第95話 現代で生き残るための空手
開始の合図もなく、昼奈の声ひとつで組手が始まった。
「じゃ、まずはスプロールからねー。
沙夜、“ケージのないMMA”からやるわよ」
真正面に立つのは、体格のいい女門下生。
フード付きパーカーにスニーカーというラフな格好だが、
目つきは喧嘩慣れしている。
「オラッ!」
低く構えた門下生が、一気に踏み込んで腰のあたりへ抱きついてくる。
典型的なタックルの入り。
沙夜は反射的に足を引いて、肩を押さえこもうとした。
「っぐ——!」
だが、勢いが止めきれない。
腰が浮きかけたところに、昼奈の声が飛ぶ。
「はいダメー。腰、もっと後ろ。
頭押さえながら、床に向かってぶっ刺すつもりで!」
次の瞬間、沙夜の片足が強く払われ、仰向けにマットへ叩きつけられた。
肺の空気が一瞬で抜ける。
「がっ……!」
一琉は思わず身を乗り出したが、隣の静がそっと袖をつまんだ。
「大丈夫。まだ、様子見」
マットの上では、すでに二本目に入っていた。
「次、受け身禁止。立ったまま防げなかったらアウト」
「マジで……っ」
息を整える間もなく、沙夜は立ち上がる。
膝が笑っていたが、表情だけは意地で保つ。
今度は、タックルに合わせて両手で肩を押し下げる。
腰を引き、相手の頭を下に滑り込ませるように——
「そう、それ。頭を床に向けて押し込む。
足は後ろ! 腰、高く!」
タックルの勢いが止まる。
マットに膝をついた相手の背中を、
沙夜が押し潰すように押さえ込んだ。
「っしゃ……!」
「はい戻って。十本連続ね」
「じゅ、十……」
沙夜の目が死んだ。
梨々花が小声でつぶやく。
「……これ、体力づくりのメニュー……?」
「うん」
昼奈が振り返り、にっこり笑った。
「立って帰りたきゃ、これくらいは“準備体操”。
タックル知らないのは、今の時代に文字が読めないのと同じ。
ここで覚えてからケンカしなさい」
「空手どこいった?」
沙夜が遠い目をしながらぼやく。
「現代で生き残るための空手よー」
昼奈はケラケラ笑い、手を叩いて次のタックルを指示した。
◇
「……あの姉ちゃん、わりと本気でイカれてるな」
何本もタックルを受け止め、汗で髪を貼り付かせながらも立ち続ける沙夜を見て、夏菜が感心したように腕を組んだ。
「でも、教えてることは理にかなってる」
静が淡々と言う。
「投げられたら、集団に袋叩き。
立っている時間を伸ばすのは、合理的」
「……静が言うと説得力すごいわね」
梨々花が苦笑した。
一琉はクーラーバッグを開け、ペットボトルを取り出す。
自作のレモンはちみつドリンクだ。
「休憩入ったら、これ渡そう」
「マネージャーかよ」
煙が呆れたように言うが、手は伸びてくる。
「……味見していいか」
「もちろん」
ごくり、と一口飲んだ煙の目が、わずかに丸くなる。
「……うま」
「へー!? 一琉くん、凪嵐十字軍の栄養管理担当ね」
昼奈の声が飛んできた。いつの間にか背後に回られていたらしい。
「弟子が倒れると道場の評判が下がるのよ。
いいわね、そのドリンク。作り方、あとでレシピ教えて?」
「は、はい」
「じゃ、一琉くんはマネージャー枠で特別待遇ね。女どもは——」
昼奈はくるりと振り向き、夏菜たちを見渡した。
「当然、組手していくわよね?
うちの敷居またいで、何もせずに帰れるなんて思ってないわよねぇ?」
「出た、嫉妬だ」
沙夜が小声で吐き捨てる。
「昼奈姉、男子と絡みある女は全部しごくからな……」
「へへ、ちょうどいいじゃん」
夏菜が一歩前に出た。
「レベルアップしたかったとこだ。
“血祓戯流”の洗礼、受けてみるか」
その横で、煙が鼻を鳴らす。
「……殴り合いできるなら文句ねぇ」
静は少しだけ考え、頷いた。
「一琉クンのそばで戦うなら、
知らない技は少ない方がいい」
「わ、私は取材で~……」
梨々花だけが、露骨に顔を引きつらせた。
「じゃあ決まりね」
昼奈は楽しそうに手を打つ。
「まずは——沙夜の十本が終わってから。
あの子がどこまで“ギラついて”戻ってきたか、ちゃんと見てなさい」
マットの上では、沙夜が再びタックルを受け止めていた。
肩で息をしながら、それでも腰だけは落とさない。
(……あーしは、弱くねぇ)
(でも、みんなと肩並べるには、まだ足りねぇ)
肺が焼ける。
足が棒になる。
それでも、倒れない。
その姿を、一琉は息を呑みながら見つめていた。
(……戻ってきたんだね、本当に)
(“二度と戻りたくなかった場所”に)
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
鷹津沙夜は、自分の“弱さ”と、“凪嵐十字軍”の名を賭けて、
地獄に踏み込んでいく。




