第68話 章プロローグ 旧車の噂
秋の風は、少しだけ冷たかった。
校門を出たあたりで、そんなことを一琉はようやく自覚する。
ここ最近、季節を感じている余裕なんて、あまりなかった。
薔薇乙女會との同盟が成ってから、暗夜會側の動きは一度、表向きは静かになった。
けれどその代わりみたいに、細かい襲撃が増えた。
放課後の裏路地、人気の少ない公園の隅、人気のない階段。
最初の一声もなく、フルフェイスやフードで顔を隠した連中が数人、黙って近づいてきて——
——その少し前には、だいたい静がどこかの“上”にいる。
非常階段の踊り場、看板の陰。
視界の端で一琉が位置を確認する頃には、静の姿はもう影に溶けている。
そして、相手が一琉の半径数メートルまで踏み込んだ瞬間。
頭上から、音もなく影が落ちる。
「……っ!?」
フードの一人の襟首を、静の踵が正確に打ち抜く。
そのまま着地すると身体をひねり、背後のもう一人の首筋に肘を叩き込む。
二人が同時に崩れたところへ、残りの数人が慌てて構えた。
「襲われてるのはお前らってワケ」
鷹津の低い声とともに、ストレートがフルフェイスの鳩尾に沈む。
横合いから飛び込んできた夏菜のソバットが、別の一人の顔面を弾き飛ばした。
「ま、実際上なんてそう見ねえよ。ご愁傷様だぜ」
「……効率」
静は短くそう答えながら、倒れた相手の腕をさっと払って武器の有無を確かめる。
その隙間を縫うように、煙の白い拳が最後の一人の顎を正確にかすめた。
十秒もすれば、地面には呻く相手だけ。
襲いかかってくる人数も、武器も、こちらを本気で潰そうって規模じゃない。
けれど、やたらと手際がいい。
最初から撤収ルートを決めているみたいに、
残りはすぐにばらけて夜の街に消える。
「潰す気はねえ。威圧だな」
そうぼやいたのは煙だった。
今も、校門前の電柱に、昨夜の蹴り跡がうっすら残っている。
一琉はそれをちらと見上げて、ため息をひとつ吐いた。
そんな小競り合いが、ここ最近の「日常」の一部になっていた。
◇
放課後のパン屋カノン。
この日も、陽が傾き始めたパン屋の店内で、
一琉はトレーを拭いていた。
そこへ、ドアベルが軽快に鳴った。
「ちわ〜っす!」
夏菜が、いつになくニヤついた顔で飛び込んできた。
「なぁ一琉、最近この辺の峠にヤバいのが出てるらしいぞ」
「ヤバいって、暗夜會の新手?」
一琉は布巾を置き、カウンター越しに視線を上げた。
「違う違う。もっと健全なヤバさ」
夏菜は、もう話す前から楽しそうに身を乗り出している。
「RZだ。旧車の2ストで、現行の大型抜きまくってんだと」
言葉に、ほんの少しだけ敬意が混ざる。
ヤマハRZ。
かつてレーサーレプリカの流行を引き起こした伝説的モデル。
「排気音でわかるやつは、もう一発で惚れるレベルだってさ」
旧車。2スト。
このあたりの単語に夏菜が食いつかないはずがなかった。
一琉は心の中でため息をつきながらも、苦笑する。
「……またマニアックな噂拾ってきたね」
「いやいや、これは大ニュースよ?
やっとガンマ完治したからさぁ、見に行きたいな〜〜」
夏菜のガンマ――2ストのスポーツバイクは、
夏の間のトラブルを経て、ようやく完全復活したばかりだった。
腰上を開けて、あれこれ手を突っ込んでいた夏菜の姿を、一琉は思い出す。
「ちょうどゼファーも調子いいし、
一緒に行こうぜ。流すだけだって」
旧車の話になると、夏菜のテンションはいつもこうだ。
「え〜?……1人でいったら?」
一琉はからかうように目を細める。
「ちょっ、そういうとこだぞチルくん!」
夏菜は慌ててカウンターをバンバン叩く。
「お願いチルく〜ん♡ 峠案内するからさ〜、護衛もつけるから〜」
わざとらしく甘え声を作りながら、奥の席に視線を投げた。
一琉もつられてそちらを向く。
「……めずらしいね、静が中で待ってるなんて?」
窓際の席。
静がホットコーヒーのカップを両手で包み、静かに座っていた。
「先に呼んでおいたんだよ、静は絶対ついてくるだろ?
沙夜たちにも話は通してあるからよ」
夏菜が得意げに胸を張る。
静は何も言わない。
ただ、ゆっくりとカップをソーサーに戻し、一琉の方を見て、こくりと頷いた。
一琉は少しだけ表情を緩めた。
「静もカタナ走らせたそうだね。いいよ、一緒に行こう」
「……ぅん」
小さく、照れたような声。
静の白い頬が、カップの熱とは違う赤みを帯びる。
その様子を見て、夏菜は両手を打ち鳴らした。
「よっしゃ! 決まりだな!!
あたしのガンマの本領見せてやるぜ〜!」
「焼き付かせない程度にね」
夏菜は「わかってらぁ」と笑う。
向かうのは血の匂いより、オイルと焼けたブレーキの匂いが似合う場所だ。
最近の襲撃続きで張り詰めていた空気を換えるには、
悪くない誘いなのかもしれない。
◇
翌日、日が高くなり始めた頃。
三人はそれぞれの愛機に跨がり、街を抜けて峠へ向かっていた。
秋に入りかけの風は、真夏のような粘りを失い、乾いた匂いを含んでいる。
街路樹の葉先は、うっすらと色を変え始め、
遠くに見える山は、ところどころ紅が滲んだように染まりつつあった。
先頭を走るのは夏菜のガンマ。
甲高い2スト特有の排気音が、街の喧騒を切り裂いていく。
その少し後ろで、一琉のゼファーが低く唸る。
空冷4発の鼓動は、まるで一定のリズムで脈を打つ心臓のように、落ち着いた振動を伝えてきた。
さらに後方、静のカタナが、控えめに距離を保ちながら追従する。
銀色のボディが陽光を受けて、刃のような光を一瞬だけ返した。
やがて、街並みが途切れ、道は山の裾野へと滑り込んでいった。
峠の入り口の駐車スペースに着くと、
週末でもないのに、何台かのバイクが集まっていた。
タンクにもたれかかり、缶コーヒーを片手に談笑している者。
タイヤを覗き込み、空気圧を指で確かめている者。
マフラーの焼け具合をニヤニヤしながら眺めている者。
どこにでもいる「峠の住人」たちだ。
その中の一人が、隣のライダーに小声で話しかけるのが聞こえてくる。
「今日も来るかな、あのRZ」
「来たらすぐわかるだろ、あの甲高い音」
「この前なんてさ、現行リッター余裕で千切ってたってよ」
噂は、どうやら本物らしい。
どうやら件のRZは最近になって姿を見せるようになり、瞬く間に名を広めたようだ。
夏菜は一琉の肩を小突いた。
「ほらな、ここまで話題になってる。……見れるといいな」
一琉は肩をすくめる。
「見れたらラッキー、くらいにしときなよ」
そう言いながらも、興味がないわけではない。
少し休んだ後、三台は静かに駐車場を離れ、山道へと流れ込んでいった。
山ではもう樹々が紅葉し始めている。
あいだから差し込む光は、もう夏のそれではない。
乾いた落ち葉を巻き上げながら、路面をなぞるように、三つの影が伸びていく。




