第69話 邂逅
峠の入り口を抜けると、景色が一段、鮮やかになった。
山肌に張りつくように続く一本のアスファルト。
その左右を、紅や橙やまだらな黄緑が埋め尽くしている。
日中のやわらかな陽射しが、ところどころの葉を透かして、薄い炎みたいに輝いていた。
色のついた葉が、枝から、路肩から、ふわりと風に持ち上げられて、ゆっくりと落ちていく。
「うわ……きれい」
思わず一琉は呟く。
乾いた土と、少し冷えた空気と、どこか甘い落ち葉の匂い。
秋の匂いははっきりしていた。
夏菜のガンマが、その中を軽やかに抜けていった。
2ストローク特有の甲高い排気が、秋の空気をかき混ぜる。
その少し後ろで、一琉のゼファーが穏やかに追いかける。
空冷4発の低い鼓動は、ガンマよりもゆったりしていて、どこか落ち着いたリズムを刻んでいた。
さらにその後方。
無言のまま、静のカタナが、一定の距離を保ってついてくる。
空気を切り裂く独特のエキゾースト音。
銀の車体は、紅葉の中を一本の線のように走り抜けていた。
路肩には、ところどころに落ち葉の溜まり。
日が高いおかげで水気はない。
だからといって、気を抜いて踏み抜けば、タイヤの下ですべってもおかしくない。
インカムから、夏菜の声が弾んだ調子で飛び込んできた。
『落ち葉のとこ、ライン外しすぎんなよー』
「了解。あんま踏まないようにする」
一琉は前方の路面に目を凝らしながら答える。
白線ぎりぎりをトレースしつつ、茶色い塊の手前で少しだけラインを調整する。
一琉はブレーキレバーに軽く指をかけたまま、前を走る夏菜の軌跡をなぞる。
夏菜はそういうライン取りがうまい。
危ない場所は自然と避けるように走ってくれる。
『初めての峠だ、張り切りすぎんなよー』
ガンマのテールランプが、ほんの少しだけ左右に揺れる。
「オッケー、流しだね?」
一琉も笑いながら返す。
スロットルは、じわっとしか開けない。
背後で、静のカタナもまた、丁寧に車体を傾けている気配がする。
インカムはつないでいないが、そのリズムは排気音から伝わってきた。
右に左に、ゆるやかなコーナーが続く。
そんなときだった。
「……?」
ヘルメットの中で、一琉は眉をひそめる。
インカム越しの話し声とは別に、
遠くから地面がうなるような低い音が聞こえてきた。
「ドドドドドドォォン……!」
空冷4発の音とは違う。
もっと太くて、ずっしりした、重油みたいな低音。
一琉はミラーをちらりと見る。
カーブの向こうで、木々の間にちらちらと、黒と緑の塊が見え隠れしていた。
次の緩い右コーナーで、その塊は一気に姿を現した。
黒と、深い緑の巨体。
どこか古めかしい角張ったシルエット。
それでも、走っているときの存在感は圧倒的だ。
カワサキZRX1100。
光差す峠道の中、そのマシンだけが影をまとっているみたいに見えた。
大排気量らしいトルクで、コーナーの立ち上がりで一気に距離を縮めてくる。
ラインもお構いなしだ。
センターラインぎりぎりまで寄せてきて、
夏菜のガンマと一琉のゼファーの間に鼻先をねじ込んでくる。
「うわ……!」
一琉が思わずスロットルを緩めた瞬間、
巨体はトルクだけで彼らを抜き去っていった。
排気の熱と、かすかなガソリンの匂いだけが残る。
『ち、ナメたやり方しやがって……!』
夏菜が怒気を含んだ声を上げる。
無言のまま後ろを守っていた静も、おそらく眉をひそめているのだろう。
ミラーの中のカタナが、一瞬だけわずかにラインを外し、危険を避ける動きをした。
ああいう抜き方をするやつの顔は、大抵、ヘルメットに隠れて見えない。
けれど、その背中には奇妙なくらいの自信と、傲慢さが滲んでいた。
(……あれは、ただの走り屋って感じじゃないな)
