第49話 先輩の教え
夏の日中、公園の鉄棒がじりっと熱く、蝉の声がどこか遠くに聞こえる。
七月の空は真夏の空気を湛えていた。
その鉄棒の前で、夏菜が腕を組んで立っていた。
目の前には、シャツ一枚でそちらを睨み上げる白髪の一年——神代煙。
「……で?」
煙が不機嫌そうに眉をひそめる。
「わざわざ呼び出して、不良講座だぁ?」
「講座っつーか、補習?」
ベンチに腰掛けてジュースを飲んでいた鷹津が、
ストローをくわえたまま肩をすくめた。
「お前さ、腕っぷしは本物だよ。
雷門の連中がビビるのも分かる。……でもな」
夏菜は腕を解いて煙の前に歩み寄る。
「病院送りは“最後の一線”だ。
日常の喧嘩じゃ、そこまでやんねーんだよ」
「……は?」
「お前スイッチ入ると全部ぶっ壊しに行くだろ。
ぶっ倒しても、相手がノビたらそこで終わり。
そこで続けんのは、ただの処刑だ」
煙のこめかみがぴくりと動く。
「じゃあ、殴られたら黙ってやられとけってかよ」
「ちげーよ」
夏菜は鼻で笑った。
「やられたら、やり返していい。
けど、相手がもう立てねえなら追い打ちはいらねえ。
病院送りは“最後のカード”だ。乱発してっと、お前が先に壊れる」
鷹津が、ジュースのカップをポンとゴミ箱に投げ入れる。
「フクロや多人数戦はクソダサい。筋は通せ。
立ってる限りはまだ負けじゃねえ」
「ふん、そんなもんで腹ふくれんのかよ」
「腹はふくれねーよ」
夏菜はあっさり認めた。
「テメエの通す筋くらいテメエで決めとけって話。
何でもアリで生き延びたきゃ止めねえけど……」
そこでにやりと笑う。
「その先、面白ぇ景色は見られねえぞ?」
「意味わかんね」
煙が吐き捨てるように言った瞬間、
夏菜の足がすっと前に出た。
「じゃ、実技いくか」
「は?」
言うが早いか、夏菜のローキックが地面をかすめる。
反射的に、煙の目が変わった。
背筋が弓なりに跳ね、獣みたいな踏み込みで一気に懐へ入る。
「……!」
殴る。膝。頭突き。
“狂犬”の異名どおり、タガが外れたような連打が夏菜に襲いかかる。
「おっと」
だが、夏菜はガードを上げたまま、その勢いごと受け止めた。
殴りかかる勢いを利用して、腕をくるりと巻きつける。
「ほら、こう」
——アームホイップ
煙の重心がふっと宙に浮いたかと思うと、そのまま地面に転がされる。
煙の軽い体は一回転してうつぶせに転がった。
「っ……!」
体勢を立て直そうとした瞬間、背中にどすんと重みが乗った。
マウントを取られ、両手首を床に押さえつけられる。
「暴れ方は悪くねえ。ただ——」
夏菜があっさりと言う。
「全部“壊す”つもりで踏み込んできてんのがモロバレなんだよ。
見てから潰せる」
「クソが……!」
煙が身体をねじるが、逃げられない。
「はいここ」
横から鷹津がしゃがみ込み、煙の額に指をつつく。
「ここからさらに殴り続けるのが、今のお前」
吐き捨てるような声。
「それ続けてたら、いつか本当に“壊す側”になる。
……壊した後、何も残んねえぞ」
煙の呼吸は荒い。
汗に濡れた前髪の下で、目だけがぎらついている。
「……だったら、壊されるほうがマシかよ」
荒い息のまま、煙が睨み上げる。
夏菜はその目を見下ろし、ふぅ、と息を吐いた。
「違ぇよ。壊されねぇための“抑え”だ。
線引き知らねえと、自分から落ちてく」
ゆっくり腕をほどき、立ち上がる。
「……なんで」
掠れた声が漏れた。
「なんでそんなこと教えるんだよ。
別に、アンタらに得ねーだろ」
「得?」
夏菜は少し考えてから、あっさり言った。
「後輩がバカやって潰されんの、
見てて気分悪ぃから」
鷹津も、鼻で笑う。
「それに——お前、見てて退屈しねぇしな」
「は?」
「この街、強いだけのやつはいくらでもいる。
けど、“ここから変われるかも”って匂いのする奴は、案外少ないの」
煙は口をつぐんだ。
その沈黙を、二人の先輩は無理に破ろうとはしない。
ただ同じ風に吹かれていた。
◇
それから数日。
“不良講座”は、放課後の公園や体育館裏でなんとなく続いていた。
そのあとのやり取りも——
「飯食ってけよ」
「いらね」
「ほら、いいから入れ」
「いらねーって——」
「先輩命令」
夏菜が煙の背中をぐいっと押す。
鷹津は店の暖簾を片手で押さえながら、笑っていた
「先輩に奢られるのが嫌なら、出世払いな。
将来のツケってことで」
「……めんど」
「めんどくさがってると、でっかくなれねーぞ」
口では拒否しながらも、結局煙はついてくる。
その日は商店街のはずれにある、さびれた定食屋。
店の中から漂ってくる、しょうゆと油の匂いに、胃袋が忠実に反応する。
テーブルに座ると、すぐにカツ丼と味噌汁が運ばれてきた。
夏菜と鷹津がくだらない話で笑っている。
誰も怒鳴らない。
手も上がらない。
すぐにカツ丼と味噌汁が運ばれてきた。
一瞬だけ逡巡して、箸を取る。
「あっつ……うま」
言った瞬間、向かいの二人がにやりと笑った。
「だろ?」
「ほら、味噌汁も飲め。塩分は大事」
(……なんだこれ)
(殴り合ってないのに、腹はふくれるし、笑い声も出る)
それをうまく言葉にはできないまま、
放課後は少しずつ過ぎていく。




