第57話 夏休み外伝 港の夜、鍵と波音
戻るや否や、戦場はキッチンへと移った。
一琉とアカネが中心に立ち、まな板が並ぶ。
水でぬめりを落とし、鱗を飛ばし、血合いを洗う。
「刺身は一晩冷凍しないと危ないから、明日ね」
一琉が説明しながら包丁を動かす。
アカネの包丁は迷いなく、骨の上を静かに滑る。
「頭と骨は捨てるな。出汁にする」
「了解」
静がアラをバットに集め、鷹津が火加減を見る。
「衣はこんな感じ。薄力、卵、水……
はい、煙、この順番でくぐらせて」
一琉がトレーを並べると、煙は少し落ち着かない手つきで頷いた。
「……こう、か?」
「うん。上手いよ」
一琉が微笑むと、煙はそっぽを向いたまま、動きだけ丁寧になる。
梨々花が南蛮漬けの野菜を刻む。
静は無言でタコを湯に落とし、色が変わる瞬間を逃さない。
油が歌い、香りが跳ねる。
皮はパリッ、身はふっくら。
シーバスのバター焼きが、鉄板で軽く鳴いた。
「でっけえ! これは贅沢すぎ!」
「ムニエルもお願いします♡」
夏菜と梨々花がはしゃぐ。
煙は配膳を手伝いながらそわそわと鉄板を覗いていた。
◇
テーブルには塩焼き、フライ、ムニエルに南蛮漬け、タコぶつ。
アラ汁も添えて、港の家の豪快な夕餉。
「こんなのって初めてだ……」
煙はぽつりと言い、箸を置いた手を見つめた。
「――いただきます!」
もう一度、全員で声を合わせる。
夏菜がアジの塩焼きにかぶりつく。
「……っはぁ~、これこれ!
塩だけでここまで旨いの、反則だろ!」
「衣、薄いのに音がいい……」
鷹津はフライを噛み、「ザクッ」と音を楽しんでから無言で親指を立てた。
「油、温度キープしてんのが分かる。胃にもたれねぇ」
「……サクサク……やべぇ……」
煙もフライを頬張り、止まらない。
「待って待って写真、あ、湯気でレンズが……あーもう食べる!」
梨々花は南蛮漬けを頬ばって、頬を押さえる。
「甘酸っぱ……これ夜中に思い出すやつ!」
あら汁の湯気が顔を包み、静は二杯目を静かに注ぐ。
アカネは兜煮の苦味に目を細める。
甘辛い香りが、夜の倉庫に満ちる。
アカネは湯呑を持って、ひと口。目を細めた。
「……この苦味が、肴に合う」
「肴じゃなくてお茶です」
「分かってる」
タコのぶつ切りも、塩と酢味噌でしみじみと旨い。
南蛮漬けの酸味が、今日の陽を閉じていく。
ノンアルのグラスを掲げて、笑い声が重なった。
◇
食後。ゲーム組が騒ぎ、ビリヤードの球が転がり、サンドバッグが小さく揺れる。
「明日は馴染みの漁師の手伝いに来てもいい。船が苦手な奴はいるか」
「酔い止め用意しまーす!」
梨々花が手を挙げ、
「船は平気。波は友達だぜ」
夏菜が胸を張り、
「……努力目標」
鷹津は苦笑した。
「乗ったことねえ」
煙は出たとこ勝負の構えだ。
一琉はバーカウンターでジュースを注ぎながら、ふと顔を上げる。
「僕も平気だけど、さすがについては行けないよね」
夏菜が面白そうに身を乗り出す。
「逆に苦手なものってあるのか? 一琉」
「…あー、それは…」
若干気まずそうに一琉が頬を掻く。
「お、あるのか?
意外だぜ、魚も当たり前のように捌いちまったのに」
「いや、その……ちょっとだけだよ。
タバコがちょっとだけ——昔を思い出すから」
カウンターの端でアカネが固まった。
くわえていた煙草を、無言で摘み、火を指先でつまんで消す。
「ちょ、アカネさん! “ちょっと気になる”って程度ですから!」
「……これは元々アイツ――まぁ、ダチが吸っていたのさ。
『禁煙する』が口癖の奴でな。
ここらで本当にしてやるのも悪くねぇ。それだけだ」
それ以上は語らない。
アカネはストックの箱を掴み、そのままゴミ箱へ放り込んだ。
戻ってくると、アカネは一琉の頭をぽんと撫でた。
「決まり。うちも禁煙」
鷹津が親指を立て、夏菜が笑う。
その夜を境に、幻月夜叉連からタバコの煙が消えた。
◇
梨々花が目を輝かせて修羅華の話を出す。
「一年で“毒拳”に“轟会”って前代未聞ですよ!!
