第5話 新生活
空は灰色から白に変わり始めていて、街路樹の枝には霜が光っていた。
アカネさんがバイクを止めたのは、市境を越えた小さな警察署だった。
単車のエンジンが止まり、静寂が戻る。
体がまだ震えていた。
寒さのせいか、緊張のせいかは分からない。
アカネさんはぼくに視線を向けた。
「坊、ここから先は警察の世話になる。……大丈夫だな?」
「はい。……多分」
「それで十分だ」
その笑みは、あの高架下で赦光を叩き潰した時の顔とまるで違っていた。
どこか、安心したような——寂しそうな顔だった。
◇
警察署の扉を開けた瞬間、温かい空気が流れてきた。
けれどその温もりに、ぼくの体は反射的にこわばった。
制服の匂い。書類の紙の匂い。
どれも教団の屋敷にあった“権力の空気”を思い出させた。
アカネさんがぼくの肩に手を置く。
「落ち着け。あたしが話す」
そう言って、カウンター越しの女性警官に事情を伝え始めた。
受付の硬い椅子に座ると、全身の力が抜けた。
暖房の匂い。
紙とインクの匂い。
でもあそことは違う。
女性警官の表情が少しずつ変わっていく。
電話をかけ、誰かを呼び、何度も頷いていた。
やがて、別の制服がやって来た。
所轄外の児童相談所の職員だという。
事情聴取は、思ったより静かだった。
担当の女性は無表情で、でも声は荒げなかった。
教団の名前、屋敷の場所、赦光のバンの台数。
ゆっくりと確認していく。
「証拠になりそうなものはある?」
「……これを」
少しずつ持ち出した資料を渡す。
仕事の予定とか、場所…その結果のリスト。
決定的な証拠は偏執的に消されていく中、なんとか集めたもの。
ぼくは、自分なりに覚えている範囲の時間と場所を並べた。
アカネさんは、高架下で幻月夜叉連のメンバーが撮っていた写真と、
テーザーガンから散らばった紙片を提出していた。
紙片にはIDが振ってあって使用者の特定ができるみたいだ。
ぼくは正直に話した。
あの屋敷は、記録が残らないように作られている。
血縁上の親を取り込み声を封じる仕組みも——
「あと…これ」
タオルを借り、手の甲に入念に施してある化粧を落とす。
暖房が効いているのに、寒気がする——
…大丈夫、自由になると決めたんだ——
「…っっ!」
手の甲に刻まれた”それ”を見た職員の顔色が変わる。
「…っ、広域に連携します。まずは少しでも休みましょう」
女性は立ち上がり、奥へ電話を入れた。
それだけの言葉で、肩の奥に張り付いていた氷が少し溶けた。
◇
数時間後、児童相談所の職員が来た。
四十代くらいの女性と、若い女性。
名札と、分厚いファイル。
落ち着いた目と、忙しそうな目。
「移送先は、こちらの一時保護所です。
今夜の身の安全を確保してから、明日の午前に医療チェック、午後に面談。
その後の生活は——」
言葉が、現実になっていく。
ぼくが“所有物”じゃない世界の段取り。
紙に印字されたルール。
そこにぼくの名前が入るだけで、景色が変わる。
「彼女は?」
若い職員が、入口脇の壁にもたれているアカネさんを見た。
無言で見守っていた黒いロングコート。
社会の枠から最も遠いはずの人。
「保護者ではありません。……この子の“紹介者”です」
アカネさんは肩をすくめる。
「こいつは自分の足で来た。アタシはちょっと並走しただけだ」
職員は一瞬だけ目を丸くして、うなずいた。
それ以上、何も言わなかった。
それが、ありがたかった。
書類の束と説明を受けたあと、
ぼくは小さな支援施設の部屋に通された。
ベッドと机と、使い込まれたカーテン。
壁のシミを見ながら、ようやく実感が湧いてきた。
——助かったんだ。
ついてきたアカネさんにメモ書きを渡される。
「アタシの連絡先だ。」
「坊。落ち着いたら連絡しろ。
…困ったら戻ってこい」
ぼくは胸の奥から、はっきりした声を出せた。
「はい。”約束”です」
アカネさんは笑い、ぼくの頭を軽く撫でると部屋から出て行った。
高架下の闘い。
風を切って走った背中。
あの夜の声。
「自分の足で立て。スジを通して生きろ」
その言葉が、まだ耳に残っている。
◇
その後、制度の支援で小さなアパートを借りられることになった。
場所は郊外。
木造二階建ての一室。
薄い壁越しに隣の生活音が聞こえるけど、それが妙に心地いい。
夜になると、時々ベランダから遠くの国道を眺めた。
単車の音が風に乗って聞こえてくる。
あの夜の音と、少し似ていた。
(アカネさん……どこを走ってるんだろう)
そう思いながら、息を吐いた。
白い煙が月明かりに溶けていった。
◇
数日後、ニュースで《八岐大樹》の摘発が報じられた。
市内の教団関連施設が摘発——のテロップ。
検挙されたのは末端の幹部たち。
“本部との関連は不明”の文字が小さく踊る。
つまり、終わっていない。
ぼくは画面を見ながら、胸の中でため息を落とした。
枝だけ切り落として、幹は残す。
あの人たちはいつもそうだ。
“解決したふり”が、本当に上手い。
ぼくはテレビを消した。
壁にもたれて、天井を見上げる。
これが現実なんだ。
自分の足で立つ——まずはやれることから、始めよう。
◇
今さら保護費だけもらって生かされる気にはなれない。
ぼくはすぐにアルバイトを探し始めた。
働くのは初めてじゃない——ただ、今度は違う。
自分の意志で働くのだ。
中学生だとしても、やりようはある。
ぼくの過去は、ここからだ。
◇
アカネさんとは、それからしばらく会っていない。
支給されたスマホを使い連絡を取っている。
進学先が決まり、
——不良の名門、修羅ノ華高等学校…冗談みたいな名前だ——
幻月夜叉連のメンバーが張り切ってしまって大変らしい。
鬼哭冥夜なんて異名で呼ばれていても、
血の通った一人の人間なんだとわかって、なんだかうれしい。
夜の風が、部屋のカーテンを揺らしていた。
◇
春。
ぼくは中学二年になり、転入先の校門前に立っている。
選ぶことができた中で、アカネさんが通う、修羅ノ華高等学校の最も近くにある中学。
徒歩では難しいくらいの距離は離れているけれど。
——ここから始めよう。
あの人のように、自分の足で立つために。




