第8話 筋の通し方
翌朝の桜坂中、転校二日目の朝。
春の風が、昇降口のガラスをかすかに揺らしている。
登校する生徒たちの笑い声の中、天凪一琉は静かに教室前の廊下を歩いていた。
昨日の出来事――鷹津と夏奈の衝突、そして自分が放った言葉。
どのような波紋を起こすのか、それはわからない。
けれど、不思議と怖くはなかった。
むしろ心のどこかが、軽くなっていた。
(……あの夜に、アカネさんが言ってた話。
もしかしたら、こういうことなのかもしれない)
そう思いながら、教室の前に立つ。
ドアに手をかけた瞬間――視界の端に、ひとりの影が入った。
◇
壁にもたれて腕を組む少女。
腕を組み、伏し目がち。
気配に気づくと、ぎ、と顔を上げる。
鷹津だった。
制服の汚れが痛々しい。
だが、立っている姿は不思議と凛としていた。
刹那、昨日の刺すような光が宿る。
だが次の瞬間、彼女は深々と頭を下げた。
「……昨日のこと、悪かったわね」
その声は小さく、けれど確かに届いた。
一琉は目を瞬き、すぐに微笑んだ。
「ううん、いいよ」
言葉はやわらかい。
でも、その瞳の奥には、芯のような光があった。
「でも……鷹津さんに傷つけられた人のことも、ちゃんと考えてあげて。
それが、“筋”だと思うから」
鷹津は目を見開く。
小さく息を呑み、ゆっくり頷いた。
一琉は微笑みを残して、教室へ入っていく。
廊下に残された鷹津は、壁に手をつき、深く息を吐いた。
「……スジ、ねぇ」
その言葉を噛みしめるように呟いた。
◇
次の日の午前の授業まで、鷹津は姿を見せなかった。
昼休み、教室のドアが開く。
鷹津が立っていた。
その顔にはいくつか新しいあざが増え、
制服も少し汚れている。
だが、その瞳は澄んでいた。
教室が一瞬ざわめく。
彼女はまっすぐ一琉の机まで歩いてくると、立ち止まった。
全員の視線が集まる中、はっきりと言った。
「……今まで迷惑かけた子たちには、全部謝った。
金も返した。それで……その……」
夏奈が頬杖をつきながら、にやりと笑う。
「へぇ……ケジメつけてきたんだ」
一琉は立ち上がり、まっすぐ目を見る。
「……ありがとう。痛かったでしょ」
「べ、別に……!」
鷹津が頬を赤らめ、そっぽを向く。
一琉はふっと笑った。
「そっか」
少しの間があって、
彼は自然な声で続けた。
「……じゃあ、近江さんたちと屋上でご飯食べるけど、来る?」
その一言に、鷹津は目を丸くした。
「……は?」
「一緒に食べようよ」
鷹津は驚いたように目を見開き、すぐに伏せて、小さく頷いた。
後方で様子を見ていた梨々花が、苦笑を隠さずに呟く。
その様子を見ていた梨々花が、ため息まじりに笑った。
「わぉ……これはニュースかも。」
◇
屋上へと続く階段を上る途中。
静かな廊下の角に、ひとつの影があった。
制服の上に羽織ったパーカー。
そのポケットに手を突っ込み、柱にもたれかかる少女。
鋭い目が、上っていく三人の背中を追っていた。
その目が、一琉の背中を、
そしてそのすぐ後ろを歩く鷹津へと移る。
何かを言いかけて、唇が動く。
だが、音にはならなかった。
影は視線をそらし、踵を返す。
風のように、気配を残さず歩き去った。
◇
屋上のドアが開く。
春風が髪をゆらし、青空が広がる。
夏奈はベンチにどかっと腰掛け、パンの袋を開けた。
梨々花はスマホで何かを打ちながら、
スケッチブックを取り出してさらさらとペンを走らせる。
鷹津は少し離れて座り、膝の上のコンビニ弁当を前にぎこちなく箸を握っていた。
夏奈が口をもぐもぐさせながら、にやりと笑った。
「なーに緊張してんだよ、鷹津。顔、真っ赤じゃねーか」
「……う、うるせぇな……!」
一琉は、そんな二人を見ながらやわらかく微笑んだ。
「鷹津さん、無理しなくていいからね」
その声に、鷹津の手が一瞬止まり、
俯きながら小さく呟く。
「……別に無理なんか、してないし」
春風が吹き抜け、新聞紙がめくれる音がした。
梨々花が顔を上げ、笑いながら言う。
「今日のニュースタイトルは決まりね。
“転校生、三日目にしてクラスのこわーい不良を陥落!”」
「やめてよ……」と一琉が笑い、
鷹津が箸を掲げて「ふざけんな!」と叫ぶ。
屋上に笑い声が広がった。
空を見上げると、青い空がどこまでも高い。
青の底で、雲がゆっくり形を変えていく。
(……なんだか、悪くないな)
一琉は胸の奥で小さく呟いた。
誰も“筋の通し方”を教えてくれなかったあの世界とは違う。
今の自分は――自分の足で、立てている気がした。