史上初の統一、狙うんですか?」
「狙わねぇよ」
アカネはグラスの水を一口。
「あたしはただ……潰しに来た奴らを返り討ちにしてただけだ。
気づきゃ“幻月夜叉連”なんて呼ばれる連中ができてた」
夏菜が笑う。
「アカネさんって、実は不良って感じゃないよな」
鷹津が真剣に問いかける。
「…あの、どうやってそんな強くなったんすか?
流派とか、トレーニングとか。最強への近道、あるなら知りてぇす」
目が合ったことにアカネは少しだけ笑って、首を横に振る。
「我流だ。相手の良いとこを盗んできた。最強なんざ幻想。
その時の自分の筋を通しきる、できることはそれだけだ」
「トレーニングは?」
鷹津がさらに踏み込む。
「意識してねぇな」
アカネは肩を竦める。
「明日、船を見りゃわかる」
鷹津はぽかんとして、それからニヤッと笑った。
「……了解。盗めるもんは全部盗むわ」
◇
暗夜會の話も出た。
現場で悪行を重ねるバイク窃盗団と危険配信集団。
そして内から統べる天鬼と地獄鬼――増殖する影の名が、静かに並ぶ。
バーカウンターに立った一琉が静かに言う。
「姿を見せずに、恐怖だけが広がっている。
中高生の不良が痕跡も残さず統制できる規模ではないです」
「アタシが潰した鬼道連とは明確にやり方が違う。
人鬼——華園みちるはそう小器用なタイプでもなかったはずだ」
アカネがカウンターを指でトントンと叩きながら答える。
「そこに入り込んだ何者かが組織のありようを変えた。
その者が鍵。なんとか捕まえたいと思ってます」
一琉はアカネにグラスを渡した。
アカネはうなずいて受け取る。
「アタシから言えるのは——
天鬼はロマン主義者ってことだ。
金でも権力でもなく、
“スペクタクル”のために組織を作って暴れてるんだとよ。
最後には狡猾な組織なんざ捨てて襲ってくるぜ、たゆむなよ」
「……だからわざわざ潜みながら名前だけは広めてるんですね。
いびつ、です」
アカネはグラスをあおり、言った。
「最初はあたしの喧嘩だと思ってたがな。
今は――お前らの喧嘩に、すぐ手を出すつもりはねぇ」
「はい。
……今は僕らの喧嘩です」
じっと聞いていた凪嵐十字軍の面々が静かにうなずく。
「なら、口は出さねぇ。手も出さねぇ。
――ただ、ここに逃げたい夜が来たら、来い」
「心強い先輩がいるだけで、十分です」
一琉が頭を下げると、アカネは口元だけで笑った。
◇
夜風を吸いに、一琉は波止場へ出た。
係留柱に座って、
街の灯りが水面に伸びて揺れているのを眺めていた。
「……初めて来たのに、なんだか懐かしい気がします」
「そうか」
背後から、アカネの足音。
「あのとき、坊をここで匿おうかとも思ったが、結局その必要はなかったな。
……お前は自分で居場所を見つけた」
「もし最初にここに来てたら、離れられなくなってたかも」
「今は自分の足で立てる。
――ここはもう坊の家でもある。好きに使え」
アカネは無造作にポケットから鍵を取り出し、渡す。
一琉は鍵を見つめ、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……帰る場所があるって、すごくいいですね」
「ああ。あたしだって、そう思う」
倉庫の方からは、ゲームの勝ち負けの悲鳴が聞こえる。
アカネは波を見ながら、小さくぽつり。
「悪くねぇ夏だな」
一琉は笑って、鍵を握り直した。
◇
シャワーを浴び、みんなで寝袋を敷く。
一琉はマットレスをもらい、アカネはソファーだ。
扇風機がゆっくり首を振り、照明はひとつだけ。
外の波音が、遠い子守歌みたいだ。
「おい、いびきかくなよ」
「誰に言ってんだよ」
「……私は見張る。二時まで」
「静、ちゃんと寝てね」
ひとしきりの小競り合いが終わり、静けさが落ちる。
一琉は天井の梁を見つめた。
目を閉じても、今日の灯りが残像で浮かぶ。
(自分の家、か)
潮風が抜け、微睡みが近づく。
夏の夜は、長くて、やさしかった。




