第一章
「はぁ… はぁ…」
カーテンの擦れる音、水滴の垂れる音、そして、荒い息使い。
静まり返る部屋では、ほんの些細な音さえも大きく聞こえる。
男は、いや、その少年は、ゆっくりと「対象」へと歩み寄る。
―――少年は、過去に人を殺した。
今もそう。今も同じ。同じようにやるだけ。
息を整える。
ゆっくりと、しかし憎悪を込めて、鈍く光る鉛色のソレを、振り下ろした。
少年は過去に人を殺した
第一章
朝の満員電車に揺られながら会社へと向かう憂鬱な日々。
毎日毎日変化のないその様は、まるでプログラムを組まれたロボットである。
深い溜息をつく。
満員電車にいたとしても、誰にも気にも留められないその溜息は、ぎゅうぎゅう詰めにされた人々の間へとすり抜けていく。
こんな日々がいつまで続くのだろうか。そう毎日考える。
辞められるのならばいつでも辞める。しかし、それは不可能だ。というか、辞めてしまったら生きている意味が無くなってしまう。と、男は考えている。
その考えにすら、いつもいつも変化のないもので、吐き気を感じる。
…ここまでが1セット。
そう。この男の朝はいつもこうやって始まるのだ。
男は、会社でデスクワークを華麗にこなす。
それはとても様になっていて、そこまで悪くない顔面を加算することによって、女性社員の間では案外モテている。
男は、能力が特に秀でているわけではない。
だからこそ、ミスはたまにしてしまう。
男には、その米粒にも等しいほどの小さなミスを毎度見つけいちいち難癖をつけてくる上司がいる。
彼のストレスの要因の一つであることは火を見るよりも明らかである。
それに対して怒りを面に見せず、作り笑いで毎度切り抜けている。
内面上司への愚痴を言いながらそれをこなすという技を使えるまでに、それは繰り返されていたのだ。
夜の電車は、朝に比べると人は少ないように思えるが、それでも十分人がいる。
再度深い溜息をつき、そのクマだらけの虚ろな目を足元へと向ける。
…電車に乗るまでに靴を踏まれた。
それもハイヒールの踵部分。
不運とでも言おうか。否、その一言じゃ片付けられないものである。
男の人生は、それはもう、不幸の連続であったと言っても過言ではない。
「クソが」
その声は電車がトンネルへと侵入した際の音でかき消される。
元から小声だったが、それが他の大きい音で邪魔されれば、誰にも聞こえすらしない。
トンネルを抜けた先にあるのが、男の住む家のある町である。
それは小さな町である。
町に住んでいる数百人以外、殆ど人は寄らない過疎地だ。
海が見えるという点のみが利点だ。———そうどっかのテレビ番組で芸人が笑い話にしていた記憶がよみがえる。
アイツはこの町出身ではないのに。この町の事を全く分かっていないのだな。
男はどことなく怒りを感じる。
…こんなことに怒ってもしょうがないよな。という気持ちがそのあとにわいてきて、今度は軽い溜息をつく。
丁度駅に着いたようで、駅員のアナウンスの後、ドアが開く。降りる人は指で数えられる程度。いつも一緒に降りる人だけだ。
ホームに足を下ろす。瞬間、甲高い声が狭い駅のホームに響いた。
「痴漢!!!」
声の主は、先程乗っていた電車の中にいた女だった。
ここらでは見かけない制服を着ている。女の荷物から、なんとなく塾帰りだということが分かる。
その女は容疑者であろう人物へ向けて人差し指が突き立てられていた。
男はその方向を見る。
暗闇。駅のホームの奥は山であり、そこからは人の気配は感じられない。
なんらかの勘違いであろう。男はそう思いその場を後にしようとした。
「お前だよ。お前! 逃げようとしてんじゃないよ!!!」
その声が聞こえなければ、足早に自宅へと帰宅していたであろう。
「は?」
会社でのキャラづくりに疲れてしまった反動による、その、低くやる気のない声だけが静まり返った駅のホームに響いた。
男は、面倒ごとに巻き込まれたのだ。
何が何でもすぐに家に帰って休みたい。家こそが、男のオアシスなのだ。
しかし今、そのオアシスへと向かうことが許されない状況となっていた。
駅員が、先ほどの叫んだ女と男を駅員室に連れてきて、話を聞こうとしている。
男は、片手にカバンを持ち、もう片方の手はポケットへと突っ込んでいたので、確実に犯人ではないのだが、男がそれを言おうとすることすら遮って、女はここぞとばかりに饒舌にしゃべり続ける。
内容としては、穴だらけ矛盾だらけのクソ理論なのだが、その饒舌さに駅員も圧倒され、納得せざるを得ない状況へと追い込んでいる。
