第53話 決別の一撃
郊外の川沿いに、ぽつんと取り残されたような倉庫群があった。
錆びたシャッター。ひび割れたコンクリ。
夏の夕暮れはすでに終わり、紫がかった空の下には、人影もまばらだ。
「……ここだな」
夏菜がバイクを止めて言う。
目の前の倉庫には、小さなテンキー式のパネルが取り付けられている。
その前に立った一琉が、ためらいなく指を動かした。
ピ、ピ、ピ、ピ。
カチャリ、という音とともに、ロックが外れる。
「ホントにその番号で開くのな……」
鷹津が呆れたように口を開いた。
「趣味わりぃ…借金の額かよ……」
煙は、無言のまま通用口を押し開く。
ギギギ……と耳障りな音とともに、倉庫の中の闇が広がる。
◇
倉庫の中は、薄暗い照明がぶらさがっているだけだった。
コンクリの床。
端に積まれた木箱。
その中央に、折り畳みイスを囲むようにして数人。
そして——
その真ん中でヘラヘラしている女が一人。
煙の母親だった。
その周りを囲んでいる女たちは、どれも裏社会の匂いをまとった不良女だ。
だが、その視線は妙に冷めている。
「……んだァ?」
一人が一琉たちの方を振り向いた。
「誰だテメェら」
煙は、一歩だけ前に出る。
「当ててみろ」
その声に、母親の肩がびくりと跳ねた。
「はぁ?」
酔いの混じった目が、じろりと煙をなめ回す。
「……あああああぁ! 煙ぇ!」
立ち上がった母親が、ヒールを鳴らして近づいてくる。
「自分からくるなんてな! 助かったわ!」
酒臭い息が、距離を詰める。
「おめぇはアタシの娘だろ! 犬みてぇに従ってりゃいいんだよ!」
叫び声が倉庫に響いた。
取り巻きの一人が、ぼそっと漏らす。
「……狂犬って割に追跡までしやがるとはな」
「しかもバックに凪嵐十字軍? 聞いてねーぞ」
ちら、と視線の先。
シャッターのところには夏奈たちが立っていた。
噂で聞いた顔。
蜘蛛の巣会を潰した、あの“新勢力”。
「話が違ぇな……これは使いづらいわ」
互いに目配せしながら、じわじわと後ろへ下がっていく。
「うるせぇ!」
煙母が振り返って怒鳴った。
「アンタたちは黙ってな! こいつはアタシのガキなんだよ!
言うこと聞かせりゃいいだけなんだから!」
間近で見ている煙の目が、すっと細くなる。
血が逆流する感覚。
視界が赤く染まりかけて——
煙は、ぐっと奥歯を噛んだ。
ゆっくりと、息を吸う。
肺が痛くなるまで吸って、限界まで吐き出す。
背中のどこかで、夏菜の視線を感じた。
「……」
喉に上ってきた咆哮を、飲み込む。
「……もう逃げねぇ」
絞り出すように言葉が出た。
「殴りてぇからじゃねぇ。終わらせるためだ」
一歩踏み出す。
母親の顔が、歪んだ。
「なに、偉そうに——」
「アタシが殴って強くしてやったから今のお前があるんだろうが! 感謝しなさいよねぇ!」
次の瞬間、その拳が振り上げられた。
頬に鈍い痛み。
だが、煙は倒れない。
足を踏ん張り、そのままの姿勢で母親を見返した。
「……足りねぇな」
「はぁ?」
「昔は、もっと本気で殴ってきたろ」
拳を握る。
「今のオレは、あの頃のオレじゃねぇ」
「ぶっ……!?」
煙の拳が頬を打つ。
赤いルージュがにじみ、口角から血が滲む。
「なにすんのよこのクソガキが!」
足を振り上げ、乱暴に蹴りを放ってくる。
煙はそれをギリギリで受け、腹に重い痛みを感じながらも、倒れなかった。
生き延びるために身に着けてきた動き。
体格の違いを活かした位置取りで、煙母の攻撃は威力を殺されていた。
「このガキ……!」
再び、拳。
殴る。殴られる。
互いによろめきながら、なんどもぶつかり合う。
タイマン、と呼ぶにはあまりに見苦しく、あまりに生々しい殴り合いだった。
煙の頬は腫れ、唇が切れ、血の味がした。
膝が、笑う。
肺が焼けるみたいに痛い。
それでも——
(倒れねぇ)
あの頃みたいに“うずくまって許しを乞う自分”は、もうどこにもいなかった。
「ぉぐッ…!ば、バカな」
母親の足元がふらつき始める。
同時にすべてが崩れるような恐怖。
「な、なんで言うこと聞かないのよ!
