のベランダへ消えた。


 終わった。


 ただ片方しかないだけだった()()()()が、完全に俺の配下からいなくなった。




 そのころ君は、頬に落ちた雨粒を指で触っていた。


「来た」


 ぽつ。


 ぽつぽつ。


 君はゆっくり傘を開いた。


 深い青色の布地が広がり、内側に小さな星が現れる。


「おお……」


 想像以上だった。


 雨なのに、傘の内側だけ夜空のようだった。


 君はうれしくなって、意味もなく傘を一度回した。


 周囲に人がいないことを確認して、もう一度回した。


 回しすぎて、傘の先から雨水が飛んだ。


 通りかかった自転車の男性にかかった。


「すみません!」


 君は頭を下げた。


 男性は何も言わず走り去った。


 雨は徐々に強くなった。




 僕は部屋の中に洗濯物を投げ込んでいた。


 床にシャツ。


 椅子にタオル。


 机に靴下。


 部屋が急に、安売り衣料品店の閉店間際のようになった。


「四十パーセントだっただろ!」


 僕は天気アプリへ抗議した。


 降水確率は四十パーセントのままだった。


 数字は一切悪びれていなかった。


 僕は窓際のてるてる坊主を見た。


 左右の目の高さが違うそいつは、相変わらず片方だけ口角を上げていた。


「お前、裏切ったな?」


 てるてる坊主は何も言わない。


 だが、その顔は明らかに知っていた顔だった。


 僕はてるてる坊主を外し、机に置いた。


 その瞬間、背後で大きな音がした。


 振り返る。


 布団がベランダに残っていた。


「あっ」


 布団は雨を吸っていた。


 僕の人生どころか、空まで染み込んでいた。




 そのころ君は、最初の水たまりを発見していた。


 コンビニ前のくぼみ。


 十分な深さがある。


 君は黄色い長靴の先を近づけた。


 少し迷う。


 車が通る。


 通行人もいる。


 だが、今日の君には新しい傘と長靴がある。


 そして、雨を待った時間がある。


「いきます」


 誰にともなく宣言し、君は水たまりを踏んだ。


 ばしゃん。


 想像以上に跳ねた。


 君のズボンにかかった。


「あっ」


 長靴は無事だった。


 長靴以外が無事ではなかった。


 君はしばらく自分の足元を見つめた。


 そしてもう一度、水たまりを踏んだ。


 ばしゃん。


 どうせ濡れたなら、もう同じだった。


 雨はその後、一時間ほど降り続いた。




 僕は濡れた布団を浴室へ運んだ。


 持ち上げると、通常の三倍ほど重かった。


「こんなに水、要る?」


 布団は答えない。


 僕は浴槽の縁に布団をかけ、途方に暮れた。


 パン屋へ行く予定も消えた。


 自転車にも乗れない。


 洗濯物は部屋干しになった。


 片方だけの靴下も消えた。


 今日やりたかったことは、ほぼ全滅である。


 僕は窓の外を見た。


 雨はまだ降っていた。


「喜んでるやつもいるんだろうな」


 どこかに。


 新しい傘を使いたかった人。


 雨音を聞きたかった人。


 水たまりを踏みたかった人。


 僕はため息をついた。


 「そんなやつ、いるか?」




 そのころ君は、公園の軒下で靴下を絞っていた。


 長靴の中に水が入っていた。


「長靴なのに……」


 水たまりへ勢いよく突入しすぎた結果、上から入ったらしい。


 新しい傘はすばらしかった。


 長靴もかわいかった。


 水たまりも楽しかった。


 だが、現在の君は全体的にびしょ濡れだった。


 君は雨空を見上げた。


「喜んでない人もいるんだろうな」


 どこかに。


 洗濯物を干していた人。


 布団を干していた人。


 自転車で出かけたかった人。


 君は少しだけ申し訳なさそうに笑った。


 「私のせいじゃないけど」




 夕方。


 雨はやんだ。


 雲の切れ間から、弱い光が差していた。


 僕は窓を開ける。


 濡れたベランダ。


 湿った風。


 そして、下の階の室外機の上に、見覚えのある靴下が引っかかっていた。


「生きてたのか」


 片方だけの靴下は、雨に濡れながらも、そこにいた。


 僕は少しだけ安心した。


 取りには行けないけれど。


 そのころ君も、空を見上げていた。


 雨はやみ、青い傘を閉じる。


 雲の向こうに、少しだけ晴れ間があった。




 君は黄色い長靴の中の水を捨てた。


 ざばっと出た。


「そんなに入ってたの?」


 自分でも驚いた。




 僕は明日の天気予報を確認した。


『明日は全国的に晴れる見込みです』


「よし」




 君も明日の天気予報を確認した。


『明日は全国的に晴れる見込みです』


「そっか」




 僕は、明日こそパン屋へ行こうと思った。


 布団は干せないが、洗濯物はもう一度洗えばいい。


 君は、次の雨の日にもう一度あの傘を使おうと思った。


 今度は水たまりへ、もう少し静かに入る。


 晴れを待つ僕と、雨を待つ君。


 僕は君を知らない。


 君も僕を知らない。


 けれどたぶん、同じ天気予報を見ながら、それぞれ勝手なことを願っている。


 そして空は、たぶんどちらの言うことも聞かない。




 翌朝。


 天気予報は晴れだった。


 僕は洗濯機を回した。


 君は傘を玄関に立てかけた。


 空は、きれいに晴れていた。


 昼までは。

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