第51話 毒親来訪
終業式を目前に控えた五時間目、
教室の空気は湿気で少しだけ重たかった。
窓際の席でノートを取っていた一琉は、ふと、校庭の方から聞こえてきた怒鳴り声にペン先を止める。
「……なんだろ」
ざわ、と教室の視線が窓に集まる。
先生も板書の手を止め、眉をひそめた。
「ちょっと静かに……」
言い終わる前に、廊下側の扉がガラッと開く。
「センセー! やっべーの来てます!
狂犬の親が! 校庭で暴れてる!」
教室の空気が一気に冷える。
——狂犬。
神代煙。
一琉は顔を上げる。
「……行ってきます」
「あ、天凪クン、待ちなさい」
先生が呼び止める。
けれど一琉は、静かに頭を下げただけだった。
「様子を見てきます。……すぐ戻りますから」
それだけ言って、教室を出る。
どこかから現れた静が無音で後に続く。
その背中を、夏菜と鷹津と梨々花も追いかけていった。
◇
校庭は、日差しで白くかすんでいた。
「——ゴラアァァァア!!」
怒鳴り声が、空気を裂いた。
視線が一斉に集まる。
桜坂中の校門近く。
ごてごてのアクセサリーをつけた派手な女が校舎に向かって叫んでいる。
「アンタらが狂犬なんて呼ぶから、
ウチの子は狂ったんだよ!!」
ヒールの高いサンダルで地面をガンガン踏み鳴らす。
教員が数人、距離を取って取り囲んでいるが、誰も近づけないでいる。
「お、落ち着いてください、ここは学校で——」
「黙りなさいよォ!
教師のくせに何してんのよ!
ウチの子がどんだけ傷ついてるか!」
生徒たちは、一瞬で“見物モード”だ。
窓から身を乗り出し、廊下の窓にも人だかり。
「やべー……」「あれ狂犬の親?」と、ざわめきが波のように広がる。
職員室前の廊下では、教師たちが顔を見合わせていた。
「……警察、呼ぶべきか?」
「いや、でも肉親だし……保護者と揉めるのは……」
「注意して逆上されても……」
全員、腰が引けている。
そんな中、校舎の影から、一人のシルエットがゆっくり現れた。
白い髪。
細い体。
ポケットに手を突っ込んだまま、女を見下すように立つ。
「……何やってんだよ」
神代煙だった。
「狂犬…!」
あちこちから、小さな声が漏れる。
女は煙を見るなり、ぱっと顔を輝かせた。
「やっと出てきたかぁ!」
サンダルを鳴らして近づいてくる。
「アンタのために、ここまでしてやってるんだよ!?
わざわざ学校まで来てやってんの!」
「は?」
煙の目が冷たく細まる。
女は胸を張り、周りの生徒たちにわざと聞かせるように叫んだ。
「アンタが強いのは、全部アタシのおかげなんだ!」
「今度はアンタがアタシを助ける番でしょ!? 借金取りがうるさいんだよ! アンタくらい有名なら、アタシの立場も逆転できるの! 分かる!? 分かれ!!」
煙の顔色が、すっと変わった。
目の奥に、ぞわりとしたものが走る。
肩が小さく震え、指先が握りしめられる。
狂犬の目になりかけた、その瞬間——
「おーい」
校舎の方から、聞き慣れた声が飛んできた。
「お迎えにしては、ちょっと趣味悪くね?」
夏菜が、制服を緩めながら校庭に降りてくる。
その後ろには、腕を組んだ鷹津、スマホを構えた梨々花、いつも通りの一琉、そして無表情の静。
「な、凪嵐十字軍だ」
「天凪さんが狂犬引き入れてるってウワサ…」
「これ乱闘なる感じ?」
ざわめきが一段階上がる。
教師たちは思わずほっとしたような顔をした。
(……あの子たち、授業は普通に受けてるし)
(むしろあっちが話まとめてくれるかも……)
そんな視線を背に、夏菜は煙の横にすっと立った。
「おい、煙」
肩をがしっと掴む。
「ここで暴れたら、あいつの思うツボだぞ」
もう片側から、鷹津も肩を押さえた。
「落ち着け。ここ学校だからな?
殴っていい場所と、ダメな場所は分けとけ」
「……っ」
煙は奥歯を噛む。
爪が食い込むほど拳を握りながら、それでも足は一歩も出なかった。
一方、一琉は一歩前に出て、煙の母親と正面から向き合う。
「神代さん、でしたね」
柔らかいが、はっきりした声。
「……あぁ?」
女が睨みつける。
「煙にあんな扱いをしてきたあなたが、何を言おうと」
一琉は目を逸らさずに言った。
「それは、ただの言い訳です」
「はァ?」
女の顔が歪む。
「アンタに何が分かるのよ!