一琉は直感でそう思う。
そのとき、耳を打つ音が、もうひとつ混ざった。
「パパパパ……パパパパパパァァーン!」
今度は軽く、乾いた音。
空気を切り裂くような、高いチャンバー音が山に反響する。
「ん……?」
ミラーの端から、小さな影が飛び出してきた。
細身で華奢なシルエット。
白と紺のツートンカラー、丸いライト、カウルなし。
ヤマハRZ。
『あれは……!』
夏菜の声色が変わった。
その走り方は、さっきのZRXとはまるで違っていた。
「……っと」
一琉は思わずスロットルを戻し、ラインを外側に寄せる。
静も後ろで、すっと距離を開けた。
白紺のRZは、まるでそこが自分のホームコースであるかのように、
一琉たちと路面の落ち葉の帯をするりと躱す。
夏菜もガンマのスロットルをほんの少し緩め、
前に出ていく小柄なマシンをじっと見送った。
「夏菜、追っちゃだめだよ」
一琉はインカム越しに声をかけた。
『分かってるって』
夏菜の返事は、しかしどこか興奮で震えていた。
RZのライダーは、あまり大きく体を動かさない。
けれど、ヘルメットの向きと肩のラインだけで、どこを見ているのかが分かる。
まるで獲物を見つけた猫のように、ZRXの背中に吸い付くように迫っていく。
ストレートでは圧倒的に不利なはずなのに、
その差をコーナー一つごとに削っていった。
次のタイトコーナー。
右に一気に切れ込む、見通しの悪いコーナーだ。
ZRXが減速し、イン側をじりじりとトレースする。
その背中にぴたりと貼りついたRZが、一瞬だけ外へ振った。
「……そこ行く?」
一琉が心の中で呟く。
路肩寄りには、乾いた落ち葉の帯が広がっている。
間違えれば、そのまま外側のガードレールに一直線だ。
だがRZは、その帯の手前ぎりぎりでブレーキングを終え、一気にバンクさせた。
「パパパパァァァァーーン!」
乾いた排気音が裏山まで響き渡る。
ステップのどこかが路面をかすったのか、白い火花が一瞬だけ散った。
ZRXのすぐ外側から、鋭く切り込むようにイン側へ戻る。
わずかなタイミング差で、コーナーのクリッピングポイントをRZが奪った。
気づけば、その小さな2ストは巨体のZRXを置き去りにしていた。
「……すご」
一琉は息を止めて、その一瞬を脳内で追った。
軽い車体を、軽いまま最大限に使うライン。
落ち葉の帯を踏まないように、でもギリギリまでタイヤを路肩に寄せる大胆さ。
それでいて、危なっかしい感じはない。
全部の動きが、もう何十回、何百回と繰り返した結果みたいに滑らかだった。
ライダーの小さな背中には、何かが揺れている。
ヘルメットからはみ出したツインテールに、
風を切ってはためく、細いスカーフ。
陽の光を受けて、鮮やかな血のような色がちらりと見えた。
『……本当にいた』
夏菜が低く呟いた。
インカム越しでも分かるくらい、喉の奥で笑っている。
走り屋界隈を騒がせているという、RZを駆る大型キラー。
話だけ聞けば怪談みたいな存在だ。
けれど今、一琉たちの数十メートル先を走っているその小さな背中は、間違いなく現実にそこにいた。
「夏菜」
『分かってる。追わねえよ』
夏菜は、わずかにスロットルを緩める。
その代わり、視線だけは前方の白紺の影を追い続けていた。
RZは数個のコーナーを抜けるごとに、小さくなっていく。
白と紺と、赤いスカーフ。
それだけを残して、やがて視界から完全に消えた。
一琉は、ヘルメットの中でそっと息を吐く。
「……走り屋伝説って、あんな感じなのかもな」
誰に聞かせるでもなく、そんなことを呟きながら。
彼はただ、その小さな背中が消えていった先のカーブを、ゆっくりと追いかけていった。




