第99話 音無しと鬼師範
マットの中央で、静と昼奈が向かい合う。
昼奈が、ぱん、と手を叩いた。
「せっかくだし、軽く手ぇ合わせときましょ。
あんたがどのくらい“ヘンタイ”か、実際に確かめとかなきゃね」
門下生たちがざわめく。
「師範代とスパー!? マジかよ……」
「さっきの話聞く限り我流なんだろ? 死ぬぞ」
静は特に表情を変えず、すっと一歩前へ出た。
道場の空気が、さっきまでとは明らかに違っていた。
門下生たちが、ごくりと喉を鳴らす。
「じゃ、軽く数合だけね」
昼奈が笑う。
けれどその笑みの奥にあるものは、
さっきまで沙夜や煙に向けていたものとは別物だ。
研ぎ澄まされた、狩人の目。
崩したボクシングスタイル。
顎を引き、片手をやや前に、もう片方を顎の横に置く。
静は斜めに立ち、肩幅より少し広く足を開く。
前足のつま先を軽く浮かせ、両手は相手の顔と胸の間――
ジークンドー由来の、シンプルな構え。
静かな圧力が、足元から這い上がってくるようだった。
「――始め」
朝霞の短い号令と同時に、空気が弾けた。
先に動いたのは昼奈だ。
左足で床を蹴り、一歩で距離を詰める。
鋭いジャブ。
肩からまっすぐ伸びた拳が、空気を割った。
静は、ほとんど瞬きもせずに——半歩だけ下がる。
そのまま、前足でストップキックを合わせた。
甲がスネを打ち、パシィン、と乾いた音が響く。
「ほう」
昼奈の口元が、わずかに吊り上がる。
そのストップキックを踏み越えるように、上体をしならせた。
ローへ切り替わった右足が、静の外腿を狙う。
ガツン。
けれど、そこにはすでに静のスネがあった。
ローカット。
骨と骨がぶつかる鈍い衝撃。
「ローカットも、ちゃんと……」
昼奈が言い終わる前に、静の上体が前に滑り込んだ。
ジャブの軌道をなぞるように、最短距離のストレートリード。
顔ではなく、肩口を狙った一撃。
拳が服をはじき、衝撃だけが伝わる。
「ッ……!」
わずかに体勢を崩す昼奈。
そこへ追い打ちの縦肘——は、ギリギリのところで空を切った。
昼奈が、首を紙一重で外しながら、静の前足をすくうように踏み込む。
タックルではない。
腰に腕を巻きつけ、崩してからの投げを狙う近い距離。
「組ませないのがジークンドーでしょ?」
耳元に囁くような声。
次の瞬間、静の足が床を離れた——
ように見えて、離れなかった。
ぐ、っと踵でマットを押し、腰を後ろへ滑らせる。
組み付きの圧を、斜め後ろにずらすように受け流す。
空いたスペースに、静の前腕が入る。
抱え込もうとした昼奈の腕が押し上げられた。
パッ、と手首を弾くような動き。
そのまま、顎先へショートのストレートが飛ぶ。
「っはは。パクサオまで勝手に身についてんの、タチ悪いわね」
昼奈は笑いながら、首の動きだけでかわす。
直後——静の右ハイキックが、昼奈の顔の位置を薙いだ。
空を切る音だけが、シャッと残る。
「うっわ」
梨々花が思わず声を上げる。
さっきまで至近距離で体重を支えていたはずの脚が、いつの間にか顔の高さ。
しかも、残心を崩さずすぐに下ろされていた。
「ひゅぅ」
昼奈はかろうじてスウェーでかわしながら、口元を吊り上げた。
その表情を見て、門下生たちが息を呑む。
「(今の、完全に急所のライン……)」
「(あれが我流って、今の中坊どうなってんの……!?)」
静は何も言わない。
一琉と出会う前。
一年の頃、雷門中と抗争沙汰を起こし、一方的に“掃除”した。