暴走して問題起こすくらいなら、
アタシが引き取ってやるのが筋じゃないの!」
「じゃあ、質問してもいいですか」
「はぁ?」
「“娘のご飯”、最後に用意したの、いつですか?」
空気が、ぴたりと止まる。
母親の笑顔が、わずかに引きつった。
「は、はぁ? そんなの、昔からちゃんと──」
「いつですか?」
声色は変わらない。けれど、目だけは氷のように冷たかった。
「パンひとつでも、コンビニのおにぎりひとつでもいいです。
煙に“食え”って渡したのは、いつですか」
「……」
「傷に薬を塗ったことは?
寒い日に、上着を貸したことは?」
母親の顔から、表情がひとつずつ剥がれていく。
「一切、無い。
……だから煙は殴って、奪って、生き延びるしかなくなった」
「な、なにを……」
「そんな扱いをしてきたあなたが何を言おうと」
その瞬間だけ、一琉の声が少しだけ低くなった。
「ただの言い訳です」
校庭に、ざわめきが走る。
「彼女は、あなたに縛られる理由なんてもう持っていません」
「っ……!」
母親の足が、一歩、後ずさる。
そのとき。
校門の影から、数人の女たちがこちらをうかがっているのが、一琉の視界の隅に入った。
派手な髪色に服装。
街でよく見る“裏の匂い”を持った女たちだ。
(……取り巻き)
一琉は悟る。
煙をここで暴れさせて、「問題児を親が引き取ります」とやるつもりだったのだろう。
だが、想定は外れた。
煙は、狂犬モードに入りきっていない。
肩を押さえている夏菜と鷹津の手の下で、母親を睨み返している。
「……っ」
煙は、狂犬の目にならなかった。
その目にあるのは、恐怖でも、憎悪でもない。
真正面から睨み返す。
「勝手に名前使って、勝手に騒いで。オレのため? 笑わせんな」
「あ?」
「お前が殴ってきたから、殴り返しただけだ」
煙は、喉を震わせて言葉を吐き出す。
「強いだの何だの、勝手に言ってんな。
オレが強くなったのは、自分で決めて殴り返したからだ。お前のおかげじゃねぇ」
「……っ、な、なに言って——」
女が一歩、後ずさる。
取り巻きたちも、校門の影で顔を見合わせる。
「おい、話がちげえぞ。
煽ったら暴れるって言ってたよな?」
「理由なく拉致は、さすがにマズい……」
ざわつき始めた空気を感じ取ったのか、煙母は舌打ちした。
「……ちっ」
ひとりが母親の腕を掴む。
もうひとりが、周りをぐるりと見回して肩をすくめた。
「教師も生徒も見てんだ。
証拠動画撮られて拡散されたら、こっちが困る」
「そ、そうよね……」
母親は明らかにビビっていた。
さっきまでの大声はどこへやら、すっかり腰が引けている。
その姿を、取り巻きたちが囲む。
「とにかく引くぞ。ここでやったらババアは逮捕、
アタシらも全員まとめて少年院だ」
「おい、借金の話はどうすんだよ」
「あとでだ、あとで。宵星様の機嫌損ねたくねぇ」
「少しは働けねえのかババア、いくら借金あるか分かってんだろうな」
「わ、わかってるわよ…」
そのまま、校門の外へと消えていく。
「……宵星?」
小さく呟いたのを、一琉は聞き逃さなかった。
残されたのは、真昼の光と、ざわめく生徒たち。
静かな風が、校庭の砂をさらう。
「……」
煙はその場に立ち尽くしていた。
「……よく堪えたな」
夏菜がぽん、と軽く背中を叩く。
「ここで殴りかかってたら、マジでめんどくさいことになってた」
「別に」
煙は顔を背けたまま答える。
「もう殴る価値もねぇだけだ」
その声は、ほんの少しだけ震えていた。
鷹津が、小さく笑う。
「それでいい。殴る価値ない相手に、拳使うだけ損だわ」
少し離れたところで、一琉は静かに彼女を見つめていた。
(……今の煙は)
胸の中で、そっと言葉を置く。
(初めて、“自分の意思で”暴力を抑えられた)
ただ止められたのではなく、自分で踏みとどまった。
その一歩がどれだけ重いかを、一琉は知っていた。
「今の、聞いた?」
梨々花がぽつりと呟く。
「宵星様って、言ってたわね」
「……また物騒なのが出てきたな」
夏菜が、空を見上げて笑う。
「暗夜會の上の方か、別の何かか。
ま、調べる楽しみが増えたってことで」
「やめろよ、楽しみにすんな」
鷹津が頭を抱える。
「せっかく抗争一個たたんだとこなのに……」
一琉は、小さく息を吸って、煙の方へ歩み寄った。
「お疲れ様」
「……うっせ」
そっぽを向いたまま、煙は短く返す。
でも、その横顔は、どこかスッキリして見えた。
七月の空は眩しくて、蝉の声が一段と大きくなる。
新しい名前がやけに耳に残った。
——宵星。
それが、次の嵐の予告であることを、この時点で知っている者はまだいなかった。




