第86話 獣鬼戦⑤ 決着、狂輪会
「チビが……」
低く、ねじれるような声。
「チビが俺を……遊び半分で転がすんじゃねえええ!!」
怒りと羞恥と、焦り。
さっきまでの“ヘッド”としての気配が、
完全に剥がれ落ちていく。
広場の片隅。
倒れている狂輪会メンバーの単車が、一台。
サイドスタンドも立てず、横倒しになったままだ。
獣鬼は、その方向へと歩き出した。
「……おい」
夏菜が眉をひそめる。
「何する気だ」
「テメェらが好きな、鉄騎遊びだよ」
獣鬼は、横倒しの単車を片手で起こした。
またがりはしない。
ハンドルを握り、クラッチを握り込み、セルボタンを乱暴に押す。
キュルルル……バァン!
エンジンがかかる。
半クラッチ。
タイヤが地面をかじり、車体が前に出ようとした。
それを、獣鬼は腕力だけで押さえ込み、横に振る。
「な──」
夏菜の瞳が、かすかに見開かれる。
エンジンが唸りを上げる。
タイヤがスリップし、白煙が上がる。
獣鬼は、まるで巨大なフレイルでも使うみたいに単車を振り回し始めた。
狂輪会メンバーの悲鳴。
鉄骨。
ドラム缶。
鉄パイプ。
単車がぶつかるたび、景色が大きく揺れる。
「どけぇぇぇ!!!」
獣鬼の声が、嵐の中心で吠える。
「強ぇ奴の足になれねぇ鉄騎なんざ、
いくらでもスクラップにしてやるよ!!」
単車は使い捨てだ。
振り回して、飽きたら手を離せばいい。
その軌道の中に、夏菜も鉄騎隊も、全部まとめて巻き込まれる。
広場に単車の残骸が転がり、阿修羅號もドリフトを止める。
「……それが走り屋のやることかよ」
単車のフロントが、暴風のように迫ってくる。
避け遅れれば、そのまま吹き飛ばされる。
夏菜は床を蹴った。
「借りるぜ」
近くにいた狂輪会の一人の肩を踏み台にする。
「おわっ——」
短い悲鳴ごと、夏菜の身体が跳ぶ。
鉄骨の柱へ足を掛け、さらに三角跳び。
重力が、一瞬だけ消える。
回転する視界の中で、振り回されているバイクの上を越えていく。
「っらあああああ!!」
全身を伸ばす。
渾身のミサイルキックが、獣鬼の顔面めがけて突き刺さった。
「ぐおっ……!!」
衝撃で、獣鬼の腕からハンドルがすっぽ抜ける。
単車は主を失ったまま横滑りし、
火花を散らしながら鉄骨の山へ突っ込んだ。
「それが走り屋のやることかよッッ!!」
夏菜の怒鳴り声が、廃変電所に響き渡る。
フルフェイスに、新しいヒビが入った。
視界の隙間から、かすかに覗く、傷だらけの素顔。
「テ、メェ……!」
獣鬼が、ふらつきながらも足を踏ん張る。
まだ倒れない。
まだ、拳を握っている。
夏菜は着地と同時に膝をつき、荒い息を整えた。
「……本っ当に、タフだな」
息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。
獣鬼の手が、地面に落ちていた鉄パイプを掴んだ。
「…もう遊びじゃねぇ」
フルフェイスの中の目が、完全に殺気で濁る。
「ここで——」
パイプが、空を唸らせた。
夏菜は後ろに飛んでかわしつつ、一気に距離を詰める。
振り下ろしの軌道。
獣鬼の重心。
「その振り方なら——」
踏み込み。
パイプの軌道の“外側”へ滑り込む。
「ここだ」
夏菜は、しゃがみ込むようにして獣鬼の足元へ潜り込んだ。
——ドロップトーホールド
前足を払うように足首を引っ掛け、そのまま前方へ崩す。
「うおっ——!?」
獣鬼の身体が、前のめりに倒れ込む。
受け身を取る余裕もない。
フルフェイスの正面が、アスファルトに激突した。
鈍く、嫌な音が響く。
「クソ……クソ、がァ……!!」
立ち上がろうとする獣鬼の背後には、すでに夏菜が立っていた。
両腕を背中に差し込む。
手を組まない独特のホールド方式。
「終わりだぜ——」
獣鬼が、顔を上げようとした。
「待——」
その瞬間には、もう遅い。
夏奈が、獣鬼を地面から引き抜いた。
「ぅらアァァァァ!!!」
そのまま腰を反らせる。
コンクリートの壁が視界に逆さまに流れる。
弧を描いて、獣鬼の巨体が頭からコンクリートに突き刺さった。
——タイガー・スープレックス
地響きのような衝撃。
獣鬼の身体が、頭からアスファルトに叩きつけられた。
フルフェイスに走っていた亀裂が、一気に広がる。
パリィン、と嫌な音を立てて、シールドが弾け飛んだ。
静まり返る廃変電所。
剥き出しになった顔には、一本の大きな傷跡が走っていた。
目尻から頬へ。
古く、深い、斜めの傷。
「ァ…ば、バカ…な……」
獣鬼の瞳が、焦点を失っていく。
口の端から血が滲み、力なく腕が落ちた。
完全な——KO。
夏菜は体勢を戻すと、
しばらくその場で肩で息をしていた。
「……走りも」
息を整えながら、ポツリと呟く。
「喧嘩も」
広場を見渡した。
鉄騎隊と凪嵐十字軍が、次々に狂輪会の連中を制圧している。
倒れたまま動けない者。
武器を捨てて座り込む者。
立っているのは、もうほとんどいない。
「筋を通さねぇ奴には」
夏菜は、獣鬼を見下ろす。
「負けらんねぇよな」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
静寂。
やがて、その沈黙を破ったのは、誰かの震える声だった。
「獣鬼が……負けた……」
「ヘッドが……」
「狂輪会、終わりじゃねぇのか、これ……」
ざわめきが、広場の隅々まで広がっていく。
阿修羅號のボンネットに背を預けて戦況を見届けていた煌莉が、ふっと笑った。
「……これで獣鬼も終いや」
夜風に赤いスカーフを揺らしながら言う。
「狂輪会は、今日で地に堕ちた」
夏菜は、なおも荒れる呼吸を無理やり整えながら、一琉たちの方を振り返った。
「やったぜ……」
ヘロヘロの笑顔。
「チル、見てたか?」
「もちろん」
一琉はスマホを握りしめたまま、笑い返した。
(走りも、喧嘩も——)
(“筋を通したうえで”勝ち切った)
蛇喰峠の夜。
凪嵐十字軍と暴動鉄騎隊が、暗夜會・狂輪会の“獣鬼”を打ち倒した瞬間だった。




