第89話 外伝 謎のファン七緒 爆轟閻魔の影
放課後のカノンは、いつもより少しだけ静かだった。
客足が途切れ、ショーケースのパンも残りわずか。
一琉はレジを締め、カウンターで伝票をまとめている。
奥のテーブルでは、夏菜と鷹津がコーヒーを前に談笑し、
煙は椅子にだらしなく座って欠伸をしていた。
その時——カラン、とドアベルが鳴る。
「ごきげんよう、一琉さん♡」
鈴みたいな声と一緒に、ひらりとスカートが揺れた。
リボンをきっちり結んだブラウスに、淡い色のカーディガン。
胸元には、見覚えのあるスクラップ帳が抱えられている。
「や、七緒」
一琉は笑って手を止めた。
「今日は押し花じゃなくて、それ?」
「はいっ」
七緒は嬉しそうに近づき、スクラップ帳を恭しく差し出す。
「一琉さんの記事、全部集めておきました♡」
「……記事?」
受け取ってページをめくる。
地元ニュースサイトの切り抜き。
“第三中学での乱闘——不良グループの抗争か”
“蛇喰峠で走り屋グループ摘発”
直接名前は出ていない。
けれど、その端っこに写ったゼファーや、阿修羅號らしき軽トラの姿。
七緒はそこに、赤ペンで小さくハートを描き込んでいた。
「……よく僕たちが関わってるってわかったね?」
一琉が苦笑する。
「ナンバーも写ってないのに」
「ふふ」
七緒は口元に指を当てた。
「“ファン”をなめちゃいけませんよ?」
小首をかしげ、瞳だけが笑っていない。
「狂輪会を潰すなんて、本当にすごいです♡」
ページの一枚をとん、と叩く。
「蜘蛛の巣も、狂輪会も。
悪い犬たちが、どんどんいなくなっていくんですもの」
「犬……」
カウンターの奥で夏菜が眉をひそめる。
「言い方えぐいな」
「でも」
七緒はくるりと向きを変え、一琉だけを真っ直ぐ見つめた。
「まだ“しつけの出来ていない犬”が、
生意気にもたてつこうとしているんです」
「……?」
一琉はペンを置く。
「どういう意味かな」
「“爆轟閻魔”が動きます」
七緒はさらりと言った。
「すぐに。狙われていますよ、一琉さんたち」
その名に、空気がぴんと張り詰める。
後ろのテーブルで、夏菜と鷹津が思わず顔を上げた。
「今、なんて?」
夏菜が椅子を引く。
「“爆轟閻魔”って——暗夜會の地獄鬼か?」
「そうです」
七緒はにっこり笑う。
「暗夜會最強、とよく言われてますね。
夜叉天と正面からやり合って、唯一黒星がつかなかった人」
「……マジかよ」
鷹津が息を呑む。
「狂輪会を“きれいに”片づけちゃったから」
七緒はスクラップ帳の端を撫でる。
「舞台を荒らしたら、お片づけの人が来るのは当然でしょう?」
「……それを、なんでわざわざ教えてくれるの?」
一琉は静かに問う。
七緒は一瞬だけ黙り、ふっと微笑んだ。
「だって」
胸元を両手で押さえる。
「一琉さんには、ちゃんと準備しておいてほしいんですもの」
「準備?」
「はいっ」
いたずらっぽく目を細める。
「大きな“プレゼント”を用意してますから♡」
「プレゼント?」
小さく囁く。
「一琉さんのための、大きな、大きな贈り物」
夏菜が顔をしかめた。
「おい待て、それ絶対ロクでもねぇだろ」
「どうしてそんなこと知ってるの?」
一琉は追いかけるように問いかける。
「暗夜會の内部のことだよね」
「秘密です♡」
七緒はそれ以上は語らず、すっと一歩下がった。
「でも——」
真剣な眼差しだけを残す。
「爆轟閻魔が本当に来るって、想定しておいてください。一琉さん」
「…………」
一琉は短く頷いた。
「わかった。ありがとう、七緒くん」
「ふふっ」
七緒は満足そうに笑い、くるりと背を向ける。
「では、次のプレゼントをご期待くださいませ、ご主人様♡」
ドアベルが鳴る。
七緒の姿が、夕暮れの商店街に消えていった。
◇
路地の角を曲がったところで——
「おい」
低い声が飛んだ。
煙が、電柱の影にもたれていた。
「……つけてきてたんですか」
七緒は足を止め、ゆっくり振り向く。
「ストーカーは感心しませんね、“狂犬”さん」
「バカにすんな」
煙は舌打ちし、ポケットに手を突っ込んだまま睨む。
「オメー……ヤバいところに首突っ込んでんじゃねぇのか」
「なんです?」
七緒はわざとらしく首を傾げる。
「心配、してくださるんですか?」
「……うるせぇ」
煙は視線をそらす。
「心配ぐらい、してもいいだろ」
七緒の表情が、一瞬固まる。
胸のあたりを、そっと押さえた。
「……そんな風に言われたの、初めてです」
むず痒そうに目を逸らす。
頬が、わずかに赤い。
「でも安心してください。私は大丈夫」
深呼吸して、いつもの笑顔を作る。
「だって——」
瞳だけ、どこか危うい光を宿す。
「一琉さんが、私のご主人様になるんですから」
「……っ」
煙は眉をひそめた。
口の中に、うっすらと鉄の味が広がる。
「勝手なこと言ってんじゃ——」
「ふふっ、それではごきげんよう、“狂犬”さん」
七緒はそれ以上聞かず、軽やかに背を向ける。
路地に、足音だけが遠ざかっていった。
煙はしばらくその背中を睨みつけていたが、やがて深くため息をつく。
「……マジで、ヤベぇとこにいんだろ、オメー」
呟きだけが、夕闇に溶けた。
◇
カノンに戻ると、テーブルではすでにプチ会議が始まっていた。
「爆轟閻魔……」
梨々花がメモ帳を広げる。
「暗夜會の地獄鬼の異名。中国拳法の使い手だって噂よね」
「七緒クン、どう考えても暗夜會内部の人間だろ」
夏菜が頭をかく。
「なんでわざわざ教えるんだ?」
「たぶん」
一琉は、スクラップ帳をそっと閉じた。
「僕と仲良くなりたいから、だと思う」
言いながら、自分でも苦笑する。
「今までのプレゼントと同じ延長線上、かな。ただ……」
視線を伏せる。
「少しずつ変われたらって、思ってたけど。
そんな余裕、ないのかもしれないね」
梨々花が頭を抱える。
「めんどくさい感情の向け方すんなぁ、あの子……」
一琉はスマホを取り出し、素早く画面を操作する。
薫子。
煌莉。
連合のグループに、短い文章を打ち込んでいく。
鷹津が腕を組む。
「いよいよ来る時が来たって感じね……」
「うわぁ〜……」
梨々花は震えながらも、目を輝かせる。
「暗夜會の“閻魔”登場とか、取材しがいありすぎなんだけど……!」
「取材じゃなくて生存が第一だからね?」
一琉は苦笑して釘を刺した。
その背中を、煙が椅子に沈み込んだまま睨む。
「……守るってのも、ラクじゃねぇな」
「そうだね」
一琉は、カウンター越しに笑った。
「でも、やるしかないでしょ」
「日常を守るって決めたのは、こっちなんだから」
窓の外には、晩秋の夜。
暗く沈む路地のどこかで、閻魔の気配が、静かに近づいてきていた。




