第52話 実家訪問
終業式の日の午後、校門から吹き抜ける風は、もうすっかり夏の匂いがしていた。
窓の外では入道雲がもくもくと膨らみ、蝉の声がじりじりと響いている。
「……夏休み、か」
一琉が校門を出ながら、ふっと息をついたそのとき。
「——見つけた」
制服の裾を片手でつまみながら、煙が電柱の影から現れた。
癖のある白髪が、夏の風に揺れる。
「煙」
夏菜が片手を上げる。
「サボってんのかと思ったぜ」
「うるせえ。……ちょっと見せたいもんがある」
煙はきびすを返し、住宅街の方へ歩きだした。
静が無言で距離を取り、一琉たちも後を追う。
◇
神代家は、外壁のペンキが剥げかけた古い一軒家だった。
遠目からでもわかるボロ車が一台、
斜めに突っ込むように停まっている。
灰色の塗装はところどころ剥げ、バンパーには目立つ凹み。
煙が、奥歯を噛みしめる音がした。
「あれは……アイツの車だ」
「母親の?」
「……ああ。前はもっとボロかったけどな」
吐き捨てるように言いながらも、その目は車から離れない。
夏菜がポケットに手を突っ込んだまま、ふーっと息を吐く。
「……なるほどな、よく教えてくれたじゃん」
「…今は近づかなくてもいい」
一琉が少し考えて言う。
「でもどこに行くかは追っておきたい。
動きが見えてた方が色々とやりやすいから」
煙は答えない。
ただ、ぎゅっと拳を握った。
梨々花が、ぽんと手を打った。
「ねぇねぇ、こういう時のためのアイテムがありまして〜」
待ってました、と言わんばかりに鞄をがさごそ漁る。
「お前、なんか楽しそうだな」
夏菜が半眼になる。
梨々花が得意げに取り出したのは、小さな丸いタグだった。
「落としたらスマホで場所がわかるやつ。
……車の裏にペタッと貼っとけば、どこ行ったかまるわかり♡」
鷹津が頭を抱える。
「サラッとストーカーグッズ出すな」
「合法のやつだから安心しなさいよ。……ま、使い方次第だけど」
にっこり笑う梨々花の顔は、どう見ても“使い方次第”の方を楽しんでいる顔だった。
一琉は苦笑しつつも、タグを受け取る。
「じゃあ、車のバンパーの裏にでもこっそり。……静」
名前を呼べば無言でタグを受け取り、音もなく路地の影へと消える。
数秒後には戻ってきて、こくん、と小さくうなずいた。
「仕事が早ぇな、“音無し”」
夏菜が肩をすくめる。
「……今は中にいるの?」
「さっきまではな」
煙が家の方を顎で示す。
「うるせぇ声で電話してた。どっか出かける準備してるっぽい」
「じゃあ、いなくなってから、かな」
一琉が小さく頷く。
「中、見ておきたい。……煙がよければ、だけど」
煙は、ほんの一瞬だけ迷った顔をした。
それから、低く短く。
「……勝手にしろ」
◇
しばらくして、煙の実家の扉が音を立てて開いた。
煙母が、ど派手なサングラスを頭に乗せ、タバコをくわえたまま、車に乗り込んでいく。
軽自動車は排気ガスを吹き上げながら走り去った。
夏菜がちらりと一琉を見る。
「どうする、ヘッド」
「潜るなら、今だね」
一琉は頷いた。
「煙。無理だと思ったら、すぐ外に出ていいから」
「うっせ。……行くぞ」
その声は、意外なほど静かだった。
扉の前、夏菜が口笛を吹いた。
「んじゃ、第一ラウンド開始だな」
煙は鍵を差し込み、一瞬だけ手を止めた。
喉が、ごくり、と鳴る。
夏菜がそっと肩に手を置いた。
「大丈夫だ。アタシらも一緒だしな」
「……わかってる」
深く、一度息を吸う。
そして、鍵を回した。
ドアが開いた瞬間、むっとした湿気と、微かに残るアルコールの匂いがふわりと鼻を刺す。
玄関にまであふれだす潰れた缶とゴミ袋。
床には焦げ跡のついたカーペットが敷きっぱなしだ。
煙は、いつもならここでシャワーだけ浴びて出ていく。
リビングには足を踏み入れないようにしていた。
けれど今日は、違う。
リビングの敷居を越える。
視界が開けた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
テーブルの角には、古い血のシミがまだ薄く残っている。
壁紙のひびの中に、投げつけられた灰皿の跡。
壊れたリモコン。
散らばった空き瓶。
その全部が、脳裏に“音”とセットで蘇ってくる。
罵声。
ビンタの音。
床に倒れたときの、世界がひっくり返る感覚。
「っ……」
視界が揺れかけた、そのとき。
肩に置かれた手が、ぐっと力を込めた。
「戻ってこい、煙」
夏菜の声が、すぐそばで聞こえる。
「ここは、もう“今の”お前の場所じゃねぇ」
煙は、奥歯を噛みしめた。
「……わかってる」
◇
そのやりとりの裏で——
「PC……あった」
テレビ台の横、小さな折りたたみ机の上。
古いノートパソコンが、ケーブルに繋がれたまま放置されている。
一琉はおもむろにスマホで写真を撮る。
「電源は……ついてないね」
「ちょっと失礼」
しゃがみこみ、手早く裏返した。
どこからか工具を取り出したと思うと、指先が迷いなく動く。
