第92話 外伝 折れること、折れないこと
燐の背中が完全に闇に溶けたところで、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
誰も、すぐには動けなかった。
「……っ……げほ……」
最初に声を漏らしたのは、煙だった。
アスファルトに片膝をつき、肋を押さえながら浅い呼吸を繰り返している。
一琉は、その肩を優しく支えながら口を開いた。
「煙、大丈夫……?」
「っ……くそ……」
煙はかすれ声で言った。
「なんだ……あれ…
トラックと正面衝突したみてぇだ……」
懐に飛び込んだ瞬間、身体ごとぶつけてきた鉄山靠。
肩を挟んだ上からなのに、肺が一瞬空っぽになったような衝撃だった。
一琉は手早く服の上から肋をなぞる。
「……折れてはいないと思う。
でも、今日はもう病院ね」
「チッ……一発かよ……」
煙は悔しそうに奥歯を噛んだ。
「イキって突っ込んでこの様……笑えねぇ」
夏菜が、血のにじむ脛をぬぐいながら立ち上がる。
「地獄鬼——
“爆轟閻魔”・黒崎燐」
低く名前を噛みしめる。
「評判は聞いてたけど、
実物は……マジで笑えねぇな」
「……でも」
静が、ぽつりと言った。
「煙……死んでない」
その一言に、煙が苦笑する。
「おい、簡単に殺されるかよ」
声は掠れているが、目だけは死んでいない。
「次あいつと会ったら、倍にして返す」
薫子が小さく息をついた。
投げつけたヨーヨーを拾い上げながら、燐が去っていった闇を振り返る。
「“爆轟閻魔”と一戦交えて、それだけ言えれば上々ですわ。
あの削りと発勁……昔、 どれだけ畳まれたことか」
「アンタ、あれに何回やられたんだよ」
夏菜が呆れたように問う。
「回数で数えるものではありませんの。学びの回数ですわ」
「ポジティブすぎだろ、お嬢様……」
「折れるか折れないか、それが全てでしてよ」
薫子は鷹津の方を見て、にこりと微笑んだ。
鷹津は電柱にもたれかかっていた。
薫子の視線を横目に、額から流れる汗と血を雑に拭う。
「……八極拳、ね」
鷹津の声は低い。
「……あそこまで“実戦用”に仕上げてるなんて」
鷹津は、じっと自分の手の甲を見た。
削られた浅い傷が、朱色の線になって残っている。
大した怪我ではない。
けれど、そこに刻まれた“差”は、笑えないほど大きい。
「沙夜、怪我は?」
一琉が駆け寄ってくる。
その背後では、静が煙の様子を確認していた。
「ん」
鷹津は短く答えた。
「折れちゃいねえ。
ちょっと、きれいに投げられただけだ」
一琉の表情を見ないように視線を逸らした。
胸の奥で、何かがざらざらと削れる音がする。
(守れてねえ)
静かに、そう思った。
さっき。
鷹津は、一琉の前に立ったつもりだった。
距離を詰める燐に対して、一撃でも入れて足を止めるつもりだった。
結果は——
懐に入られ、削られ、投げられ、押さえ込まれ。
「“何もできないまま”、潰されかけた」
その一歩手前を、夏菜の飛び蹴りが救ってくれたのだ。
(このままじゃ、ダメだ)
血祓戯流。
実家の流派。
中途半端に抜け出して、喧嘩での実戦に転がり込んで——
それなりに戦えるつもりでいた。
けれど、あの八極拳の“本物”を目の前にすると——
自分がやってきたのは、せいぜい“真似事”だと突きつけられた。
(……今のままじゃ、“足手まとい”だ)
「……鷹津さん」
名前を呼ばれて顔を上げると、薫子がこちらを見ていた。
「戻りますのね。 ——血祓戯流に」
「……ああ」
薫子は、どこか楽しそうに目を細めて言った。
「昼奈さんに、よろしくお伝えくださいませね」
「…………は?」
鷹津の思考が、一瞬真っ白になる。
昼奈。
鷹津沙夜の、年の離れた姉。
血祓戯流の師範代。
その名を、ここで知っているはずが——
「どこで、その名前を」
思わず声が荒くなる。
薫子は、扇子でも広げそうな仕草で手を振った。
