第56話 夏休み外伝 パン耳から銀の影
埠頭の午後は塩と鉄の匂い。
真上からは外れた陽が、埠頭の鉄骨を鈍く光らせていた。
倉庫の外に出た夏菜たちを白い日差しが照り付ける。
少し遅れて一琉が大きい紙袋を提げて倉庫から出てきた。
「言われた通り、廃棄を持ってきましたよ」
「それ、パン耳?」
夏菜が覗き込み、鷹津が腕を組んだ。
「こんなんで釣れるのか?」
「……食えるのに、魚の餌にするのか」
煙は袋の底をじっと見る。
「魚が食べれば、今度はこっちのご飯になるよ」
「…やったことあんの?」
「ううん。捌き方はわかるから、僕は料理担当しようかな」
「ふーん……」
煙は半信半疑で唇を結んだ。
アカネがパン耳をバケツでほぐし、海水を含ませてコマセにする。
サビキ仕掛けにちぎったパンを絡め、足元にぱらぱらと撒くと、
水面の下で銀の影がざわめいた。
「サビキは群れを寄せて掛けるやり方だ。
糸の絡みだけ気をつけろ。後は感覚で良い」
仕掛けが海へ吸い込まれ、浮きが小さく震えた。
——少し待つと、早くも最初のヒット。
竿先がコツ、と震え、夏菜が目を見開く。
「うおっ、ホントにかかった! 結構引くな!」
「わわっ、二匹同時に釣れた~♡」
梨々花の針にイワシが連なり、銀の線みたいに跳ねた。
「意外と釣れるもんだな……」
鷹津が口元を緩める。
キラキラした小さな影が足元を横切り、仕掛けに集まる。
煙の竿にも、不意の重みが乗った。
「っ……!」
「巻け、ゆっくり。慌てんな」
アカネの指示が飛ぶ。
慣れない手つきで必死にリールを回し、海からポン、と小ぶりなアジが顔を出した。
銀青の体、目だけがやけに大きくて、まだ息が熱い。
煙は目を見開いたまま、しばらく魚を見つめる。
「……これ、全部食えるのか……」
歓喜より先に、たしかな“実感”が声になって落ちた。
「……うん、食べられるよ。美味しくしよう」
一琉が微笑み、バケツへそっと移す。
◇
群れが寄る。釣れる。笑い声が弾ける。
と、夏菜が得意げに引き上げた仕掛けの先で、丸いのがぷくーっと膨らんだ。
「またかかったぞ!
でかい——ってフグ!?」
「ぶはっ、かわいいじゃん!」
鷹津が思わずのけぞる。
「……毒」
静だけが真顔でひとこと落とし、夏菜がそっと海に戻した。
次はヒトデ。
ぬるりと五本腕が絡み、鷹津が眉間を押さえる。
「おいおい、こんなのも!」
「ヒトデ鍋とかできんじゃね?」
夏菜が悪ノリし、
「……いや、それはやめとこうか」
一琉が即却下した。
煙の竿には、ずっしり重さだけが乗る。
上がってきたのは太いボラ。
「こいつは食えるのか!」
「ボラか~。この辺のだとちょっと臭みが出ちゃうらしいね、逃がそっか」
「……そっか」
少し肩を落としつつ、煙はそっと針を外した。
ボラが尾で水を叩き、遠くへ消える。
猫が来る。いつの間にか足元へ、三匹。
アジを掲げる梨々花が目をキラキラさせた。
「きゃーかわいい♡ あげちゃダメ?」
「調子に乗るからやめとけ」
アカネの冷静な指摘、しかし猫は甘い人間がいるということも知っていた。
「……まぁ、一匹くらいならいいか」
鷹津がぽい、と小さめをひとつ。
次の瞬間には倍に増えた猫が群がり、堤防は一瞬で大騒ぎになった。
「うおっ!? 泥棒カモメだ!」
頭上を白い影がかすめ、夏菜が身をすくめる。
「鳥にまで舐められてんじゃねーか」
鷹津が笑って、海はますます賑やかだった。
◇
ひとしきり小物が入り、堤防が賑やかになった頃。
「坊、借りるぞ」
しばらく後ろで皆を見ていたアカネが、短く言って小魚を一匹取る。
持ち出した釣り竿は太めのハリス糸、スナップ、ウキは無し。
生きた小魚を鼻がけにして、優しく放った。
「泳がせですか?」
アカネは顎だけでうなずいた。
風が少し変わった。
アカネの右手はラインに触れ、左手で竿を軽く支える。
しばらくの沈黙——
海面が、ひと呼吸ぶん、重く沈んだ。
「——来たか」
次の瞬間、竿がぐいっと絞り込まれる。ドラグが悲鳴を上げた。
ジジジジジッ!!!
「うお、なんだその引き!?」
夏菜が素で叫ぶ。
銀色の刃みたいな魚影が、水面から跳ねた。大きい。長い。
「シーバスだ」
アカネは短く言い、ドラグを締めすぎない範囲で受け続ける。
「でか……!」
鷹津が声を上ずらせた。
銀色が跳ねる。空気の中でもう一度泳ぐみたいに。
アカネの左手が微妙に角度を変え、ラインのテンションが紙一枚で保たれる。
「空気吸わせりゃ勝ちだ」
余裕の所作で竿をいなし、息を合わせて寄せる。
「煙、網だ」
「わ、わかった!」
煙があわあわとタモに手を伸ばす。
「頭から入れろ。そう、今——」
アカネの合図で水中へ差し入れる。
「——入った!」
銀の矢がバケツに倒れ込む。
鱗の一枚一枚が硬質に光り、夏の青空を映した。
全員が歓声を上げ、煙はぽかんと口を開けた。
「……パン耳で釣った小魚が……こんな大物になるのか」
「小さい歯車でも、噛み合えばデカいもんが動く。世の中だいたいそうだ」
アカネがフックを外し、手早く締める。
「坊、デカいの頼む」
「任せてください。刺身は一晩冷凍してから。今日は火を通す料理で」
一琉はクーラーボックスのふたを閉めた。
その裏で静が無言のまま何かをバケツに落とした。
夏菜が振り向いた時、バケツの中で赤茶色がもぞ、と動いた。
「タコ!? でっか!」
「……食べられる」
静は短く言って、もう一本のテンヤを結び直していた。
「えっタコまで!? 今日、フルコースじゃない!!」
梨々花が喜びの舞を踊り、鷹津は肩をすくめながらも頬がゆるんでいた。
◇
夕方、風が涼しくなる。
猫は満足して去り、カモメも距離を取る。
クーラーは魚で重くなり、倉庫の中の照明が灯った。
「夜の方が釣れるが……十分だな。
撤収だ。――煙」
道具をしまいながら、アカネが短く呼ぶ。
「気に入ったろ」
「……あぁ」
「なら、これ持ってけ。昔使ってた竿だ。
クセはあるが、噛み合えばいい相棒になる」
「……!」
煙は受け取り、目を伏せた。
「……あ、ありがとよ」
「おー、鬼哭冥夜に気に入られてやんの」
夏菜の囃し立てを、海風がさらっていった。
「うるせぇ」
けれど、煙の口元は緩んでいた。
クーラーには小魚がぎっしり、シーバスが堂々、バケツにはタコ。
彼らはそのまま、倉庫の灯りへと戻っていく。




