第58話 夏休み外伝 夏の思い出
夜明け前、空の下の方が青く滲み始める。
倉庫の扉が小さく開いて、冷えた海風が一息分だけ忍び込んだ。
「起きろ、働いてから朝飯だ」
「う……」
夏菜が寝袋から這い出し、次に鷹津、梨々花、煙。
静はすでに起きて靴紐を結んでいた。一琉は最初の一声で目を覚ましている。
埠頭の漆黒を漁船のライトが照らす。
甲板に人影が動き、ロープが滑る音、エンジンの低い振動。
アカネの知り合いの漁師が手を振った。
「後輩連れてきたのか、アカネ!」
「手伝わせる。無茶はさせねぇ」
「助かるよ」
魚籠、氷箱、網。
バランスを取り、膝で重みを受け、運ぶ、受け渡す、また運ぶ。
汗が滲んでも、朝の風がすぐに冷ましてくれる。
「手首で返せ。落ちるぞ」
アカネが煙の手首を軽く押し、力の向きを教える。
「……こう?」
「そうだ」
鷹津は「背中丸まってるぞ!」と夏菜に怒鳴られ、「わーってる!」と返しつつ速度を落とさない。
静はロープをまとめ、梨々花はふらつきながらも根性で箱を押した。
そうして馴染み漁師の船で、手伝いは始まった。
「ロープ手、離すな」
「う、うす!」
鷹津は返事をして、すぐに歯を食いしばる羽目になる。
重い箱、濡れた網、足場の悪さ、途切れない仕事。
筋トレよりずっと容赦がない。
夏菜は笑い、鷹津と煙は歯を食いしばる。
静は黙々と動き、梨々花は半分泣いた。
アカネは当たり前みたいに、全部こなす。
網を引き、箱を担ぎ、ロープを捌く。呼吸は乱れない。
鷹津は、汗を滴らせながら横目で見て、心の中で呟く。
(……強さの秘訣、これじゃね?)
ジムじゃなくて、日常の重さ。
形じゃない、積み重ね。
「戻るぞ」
船が岸に寄せられる。
からだ中が悲鳴を上げているのに、妙な清々しさがあった。
鷹津がへたり込む。
「自然相手は常に真剣だ。覚えとけ」
アカネは涼しい顔でロープを回した。
太陽が顔を出す頃、手伝いは一段落。
倉庫に戻ると湯気を上げるアラ汁が並び、港の朝ごはんが始まった。
◇
倉庫では一琉が朝食を用意していた。
冷凍庫から出されたシーバスのサクは、透明な光を宿していた。
「昨日の大物、ちゃんと冷凍したから刺身で出せるよ」
「生でもいけんのかよ!」
夏菜が目を輝かせる。
「いただきます!」
豪勢な朝食は、漁で動いた体にいくらでも入っていくようだった。
「うめぇ……やっぱ坊の飯はレベル違ぇな」
カルパッチョにはレモンとオリーブ、漬け丼は艶やかな醤油色。
静はタコ飯の蓋を開け、無言で茶碗によそってくれる。
炊き上がったタコ飯の湯気。
昨日の南蛮漬けは味が馴染んでさらに旨い。
◇
食後は整備タイム。
ガンマのチェーンに油、ゼファーのプラグチェック、カタナの遊び調整。
静かな工具音が倉庫に落ちる。
そんな中、煙がぽつりと言った。
「カノンの二人に、土産持っていきてえ。
……二人とも、パンの匂いばっかだろうし」
「いいね」
一琉が微笑む。
「刺身は難しいから、タコ飯とフライ、南蛮漬けを詰めよう。冷めてもいける」
「ふ、ほらよ」
アカネがタッパーを出し、煙に渡す。
「行ってくる」
煙がキッチンに走り出し、一琉が後ろに続いた。
戻ってきた煙は、アカネに小さく頭を下げる。
「……世話になった。ありがとよ」
「また来い」
アカネが短く言い、手を上げる。
シャッターを半分まで上げ、全員で単車を外へ押し出した。
夏菜のガンマが最初に路面へ降りる。
続いて静のカタナ、一琉のゼファー、原付組。
最後に、煙がもらった竿ケースを背負い直す。
潮の匂いと、昼の陽射し。金属が光る。
「アカネさん」
一琉たちは単車に跨ると、深く頭を下げた。
「二日間、ありがとうございました。
……場所も、ご飯も、いろいろ」
「礼は要らねぇよ。
坊が旨いもん作ったろ、貸し借りはチャラだ」
アカネはゼファーのタンクを、こん、と軽く叩く。
「似合ってる。いい相棒になるぜ」
一琉はにこりと笑った。
「沙夜、なんか盗めたか」
「……日常の重さ。毎日やってる奴は、そりゃ強ぇわ」
「それでいい。
最強なんざ幻想だ。今日も、明日も、できることを積め」
「はい」
鷹津がニッと笑って、グローブをきゅっと締める。
エンジンに火が入る。
ガンマの甲高い音、カタナの低い鼓動、ゼファーの重い拍動、原付の軽い唸り。
倉庫の前に、音の層が重なる。
「…じゃあ、いってきます」
走り出したちょうどその時、幻月夜叉連の特攻服が埠頭に滑り込んできた。
「お、一琉クンいるじゃねーか」
「この子らが凪嵐十字軍?ウチにも武勇伝届いてるぜ!」
「入れ違いだな」
一琉が笑い、手を振る。
夏菜、鷹津、静、梨々花、煙――それぞれが、海風の中で手を振り返した。
シャッターが、ゆっくりと降りる。
潮の匂い、油の匂い、笑い声の残り香。
秘密基地の合宿は、短くも濃い夏休みの思い出になった。