そして、その余波で夏菜も雷門と喧嘩する羽目になった。
蜘蛛の巣会、暗夜會——。
静はいつも、舞台の一番“静かな場所”で戦い続けてきた。
殴られて、倒れて、起き上がって、また殴って。
それを何年も繰り返せば——嫌でも“本物”だけが残る。
今の静は、その結果だった。
「……努力する天才って、ほんとに厄介ね」
昼奈がぼやく。
同時に、カウンターを仕掛けた。
胴へのサイドキック。
静の前足を、今度は外側から引っ張る。
掴んだ足首を軸に、内側へ捻る。
下手をすれば足首を折る動きだ。
だが、静は逆にそれを利用した。
掴まれた足を、ぐん、とさらに自分から捻り込む。
体をくるりと回転させながら、降りていた方の足で床を蹴る。
そのまま跳びあがり、ガードの上に軸足を使った蹴りが打ち込まれる。
足をつかんだままではいられない衝撃力。
「おっと」
昼奈は床を滑るように受け身を取り、距離を取った。
マットの端ぎりぎりで、二人が向き合う。
額から汗が伝う。
息は上がっていない。
ただ、二人とも目だけが鋭く光っていた。
「……ねえ」
昼奈が、口元をゆがめる。
「アンタさ。
このまま続けたら、本気でやり合うことになるわよ」
静は一瞬だけ目を丸くし——すぐに頷いた。
「わかってる」
その表情は、どこかうれしそうですらある。
昼奈は、肩で笑った。
「師範代のあたしと、ここまで“遊べる”子なんて、そういないんだけどね」
門下生たちがざわつく。
「やべぇ……昼奈さんと互角……」
「血祓戯の外に、あんな怪物いたのかよ……」
空気が、もう一段階、重くなりかけたそのとき。
「――ストップ」
不意に、一琉の声が飛んだ。
全員の視線が、一斉にそちらを向く。
「ここまででも、十分“実力チェック”にはなったと思いますし」
一琉は苦笑しながら言う。
「指導していただいて、ありがとうございます、昼奈さん」
昼奈が目を細める。
そして、ふっと肩の力を抜いた。
「……ほんっと、賢くて空気読めて、いい子ね、一琉くん」
くるりと静の方を振り返る。
「今回はここまで。
続きは――イェンマン見てからね。
詠春拳と武器術、あんたの戦い方に何足せるか、あたしも興味あるし」
「……わかった」
静は素直に頷いた。
ほんの一瞬だけ、その瞳の奥に火が灯る。
(まだ、強くなれる)
言葉にしないまま、淡々とマットを降りた。
「美形で、賢くて、女にビビらない……」
昼奈がぽつりと呟き、にっこり笑う。
「やっぱ婿にこない? 沙夜と一緒に、あたしもぉ――」
その言葉が最後まで出る前に、静が一琉の前に出た。
「……一琉クンは、渡さない」
低く、はっきりと。
道場の空気が、また別の意味で凍る。
昼奈が「ひゅ〜」と口笛を吹き、沙夜が真っ赤になり、
一琉は慌てて両手を振った。
「え、えっと、そういう話じゃ……!」
「はいはい、今日はここまで!」
昼奈が強引に話を切り上げる。
「見学組も、だいたい血祓戯の地獄っぷりは分かったでしょ。
あとは――各自で好きに地獄巡りしてもらうわ」
門下生たちの間に、苦笑と、興奮と、少しの畏怖が混じった笑いが広がった。
沙夜は、汗に濡れた髪をかき上げながら、ちらりと静を見る。
(……昼奈姉と互角、か)
拳を、無意識に握りしめる。
(あーしも、そこまで行かなきゃ)
異名持ち、と呼ばれる連中に追いつくために。
そして——仲間を守るために。
血祓戯流の地獄は、まだ続く。
けれど、その先に見える景色が、ほんの少しだけ鮮明になった気がした。