アンタはアタシのために殴られてりゃいいんだよ!
稼いで、返して、それで――」
煙は応えない。
「シイィィッ!!」
拳をかいくぐりカウンター気味にボディ、
下がった顎に頭突き。
「ゴフッ…」
煙母はたたらを踏んでよろけながら後退する。
煙は歯を食いしばり、大きく踏み込む。
「ヒィッ」
情けなく振るわれた拳を難なく搔い潜った。
振りかぶった拳に、これまでの全部を乗せる。
ぐらついた頬に渾身の一撃がさく裂した。
コンクリの床に、鈍い衝撃音が響く。
母親の体が吹き飛び、転がりながら後ろに倒れ込んだ。
薄暗い倉庫に、しばしの静寂。
荒い息の音が、やけに大きく聞こえた。
◇
「さ、逆らうな……! 親に、逆らうんじゃないよ……!」
倒れたまま、尚も煙母が呻くように言った。
震える手を、煙に伸ばしながら。
煙は、その手を見下ろした。
ずっと、自分のことを掴んでいた手。
殴って、押さえつけて、好き勝手に振り回してきた手。
「……オレは、もうお前の娘じゃねぇ」
はっきりと言い切ってから——握っていた拳を、そっと下ろした。
追撃はしない。
これ以上殴っても、もう意味はない。
煙母は、床を這うようにして距離を取り、近くにいた女の足首にしがみつく。
「な、なんとかしなさいよアンタたち!
約束したでしょ!? アタシは宵星様の——」
その足首を、女は鬱陶しそうに振り払った。
「……チッ」
取り巻きの一人が舌打ちした。
「もう関わってらんねぇな、こりゃ」
「話がちげーんだよ。
狂犬が“凪嵐十字軍の犬”になってんじゃ、価値半減どころかマイナスじゃねーか」
「ケジメつけるなら、勝手にやってろってこった」
ぞんざいに言いながら、煙母の腕を乱暴に引っ張り上げる。
「いや、アタシはまだ——」
「うるせ。あっちで文句言えよ。
もうまともな役割は残ってねえからな」
引きずるようにして、出口へ向かう。
去り際に、一人が振り返った。
「覚えとけよ、ガキども」
吐き捨てるように言う。
「宵星様の手で潰されるのは、お前らの方だ」
シャッターが、外から乱暴に閉められた。
がちゃり、と鍵がかかる音。
倉庫の中には、急に静寂が落ちた。
◇
埃っぽい空気の中で、煙だけが、まだその場に立ち尽くしている。
握りしめた拳は、白くなるほど力が入っていた。
呼吸は荒く、肩が上下に揺れている。
「……なんで」
かすれた声が、ぽつりと落ちた。
「なんで、泣いてんだよ、オレ……」
頬を伝うものに気づいて、煙は慌てて袖で乱暴にこすった。
だが、拭っても拭っても、次から次へと溢れてくる。
「勝ったのに……終わったのに、なんで……」
嗚咽を押し殺すように、歯を食いしばる。
ふわり、と頭に何かが触れた。
「え」
驚いて顔を上げると、目の前に一琉が立っていた。
柔らかな手が、そっと煙の頭に置かれている。
「……」
何も言わない。
ただ、優しく、ゆっくりと撫でるだけ。
ぽろ、と大きな涙がこぼれた。
「っ……!」
その瞬間、糸が切れた。
煙は、一歩前に飛び出した。
そのまま一琉の胸元に、勢いよく飛び込む。
「……っ、ひぐ……あ、ぁ……」
声にならない声。
抑え込んでいた感情が、全部あふれ出していく。
一琉は、その背中に腕を回した。
そっと、抱きとめる。
胸の奥で、もう一人の自分が囁く。
(これで、この子は、僕から離れられない)
頭の片隅で、冷静な声が囁く。
弱っているときに手を差し伸べる。
泣いているときに、唯一の居場所を与える。
それは、かつて自分がいた場所――“カルト”の常套手段。
(最低だ)
自分で自分に吐き捨てる。
(依存を作る。縛る。そうやって信者を増やしていくやり方だ)
それでも。
(今だけは)
肩に顔を埋めて震える少女の背中を、抱きしめる腕に、力がこもる。
(今だけは、支えてやりたいんだ)