かちり、とプラスチックの爪が外れる音がして、背面カバーが浮いた。
一琉は鼻歌交じりに、配線をするりと抜き、ハードディスクを取り出す。
持参した小さなケースに差し込むと、
ポータブル端末と繋がれた。
青いランプが点滅する。
静かな時間、画面上で何かが高速で流れていく。
「……何やってんの?」
鷹津の口元が引きつる。
「こういうのは慣れてるから」
窓の外から、子どもたちの笑い声と、遠くの草刈り機の音が聞こえてきた。
やがて、ピ、と短い音が鳴る。
「はい、おしまい」
ハードディスクを元の位置に戻し、カバーを閉じる。
スマホの写真を参照し、全く同じ位置に戻された。
誰かが触った気配すら残っていない。
「…映画かよ」
「映画よりは地味だよ。配線、ホコリっぽいし」
ポータブル端末の画面をスクロールしていく。
「やっぱりストレージ暗号化もしてない。……やさしいね」
一琉が苦笑混じりに呟く。
「発信機仕込んでドヤ顔してたのが恥ずかしいんですけど」
「いやいや、タグはタグで大事だから」
一琉が笑う。
古いメール。
請求書。
借用書のスキャンデータ。
「……これは」
画面を皆に向ける。
拇印付きの誓約書だ。
『宵星様のご厚意により、当方借金を肩代わりいただきました。
代わりに娘を連れ帰り、再教育し、戦力としてお返しすることを約束いたします』
「プラン1、雷門に潰されそうなところを助ける、って書いてあるけど。
……多分、あの報復隊のことだ」
鷹津が苦い顔をする。
「要するに、狂犬を“宵星の犬”にしたかったってことか」
「直接回収、進行中」
夏菜が、その一文だけを指先でなぞる。
「つまり、まだ終わってねぇってことか」
◇
煙がキッチンに足を踏み入れたときだった。
シンクの上に積まれた、割れかけた皿。
冷蔵庫の扉に貼られた、色あせたレシート。
床に落ちたカップ麺の空き容器。
(食うなって言ったよねぇ?)
耳の奥で、声が響く。
(誰の金で買ってると思ってんの? ねぇ?)
手の甲に走る鈍い痛みと、空腹で胃が縮む感覚が蘇る。
立っているだけで、膝ががくがく震えそうになる。
「……煙」
背後から声がする。
振り返れば、そこにいるのは今の自分の“先輩”たちだった。
夏菜。
鷹津。
一琉。
廊下の向こうには静もいる。
誰も、怒鳴らない。
誰も、皿を投げてこない。
「……」
深く、息を吸った。
胸の奥に、湧き上がってくる感情がある。
怒りとも、悔しさとも違う、もっと、形容しづらいもの。
「……もう」
ぎゅっと拳を握る。
「あの頃のオレじゃねぇ」
たどたどしく。でも、はっきりと言った。
夏菜が、にやりと笑う。
「おう。そう来なくちゃな、煙」
一琉は、その姿を見つめながら、そっと目を細める。
(そうだよ)
心の中でだけ、静かに相槌を打った。
(君はもう、ひとりで殴られてる子どもじゃない)
◇
数時間後。
夕方の商店街は、終業式帰りの中学生たちが制服のままアイスを買い漁っていた。
その一角にあるゲームセンターの前で、夏奈たちはこぢんまりと集合していた。
「首尾はどう?」
「上々よ」
梨々花が発信タグの位置を監視し、立ち寄った場所にピンを立てていた。
コンビニに、パチンコ…そして。
郊外の外れ、海とは反対側の工業地帯だった。
「寂れた倉庫街……」
梨々花が地図を拡大する。
「たぶん、宵星の使いと会う場所ね。人目がないし」
「ここから先は」
夏菜が、煙の方を振り返った。
「煙のケリだな」
一琉も頷く。
「回収した証拠だけで、児相と警察は動かせる。
会わずに終わらせるのもアリだ。」
少しだけ言葉を選んでから、続けた。
「必要なら加勢するけど……最後にどうするかは、君が選んで」
煙は、しばらく黙っていた。
握った拳の中で、爪が掌に食い込む。
それでも目は、もう揺れていない。
「……オレ一人で行く」
ぽつりと、言った。
「あいつに殴られるのも、殴り返すのも」
視線は、まっすぐ前を向いている。
「もう終わりにする」
その言葉は、夏の暑さを裂くように、澄んでいた。
「……わかった」
一琉が、小さく頷く。
「じゃ、行こうか」
駐輪場に戻ると、夏奈のガンマが、夕日に照らされて光っていた。
その横に、ゼファーとカタナ、原付組の姿もある。
「乗れ」
夏奈が、当たり前のようにシートをぽんと叩いた。
「……いいのかよ」
「お前一人で歩いてったら、その前に変なのに絡まれるだろが」
「それもそうか」
煙はため息をつきながら、夏奈の後ろにまたがった。
「じゃ、出発。後ろ、ついてこいよヘッド」
「了解」
一琉はゼファーのキーを回し、セルを押す。
ドドド、と低く重い鼓動。
隣でカタナのエンジンも目を覚まし、静が無言でハンドルを握った。
原付に跨る鷹津と梨々花が、顔を見合わせて苦笑する。
「またえらいとこ行くなぁ」
「ま、夏休み初日にしてはイベント濃いわね」
小さなバイクの隊列が走り出す。
西の空で太陽が、赤く倉庫街の輪郭を染め始めていた。