「女の秘密ですわ」
ふふ、と笑って、話をそれ以上広げる気はないらしい。
「ただ——」
薫子は、わざとらしく視線を逸らしつつ続ける。
「あそこなら、あなたに足りないもの——
見つかるかもしれませんわね」
一琉が、仲間たちの怪我を確認し終えた。
「……ごめんね」
ぽつりと漏らす。
胸の奥が、嫌な形で冷えている。
——目の前で、仲間が倒された。
人生で初めて得た、大切な——
想定だけは、していた事態。
それでも、想定以上にそれは重かった。
(こんなこと言ったって、何も変わらないってわかってるのに——)
「僕のせいで——」
「バカ」
鷹津は、そこでようやく顔を上げた。
「ヘッドがそんなこと言うなよ」
「でも——」
「あーしらが弱いのは、あーしらの問題だ」
言いながら、胸の奥がひりついた。
だから。
「……一回、戻るわ」
ぽつりと呟いた。
夏菜が振り向く。
「戻るって?」
「実家」
鷹津は短く答えた。
「血祓戯流にな」
一琉が目を瞬く。
「前に、ちょっとだけ話してた——」
「イカレた喧嘩殺法だよ」
鷹津は鼻で笑う。
「嫌だから逃げてきた。
ガキのころから、骨折って吐いて、また立たされて——
そんなの、二度とごめんだと思ってた」
掌を握って開く。
燐に掴まれた手首の痛みが、じわりと蘇る。
一琉。
煙。
夏菜。
静。
薫子。
暴動鉄騎隊。
みんな、それぞれのやり方で筋を通そうとしている。
その中で、自分は「なんとなく器用に立ち回れるから」ってだけで、
後衛に立っていたんじゃないか。
(凪嵐十字軍の看板掲げてるくせに、
中途半端なまま“支える”なんて言ってたら──)
今回みたいに、まとめて折られる。
「……」
鷹津は、無意識に拳を握りしめていた。
「一回消えるけどよ」
鷹津は、一琉をまっすぐ見る。
「勝手に抜けるわけじゃねえ。ちゃんと戻ってくる」
一琉は、しばらく黙っていた。
——そして、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
いつもみたいに、柔らかく笑った。
「待ってる」
その一言を聞いて、鷹津は小さく笑った。
「ヘッドにそう言われちゃ、サボれねえな」
夏菜が、ふっと口角を上げる。
「じゃあ、戻ってきたらスパー再開だな。
血祓戯流がどんだけエグいか、楽しみにしとくわ」
煙は、まだ痛む胸を押さえながら鼻で笑った。
「……逃げんなよ?」
「誰に言ってんだ、狂犬」
鷹津は軽く拳を突き出す。
煙も、ゆっくりと拳を合わせた。
静は、そんな彼女らを見て、こくりと小さく頷いた。
言葉はない。
けれど、その眼差しは「帰ってこい」と言っていた。
梨々花は、ちょっとだけ涙目でスマホを構える。
「このシーン、ちゃんと記録しとくから……!」
「撮るな」
鷹津が即答し、梨々花は「あーん」と唇を尖らせた。
晩秋の風が、少しだけ冷たくなる。
地獄鬼が残していった言葉は、まだ耳の奥にこびりついていた。
——いつでも潰せる。
その宣告を、ただの脅しで終わらせないために。
鷹津は、自分の中の“怖さ”を、きちんと認めた。
(怖えよ。あんなもん、二度とごめんだ)
だからこそ。
(それでも前に出れるように、殴り合えるように——)
拳の中で、決意が固まっていく。
弱いまま、ここに居続けるつもりはない。
守るって言うなら、実際に守れるだけの力を持ってからだ。
「……よし」
小さく息を吐いた。
「一回、地獄に里帰りしてくるわ」
晩秋の風が、路地を抜けていく。
さっきまで、爆轟閻魔の圧に押し潰されそうだった空気が、
少しだけ軽くなった気がした。
一琉は、深く息を吸い込む。
「……行こう。まずは煙を病院」
それぞれ傷を抱えながらも、歩き出す足は止まらない。
地獄鬼——“爆轟閻魔”。
暗夜會最強の影は、はっきりと姿を見せた。
この夜を境に、凪嵐十字軍の戦いは、
また一段階“深いところ”へ潜っていくことになる。




