第82話 獣鬼戦① 獣鬼と虎閃
蛇喰峠・廃変電所。
サバイバル戦を終えた広場には、まだタイヤとオイルの匂いが残っていた。
仮設照明の光が、夜の闇を薄く押し返している。
夏菜のガンマが、スタートラインの少し手前で静かにアイドリングを続けている。
「……体力、大丈夫かな」
一琉がぽつりと呟く。
その横で、静は目を細めていた。
「……まだ、呼吸乱れてない」
再びつけられたプロジェクター越しに映る、
夏菜の肩の上下。
少し荒いが、明らかに限界ではない。
虎閃の名は、伊達ではないということだ。
「さて——」
女幹部が、メガホンを握り直す。
「サバイバル勝者、虎閃」
指先で、スタートライン脇のガンマを示す。
「対するは——」
その声を切り裂くように、闇の向こうから重低音が響いた。
ドドドドドド……という、腹の底に響く鼓動。
「……来たな」
誰かが呟く。
闇の中から現れたのは、黒光りする巨体だった。
太いタイヤ。
分厚いタンク。
フレームの間から覗く、巨大なV型エンジン。
ヤマハ・V‐MAX。
「……峠にまで持ってくるかよ」
夏菜が小さく息を呑む。
「直線番長だろ、普通」
けれど、それをねじ伏せてでも「曲げる」テクニックがなければ、
蛇喰峠は走れない。
V‐MAXは、低速でゆっくりと進んできた。
その背に跨るライダーは、全身を黒いプロテクターで固め、
フルフェイスヘルメットを深く被っている。
肩と胸、肘、膝。
どこか「暴力用」とでも言いたくなるようなゴツい装備だ。
「ヘッドのお出ましだぜ」
「お待ちかねだな」
狂輪会の幹部連中が口々に囁く。
V‐MAXは、夏菜のガンマの少し手前まで進むと——
いきなりアクセルを煽った。
「ッ!」
リアタイヤが路面を噛み、後輪が白煙を上げる。
巨体が半回転。
ガンマに当たるか当たらないか、
ぎりぎりの距離で、豪快なアクセルターンを決めた。
そのまま、スタート位置ぴったりに収まる。
「……っるせぇ見せ方しやがって」
言葉と裏腹に夏菜は笑う。
誰かが口笛を吹く。
「さすが獣鬼様よ」
「これがヘッドのV‐MAXだ」
ガンマの前。
V‐MAXのエンジンが、低く、獣の喉鳴りみたいな音を響かせている。
夏菜は、その巨体を真正面から見据えた。
シールドの奥で、口元が吊り上がる。
「よぉ」
軽く顎をしゃくって言う。
「三中じゃ、世話になったな」
闇の奥のフルフェイスが、わずかにこちらを向いた。
「……知らねぇな」
低い声。
「てめぇみてぇな羽虫、一々覚えてねぇ」
夏菜は鼻で笑う。
「羽虫相手に逃げたこと、
もう忘れちまったか?」
「ふん……」
獣鬼は鼻を鳴らした。
「V‐MAXねぇ」
夏菜はわざとらしく感心したような声を出す。
「普通、峠に持ってくるバイクじゃないだろ」
「普通?」
獣鬼は短く返した。
「俺には関係ねえ」
その言い方には、自分の腕への絶対的な自信が滲んでいた。
夏菜は、少しだけ首を傾げる。
「鬼哭冥夜は」
軽く、探りを入れるように言う。
「エリミで峠攻めて、鬼轍組ぶっ潰したって伝説あるけどよ」
鬼轍組——狂輪会の鬼道連時代の名前。
「そういうのに憧れちゃったクチか?」
場の空気がわずかにざわめく。
獣鬼の肩が、ぴくりと揺れた。
「……憧れだと?」
ハンドルをわずかに握り締める音が、近くの奴にだけ聞こえた。
「あの女の走りは、もう超えた」
狂輪会の連中が、驚いたように顔を見合わせる。
「いずれ、あいつも潰しに行くぜ」
「……生半可で身につくテクじゃねえだろ」
夏菜の眉が、わずかに寄った。
「なんでそんな力があるのに——」
ゆっくりと言葉を紡いだ。
「RZを襲うような真似、見過ごしてんだ」
鉄騎の墓場で見た、壊れたRZ。
オイルとガソリンの匂い。
煌莉の、噛み殺したような怒り。
獣鬼の背後の幹部連中が、わずかに顔を引きつらせる。
獣鬼自身も、わずかに沈黙した。
「……」
次の瞬間、フルフェイスの奥から吐き捨てるような声が飛ぶ。
「勝った奴が、正しい」
低い声が、今度は剥き出しの敵意を帯びる。
「勝たなきゃ意味がねえんだよ!!」
怒鳴り声。
「勝った奴だけが全てを得る」
「それが、この狂輪会の掟だ!」
狂輪会メンバーたちが、口々に吠える。
彼女は周囲を睨み回すようにして吠えた。
「負けた奴がどうなるか——」
視線が、夏菜のガンマに突き刺さる。
「てめぇに教えてやるぜ」
「ああ、だいたいわかった」
夏菜は目を細めた。
「うすぎたねぇ劣等感、
走りの場に持ち込みやがって」
乾いた2スト音が、廃変電所の壁に反響する。
「テメェはここで落とす!」
獣鬼は無言のまま、クラッチを握り込んだ。
V‐MAXのV4が咆哮を上げる。
低い鼓動が、一気に獣の咆哮へと変わる。
女幹部が腕を上げた。
「獣鬼戦——」
ギャラリーが息を呑む。
「スタート準備——ッ」
一琉は、思わず拳を握り込んだ。
静は、いつでも走り出せる姿勢で周囲の様子を窺う。
「……行け、夏菜」
誰にともなく、小さく呟いた。
「スタート!」
腕が振り下ろされる。
次の瞬間、V-MAXとガンマが同時に飛び出した。
蛇喰峠の闇に、二本のライトが突き刺さる。
獣鬼と虎閃。
蛇の腹の中で、二つの牙がぶつかり合おうとしていた。
◇
スタート直後から、差ははっきりしていた。
V-MAXが、圧倒的なトルクで一直線に飛び出す。
夏菜のガンマも立ち上がりは悪くない。
それでも、最初の数メートルで、トルクの差が如実に出た。
「ッ……!」
ガンマのフロントが浮きそうになるのを抑えながら、
夏菜は必死にスロットルを開ける。
だが、V-MAXはすでに半車身、前にいる。
緩やかなカーブ。
軽さを武器に、V-MAXの尻にじわりと近づく。
並走状態になった、その瞬間。
横から、獣鬼の足が飛んできた。
「ガンバってんじゃねぇぞゴラァ!!」
プロテクター付きのブーツが、
ガンマのステップを狙って振り下ろされる。
夏菜は、その瞬間にガンマをわずかに寝かせた。
ラインを半歩分だけ外す。
狙い澄ました蹴りは空を切り——
「チッ」
獣鬼は、ふらつきもせずに体勢を戻した。
蹴り慣れている。
暴力に慣れている。
「……ふん」
夏菜は逆に、冷静さを取り戻す。
「こっちだって、暴力には慣れてる」
ストレートでは——
差が広がる。
けれどこの勝負は、ストレートだけじゃ終わらない。
(パワー差は承知だ)
(だから、峠だろ)
ガンマの2ストが、夜の空気を裂き続ける。
蛇喰峠の闇の中、二台のライトが、最初のタイトコーナーへと突っ込んでいった。
戦いの本番は、まだここからだった。




