第44話 “狂犬” 神代 煙
一琉、鷹津、静の三人は薄暗い路地裏へと足を踏み入れる。
じっとりとした風が、夏の夕暮れの湿度を運んでくる。
路地裏には、昼間の熱気だけが取り残されていた。
その奥で、不良二人に囲まれているのは——
屋上で聞いた“噂”そのものだった。
小柄で、ひょろっとしていて、白い髪。
制服はくたびれ、膝には古い擦り傷。
神代煙は、壁に背中を押し付けられていた。
「おい、返事しろや」
「殴られねぇと分かんねぇ?」
一人が、その後頭部に手を伸ばす。
髪を掴もうとした、その瞬間——
その瞬間、煙の目に、一瞬だけ——怯えが走った。
まるで、誰かに怯えて縮こまる子どものような目。
一琉だけが気づいた次の瞬間、それは狂気的な光に切り替わる。
「——ッ!!」
膝が跳ね上がる。
腹にめり込んだ鈍い音が路地に響いた。
不良の一人が前のめりに崩れかけたところへ、
容赦ない頭突きが連打される。
ゴッ、ゴン、と骨と骨がぶつかる音。
そのまま肩を掴み、体重を乗せて地面に叩きつけた。
アスファルトがきしむ。
「ッ、テメッ——!!」
もう一人が慌てて腕を振り上げる。
殴られた。
煙の頬が裂ける。
それでも彼女は止まらなかった。
殴られた勢いのまま、相手の腕に噛みつく。
悲鳴が上がる。
足払い。
転んだところに、容赦のない膝蹴り。
「おいっ、やりすぎだっ!」
鷹津が叫ぶ。
煙の耳には届かない。
肩で息をしながらも、倒れた相手の上に馬乗りになり、拳を振り上げ——
「ストップ」
その手首を、鷹津が掴んだ。
ガシ、と骨のきしむ音がするほどの力で。
「止めときな。死ぬぞ」
煙は荒い呼吸のまま、鷹津の手を振り払おうとする。
爪が食い込み、腕が軋む。
「……っ」
しばらく押し合った末に、煙は無理やり拳を下ろした。
そのまま、ふらつきながら立ち上がる。
荒い呼吸。
汗で濡れた前髪。
白い髪の隙間から覗く、血走った目。
そして——無言のまま、崩れた不良二人の懐に手を突っ込む。
「……」
一琉は息を飲む。
彼女の手つきには、迷いがなかった。
財布を抜き取り、中身を瞬時に確認し、現金だけをポケットに押し込む。
カードや小銭は、そのへんに散らばったままだ。
飢えた獣が、獲物の肉だけをむしり取るような動きだった。
「……やっぱ、関わんないほうがいいな」
鷹津が小さく呟く。
煙は財布を握ったまま、ようやく一琉たちのほうを睨んだ。
目が、完全に“獲物を取られまいとする”獣のそれになっている。
一琉は、その目を真正面から見返した。
怯えも、軽蔑も、哀れみも乗せないまなざしで。
——勝ち負けの喧嘩じゃない。
直感的にそう思った。
彼女が殴っていたのは、目の前の不良だけじゃない。
何かもっと別のものを、必死に叩き潰そうとしているように見えた。
煙は軽く息を切らしながら、路地の出口へ向かう。
ふらふらと歩きながら、通り過ぎざまに一琉を一瞥した。
「……変なやつ」
それだけ吐き捨てると、
痩せた背中を向け、路地の出口へ歩き出した。
街灯の届かない闇に、その姿が消えるまで。
一琉は、黙って見送った。
そのあとには殴られすぎてうめき声も出ない不良たちと、
夏の湿った空気だけが残った。
静がいつの間にか路地の入口に立ち、周囲を警戒している。
(……あれは、ただの不良の目じゃない)
殴り倒すための興奮でもない。
スリルジャンキーの目でもない。
(腹を満たすための……生きるための、獣の目だ)
◇
翌日、昼休みの屋上。
陽射しは相変わらず強いのに、風だけは少しだけ涼しかった。
「……で」
梨々花が唐揚げをつつきながら、一琉を見る。
「昨日、見ちゃったんだって? “狂犬”」
「うん」
一琉は素直にうなずいた。
「白い髪で、小さくて、でも……すごく、必死だった」
「そりゃあ、神代煙で間違いないわね」
梨々花は弁当箱の蓋を閉じる。
「改めてプロフィールおさらいしとく?」
「知りたい」
一琉が即答する。
「はいはい。名前は神代煙。
見た目は白い髪のちびっこ、ひょろひょろで、強そうには見えない。
けど、雷門中の遠征組十人以上と大喧嘩して、相討ちに持ってった女」
「雷門の“顔見せ”って、元々はさ」
夏奈が口を挟む。
「新入生ヤンキーが他校に行って『ウチは強いぞ〜』って軽くやり合う儀式だろ?
本来はちっちゃい小競り合いで終わるやつ」
「去年は静が一方的に狩りつくしちゃったけどさ」
チラリと隅でパンを食べている静を見る。
「今年は“殺し合いみたいだった”って聞いたわ。相手も煙も病院送り。
煙は二日で退院して、何事もなかった顔で登校してきたって」
「頭おかしいな」
鷹津が額に手を当てる。
「その後もちょこちょこ絡まれては返り討ちにしてるそうよ。
“何回倒しても立ち上がってくるから気味が悪い”ってのが、あいつの評判」
「本物なら、面白そうじゃん」
夏奈は笑う。
「そういう“ガチ勢”、嫌いじゃないね」
「……でもあれは、喧嘩屋って感じでもなかった」
鷹津が珍しく真面目な声を出す。
「一琉も見たでしょ?」
問われて、一琉は小さく頷いた。
「……生きるための喧嘩、狩りみたいだと思った」
「そういう言い方も、できるかもね」
梨々花が苦笑する。
彼女はスマホの画面をスライドさせながら続けた。
「家庭環境も相当えぐいって聞いた。
母親が市内でも有名な“ヤバい女”でさ、
小学校の頃から児相と警察の常連コース」
「母親は手上げるのも早いし、異常に執着してたらしい。
数年前から煙が本気で反撃するようになって、今はほとんど家に帰ってないって」
一琉は、昨日の“後頭部を掴まれそうになった瞬間の怯え”を思い出す。
「食事もろくに取れてないって噂だよ」
梨々花が続ける。
「とすると、喧嘩相手から金や食料をかっぱらって、
その日その日生き延びてるってところかしらね」
「……生きるために、か」
一琉がぽつりとこぼす。
梨々花は肩をすくめた。
「美化する気にはなれないけど」
夏奈は空を見上げて笑う。
「ふーん…んな事情があったんだな。
…なあ、“凪嵐十字軍”が狂犬拾ったって今さら評判は変わんねえよ。
どうだ?ヘッド」
一琉は食べ終えた弁当箱を見ながら考える。
倒されても立ち上がる狂犬。
腹を満たすための獣。
家庭に居場所がない子ども。
——放っておけば、きっとまたどこかで噛みついて、誰かを傷つける。
でも同時に、その牙がなければ生きていけないのだとしたら。
「……どうする?」
梨々花が、わざとらしく問いかけてくる。
一琉は小さく息を吸って、答えた。
「……次に会った時考えるよ。
“狂犬”じゃなくて、“神代煙”として、ちゃんと話ができるかどうか」
初夏の風が吹き抜ける。
もうすぐ夏休み。
けれど、この街の騒がしさは、まだまだこれからだった。