煙の涙で、制服の胸元がじんわりと濡れていく。
その重さも、熱さも、全部受け止めるように、一琉はただ黙って立っていた。
◇
少し離れた場所で、夏奈と鷹津が壁にもたれていた。
「……見なかったことにしとくか」
夏菜がぼそっと呟いた。
「そうね」
鷹津も腕を組んだまま、そっぽを向く。
「こういうの、邪魔したら一生恨まれそうだし」
「アンタ案外ロマンチストよねぇ」
梨々花は、小さく笑いながらも空気を読んで黙る。
静は、ただ一度だけ、ゆっくりと頷いた。
その瞳には、わずかな安堵と——どこか切ない光が宿っていた。
夏の夜風が、倉庫の隙間から吹き抜ける。
煙の嗚咽は、やがて少しずつ、静かになっていった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、暗夜會本拠。
その一室では、別の空気が漂っていた。
「——宵星」
長机の端に座る女が、細い目を向ける。
「報告は聞いたぞ。
お前が連れてくるはずだった“狂犬”も、今や凪嵐十字軍だな?」
部屋には、数人の幹部が集まっていた。
壁には街の地図。
そこに、いくつもの赤いピンが刺さっている。
宵星は、まるで叱られているとは思っていない顔で、ふんわりと微笑んだ。
「あら」
首をかしげる。
「使い捨てにされないだけの頭はあった、というだけですの。
クズの手駒になるよりましだったと言えるかもしれません」
「はっ。役に立たねぇ話だ」
別の幹部が鼻で笑う。
「狂犬だなんだと騒いで、結局ヘッドの男に拾われて終わりかよ」
「まあまあ」
そこで、中央に座る女——天鬼が手を上げた。
長い髪。
どこか貴族めいた雰囲気を纏うその女は、楽しげに笑う。
「宵星の仕事は、元から“駒を拾う”ことじゃない。
情報と盤面の整理だ。……今回も十分だよ」
細い指先で、テーブルの上の資料をトントンと叩いた。
「ほら。彼女のもたらしたやり方で…
狂輪会は、バイク窃盗をしながら検挙からは逃れている」
「暗猫衆は?」
「裏サイトで、気に入らない不良グループを囲んで潰したり、
地上げの配信して遊んでるわね」
別の幹部が、タブレット画面を見ながら答える。
「視聴数は順調。恐怖も、じわじわ広がってる」
「いいね」
天鬼は満足げに頷いた。
「狂輪会も、暗猫衆も、いい感じに勢力を伸ばしてる。
そうすれば反抗勢力も必ず……
スペクタクルだよ。ふふふ………」
幹部たちは顔を見合わせる。
「…で、その“新勢力”」
「桜坂の転校生と、そのお友達」
「異名持ちもピンキリとはいえ、一勢力に三人なんてそうそう聞かねえぞ」
「どうするよ」
宵星の目が、わずかに細くなる。
「凪嵐十字軍、でしたっけ?
暴動鉄騎隊みたいに遠征してくるタイプでもないのでしょう?
今はまだ、手を出す時期じゃないですの」
「だろうね、決戦の時が楽しみだ」
天鬼はあっさり言い切る。
「せっかくの新しい勢力。
今潰してしまったらもったいない」
「ふん、潰すときは一気に、かよ。
怖いねえ…」
「恐れ入りますわ」
宵星は、優雅にお辞儀をした。
心の中では――別のことを考えながら。
(私はただ)
目を閉じると、脳裏に一琉の姿が浮かぶ。
(あの人のもとに、全部の“駒”を集めるだけ)
◇
「はぁ……一琉さん」
会合後、宵星は誰もいない屋上で、うっとりとした声を漏らした。
「狂犬なんて、撫でてあげて。優しくしてあげて。
……そんなの触っていたら不潔です……」
その口調には、怒りよりも嫉妬に近い熱がこもっている。
「迎えにいって差し上げないと、ですね。全部、片付けて」
くるりと背を向け、闇の中へ消えていった。
こうして。
神代煙は、ようやく一つの鎖を断ち切った。
だが同時に——
街のどこかでは、別の悪意が、静かに編まれ始めていた。