これは完全に計画的犯行であろう。
もしかしたら、こうやって誰かを冤罪で捕まえることがこいつの癖なのかもしれない。男はそんなくだらないことを考えて現実逃避を開始していた。
「この人が犯人ってことよくわかりましたよね? なので捕まえてください。この世のためです。早く。今。すぐに。」
その騒々しさに疲れたのか、駅員は女のいうことを聞くことにして、男と女に「ちょっと警察が来るまで待っててもらえる? 今から呼ぶから。」と言い、その場から撤退していった。
必然的に、男は女と二人きりで部屋に残ることになった。
深く深くため息をつきたい。男は足に腕を乗せ、俯く。
「は。動くなよ。気持ち悪い。死んでしまえばいいのに。」
隣で何か音が聞こえたようにも聞こえたが、男の脳ではその言語を解読する容量が無くなっていた。
完全に容量越えしている。男は既に、気絶寸前だった。
その時、駅員室の扉が開き、藍と白の服を着た男が入ってきた。
よく見なくてもわかる。警察官である。
どうやら、駅員が呼んだ警察官が到着していたようだ。男の体感時間といてはとても長い時間だったが、実際は約7,8分程度で到着している。
「えー…っと、その痴漢されたって人は―――」
警察官が何やら話始めるが、その発言一つ一つにいちいち女は突っかかって、男の嫌味を喋り続けている。
警察官は、その状況に唖然として… いや、今、何かに気づいたかのように「あ~、お前か。そうだそうだ。思い出した。これで何度目だよ。」と発言した。
「チッ。」
どうやら女は常習犯らしい。
常習犯にすぐに気づかない警察官もどうかと思うが、こんなことを常に行っている女も大概である。
「あー。そこの男の人。申し訳ないね。こいつは常習犯なんだよ。帰ってくれてもいいよ。どうせ嘘だし。」
警察官は欠伸をしながらそう言い放つ。
あまりにも適当すぎる。だからいつまでたってもこの女は犯行を辞めないのだ。
常習犯とバレてて警察を呼ぶように指示した女の目的が全く持って理解できないが、まあ、帰れるようになったのだからそんなことはどうでもいい。
男は席から立ちあがり、駅員室を後にした。
街灯も少ないこの暗闇の中、男はいつもの決まったルートを歩いていた。
もうこの道を通って帰宅するのも十数年となる。だからこそ、ほとんど光がなくても家へとたどり着くことができるのだ。
家は少々ボロいアパートの角部屋。ここら一帯は犯罪とか起こらないくらい平和で過疎な地域(高齢者が多く、若者の数がかなり少ない)なので、
殆どの家が鍵をかけていない。
しかし、男の家は異質であり、市販のロックが多くつけられている。
何が何でも守らなくてはならないものが、中にいるのだ。
男は三重ロックを手際よく解除すると、ドアをゆっくりと開く。
「ただいま。」
大抵の人間ならば、この小さな声は耳を澄ましても聞こえることがないであろう。
しかし、これまた例外な人物がいた。
「用お兄ちゃん、おっかえりー!!!」
外の暗闇とは対照的に、眩しいくらい明るい部屋の奥から、一人の女が勢いよく飛び出てきた。
「おお。まだ起きていたのか。佐奈。」
女の名前は佐奈と言う。男の唯一無二の妹である。
ここにきて、男の顔が笑顔になった。
用という名前は、最低でクソな親が名付けたものだ。言うほどヘンなものではないが、名前の元を知ったときは吐き気がした。
…その話は、今の生活に比べれば到底どうでもいい話である。
「いつも言っているだろ? もうこの時間は遅いんだから寝なさい。」
「えぇ~。お兄ちゃんがいないと眠れない~。」
「えぇ。もう高校三年生だろ? そんなこと言ってないで一人で寝なさい。」
微笑ましい限りである。男———用はそんな妹のことをこよなく愛していた。
彼らの兄らとは違って。同じ血が流れている家族だとは信じ難いくらいの違いようである。
―――あの日。彼が、少年だった頃。
少年は、人を殺した。
三人。
その日、三人を殺した。
その日から、彼は、妹を絶対に守り抜くと決めたのだ。
今。今の生活はあの時に比べればどう考えても幸せである。
彼は、あの選択は間違いでなかったと自信をもって言える。
「…わかったから。寝るよ。」
「やった!」
こんな感じで彼の一日は終了する。
何事もなく、ここまで二人で過ごしてきた。
この先も、この日々が続くだろうと信じて疑わなかった。
しかし、彼らの運命は、これから大きな変化を始める―――。
次回 第二章投稿予定
いつになるかはわかりません。
完成次第投稿します。




